第1章 年〜年

コスモエネルギーホールディングス:精油業者8社の合同による大協石油の設立と四日市製油所

1939年〜新潟の精油業者8社の合同で生まれた大協石油と、四日市製油所

1934年施行の石油業法は、規模の小さい製油工場を整理させ、基準を満たす大きさの製油所を新設するよう求めた。新潟県下の製油業者8社はこれに応じて1939年9月に合同し、資本金500万円で大協石油を設立した。加わったのは斎藤・山岸・石崎・浅田・原・大谷・奥田・鈴木の8業者で、いずれも政府の方針として統合を勧められた側である。1970年に常務取締役の中山善郎氏は、当時の民間製油業が石油業法などの保護施策の下にあったと振り返った。社名の「大協」に込めたのは、8業者の大きな協力で生まれた会社という意味。1941年の業界誌も、越後の石油業者8社が私心を捨てて合同した経緯を伝えた。単独では法の規準を満たせない小工場にとって、合同による規模の確保が存続の条件になったとみられる。

  • 企業の歴史(明治百年・1968)「大協石油」
    • [1]1934年施行の石油業法が小規模製油工場の整理と規準以上の製油所建設を求め、新潟県下の8製油業者が1939年9月に資本金500万円で大協石油を設立。社名は8業者の大きな協力に由来
    • [2]1934年施行の石油業法が小規模製油工場の整理と規準以上の製油所建設を求め、新潟県下の8製油業者が1939年9月に資本金500万円で大協石油を設立。社名は8業者の大きな協力に由来
    • [5]1934年施行の石油業法が小規模製油工場の整理と規準以上の製油所建設を求め、新潟県下の8製油業者が1939年9月に資本金500万円で大協石油を設立。社名は8業者の大きな協力に由来
  • 経済時代 35(1) 1970
    • [3]中山善郎常務(1970):新潟県下の石油業者8社(斎藤・山岸・石崎・浅田・原・大谷・奥田・鈴木)が政府の方針で統合を勧められ1939年9月に合併。当時の民間製油業は石油業法などの保護施策下
    • [4]中山善郎常務(1970):新潟県下の石油業者8社(斎藤・山岸・石崎・浅田・原・大谷・奥田・鈴木)が政府の方針で統合を勧められ1939年9月に合併。当時の民間製油業は石油業法などの保護施策下
  • 燃料之日本 6(2) 1941「大協石油の新工場設立認可」
    • [6]越後の石油8社が大局の前に私心を捨てて合同し、1939年9月に大協石油を設立

大協石油は1941年1月25日に四日市工場の新設許可を得た。発祥の地の越後を離れ、本州の中央部にある新興の工業都市四日市を新工場の立地に選んだ。当時の大協石油は機械油の専門会社で、四日市に確保した敷地は4万坪である。同年8月には江戸川石油を合併し、資本金を720万円に増資した。1941年10月には、江戸川石油の社長だった高橋真男氏が大協石油の社長に就任。1943年7月に四日市製油所で精製を始め、新潟県内の製油設備を順次四日市へ移した。戦時中はグリースと松根油の製造で事業を続けた。原油を海上から受け入れるには、産地の新潟より太平洋岸の工業都市が有利と判断したのだろう。

  • 燃料之日本 6(2) 1941「大協石油の新工場設立認可」
    • [7]1941年1月25日に四日市工場の新設許可。越後を離れ新興工都四日市を新工場の地に選定。敷地4万坪、機械油専門会社
    • [8]1941年1月25日に四日市工場の新設許可。越後を離れ新興工都四日市を新工場の地に選定。敷地4万坪、機械油専門会社
    • [9]1941年1月25日に四日市工場の新設許可。越後を離れ新興工都四日市を新工場の地に選定。敷地4万坪、機械油専門会社
  • 株式会社年鑑 1950年版「大協石油」
    • [10]1941年8月に江戸川石油を合併し資本金720万円に増資
  • 日本企業要覧 1964年版「大協石油」(役員の略歴)
    • [11]高橋真男:1938年8月江戸川石油社長、1941年10月大協石油社長、1960年1月会長
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「大協石油」
    • [12]1941年8月江戸川石油を合併、1943年7月に新設の四日市製油所で精製開始、新潟県下の各製油所を順次四日市へ移設
  • 日本企業要覧 1965年版「大協石油」
    • [13]戦時中はグリース・松根油の製造で業務を継続
参考文献[1]-[13]
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「大協石油」
    • [1]1934年施行の石油業法が小規模製油工場の整理と規準以上の製油所建設を求め、新潟県下の8製油業者が1939年9月に資本金500万円で大協石油を設立。社名は8業者の大きな協力に由来
    • [2]1934年施行の石油業法が小規模製油工場の整理と規準以上の製油所建設を求め、新潟県下の8製油業者が1939年9月に資本金500万円で大協石油を設立。社名は8業者の大きな協力に由来
    • [5]1934年施行の石油業法が小規模製油工場の整理と規準以上の製油所建設を求め、新潟県下の8製油業者が1939年9月に資本金500万円で大協石油を設立。社名は8業者の大きな協力に由来
    • [12]1941年8月江戸川石油を合併、1943年7月に新設の四日市製油所で精製開始、新潟県下の各製油所を順次四日市へ移設
  • 経済時代 35(1) 1970
    • [3]中山善郎常務(1970):新潟県下の石油業者8社(斎藤・山岸・石崎・浅田・原・大谷・奥田・鈴木)が政府の方針で統合を勧められ1939年9月に合併。当時の民間製油業は石油業法などの保護施策下
    • [4]中山善郎常務(1970):新潟県下の石油業者8社(斎藤・山岸・石崎・浅田・原・大谷・奥田・鈴木)が政府の方針で統合を勧められ1939年9月に合併。当時の民間製油業は石油業法などの保護施策下
  • 燃料之日本 6(2) 1941「大協石油の新工場設立認可」
    • [6]越後の石油8社が大局の前に私心を捨てて合同し、1939年9月に大協石油を設立
    • [7]1941年1月25日に四日市工場の新設許可。越後を離れ新興工都四日市を新工場の地に選定。敷地4万坪、機械油専門会社
    • [8]1941年1月25日に四日市工場の新設許可。越後を離れ新興工都四日市を新工場の地に選定。敷地4万坪、機械油専門会社
    • [9]1941年1月25日に四日市工場の新設許可。越後を離れ新興工都四日市を新工場の地に選定。敷地4万坪、機械油専門会社
  • 株式会社年鑑 1950年版「大協石油」
    • [10]1941年8月に江戸川石油を合併し資本金720万円に増資
  • 日本企業要覧 1964年版「大協石油」(役員の略歴)
    • [11]高橋真男:1938年8月江戸川石油社長、1941年10月大協石油社長、1960年1月会長
  • 日本企業要覧 1965年版「大協石油」
    • [13]戦時中はグリース・松根油の製造で業務を継続

1946年〜元売登録で再起した四日市製油所と、日産5万バーレルの午起新製油所

大協石油は1948年5月に再建整備計画の認可を受けた。1949年3月には石油製品の元売業者となった。同年9月に四日市製油所の操業開始の許可を連合軍総司令部から得た。1949年11月の資本金1億2000万円への増資は、再開の資金を整えるためである。原油処理を日産1000バーレル割り当てられ、1950年1月に製油を再開した。1952年に統制が撤廃されると、外資と提携しない大協石油には原油を確保できるかが最初の課題として問われた。1970年に常務取締役の中山善郎氏は、戦後に製油所の操業が一時禁止されていたと振り返った。元売の登録と原油処理の割当が、戦時中に精製を止めていた製油所を動かす前提になったと推察される。

  • 株式会社年鑑 1950年版「大協石油」
    • [14]1948年5月再建整備計画認可、1949年11月資本金1億2000万円に増資
    • [17]1948年5月再建整備計画認可、1949年11月資本金1億2000万円に増資
  • 日本企業要覧 1965年版「大協石油」
    • [15]戦後1949年3月に元売業者、1950年1月に四日市製油所を再開
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「大協石油」
    • [16]1949年9月に四日市製油所の操業開始を連合軍総司令部が許可、1950年1月に日産1000バーレルの割当を受け製油を再開
    • [18]1949年9月に四日市製油所の操業開始を連合軍総司令部が許可、1950年1月に日産1000バーレルの割当を受け製油を再開
  • 産業と産業人 5(7) 1952「大協石油は自由競争に耐えうるか」
    • [19]統制撤廃後、外資と提携していない大協石油は原油を確保できるかが最初の問題
  • 経済時代 35(1) 1970
    • [20]中山善郎常務(1970):戦後に製油所が一時禁止された

1952年の証券会社の論評は、外資と提携していない石油精製の単独メーカーを大協石油くらいだと指摘した。原油はカルテックスからアラビア原油を日産6000バーレル確保し、契約期間は提示された10年を断って5年。1952年の公称能力は日産8000バーレルで、11月に1万6000バーレルへ増やす計画である。製品も機械油中心から揮発油・灯油・重油へ転換を進め、販売網の確立を急務とした。1954年の経済誌は、外資の入っていない精製会社を大協石油を含む2社と数え、イラン原油の長期契約も伝えた。1959年6月には日産4万バーレルの第三常減圧蒸溜装置を完成させた。外資の資本に依存できない以上、原油は複数の供給元との契約で賄うほかなかったと思われる。

  • 産業と産業人 5(7) 1952「大協石油は自由競争に耐えうるか」
    • [21]外資提携のない石油精製単独メーカーは大協ぐらい。カルテックスからアラビア原油日産6000バーレルを5年契約(10年契約の申入れは断る)。公称能力日産8000バーレル、11月に1万6000バーレル。機械油中心から揮発油・灯油・重油へ転換、販売網の確立が急務
    • [22]外資提携のない石油精製単独メーカーは大協ぐらい。カルテックスからアラビア原油日産6000バーレルを5年契約(10年契約の申入れは断る)。公称能力日産8000バーレル、11月に1万6000バーレル。機械油中心から揮発油・灯油・重油へ転換、販売網の確立が急務
    • [23]外資提携のない石油精製単独メーカーは大協ぐらい。カルテックスからアラビア原油日産6000バーレルを5年契約(10年契約の申入れは断る)。公称能力日産8000バーレル、11月に1万6000バーレル。機械油中心から揮発油・灯油・重油へ転換、販売網の確立が急務
    • [24]外資提携のない石油精製単独メーカーは大協ぐらい。カルテックスからアラビア原油日産6000バーレルを5年契約(10年契約の申入れは断る)。公称能力日産8000バーレル、11月に1万6000バーレル。機械油中心から揮発油・灯油・重油へ転換、販売網の確立が急務
  • 経済展望 26(2) 1954
    • [25]外資の入っていない精製会社は丸善と大協の2社。イラン原油の長期契約を結んだ
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「大協石油」
    • [26]1959年6月に第三常減圧蒸溜装置(日産処理能力4万バーレル)完成

1960年1月に密田博孝氏が社長に就任し、高橋真男氏は会長となった。密田博孝氏は1931年に日本興業銀行へ入行し、同行取締役を経て1957年7月に大協石油の専務取締役に就任した人物である。1963年3月には午起に日産5万バーレルの常減圧装置を完成させた。総工費50億円の午起新製油所と四日市の6万5000バーレルを合わせ、精製能力のシェアは5%台から8.7%に上がった。協和醗酵と合弁の大協和石油化学と結びついたことで、販売量も増加した。1966年に密田博孝氏が示したのは、大協和石油化学の年産4万トンのエチレンに10万トンを加える第二期計画である。見合うナフサを賄うため、製油所にも日産10万バーレルの増設が要ると説明した。精製の規模を広げるほど、それに見合う原油の手当てが次の課題になったのだろう。

  • 日本企業要覧 1964年版「大協石油」(役員の略歴)
    • [27]密田博孝:1907年富山生、1931年京大法卒・日本興業銀行入行、1953年5月同行取締役、1957年7月大協石油専務、1960年1月社長。高橋真男は1960年1月会長
    • [28]密田博孝:1907年富山生、1931年京大法卒・日本興業銀行入行、1953年5月同行取締役、1957年7月大協石油専務、1960年1月社長。高橋真男は1960年1月会長
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「大協石油」
    • [29]1963年3月に午起に日産5万バーレルの常減圧装置完成
  • 日本企業要覧 1965年版「大協石油」
    • [30]総工費50億円の午起新製油所(日産5万バーレル)完成で四日市の6万5000バーレルと合わせ精製能力シェアは5%台から8.7%に。大協和石油化学(協和醗酵と共同設立)との結びつきで販売量が増加
    • [31]総工費50億円の午起新製油所(日産5万バーレル)完成で四日市の6万5000バーレルと合わせ精製能力シェアは5%台から8.7%に。大協和石油化学(協和醗酵と共同設立)との結びつきで販売量が増加
  • 経済時代 31(1) 1966
    • [32]密田博孝社長(1966):四日市・午起で日産11万5000バーレル。大協和石油化学のエチレン年産4万トンに10万トン増設の第二期計画、ナフサ手当に製油所10万バーレル増設が必要
    • [33]密田博孝社長(1966):四日市・午起で日産11万5000バーレル。大協和石油化学のエチレン年産4万トンに10万トン増設の第二期計画、ナフサ手当に製油所10万バーレル増設が必要
参考文献[14]-[33]
  • 株式会社年鑑 1950年版「大協石油」
    • [14]1948年5月再建整備計画認可、1949年11月資本金1億2000万円に増資
    • [17]1948年5月再建整備計画認可、1949年11月資本金1億2000万円に増資
  • 日本企業要覧 1965年版「大協石油」
    • [15]戦後1949年3月に元売業者、1950年1月に四日市製油所を再開
    • [30]総工費50億円の午起新製油所(日産5万バーレル)完成で四日市の6万5000バーレルと合わせ精製能力シェアは5%台から8.7%に。大協和石油化学(協和醗酵と共同設立)との結びつきで販売量が増加
    • [31]総工費50億円の午起新製油所(日産5万バーレル)完成で四日市の6万5000バーレルと合わせ精製能力シェアは5%台から8.7%に。大協和石油化学(協和醗酵と共同設立)との結びつきで販売量が増加
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「大協石油」
    • [16]1949年9月に四日市製油所の操業開始を連合軍総司令部が許可、1950年1月に日産1000バーレルの割当を受け製油を再開
    • [18]1949年9月に四日市製油所の操業開始を連合軍総司令部が許可、1950年1月に日産1000バーレルの割当を受け製油を再開
    • [26]1959年6月に第三常減圧蒸溜装置(日産処理能力4万バーレル)完成
    • [29]1963年3月に午起に日産5万バーレルの常減圧装置完成
  • 産業と産業人 5(7) 1952「大協石油は自由競争に耐えうるか」
    • [19]統制撤廃後、外資と提携していない大協石油は原油を確保できるかが最初の問題
    • [21]外資提携のない石油精製単独メーカーは大協ぐらい。カルテックスからアラビア原油日産6000バーレルを5年契約(10年契約の申入れは断る)。公称能力日産8000バーレル、11月に1万6000バーレル。機械油中心から揮発油・灯油・重油へ転換、販売網の確立が急務
    • [22]外資提携のない石油精製単独メーカーは大協ぐらい。カルテックスからアラビア原油日産6000バーレルを5年契約(10年契約の申入れは断る)。公称能力日産8000バーレル、11月に1万6000バーレル。機械油中心から揮発油・灯油・重油へ転換、販売網の確立が急務
    • [23]外資提携のない石油精製単独メーカーは大協ぐらい。カルテックスからアラビア原油日産6000バーレルを5年契約(10年契約の申入れは断る)。公称能力日産8000バーレル、11月に1万6000バーレル。機械油中心から揮発油・灯油・重油へ転換、販売網の確立が急務
    • [24]外資提携のない石油精製単独メーカーは大協ぐらい。カルテックスからアラビア原油日産6000バーレルを5年契約(10年契約の申入れは断る)。公称能力日産8000バーレル、11月に1万6000バーレル。機械油中心から揮発油・灯油・重油へ転換、販売網の確立が急務
  • 経済時代 35(1) 1970
    • [20]中山善郎常務(1970):戦後に製油所が一時禁止された
  • 経済展望 26(2) 1954
    • [25]外資の入っていない精製会社は丸善と大協の2社。イラン原油の長期契約を結んだ
  • 日本企業要覧 1964年版「大協石油」(役員の略歴)
    • [27]密田博孝:1907年富山生、1931年京大法卒・日本興業銀行入行、1953年5月同行取締役、1957年7月大協石油専務、1960年1月社長。高橋真男は1960年1月会長
    • [28]密田博孝:1907年富山生、1931年京大法卒・日本興業銀行入行、1953年5月同行取締役、1957年7月大協石油専務、1960年1月社長。高橋真男は1960年1月会長
  • 経済時代 31(1) 1966
    • [32]密田博孝社長(1966):四日市・午起で日産11万5000バーレル。大協和石油化学のエチレン年産4万トンに10万トン増設の第二期計画、ナフサ手当に製油所10万バーレル増設が必要
    • [33]密田博孝社長(1966):四日市・午起で日産11万5000バーレル。大協和石油化学のエチレン年産4万トンに10万トン増設の第二期計画、ナフサ手当に製油所10万バーレル増設が必要

出典・参考

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出典・参考
  • 株式会社年鑑 1950年版「大協石油」
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「大協石油」
  • 燃料之日本 6(2) 1941「大協石油の新工場設立認可」
  • 産業と産業人 5(7) 1952「大協石油は自由競争に耐えうるか」
  • 経済展望 26(2) 1954
  • 日本企業要覧 1964年版「大協石油」(役員の略歴)
  • 日本企業要覧 1965年版「大協石油」
  • 経済時代 31(1) 1966
  • 経済時代 35(1) 1970

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