第1章 年〜年

三菱石油:米アソシエイテッド石油との合弁による三菱石油の設立

1924年〜アソシエイテッド石油製品の一手販売と、500万円を折半する製油会社の覚書

三菱の石油事業は、三菱商事がアソシエーテッド石油(以下ア社)の製品を日本で独占的に扱う契約から始まった。三菱商事は1923年に臨時液体燃料調査委員会を社内に置き、米英の大手から提携先を探した。ア社を選んだ決め手は、親会社の鉄道会社が産出量の多い油田を数多く持つ点にある。対日取引に関心の薄いア社との交渉は難航し、三菱商事の堤一重氏が通い詰めて1923年12月に原油と重油の一手販売契約を結んだ。1924年4月に三菱商事は燃料部を設け、徳山海軍燃料廠への重油納入を皮切りに輸入販売を始めた。その後、揮発油・灯油・潤滑油を契約に加え、1927年4月には同系統のタイドウォーター石油の高級潤滑油の販売権も得た。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [1]三菱商事燃料部が1924年にア社製品の日本での一手販売権を得て石油製品の輸入販売を始めた
  • 三菱石油五十年史(1981)第1編1章「創業前史」
    • [2]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得
    • [3]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得
    • [4]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得
    • [5]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得
    • [6]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得

三菱商事は石油の取引を始めてすぐ、国内に製油所を持たなければ取引を長く続けられないと判断した。製品で持ち込むより原油のまま入れて国内で精製したほうが、輸入税は軽く済んだ。政府も国内の精製設備を増やし、製品輸入を順次抑える方針に向かっていた。三菱商事は、国内精製が石油を日本の産業として育てるうえでも得策だと考えた。1928年5月、タイドウォーター石油への挨拶で渡米した三菱商事常務の加藤恭平氏は、ア社社長のWm.F.ハンフレー氏に合弁案を示した。同年6月8日、資本金500万円を三菱側とア社が等分に出資する新会社についてア社との覚書の締結。覚書は社長と常務を三菱から、副社長をア社から出すと定めた。

  • 三菱石油五十年史(1981)第1編1章「創業前史」
    • [7]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [8]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [9]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [11]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [12]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [13]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [10]三菱商事は原油を輸入して国内精製するほうが石油を国内産業として育成するうえで有利と判断した

三菱合資・三菱鉱業・三菱商事の3社とア社は、1929年11月5日にサンフランシスコで三菱石油設立の基本契約に調印した。覚書の後、ア社は技師らを日本に送って調べたものの確答を出さず、三菱は一時、単独での製油会社設立にも備えた。当時の日本の精製技術は未熟で、原油に加えて設備と技術も米国からの導入が欠かせない段階である。基本契約は資本金500万円を常に等分に出資し、相手の書面の承諾なしに株式を譲渡できないと定めた。基本方針の変更などの重要事項には、社長・副社長・常務の代表取締役全員の賛成が要件である。出資と経営支配の完全な平等を原則に据え、技術を持つア社に主導権が偏らない仕組みを作ったとみられる。

  • 三菱石油五十年史(1981)第1編1章「創業前史」
    • [14]1929年11月5日サンフランシスコで三菱3社とア社が基本契約に調印。等分出資・株式譲渡制限・重要事項は代表取締役全員の賛成
    • [15]1929年11月5日サンフランシスコで三菱3社とア社が基本契約に調印。等分出資・株式譲渡制限・重要事項は代表取締役全員の賛成
    • [17]1929年11月5日サンフランシスコで三菱3社とア社が基本契約に調印。等分出資・株式譲渡制限・重要事項は代表取締役全員の賛成
    • [18]1929年11月5日サンフランシスコで三菱3社とア社が基本契約に調印。等分出資・株式譲渡制限・重要事項は代表取締役全員の賛成
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [16]国内の精製技術が幼稚で原油・設備・技術の導入が必要とされ、1929年に出資と経営支配の完全な平等を原則とする基本契約を締結
参考文献[1]-[18]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [1]三菱商事燃料部が1924年にア社製品の日本での一手販売権を得て石油製品の輸入販売を始めた
    • [10]三菱商事は原油を輸入して国内精製するほうが石油を国内産業として育成するうえで有利と判断した
    • [16]国内の精製技術が幼稚で原油・設備・技術の導入が必要とされ、1929年に出資と経営支配の完全な平等を原則とする基本契約を締結
  • 三菱石油五十年史(1981)第1編1章「創業前史」
    • [2]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得
    • [3]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得
    • [4]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得
    • [5]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得
    • [6]1923年に三菱商事が臨時液体燃料調査委員会を設置、同年12月にア社と原油・重油の一手販売契約、1924年4月に燃料部を設置し重油納入を開始、1927年4月にタ社製品の一手販売権を取得
    • [7]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [8]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [9]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [11]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [12]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [13]輸入税上は原油輸入・内地精製が有利で政府も製品輸入抑制に向かう中、加藤恭平常務が1928年5月渡米しハンフレー社長らと交渉、6月8日に資本金500万円・等分出資の覚書をア社と交換
    • [14]1929年11月5日サンフランシスコで三菱3社とア社が基本契約に調印。等分出資・株式譲渡制限・重要事項は代表取締役全員の賛成
    • [15]1929年11月5日サンフランシスコで三菱3社とア社が基本契約に調印。等分出資・株式譲渡制限・重要事項は代表取締役全員の賛成
    • [17]1929年11月5日サンフランシスコで三菱3社とア社が基本契約に調印。等分出資・株式譲渡制限・重要事項は代表取締役全員の賛成
    • [18]1929年11月5日サンフランシスコで三菱3社とア社が基本契約に調印。等分出資・株式譲渡制限・重要事項は代表取締役全員の賛成

1930年〜三好重道氏を初代社長に発足した資本金500万円の合弁と、川崎製油所

三菱石油は1931年2月11日、東京市麹町区丸ノ内の八重洲ビルでの創立総会を経て発足した。資本金500万円は1929年の基本契約に沿い、日米折半での出資。三菱側の250万円は三菱合資150万円、三菱鉱業50万円、三菱商事50万円に割り振った。発起人10名も取締役10名も、三菱側とア社側から5名ずつである。創立総会は三菱合資常務理事の三好重道氏を社長に、ア社アボン製油所の機械課長だったD.D.マックグレゴアー氏を副社長に選んだ。常務には設立事務を担った堤一重氏が就任した。三菱合資社長の岩崎小彌太氏は、資本金500万円を失っても構わない覚悟で臨むと周囲に語っていた。

  • 三菱石油五十年史(1981)第1編1章「創業前史」
    • [19]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [21]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [22]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [23]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [24]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [25]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [20]1931年2月に基本契約に基づき資本金500万円で設立

基本契約は製油所を神奈川県川崎の埋立地に置き、製品の販売を三菱商事に委託すると定めていた。工事は1930年11月、京浜運河沿いの埋立地で始まった。主要装置はア社の選定でケロッグ社に発注し、タンクとボイラーは三菱造船、基礎工事は大林組が請け負った。創立総会で示した計画は、敷地約24,500坪に軽質原油日産3,000バーレルと重質原油日産1,000バーレルの処理設備を置くものである。輸入機器の延着と悪天候で工事は遅れ、1931年6月1日には原油タンクの事故で2名が亡くなった。川崎製油所は1931年12月14日に分解蒸留装置を動かして操業を始め、翌1932年2月には重質油の真空蒸留装置も完成した。製品は創立時から三菱商事を一手販売店として売り、精製と販売を分担する体制である。

  • 三菱石油五十年史(1981)第1編1章「創業前史」
    • [26]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
    • [28]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
    • [29]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
    • [30]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
    • [31]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「三菱石油」
    • [27]1930年11月京浜運河埋立地帯で川崎製油所の建設に着手
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [32]製品販売は創立以来三菱商事を一手販売店として委託

1934年3月に石油業法が成立し、同年7月1日から石油の精製業と輸入業は許可制に移った。同法は精製業者と輸入業者に対し、前年の輸入量の半量の保有も義務づけるものである。政府はこの法律の施行を機に、三菱石油の資本の過半を日本側に移す意向を示した。1934年7月21日、三菱合資社長の岩崎小彌太氏は商工大臣を訪ね、日米折半の資本構成を続けたいと求めた。1935年10月12日、ア社は事情の変化を理由に基本契約の改訂を求め、改訂できなければ川崎製油所の拡張に出資しないと通告した。拡張は原油タンク1基と製品倉庫1棟を除いて棚上げ。1939年ごろからは製品の配給も統制機関に移った。外資と折半の資本構成は、統制下では設備拡張の足かせにもなったと推察される。

  • 三菱石油五十年史(1981)第2編1章「準戦時体制下における動き」
    • [33]石油国策審議会の実施要綱を骨子に1934年3月石油業法成立、7月1日実施。精製・輸入の許可制と保有義務
    • [34]石油国策審議会の実施要綱を骨子に1934年3月石油業法成立、7月1日実施。精製・輸入の許可制と保有義務
    • [35]政府は日本側資本の過半化を望み、1934年7月21日岩崎小彌太が商工大臣に折半継続を要望。1935年10月12日ア社が基本契約改訂を求め拡張投資への参加を留保、拡張は棚上げ
    • [36]政府は日本側資本の過半化を望み、1934年7月21日岩崎小彌太が商工大臣に折半継続を要望。1935年10月12日ア社が基本契約改訂を求め拡張投資への参加を留保、拡張は棚上げ
    • [37]政府は日本側資本の過半化を望み、1934年7月21日岩崎小彌太が商工大臣に折半継続を要望。1935年10月12日ア社が基本契約改訂を求め拡張投資への参加を留保、拡張は棚上げ
    • [38]政府は日本側資本の過半化を望み、1934年7月21日岩崎小彌太が商工大臣に折半継続を要望。1935年10月12日ア社が基本契約改訂を求め拡張投資への参加を留保、拡張は棚上げ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [39]1939年ごろ準戦時体制に入り石油配給業務は配給統制機関が行った
参考文献[19]-[39]
  • 三菱石油五十年史(1981)第1編1章「創業前史」
    • [19]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [21]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [22]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [23]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [24]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [25]1931年2月11日八重洲ビルで創立総会。三菱側割当は合資150万円・鉱業50万円・商事50万円。発起人・取締役は日米5名ずつ。社長三好重道、副社長マックグレゴアー、常務堤一重
    • [26]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
    • [28]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
    • [29]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
    • [30]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
    • [31]基本契約で製油所は川崎の埋立地、販売は三菱商事へ委託。1930年11月6日着工、主要装置はケロッグ社、1931年12月14日操業開始、1932年2月真空蒸留装置完成
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [20]1931年2月に基本契約に基づき資本金500万円で設立
    • [32]製品販売は創立以来三菱商事を一手販売店として委託
    • [39]1939年ごろ準戦時体制に入り石油配給業務は配給統制機関が行った
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「三菱石油」
    • [27]1930年11月京浜運河埋立地帯で川崎製油所の建設に着手
  • 三菱石油五十年史(1981)第2編1章「準戦時体制下における動き」
    • [33]石油国策審議会の実施要綱を骨子に1934年3月石油業法成立、7月1日実施。精製・輸入の許可制と保有義務
    • [34]石油国策審議会の実施要綱を骨子に1934年3月石油業法成立、7月1日実施。精製・輸入の許可制と保有義務
    • [35]政府は日本側資本の過半化を望み、1934年7月21日岩崎小彌太が商工大臣に折半継続を要望。1935年10月12日ア社が基本契約改訂を求め拡張投資への参加を留保、拡張は棚上げ
    • [36]政府は日本側資本の過半化を望み、1934年7月21日岩崎小彌太が商工大臣に折半継続を要望。1935年10月12日ア社が基本契約改訂を求め拡張投資への参加を留保、拡張は棚上げ
    • [37]政府は日本側資本の過半化を望み、1934年7月21日岩崎小彌太が商工大臣に折半継続を要望。1935年10月12日ア社が基本契約改訂を求め拡張投資への参加を留保、拡張は棚上げ
    • [38]政府は日本側資本の過半化を望み、1934年7月21日岩崎小彌太が商工大臣に折半継続を要望。1935年10月12日ア社が基本契約改訂を求め拡張投資への参加を留保、拡張は棚上げ

1937年〜パレンバンを担った南方石油三菱班と富島製油所、空襲で壊滅した川崎製油所

石油の輸入が途絶えると、日本軍は緒戦でスマトラやボルネオの油田と製油所を占領した。これに先立つ1941年10月1日、民間の石油人に徴用令が出され、陸海軍に配属された。三菱石油は軍の要請により三菱各社の協力を得て南方石油三菱班を編成し、陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ送った。派遣は1942年2月に始まり、延べ516名のうち三菱石油の従業員は246名である。スタンダード系のパレンバン第2製油所は年間原油処理200万屯の規模で、主に三菱からの徴用員が操業した。国内では戦争の激化につれて川崎製油所の操業率が下がった。技術者を南方へ送り出したことで、三菱石油の精製の担い手の多くは一時、川崎を離れて南方の製油所へ移ったのだろう。

  • 三菱石油五十年史(1981)第2編3章「戦時体制下(後期)における動き」
    • [40]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
    • [41]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
    • [42]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
    • [43]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
    • [44]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [45]太平洋戦争の激化につれて川崎製油所の操業率が低下

三菱石油が軍の方針に沿って決めたのは、南方原油を集中して精製する大製油所の宮崎県富島町への建設である。当時の国内には、南方原油を処理する前提の精製工場がなかった。1942年9月22日、常務の角田常治郎氏は細島港が1万屯級の油槽船を横付けできる良港だと三菱側重役会に報告した。1943年4月7日に地鎮祭を催し、同年10月9日に陸軍燃料廠から年間150万キロリットルの製油所を建設せよとの正式命令を受けた。1944年3月1日、軍需会社法の指定に合わせて建設事務所を富島製油所と改称した。1945年4月1日には所長の重松宣彦氏の下で課制をしいた。蒸留装置は資材難で移設案に改めたものの、移設の着手は1945年2月まで遅れた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [46]戦時中、南方原油処理のため宮崎県富島町に敷地約60万坪の大製油所の建設に着手
  • 三菱石油五十年史(1981)第2編3章「戦時体制下(後期)における動き」
    • [47]南方原油の集中精製のため宮崎県富島町に大製油所を計画。1942年9月22日角田常務が細島港の適性を報告、1943年4月7日地鎮祭、同年10月9日陸軍燃料廠が年間150万klの製油所建設を命令
    • [48]南方原油の集中精製のため宮崎県富島町に大製油所を計画。1942年9月22日角田常務が細島港の適性を報告、1943年4月7日地鎮祭、同年10月9日陸軍燃料廠が年間150万klの製油所建設を命令
    • [49]南方原油の集中精製のため宮崎県富島町に大製油所を計画。1942年9月22日角田常務が細島港の適性を報告、1943年4月7日地鎮祭、同年10月9日陸軍燃料廠が年間150万klの製油所建設を命令
    • [50]1944年3月1日建設事務所を富島製油所と改称、1945年4月1日独立の事業所として課制(所長重松宣彦)。蒸留装置は移設に切り替えたが着手は1945年2月
    • [51]1944年3月1日建設事務所を富島製油所と改称、1945年4月1日独立の事業所として課制(所長重松宣彦)。蒸留装置は移設に切り替えたが着手は1945年2月
    • [52]1944年3月1日建設事務所を富島製油所と改称、1945年4月1日独立の事業所として課制(所長重松宣彦)。蒸留装置は移設に切り替えたが着手は1945年2月

1945年7月25日夜の空襲で、川崎製油所の精製設備は壊滅した。来襲したB29は約50機、投下された250キロ爆弾は約300発で、死者は7名、負傷者は13名である。第30期には南方原油の還送が途絶えて国内の貯蔵原油も底をつき、三菱石油は欠損を計上した。これに先立つ1945年1月23日、社長の大久保繁雄氏はアルコールや松根油の製造へ事業を広げる方針を取締役会で示していた。富島の大製油所は建設の途中で終戦を迎え、計画を放棄した。ア社の株式10万株は1942年3月から三菱信託銀行が敵産として管理し、三菱重工業への譲渡案も終戦で取り止めとなった。ア社の持分が他社に移らずに残ったことが、戦後の提携再開の足場になったと思われる。

  • 三菱石油五十年史(1981)第2編3章「戦時体制下(後期)における動き」
    • [53]1945年7月25日B29約50機・250kg爆弾約300発で死者7名・負傷者13名、精製設備壊滅。同年1月23日大久保社長が経営方針転換。ア社株10万株は1942年3月から三菱信託銀行が敵産管理、三菱重工業への譲渡は終戦で中止
    • [54]1945年7月25日B29約50機・250kg爆弾約300発で死者7名・負傷者13名、精製設備壊滅。同年1月23日大久保社長が経営方針転換。ア社株10万株は1942年3月から三菱信託銀行が敵産管理、三菱重工業への譲渡は終戦で中止
    • [55]第30期は南方原油の還送が皆無で国内貯蔵原油も枯渇し、1945年7月25日の空襲で製油作業が全面的に不能となり欠損
    • [56]1945年7月25日B29約50機・250kg爆弾約300発で死者7名・負傷者13名、精製設備壊滅。同年1月23日大久保社長が経営方針転換。ア社株10万株は1942年3月から三菱信託銀行が敵産管理、三菱重工業への譲渡は終戦で中止
    • [58]1945年7月25日B29約50機・250kg爆弾約300発で死者7名・負傷者13名、精製設備壊滅。同年1月23日大久保社長が経営方針転換。ア社株10万株は1942年3月から三菱信託銀行が敵産管理、三菱重工業への譲渡は終戦で中止
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [57]富島の大製油所は終戦のため建設途上で計画を放棄
参考文献[40]-[58]
  • 三菱石油五十年史(1981)第2編3章「戦時体制下(後期)における動き」
    • [40]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
    • [41]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
    • [42]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
    • [43]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
    • [44]1941年10月1日民間石油人に徴用令。三菱石油は軍の要請で南方石油三菱班を編成し陸軍班をパレンバン、海軍班をバリックパパンへ派遣。延べ516名(当社246名)。パレンバン第2製油所は主に三菱派遣の徴用員が操業
    • [47]南方原油の集中精製のため宮崎県富島町に大製油所を計画。1942年9月22日角田常務が細島港の適性を報告、1943年4月7日地鎮祭、同年10月9日陸軍燃料廠が年間150万klの製油所建設を命令
    • [48]南方原油の集中精製のため宮崎県富島町に大製油所を計画。1942年9月22日角田常務が細島港の適性を報告、1943年4月7日地鎮祭、同年10月9日陸軍燃料廠が年間150万klの製油所建設を命令
    • [49]南方原油の集中精製のため宮崎県富島町に大製油所を計画。1942年9月22日角田常務が細島港の適性を報告、1943年4月7日地鎮祭、同年10月9日陸軍燃料廠が年間150万klの製油所建設を命令
    • [50]1944年3月1日建設事務所を富島製油所と改称、1945年4月1日独立の事業所として課制(所長重松宣彦)。蒸留装置は移設に切り替えたが着手は1945年2月
    • [51]1944年3月1日建設事務所を富島製油所と改称、1945年4月1日独立の事業所として課制(所長重松宣彦)。蒸留装置は移設に切り替えたが着手は1945年2月
    • [52]1944年3月1日建設事務所を富島製油所と改称、1945年4月1日独立の事業所として課制(所長重松宣彦)。蒸留装置は移設に切り替えたが着手は1945年2月
    • [53]1945年7月25日B29約50機・250kg爆弾約300発で死者7名・負傷者13名、精製設備壊滅。同年1月23日大久保社長が経営方針転換。ア社株10万株は1942年3月から三菱信託銀行が敵産管理、三菱重工業への譲渡は終戦で中止
    • [54]1945年7月25日B29約50機・250kg爆弾約300発で死者7名・負傷者13名、精製設備壊滅。同年1月23日大久保社長が経営方針転換。ア社株10万株は1942年3月から三菱信託銀行が敵産管理、三菱重工業への譲渡は終戦で中止
    • [55]第30期は南方原油の還送が皆無で国内貯蔵原油も枯渇し、1945年7月25日の空襲で製油作業が全面的に不能となり欠損
    • [56]1945年7月25日B29約50機・250kg爆弾約300発で死者7名・負傷者13名、精製設備壊滅。同年1月23日大久保社長が経営方針転換。ア社株10万株は1942年3月から三菱信託銀行が敵産管理、三菱重工業への譲渡は終戦で中止
    • [58]1945年7月25日B29約50機・250kg爆弾約300発で死者7名・負傷者13名、精製設備壊滅。同年1月23日大久保社長が経営方針転換。ア社株10万株は1942年3月から三菱信託銀行が敵産管理、三菱重工業への譲渡は終戦で中止
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
    • [45]太平洋戦争の激化につれて川崎製油所の操業率が低下
    • [46]戦時中、南方原油処理のため宮崎県富島町に敷地約60万坪の大製油所の建設に着手
    • [57]富島の大製油所は終戦のため建設途上で計画を放棄

出典・参考

5件
出典・参考
  • 三菱石油五十年史(1981)第1編1章「創業前史」
  • 三菱石油五十年史(1981)第2編1章「準戦時体制下における動き」
  • 三菱石油五十年史(1981)第2編3章「戦時体制下(後期)における動き」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「三菱石油」

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