科研製薬:理化学研究所の改組による発足と東証一部上場
1948年〜500万円で株式会社に改組した理化学研究所と、60トン培養タンクの十条工場を継いだ科研化学
1948年3月1日、財団法人理化学研究所は組織を株式会社に改め、資本金500万円の株式会社科学研究所として再出発した。根拠は連合軍司令部の指令を受けて定めた法律第131号で、財団の資産を現物出資して新会社の資本に充てた。財団法人理化学研究所は、1917年3月に高峰譲吉氏の提唱で設けられた研究機関である。初代社長には仁科芳雄氏が就任し、研究の成果を工業化する第一歩として1948年6月にペニシリンの製造に着手した。1950年4月には結核の化学療法剤パスの製造も開始。研究で培った技術を医薬品の製造に充て、株式会社として自ら収益を立てる必要に迫られたとみられる。
- 企業の歴史:明治百年(1968)「科研化学」
- [1]1917年3月、高峰譲吉の提唱で財団法人理化学研究所を設立。1948年3月1日、資本金500万円で株式会社科学研究所として発足
- [3]1917年3月、高峰譲吉の提唱で財団法人理化学研究所を設立。1948年3月1日、資本金500万円で株式会社科学研究所として発足
- 証券業報 (4)(114) 1959年4月「科研化学」
- [2]1948年3月1日、連合軍司令部の指令と法律第131号に基づき財団を株式会社に改組し資産を現物出資、初代社長は仁科芳雄。1948年6月ペニシリン製造着手、1950年4月パス製造開始
- [4]1948年3月1日、連合軍司令部の指令と法律第131号に基づき財団を株式会社に改組し資産を現物出資、初代社長は仁科芳雄。1948年6月ペニシリン製造着手、1950年4月パス製造開始
- [5]1948年3月1日、連合軍司令部の指令と法律第131号に基づき財団を株式会社に改組し資産を現物出資、初代社長は仁科芳雄。1948年6月ペニシリン製造着手、1950年4月パス製造開始
1950年10月に完成した十条工場で、科学研究所は純国産の技術によるストレプトマイシンの製造に成功した。1951年11月には同工場に60トンの培養タンク3基を設け、ストレプトマイシンの量産に入った。証券業報は、60トンのタンクをわが国で最大の規模と記した。十条工場の敷地は東京都北区下十条の旧陸軍造兵廠の跡で、約5,000坪あった。1959年時点で、十条工場の生産品目は抗生物質製剤とビタミンB12。1959年時点で、抗生物質製剤は総生産金額の概ね63%を占めた。輸入技術に依存せず培養から精製までを自前で担えたことが、大型タンクへの投資を後押ししたと考えられる。
- 企業の歴史:明治百年(1968)「科研化学」
- [6]1950年10月、完成直後の十条工場で純国産技術によるストレプトマイシン製造に成功。1951年11月、60トン培養タンク3基が完成し量産体制へ
- [7]1950年10月、完成直後の十条工場で純国産技術によるストレプトマイシン製造に成功。1951年11月、60トン培養タンク3基が完成し量産体制へ
- 証券業報 (4)(114) 1959年4月「科研化学」
- [8]十条工場は北区下十条の旧陸軍造兵廠跡、敷地約5,000坪。1951年11月に国内最大の60トン培養タンクを建設しストレプトマイシンを量産。1959年時点で抗生物質製剤は総生産金額の約63%。十条工場では抗生物質製剤とビタミンB12を製造
- [9]十条工場は北区下十条の旧陸軍造兵廠跡、敷地約5,000坪。1951年11月に国内最大の60トン培養タンクを建設しストレプトマイシンを量産。1959年時点で抗生物質製剤は総生産金額の約63%。十条工場では抗生物質製剤とビタミンB12を製造
- [10]十条工場は北区下十条の旧陸軍造兵廠跡、敷地約5,000坪。1951年11月に国内最大の60トン培養タンクを建設しストレプトマイシンを量産。1959年時点で抗生物質製剤は総生産金額の約63%。十条工場では抗生物質製剤とビタミンB12を製造
- [11]十条工場は北区下十条の旧陸軍造兵廠跡、敷地約5,000坪。1951年11月に国内最大の60トン培養タンクを建設しストレプトマイシンを量産。1959年時点で抗生物質製剤は総生産金額の約63%。十条工場では抗生物質製剤とビタミンB12を製造
1952年8月、株式会社科学研究所は研究部門と生産部門を別々の会社に分けた。研究機関が自ら工場を動かす体制では、生産の拡大に伴い会社の運営に支障が重なったためである。研究部門は同じ年に新たに設けた会社へ移って科学研究所の名を継ぎ、のちに特殊法人の理化学研究所となった。生産部門は従来の法人の資産と債権・債務を引き継ぎ、科研化学株式会社へ商号を変えた。1968年時点で、科研化学は研究を理化学研究所と、販売を科研薬化工と結び、研究・生産・販売の分業の中で生産を担った。生産に特化した法人を残したことで、研究の成果を製品に変える役割へ経営資源を集中できたと推察される。
- 証券業報 (4)(114) 1959年4月「科研化学」
- [12]1952年8月、会社運営上の支障から研究部門と生産部門を分離。研究部門は新会社が科学研究所の名を継ぎのち特殊法人理化学研究所、生産部門は資産・債権債務を継いで科研化学として発足
- [13]1952年8月、会社運営上の支障から研究部門と生産部門を分離。研究部門は新会社が科学研究所の名を継ぎのち特殊法人理化学研究所、生産部門は資産・債権債務を継いで科研化学として発足
- [14]1952年8月、会社運営上の支障から研究部門と生産部門を分離。研究部門は新会社が科学研究所の名を継ぎのち特殊法人理化学研究所、生産部門は資産・債権債務を継いで科研化学として発足
- [15]1952年8月、会社運営上の支障から研究部門と生産部門を分離。研究部門は新会社が科学研究所の名を継ぎのち特殊法人理化学研究所、生産部門は資産・債権債務を継いで科研化学として発足
- 企業の歴史:明治百年(1968)「科研化学」
- [16]1968年時点で研究は理化学研究所、販売は科研薬化工と緊密な関係を保ち、研究―生産―販売の機構をとる(分離の月は同書では生産部門1952年7月・研究部門同年8月)
参考文献[1]-[16]
- 企業の歴史:明治百年(1968)「科研化学」
- [1]1917年3月、高峰譲吉の提唱で財団法人理化学研究所を設立。1948年3月1日、資本金500万円で株式会社科学研究所として発足
- [3]1917年3月、高峰譲吉の提唱で財団法人理化学研究所を設立。1948年3月1日、資本金500万円で株式会社科学研究所として発足
- [6]1950年10月、完成直後の十条工場で純国産技術によるストレプトマイシン製造に成功。1951年11月、60トン培養タンク3基が完成し量産体制へ
- [7]1950年10月、完成直後の十条工場で純国産技術によるストレプトマイシン製造に成功。1951年11月、60トン培養タンク3基が完成し量産体制へ
- [16]1968年時点で研究は理化学研究所、販売は科研薬化工と緊密な関係を保ち、研究―生産―販売の機構をとる(分離の月は同書では生産部門1952年7月・研究部門同年8月)
- 証券業報 (4)(114) 1959年4月「科研化学」
- [2]1948年3月1日、連合軍司令部の指令と法律第131号に基づき財団を株式会社に改組し資産を現物出資、初代社長は仁科芳雄。1948年6月ペニシリン製造着手、1950年4月パス製造開始
- [4]1948年3月1日、連合軍司令部の指令と法律第131号に基づき財団を株式会社に改組し資産を現物出資、初代社長は仁科芳雄。1948年6月ペニシリン製造着手、1950年4月パス製造開始
- [5]1948年3月1日、連合軍司令部の指令と法律第131号に基づき財団を株式会社に改組し資産を現物出資、初代社長は仁科芳雄。1948年6月ペニシリン製造着手、1950年4月パス製造開始
- [8]十条工場は北区下十条の旧陸軍造兵廠跡、敷地約5,000坪。1951年11月に国内最大の60トン培養タンクを建設しストレプトマイシンを量産。1959年時点で抗生物質製剤は総生産金額の約63%。十条工場では抗生物質製剤とビタミンB12を製造
- [9]十条工場は北区下十条の旧陸軍造兵廠跡、敷地約5,000坪。1951年11月に国内最大の60トン培養タンクを建設しストレプトマイシンを量産。1959年時点で抗生物質製剤は総生産金額の約63%。十条工場では抗生物質製剤とビタミンB12を製造
- [10]十条工場は北区下十条の旧陸軍造兵廠跡、敷地約5,000坪。1951年11月に国内最大の60トン培養タンクを建設しストレプトマイシンを量産。1959年時点で抗生物質製剤は総生産金額の約63%。十条工場では抗生物質製剤とビタミンB12を製造
- [11]十条工場は北区下十条の旧陸軍造兵廠跡、敷地約5,000坪。1951年11月に国内最大の60トン培養タンクを建設しストレプトマイシンを量産。1959年時点で抗生物質製剤は総生産金額の約63%。十条工場では抗生物質製剤とビタミンB12を製造
- [12]1952年8月、会社運営上の支障から研究部門と生産部門を分離。研究部門は新会社が科学研究所の名を継ぎのち特殊法人理化学研究所、生産部門は資産・債権債務を継いで科研化学として発足
- [13]1952年8月、会社運営上の支障から研究部門と生産部門を分離。研究部門は新会社が科学研究所の名を継ぎのち特殊法人理化学研究所、生産部門は資産・債権債務を継いで科研化学として発足
- [14]1952年8月、会社運営上の支障から研究部門と生産部門を分離。研究部門は新会社が科学研究所の名を継ぎのち特殊法人理化学研究所、生産部門は資産・債権債務を継いで科研化学として発足
- [15]1952年8月、会社運営上の支障から研究部門と生産部門を分離。研究部門は新会社が科学研究所の名を継ぎのち特殊法人理化学研究所、生産部門は資産・債権債務を継いで科研化学として発足
1953年〜店頭公開から東証1部へ上がった科研化学と、税引利益3900万円の停滞で入れた外国技術
1959年3月18日、科研化学の株式は東京の店頭市場で売買が始まった。承認は同月12日で、紹介会社は山一証券と山叶証券、社長は井田正一氏。前年の1958年11月には1対1の株主割当増資で、資本金を2億1,296万円に倍増した。1958年9月期の売上高は5億4,000万円余、純利益は2,400万円余だった。次の製品として、ストレプトマイシンの培養液から蛋白分解酵素プロナーゼを副産物として分離し、工業薬品として安く造る計画を立てた。農薬ではアクチジオンとブラストサイジンの製造を計画し、実地の試験に入った。培養と発酵の設備を医薬品の外へ広げ、ストレプトマイシンへの依存を下げる狙いだったのだろう。
- 証券業報 (4)(114) 1959年4月「科研化学」
- [17]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- [19]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- [21]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- [22]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- [23]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- 株式会社年鑑 1960年版「科研化学」
- [18]1958年11月に1:1増資で資本金2億1,296万円。東京店頭で1959年3月18日売買開始
- [20]1958年11月に1:1増資で資本金2億1,296万円。東京店頭で1959年3月18日売買開始
1961年11月、科研化学はイネのイモチ病に効く農業用抗生物質ブラストサイジンSを発売した。量産に向け、同じ1961年に静岡県藤枝市で静岡工場の新設にも着手している。静岡工場は1962年12月に発酵工場として竣工し、本格操業は1963年1月からだった。株式は1961年10月2日に東京証券取引所の2部に上場し、1962年8月1日に1部へ移った。資本金は1961年11月に5億3,240万円、1963年3月に7億9,860万円へ増やした。1963年3月期の半期売上高は8億2,840万円となり、静岡工場が生産の主力に、十条工場は研究専門に替わった。上場で開いた資金調達の手段を、農薬と医薬品の両方を担う新工場に充てたと思われる。
- 企業の歴史:明治百年(1968)「科研化学」
- [24]1961年11月、世界最初の農業用抗生物質ブラストサイジンSを発売
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「科研化学」
- [25]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- [27]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- [28]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- [30]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- [31]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- 科研製薬 有価証券報告書【沿革】
- [26]1961年10月東証2部上場、1962年8月東証1部上場、1962年12月藤枝市に発酵工場として静岡工場竣工
- [29]1961年10月東証2部上場、1962年8月東証1部上場、1962年12月藤枝市に発酵工場として静岡工場竣工
1968年3月期の科研化学の半期売上高は23億円強、利益は1億6,000万円弱だった。業績は1971年9月期から停滞し、1972年9月期の税引利益3,900万円は年1割の配当に要る6,000万円を下回った。売上高純利益率は1969年9月期の7.8%から1972年9月期には1.2%へ低下した。原因は、めぼしい新薬が出なかったことと、販売体制の切り替え、減反による農薬の伸び悩みである。社長の大原寛氏のもとで、研究に偏った社内体制を改めて営業の強化に全力を挙げる方針へ転じた。外国からは、イタリアの製薬会社のクロラムフェニコールと米アップジョン社のエリスロマイシンを導入した。販売を関係会社の科研薬化工に委ねたままでは営業の強化に限りがあり、その課題がのちの合併の素地になったと推測される。
- 企業の歴史:明治百年(1968)「科研化学」
- [32]1968年3月期の半期売上高23億円強・利益1億6,000万円弱、社長長谷川長治、販売は科研薬化工と緊密
- 実業の世界 71(6) 1974年6月
- [33]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
- [34]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
- [35]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
- [36]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
- [37]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
参考文献[17]-[37]
- 証券業報 (4)(114) 1959年4月「科研化学」
- [17]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- [19]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- [21]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- [22]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- [23]1959年3月12日店頭売買承認・3月18日開始、紹介会社は山一証券・山叶証券、社長井田正一。1958年9月期売上5億4,000万円余・純利益2,400万円余。プロナーゼをストマイ培養液の副産物から製造、農薬アクチジオン・ブラストサイジンの製造を計画し実地試験中
- 株式会社年鑑 1960年版「科研化学」
- [18]1958年11月に1:1増資で資本金2億1,296万円。東京店頭で1959年3月18日売買開始
- [20]1958年11月に1:1増資で資本金2億1,296万円。東京店頭で1959年3月18日売買開始
- 企業の歴史:明治百年(1968)「科研化学」
- [24]1961年11月、世界最初の農業用抗生物質ブラストサイジンSを発売
- [32]1968年3月期の半期売上高23億円強・利益1億6,000万円弱、社長長谷川長治、販売は科研薬化工と緊密
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「科研化学」
- [25]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- [27]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- [28]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- [30]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- [31]1961年に抗イモチ病農薬ブラストサイジンSの量産を主体とする静岡工場の新設に着手し1963年1月から本操業。1961年10月2日東証2部・1962年8月1日東証1部。資本金1961年11月5億3,240万円・1963年3月7億9,860万円。1963年3月期売上8億2,840万円、主力は静岡工場で十条は研究専門
- 科研製薬 有価証券報告書【沿革】
- [26]1961年10月東証2部上場、1962年8月東証1部上場、1962年12月藤枝市に発酵工場として静岡工場竣工
- [29]1961年10月東証2部上場、1962年8月東証1部上場、1962年12月藤枝市に発酵工場として静岡工場竣工
- 実業の世界 71(6) 1974年6月
- [33]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
- [34]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
- [35]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
- [36]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
- [37]1971年9月期以降停滞、1972年9月期税引利益3,900万円で配当支払額6,000万円に届かず繰越利益1億2,900万円で補填。売上純利益率1969年9月期7.8%→1972年9月期1.2%。新薬不在・販売体制切替・減反で農薬伸び悩み。社長大原寛のもと研究偏重から営業強化へ転換、伊レペティ社(誌面表記レベティ)からクロラムフェニコール、米アップジョン社からエリスロマイシンを導入
出典・参考
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- 科研製薬 有価証券報告書【沿革】
- 株式会社年鑑 1960年版「科研化学」
- 企業の歴史:明治百年(1968)「科研化学」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「科研化学」
- 証券業報 (4)(114) 1959年4月「科研化学」
- 実業の世界 71(6) 1974年6月