第2章 年〜年

花王:二代目長瀬富郎の合理化と合成洗剤の発売

1927年〜二代目富郎の革新計画と、値下げを支えた吾嬬町の工程

1927年12月、二代長瀬富郎氏が花王石鹸株式会社長瀬商会の社長に就任した。同年に従弟の長瀬六郎氏を伴って南洋とオーストラリアを視察した直後の就任で、当時23歳だった。就任の辞は事の始めに大切なことを二つ挙げ、第一に目的の確立を、第二に方針の決定を置いた『失敗がないならば、成功もない、失敗は成功の母である』。翌1928年6月には工場技師の川上八十太氏を伴って欧米視察に出て、1929年2月に帰朝した。帰国後は新職制を定め、同年11月に広告部と企画部を、1930年5月に調査部を新設した。石鹸の作り手ではなく、市場を調べて売り方を決める部門が会社の中に置かれた。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [1]1927年12月 二代長瀬富郎氏が花王石鹸株式会社長瀬商会社長に就任
    • [2]1927年 二代富郎氏は従弟の長瀬六郎氏を伴い南洋・オーストラリアを視察 就任時23歳
    • [3]就任の辞で二代富郎氏は目的の確立と方針の決定を第一・第二に挙げた
    • [4]1928年6月 二代富郎氏が工場技師 川上八十太氏を伴い欧米視察へ出発し1929年2月帰朝
    • [5]新職制の制定と1929年11月の広告部・企画部新設 1930年5月の調査部設置

1930年、長瀬商会は販売方法研究委員会を設け、六月に革新販売方針を決定した。同年8月には花王石鹸革新計画を社内に発表し、翌1931年3月1日、新装花王石鹸を発売した。新装花王石鹸は伝統の枠練製法を維持したまま品質を純粋度九九・4%へ引き上げ、一個あたり二匁を増量し、そのうえで正価を一個一〇銭へ引き下げたものだった。当時の業界では大胆な革新で、1890年の発売時に一二銭を付けた商品が、40年を経て増量と値下げを同時に実現している。形状も包装も香りも近代化された一方で、石棣流の字体と花王のマークは元のまま残された。値段は変えても、買い手が銘柄を見分ける印は変えなかった。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [6]1930年 販売方法研究委員会を設置し6月に革新販売方針を決定
    • [7]1930年8月 花王石鹸革新計画を社内発表 1931年3月1日 新装花王石鹸を発売
    • [8]新装花王石鹸は枠練製法を維持しつつ純粋度99.4%へ向上 一個当り二匁増量 正価を一個10銭へ低下
    • [9]新装花王石鹸の増量と値下げは当時の業界で大胆な革新とされた
    • [10]新装花王石鹸は形状・包装・香気を近代化しつつ石棣流字体と花王マークを維持

増量と値下げを同時に成り立たせたのは、吾嬬町工場の工程改造だった。1930年には新装花王石鹸の発売を見据えて冷圧装置とトンネル乾燥機を、翌1931年には自動型打機と大圧出機に加えて自動包装機を据えた。クーリング・プレスの採用で従来七日から10日を要した作業が二時間で済むようになり、トンネル式乾燥装置は約20日かかっていた乾燥を一昼夜へ縮めた。コンベアによる連続作業で作業能率も上がった。この設備をもって石鹸工業の近代化は完成し、欧米先進諸国と比肩する水準に達した。値下げは販売政策の決断である前に、工程の時間を短縮した結果として生まれた数字だった。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [11]1930年に冷圧装置とトンネル乾燥機 1931年に自動型打機・大圧出機・自動包装機を吾嬬町新工場に設備
    • [12]クーリング・プレスの採用で従来7〜10日の作業が2時間に トンネル式乾燥装置で約20日の乾燥が一昼夜に短縮
    • [13]コンベア・システムによる流線連続作業で作業能率が向上
    • [14]吾嬬町新工場の設備により石鹸工業の近代化が完成し欧米先進諸国と比肩する水準に達した
参考文献[1]-[14]
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [1]1927年12月 二代長瀬富郎氏が花王石鹸株式会社長瀬商会社長に就任
    • [2]1927年 二代富郎氏は従弟の長瀬六郎氏を伴い南洋・オーストラリアを視察 就任時23歳
    • [3]就任の辞で二代富郎氏は目的の確立と方針の決定を第一・第二に挙げた
    • [4]1928年6月 二代富郎氏が工場技師 川上八十太氏を伴い欧米視察へ出発し1929年2月帰朝
    • [5]新職制の制定と1929年11月の広告部・企画部新設 1930年5月の調査部設置
    • [6]1930年 販売方法研究委員会を設置し6月に革新販売方針を決定
    • [7]1930年8月 花王石鹸革新計画を社内発表 1931年3月1日 新装花王石鹸を発売
    • [8]新装花王石鹸は枠練製法を維持しつつ純粋度99.4%へ向上 一個当り二匁増量 正価を一個10銭へ低下
    • [9]新装花王石鹸の増量と値下げは当時の業界で大胆な革新とされた
    • [10]新装花王石鹸は形状・包装・香気を近代化しつつ石棣流字体と花王マークを維持
    • [11]1930年に冷圧装置とトンネル乾燥機 1931年に自動型打機・大圧出機・自動包装機を吾嬬町新工場に設備
    • [12]クーリング・プレスの採用で従来7〜10日の作業が2時間に トンネル式乾燥装置で約20日の乾燥が一昼夜に短縮
    • [13]コンベア・システムによる流線連続作業で作業能率が向上
    • [14]吾嬬町新工場の設備により石鹸工業の近代化が完成し欧米先進諸国と比肩する水準に達した

1934年〜原料の硬化油を自給し、合成洗剤へ出た三年

昭和に入ると、石鹸業界の主導権は原料を供給する業者へ移っていた。欧州大戦以降に発達した硬化油工業の製品が石鹸原料として重用され、硬化油の製造業者が石鹸工業の死命を制する地位を得た。彼らが自製の硬化油で石鹸そのものを作り始めると、洗濯石鹸の市場は昭和初年に混乱した。長瀬商会など大手は1931年から1932年にかけて原料硬化油の自給を企画し、1934年11月に吾嬬町で硬化油工場の操業を開始した。翌1935年には研究部長の川上八十太氏が全合成硬化油による花王石鹸の製出に成功し、牛脂に代わる原料で主力商品を作れることを示した。原料を他社に左右される立場から、自ら掌握する立場へ転じる作業だった。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [15]欧州大戦以降に硬化油工業が発達し硬化油製造業者が石鹸工業の死命を制する地位を得た
    • [16]硬化油製造業者が自製硬化油で石鹸製造を始め昭和初年に洗濯石鹸市場が混乱
    • [17]1931〜1932年以降 長瀬商会等の大企業者が原料硬化油の自給を企画し1934年11月に硬化油工場が操業
    • [18]1935年 研究部長 川上八十太氏が全合成硬化油による花王石鹸の製出に成功

硬化油の自給は、長瀬商会を業界のどちら側に置くかという問題でもあった。1932年に同社が硬化油自給の企画へ着手したとき、取締役の長瀬常一氏は全国石鹸製造業聯合会の会長職を辞している。原料を自給する大手と、それを買わねばならない中小の石鹸単業者とでは、もはや利害が同じではなかった。実際、中小業者は硬化油の入手難から硬化油業者や大石鹸業者への従属へ追い込まれ、下請工場や留型工場として命脈を保つ状態に置かれた。1935年には製造部門が長瀬商会の分身として独立し、資本金600万円の大日本油脂株式会社となった。原料と製造を別会社に立て、商標と販売を長瀬商会に残す体制がここで整った。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [19]1932年 花王石鹸株式会社長瀬商会の硬化油自給企画着手とともに取締役 長瀬常一氏が全国石鹸製造業聯合会会長を辞任
    • [20]中小石鹸単業者は硬化油の入手難で硬化油業者・大石鹸業者への従属を強いられ下請工場・留型工場となった
    • [21]1935年 長瀬商会の分身として大日本油脂株式会社(資本金600万円)が独立

同じ時期、長瀬商会は石鹸とは別の洗浄剤にも手を伸ばした。吾嬬町の新工場は合成新洗剤の研究に早くから着手し、1935年には半工業的装置を完成していたが、製出にあたってドイツのベーメ会社の特許権に抵触する懸念があった。そこで1936年、合同油脂・大阪酸水素・第一工業を誘ってこの特許権を買収し、資本金75万円の高圧化学工業株式会社を設立、さらに資生堂とミヨシ石鹸も加えて資本金50万円の特許洗剤株式会社を設立した。製品は高級アルコール硫酸化物で、長瀬商会はこれにエキセリンの商品名を付けて売り出した。木綿からステープル・ファイバーへ繊維業界が変わるなかで、エキセリンは繊維助剤として多量の需要を見つけた。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [22]吾嬬町新工場は合成新洗剤の研究に着手し1935年に半工業的装置を完成 製出はドイツ・ベーメ会社の特許権に抵触する問題があった
    • [23]1936年 合同油脂・大阪酸水素・第一工業と特許権を買収し高圧化学工業(資本金75万円)を創立 資生堂・ミヨシ石鹸も参加し特許洗剤(資本金50万円)を創立
    • [24]長瀬商会は高級アルコール硫酸化物の合成新洗剤にエキセリンの商品名を付けて発売
    • [25]木綿からステープル・ファイバーへの繊維界の変革によりエキセリンは繊維助剤として多量の需要を得た
参考文献[15]-[25]
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [15]欧州大戦以降に硬化油工業が発達し硬化油製造業者が石鹸工業の死命を制する地位を得た
    • [16]硬化油製造業者が自製硬化油で石鹸製造を始め昭和初年に洗濯石鹸市場が混乱
    • [17]1931〜1932年以降 長瀬商会等の大企業者が原料硬化油の自給を企画し1934年11月に硬化油工場が操業
    • [18]1935年 研究部長 川上八十太氏が全合成硬化油による花王石鹸の製出に成功
    • [19]1932年 花王石鹸株式会社長瀬商会の硬化油自給企画着手とともに取締役 長瀬常一氏が全国石鹸製造業聯合会会長を辞任
    • [20]中小石鹸単業者は硬化油の入手難で硬化油業者・大石鹸業者への従属を強いられ下請工場・留型工場となった
    • [21]1935年 長瀬商会の分身として大日本油脂株式会社(資本金600万円)が独立
    • [22]吾嬬町新工場は合成新洗剤の研究に着手し1935年に半工業的装置を完成 製出はドイツ・ベーメ会社の特許権に抵触する問題があった
    • [23]1936年 合同油脂・大阪酸水素・第一工業と特許権を買収し高圧化学工業(資本金75万円)を創立 資生堂・ミヨシ石鹸も参加し特許洗剤(資本金50万円)を創立
    • [24]長瀬商会は高級アルコール硫酸化物の合成新洗剤にエキセリンの商品名を付けて発売
    • [25]木綿からステープル・ファイバーへの繊維界の変革によりエキセリンは繊維助剤として多量の需要を得た

1940年〜統制下の分社から、戦後の合併・上場・合成洗剤へ

1937年7月の日支事変以降、石鹸は特需と大陸市場で需要が激増した一方、生産設備の拡張は阻止され、原料需給は窮屈になり、燃料と電力は制限され、製品価格は物価統制で一定の水準に釘付けにされた。従来の全国石鹸製造業聯合会では統制の役に立たず、1939年5月の東京石鹸工業組合を皮切りに各地で工業組合が設立され、1940年1月には全国石鹸工業組合聯合会が結成された。その主要事業は原材料の配給だった。同じ1940年5月、長瀬商会は有機合成事業法に準拠し、鉄興社との共同出資で資本金250万円の日本有機株式会社を設立した。石鹸から有機合成化学全般へ広げる方針が、統制経済の枠組みのなかで具体化した。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [26]日支事変下で石鹸は需要激増の一方 生産設備拡張の阻止・原料需給の窮屈化・燃料電力の制限・物価統制による価格釘付けに置かれた
    • [27]1939年5月 東京石鹸工業組合の設立を皮切りに1940年1月 全国石鹸工業組合聯合会が結成
    • [28]石鹸工業組合聯合会の主要事業は原材料の配給で生産検査・製品規格検査も実施
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
    • [29]1940年5月21日 有機合成事業法に準拠し花王石鹸株式会社長瀬商会と鉄興社の共同出資で日本有機株式会社(資本金250万円)を設立

1942年、国は動植物油脂から航空潤滑油をつくる技術を事業化するよう求め、それに応えて和歌山工場が建った。工場の持ち主は日本有機で、担ったのは石鹸ではなかった。三つの法人の整理に手がついたのは戦後である。先に動いたのは長瀬商会で、1946年5月に株式会社花王へ名を改めた。日本有機は1949年5月に商号を花王石鹸株式会社とした。同じ月の16日には東京証券取引所に株式を上場している。同年12月には大日本油脂と株式会社花王が合併して花王油脂となり、1954年7月、花王石鹸が花王油脂を合併して資本金1億9,400万円の一社に戻った。原料・製造・販売を分けて持っていた戦前の体制は、上場会社のもとで一本に統合された。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [30]和歌山工場は1942年 動植物油脂から航空潤滑油を合成する発明の工業化のため国の要請で建設
    • [31]昭和21年 長瀬商会は株式会社花王と改称
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「花王石鹸」
    • [32]昭和24年5月 日本有機が花王石鹸株式会社と改称 上場開始は24年5月16日 東京
    • [33]昭和24年12月 大日本油脂は長瀬商会と合併して花王油脂株式会社と改称
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
    • [34]昭和29年7月 花王石鹸が花王油脂を合併し資本金1億9,400万円となった

合併と同じ1954年、二代目長瀬富郎氏に代わって経団連出身の福島正雄氏が社長に就任した。同じころ会社は戦後いち早く合成洗剤ワンダフルを発売しており、1954年下期には花王石鹸の生産実績一五五八屯に対しワンダフルが一〇六三屯と、主力の座を争う規模まで来ていた。売上高は1954年3月期の二二・5億円から1960年3月期に119億円、1963年3月期には211億円へ伸びた。1964年の時点で家庭用洗剤は国内生産の50%を占めて生産規模は業界第一位となり、製品は1,360店の代理店を通じて20万軒の小売店に配られていた。創業以来の化粧石鹸は、合成洗剤という別の化学製品に主役を譲っていた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [35]昭和29年 二代目長瀬富郎氏を経て経団連出身の福島正雄氏が社長に就任
    • [36]戦後いち早く合成洗剤ワンダフルを発売
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
    • [37]1954年4月〜9月の生産実績は花王石鹸1,558屯 ワンダフル1,063屯
    • [38]売上高は1954年3月期22.5億円 1960年3月期119億円 1963年3月期211億円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「花王石鹸」
    • [39]1964年時点で家庭用洗剤は国内生産の50%を占め生産規模は業界第1位 1,360店の代理店を通じ20万軒の小売店で販売
参考文献[26]-[39]
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [26]日支事変下で石鹸は需要激増の一方 生産設備拡張の阻止・原料需給の窮屈化・燃料電力の制限・物価統制による価格釘付けに置かれた
    • [27]1939年5月 東京石鹸工業組合の設立を皮切りに1940年1月 全国石鹸工業組合聯合会が結成
    • [28]石鹸工業組合聯合会の主要事業は原材料の配給で生産検査・製品規格検査も実施
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
    • [29]1940年5月21日 有機合成事業法に準拠し花王石鹸株式会社長瀬商会と鉄興社の共同出資で日本有機株式会社(資本金250万円)を設立
    • [34]昭和29年7月 花王石鹸が花王油脂を合併し資本金1億9,400万円となった
    • [37]1954年4月〜9月の生産実績は花王石鹸1,558屯 ワンダフル1,063屯
    • [38]売上高は1954年3月期22.5億円 1960年3月期119億円 1963年3月期211億円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [30]和歌山工場は1942年 動植物油脂から航空潤滑油を合成する発明の工業化のため国の要請で建設
    • [31]昭和21年 長瀬商会は株式会社花王と改称
    • [35]昭和29年 二代目長瀬富郎氏を経て経団連出身の福島正雄氏が社長に就任
    • [36]戦後いち早く合成洗剤ワンダフルを発売
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「花王石鹸」
    • [32]昭和24年5月 日本有機が花王石鹸株式会社と改称 上場開始は24年5月16日 東京
    • [33]昭和24年12月 大日本油脂は長瀬商会と合併して花王油脂株式会社と改称
    • [39]1964年時点で家庭用洗剤は国内生産の50%を占め生産規模は業界第1位 1,360店の代理店を通じ20万軒の小売店で販売

筆者考察

1931年の新装花王石鹸は、品質を純粋度九九・4%へ上げ、目方を増やし、そのうえで値段を下げた。三つを同時に出せた石鹸業者は当時ほかにない。理由は販売ではなく工場にあった。七日から10日かかっていた冷却が二時間に、20日かかっていた乾燥が一昼夜になっている。二代長瀬富郎氏が欧米視察から戻って最初に置いたのが広告部と調査部、次に置いたのが販売方法研究委員会だったことを思えば、この値下げは売り方の工夫ではなく、工程で短縮した時間の配分だったと考えるのが近い。

原料の調達でも同じ選択が繰り返された。硬化油を握る業者が石鹸の死命を制する構造ができると、長瀬商会は自給へ回り、1932年には全国石鹸製造業聯合会の会長職を降りて中小の単業者と立場を分ける。1935年の大日本油脂、1936年の高圧化学工業と特許洗剤、1940年の日本有機は、いずれも石鹸の外側にある化学へ足場を移すための会社だった。戦後に三つの法人が一社へ統合され、1963年3月期に売上高211億円へ達したとき、主力は創業以来の化粧石鹸ではなく合成洗剤に替わっていた。

売上高の推移 1954年3月期〜1963年3月期(億円)

22.5 1954 28.6 1955 39.2 1956 53.8 1957 64.2 1958 86.4 1959 119 1960 148 1961 192 1962 211 1963
  • 各年3月期の単体売上高。1954年7月の花王油脂合併をはさむ。
  • 出所は会社年鑑。

1926年〜1963年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 22 n/a 0 0.7% n/a
1955年03月期 単体 28 +27.1% 0 0.6% n/a
1956年03月期 単体 39 +37.1% 0 1.9% n/a
1957年03月期 単体 53 +37.2% 2 3.9% n/a
1958年03月期 単体 64 +19.3% 2 4.4% n/a
1959年03月期 単体 86 +34.6% 5 6.3% n/a
1960年03月期 単体 119 +37.7% 7 6.3% n/a
1961年03月期 単体 148 +24.4% 9 6.2% n/a
1962年03月期 単体 192 +29.7% 10 5.4% n/a
1963年03月期 単体 211 +9.9% 10 5.2% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

4件
出典・参考
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「花王石鹸」

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