花王:日本橋の小売商から国産化粧石鹸の製造元へ
1887年〜仕入れの側から国産化粧石鹸の値づけを決めた創業
当時の日本では石鹸製造の技術が未熟で、品質も劣り、上質の化粧石鹸は残らず輸入品に依存していた。市場は舶来の高級品と国内中小業者の粗製品とに分かれ、価格と品質の間には大きな空白が残っていた。1887年6月、長瀬富郎氏が24歳で東京日本橋区馬喰町に洋小間物商の長瀬商店を創業した。同氏は岐阜県中津川の酒造家の出で、開業資金を用意できる立場にあった。洋紙と輸入石鹸を扱う小売の中で、同氏はこの空白を仕入れと販売の両面から捉えた。製造ではなく流通の側から市場に参入し、需要と品質評価を先に確かめてから製造へ進む順序をとった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]良質の化粧石鹸は外国品に頼る段階で長瀬富郎氏はこれを残念に思い製造へ踏み込んだ
- 花王 社史
- [2]創業当時の国内石鹸市場は舶来の高級品と国内中小業者の粗製品に二極化し価格と品質に空白
- [4]長瀬富郎氏は美濃国中津川の酒造家の出身
- 花王 有価証券報告書【沿革】
- [3]1887年6月 長瀬富郎氏が東京日本橋馬喰町で長瀬商店を開業
- [5]創業時の取扱いは洋小間物・洋紙・輸入石鹸
1890年10月、長瀬富郎氏は桐箱入りの国産高級石鹸"花王石鹸"を自社で製造して発売した。商標は外国の鉛筆に付けられた月星の意匠から着想し、月を美と清浄の象徴に重ねている。価格は一個一二銭で、当時の一般的な国産石鹸が三、四銭だったのに対し外国品なみの値づけだった。発売と同時に大阪へ代理店を置いて関西市場を開拓し、新聞広告も用いて最初から全国を商圏に据えた。東京の製造業者が東日本を、大阪の製造業者が西日本をそれぞれ市場としていた時代にあって、この販売方法は例をみないものだった。需要を先に読んでから製造へ参入する順序で、無名の小売商が石鹸の製造元へ変わった。
- 花王 有価証券報告書【沿革】
- [6]1890年10月 桐箱入りの国産高級石鹸「花王石鹸」を発売
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]花王石鹸の商標は外国の鉛筆の月星の意匠から着想し月を美と清浄の象徴とした
- [8]花王石鹸は一個一二銭 当時の一般国産石鹸は三、四銭
- [9]発売と同時に大阪に代理店を置き新聞広告を用いて最初から全国を商圏に据えた
- [10]東京のメーカーは東日本 大阪のメーカーは西日本を市場としていた時代の販売政策
- 花王 社史
- [11]流通業者から製造業者へ事業を広げた
一二銭という値が通ったのは、当時の石鹸市場が原価と店頭価格の隔たりで動いていたからである。1898年の記録では、国内の石鹸需要は製造家の原価で約100万円、東京の製造工場は大小60から70とされた。どれほど上等な品でも原価は4、5銭に過ぎず、それが7、8銭から1円以上で売れるのは石鹸そのものの値ではなく、包紙や箱の意匠によるものだと指摘されている『花客は、即ち其の花に價を擲つものなり』。買い手が払っていたのは中身ではなく外装への対価だった。長瀬商店の桐箱と定価は、この構造を逆から使ったものだった。外装で高く見せるのではなく、外国品に並ぶ中身を外装と値段で証明し、名前のある石鹸として無銘の粗製品から切り離した。
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [12]1898年の石鹸需要額は製造家原価で約100万円 東京の製造工場は大小60〜70
- [13]上等な石鹸でも原価は4、5銭で7、8銭から1円以上の価格は包紙・箱の意匠による
参考文献[1]-[13]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]良質の化粧石鹸は外国品に頼る段階で長瀬富郎氏はこれを残念に思い製造へ踏み込んだ
- [7]花王石鹸の商標は外国の鉛筆の月星の意匠から着想し月を美と清浄の象徴とした
- [8]花王石鹸は一個一二銭 当時の一般国産石鹸は三、四銭
- [9]発売と同時に大阪に代理店を置き新聞広告を用いて最初から全国を商圏に据えた
- [10]東京のメーカーは東日本 大阪のメーカーは西日本を市場としていた時代の販売政策
- 花王 社史
- [2]創業当時の国内石鹸市場は舶来の高級品と国内中小業者の粗製品に二極化し価格と品質に空白
- [4]長瀬富郎氏は美濃国中津川の酒造家の出身
- [11]流通業者から製造業者へ事業を広げた
- 花王 有価証券報告書【沿革】
- [3]1887年6月 長瀬富郎氏が東京日本橋馬喰町で長瀬商店を開業
- [5]創業時の取扱いは洋小間物・洋紙・輸入石鹸
- [6]1890年10月 桐箱入りの国産高級石鹸「花王石鹸」を発売
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [12]1898年の石鹸需要額は製造家原価で約100万円 東京の製造工場は大小60〜70
- [13]上等な石鹸でも原価は4、5銭で7、8銭から1円以上の価格は包紙・箱の意匠による
1899年〜粗製濫造と模造のなかで銘柄を守った明治後期
名前のある石鹸を売る商いは、その名前を守る仕組みを業界に要求した。1884年に商標条例が公布され1888年に改正されていたものの、その統制力は弱く、明治30年代の初めには意匠や打型の模造、他家の職工の引き抜きが相次いだ。東京石鹸製造同業組合は1899年、浅草東洋館で製品展覧会を開催して組合員の製品とレッテルを出品させ、その総数は2,600余点に及んだ。18名の審査員が出品を甲乙丙の3等に区別し、類似のない甲種は専有、3名以上の類似品がある乙種は共有として3年間組合事務所が保護した。法が追いつかない領域を、同業者どうしの登録と査定が補っていた。
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [14]商標条例は1884年公布・1888年改正だが統制力は微弱で明治30年代初頭に意匠・打型の模造や職工引き抜きが多発
- [15]1899年 東京石鹸製造同業組合が浅草東洋館で製品展覧会を開催し出品総数2,600余点
- [16]18名の審査員が出品を甲乙丙に区別し甲種は専有 乙種は共有として3年間組合事務所が保護
銘柄を守るもう一方の道が、製造工程を自分の手に置くことだった。長瀬商店は1902年に蒸気鹼化方式を採り入れ、1911年には石鹸の廃液からグリセリンを回収する工程を加えた。1897年以前の国内で大釜を持つ工場は横浜と神戸の2か所だけで、他は直径四尺二寸以下の平釜を直火で焚いており、乾燥は天日に依存し、雨が降れば作業が止まった。蒸気による鹼化は、この天候と職人の勘に委ねられた工程を設備に置き換える転換だった。品質の均一が値段の正当性を支える商いでは、工程の内製は原価の問題であると同時に、銘柄を保つ条件でもあった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [17]明治35年 蒸気鹼化方式の採用
- [18]明治44年 石鹸廃液からのグリセリン回収
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [19]明治30年以前に大釜を持つ工場は横浜と神戸の2か所のみで他は直径4尺2寸以下の平釜を直火で使用し乾燥は天日
1911年10月7日、長瀬商店は合資会社へ組織を変更した。出資は合計25万円で、代表社員の長瀬富郎氏が9万円の無限責任社員となり、残りを親族が引き受けた。縁故以外からただ一人社員に列したのは村田亀太郎氏で、創業当時の功労に対して1万円を贈与したうえでの参加だった。改組の直後に初代富郎氏は病が重篤となり、同月10日に次弟の祐三郎氏が代表社員に加えられ、26日に逝去した。法定相続人の富雄氏は11月7日に長瀬富郎を襲名して父の出資9万円を譲り受け、合資会社長瀬商会は祐三郎氏の統率のもとで動き出した。創業者の個人商店は、創業から24年で相続と組織の問題に直面していた。
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [20]1911年10月7日 長瀬商店は合資会社へ組織変更
- [21]合資会社の出資総額は25万円 代表社員の長瀬富郎氏は9万円の無限責任社員
- [22]縁故外の社員は村田亀太郎氏一人で創業当時の功労に対し1万円を贈与して社員に列した
- [23]1911年10月10日 長瀬祐三郎氏が代表社員に就任し同月26日に初代富郎氏が逝去
- [24]1911年11月7日 長瀬富雄氏が長瀬富郎を襲名し亡父の出資額9万円を譲り受けた
参考文献[14]-[24]
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [14]商標条例は1884年公布・1888年改正だが統制力は微弱で明治30年代初頭に意匠・打型の模造や職工引き抜きが多発
- [15]1899年 東京石鹸製造同業組合が浅草東洋館で製品展覧会を開催し出品総数2,600余点
- [16]18名の審査員が出品を甲乙丙に区別し甲種は専有 乙種は共有として3年間組合事務所が保護
- [19]明治30年以前に大釜を持つ工場は横浜と神戸の2か所のみで他は直径4尺2寸以下の平釜を直火で使用し乾燥は天日
- [20]1911年10月7日 長瀬商店は合資会社へ組織変更
- [21]合資会社の出資総額は25万円 代表社員の長瀬富郎氏は9万円の無限責任社員
- [22]縁故外の社員は村田亀太郎氏一人で創業当時の功労に対し1万円を贈与して社員に列した
- [23]1911年10月10日 長瀬祐三郎氏が代表社員に就任し同月26日に初代富郎氏が逝去
- [24]1911年11月7日 長瀬富雄氏が長瀬富郎を襲名し亡父の出資額9万円を譲り受けた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [17]明治35年 蒸気鹼化方式の採用
- [18]明治44年 石鹸廃液からのグリセリン回収
1913年〜石鹸へ集中し、量産設備と法人格をそろえた大正期
1913年、長瀬商会は営業方針を大きく転換した。石鹸以外の化粧品類の生産を注文生産だけに限り、石鹸類だけを市場生産で製出する体制へ改めた。方向自体は明治末年から採られていたが、この年に明確な方針として据えられている。洋小間物商として始まった以上、品目を広く持つことは仕入れの延長として自然だったが、市場へ向けて見込みで作る商品を石鹸に一本化すれば、設備投資と在庫の判断もそこへ集約できた。同じ年の12月には、鉄道や旅館で用いられる特許容器を添えた水石鹸を発売し、家庭以外の需要にも品目を伸ばした。大阪の代理店だった大崎組もこの年に合資会社へ改組しており、売る側も法人の形を取り始めていた。
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [25]1913年 長瀬商会は石鹸以外の化粧品類の生産を注文生産のみに限定し石鹸類だけを市場生産とした
- [26]化粧品を注文生産に限る方向は明治末年以来採られ1913年に明確に方向づけられた
- [27]1913年12月 鉄道・旅館で用いられる特許容器とともに水石鹸を発売
- [28]1913年 長瀬商会の大阪代理店 大崎組が合資会社へ改組
1914年の欧州大戦は、原料の6割から7割を輸入に依存する長瀬商会を直撃した。輸入の杜絶で原料相場は高騰し品は払底したが、開戦の時点で三、四か月分の使用額は手当てが済んでいた。工場支配人の長瀬常一氏が原料手当てにあたり、営業部は業界で最初に手形制度を採用して仕入れを繋いだ。それでも価格の高騰は吸収しきれず、花王石鹸の建値は一ダース85銭から同年8月下旬に90銭、9月初旬に95銭へ引き上げられ、1916年2月にはさらに7銭を足して1円2銭となった。定価で売る商品を持つ会社にとって、原料相場は値づけの信用を直接揺らす制約だった。
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [29]長瀬商会の原料の6〜7分は輸入品で欧州大戦による輸入杜絶で相場高騰と品不足に直面
- [30]代表社員 長瀬祐三郎氏は1914年8月11日付書翰で3〜4か月分の原料は手当て済みと報じた
- [31]工場支配人 長瀬常一氏が原料手当てにあたり営業部は業界最初の手形制度を採用
- [32]花王石鹸の建値は一ダース85銭から1914年8月に90銭 9月に95銭 1916年2月に1円2銭へ
大戦後の長瀬商会は、設備と原料の両方を自前で抱える方向へ進んだ。1920年には自動型打のベルトシステムを導入して量産の速度を上げ、1922年11月には隅田川沿いの吾嬬町に石鹸の量産専用工場を新設して、のちの東京工場とした。1924年には搾油と硬化の設備を備えて原料の自給に手をつけている。そして1925年5月、花王石鹸株式会社長瀬商会を設立し、個人商店から株式会社の組織へ移った。設立時の重役陣は代表取締役に長瀬祐三郎氏、専務取締役に長瀬常一氏、常務取締役に秋元直氏が就任し、二代富郎氏は取締役として並んだ。創業から38年を経て、原料工程と量産工場と法人格がそろい、以後の設備投資を会社として決められる立場に立った。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [33]大正9年 自動型打ベルトシステムの採用
- [35]大正13年 搾油・硬化など原料自給体制の整備
- 花王 有価証券報告書【沿革】
- [34]1922年11月 吾嬬町工場(現東京工場)完成
- [36]1925年5月 花王石鹸株式会社長瀬商会設立
- [38]1922年の量産工場と1925年の法人化で原料・量産・法人格がそろった
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [37]花王石鹸株式会社長瀬商会の創立時の重役は代表取締役 長瀬祐三郎 専務取締役 長瀬常一 常務取締役 秋元直 取締役 長瀬富郎・長瀬篤郎
参考文献[25]-[38]
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [25]1913年 長瀬商会は石鹸以外の化粧品類の生産を注文生産のみに限定し石鹸類だけを市場生産とした
- [26]化粧品を注文生産に限る方向は明治末年以来採られ1913年に明確に方向づけられた
- [27]1913年12月 鉄道・旅館で用いられる特許容器とともに水石鹸を発売
- [28]1913年 長瀬商会の大阪代理店 大崎組が合資会社へ改組
- [29]長瀬商会の原料の6〜7分は輸入品で欧州大戦による輸入杜絶で相場高騰と品不足に直面
- [30]代表社員 長瀬祐三郎氏は1914年8月11日付書翰で3〜4か月分の原料は手当て済みと報じた
- [31]工場支配人 長瀬常一氏が原料手当てにあたり営業部は業界最初の手形制度を採用
- [32]花王石鹸の建値は一ダース85銭から1914年8月に90銭 9月に95銭 1916年2月に1円2銭へ
- [37]花王石鹸株式会社長瀬商会の創立時の重役は代表取締役 長瀬祐三郎 専務取締役 長瀬常一 常務取締役 秋元直 取締役 長瀬富郎・長瀬篤郎
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [33]大正9年 自動型打ベルトシステムの採用
- [35]大正13年 搾油・硬化など原料自給体制の整備
- 花王 有価証券報告書【沿革】
- [34]1922年11月 吾嬬町工場(現東京工場)完成
- [36]1925年5月 花王石鹸株式会社長瀬商会設立
- [38]1922年の量産工場と1925年の法人化で原料・量産・法人格がそろった
筆者考察
石鹸を作る技術が国内に育っていない時代に、作る側から市場に参入するのは難しい。長瀬富郎氏が選んだのは仕入れの側だった。舶来の化粧石鹸を扱う小売として、どの品がいくらで売れるかを先に確かめ、そのうえで1890年に自社製品を出す。値は一個一二銭で、国産の並品が三、四銭の市場に外国品と同じ値札を自分で付けたことになる。当時の石鹸は原価四、五銭の中身に包紙と箱の意匠で値が付く商品であり、買い手が払っていたのは外装への対価だった。桐箱と定価は、その慣行を裏返して中身の保証に使う道具だった。
値づけを守る仕事が、そのまま製造業への道になった。商標条例の統制力が弱く模造が横行する市場では、名前のある石鹸を名前のまま売り続けること自体が難しい。長瀬商店は1902年の蒸気鹼化から1924年の搾油・硬化まで、品質を左右する工程を一つずつ内へ取り込んだ。天日乾燥と直火の平釜に委ねていた均一性を、設備で担保する作業である。1911年の初代の死と合資会社への改組、1922年の量産工場、1925年の株式会社化は、その投資を個人の裁量から会社の決定へ移すための手続きだった。
出典・参考
4件
- 花王 有価証券報告書【沿革】
- 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- 花王 社史
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)