積水化学工業:住宅事業への構造転換とSekisui Americaの設立
セキスイハイムの量産化がワルツの自社競合を招くまで
1972年〜石油危機による原料逼迫と「量から質」への転換
1973年10月の第4次中東戦争に始まる石油危機は、原料を買って加工する積水化学を正面から直撃した。主原料の塩化ビニル樹脂は1キロ60円だったものが1973年8月には110円となり、闇値では400円とも言われた。高圧ポリエチレンも1973年1月の1キロ95円から12月には157円へ、65%上がった。加工メーカーの間では合成樹脂の争奪戦が起き、樹脂加工で首位に立つ積水化学は供給責任を果たすため採算を無視した緊急輸入に踏み切ったが、一部製品は生産中止を余儀なくされた。1974年3月期の売上高は原材料の値上げを製品価格へ転嫁して923億円へ跳ね上がったものの、総需要抑制策が効くと1975年3月期は売上高829億円、経常利益1億0100万円と、1966年9月期以来の最悪の決算になった。
- 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
- [1]1973年10月 第4次中東戦争の勃発とともにアラブ産油国がとった石油戦略が世界経済を一変させる危機的状況を招いた
- [2]塩化ビニル樹脂は1971〜72年ごろの1キロ60円が1973年8月には110円、闇値では400円ともいわれた
- [3]高圧ポリエチレンは1973年1月の1キロ95円が12月には157円へ65%値上がりした
- [4]樹脂加工メーカー首位として供給責任を果たすため一部採算を無視して主要原料の緊急輸入を行なったが、結果的に一部製品の生産中止を余儀なくされた
- [5]1973年9月期の売上高約695億円が1974年3月期には923億円へ増加した。原材料の大幅値上げを吸収するための製品価格引き上げと、限られた原料を付加価値の高い製品へ重点配分した結果
- [6]1975年3月期 売上高829億円(前年同期比100億円近い減収)、経常利益1億0100万円、税引後利益3億7,300万円。1966年9月期以来の最悪決算
柴田健三氏が社長に就いた1973年、積水化学は組織を組み替えた。同年10月、本社に広報部と東京支社、開発本部と技術本部を置き、事業本部制を採って第1・第2・住宅の3事業本部に再編し、あわせて国際事業本部を新設した。各事業部が個別に進めてきた海外進出を全社の戦略としてまとめる意図であった。1960年代に日本企業として初めて米国へ工場進出したアメリカ積水は失敗に終わったが、マーケティングを先に置くこと、生産と販売の第一線には現地の人材を使うことという教訓を残していた。1974年6月にスイスのツーグへ資本金約10億円のセキスイ・グルッペAGを置いてヨーロッパの統括会社とし、1975年9月には合弁相手の持ち株をすべて買い取ってボルテック社を全面支配下に入れ、その運営には米国人を起用した。
- 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
- [7]1973年 柴田健三が社長に就任した
- [8]1973年10月の組織改正で広報部の新設、東京支社の設置、開発本部・技術本部の設置を行ない、事業本部制を採用して第1事業本部・第2事業本部・住宅事業本部を設置、あわせて国際事業本部を新設した
- [9]国際事業本部の新設は、従来各事業部が個別に行なってきた海外進出を全社的レベル・積水グループ全体の総合戦略として進めるためのものだった
- [10]SPC(アメリカ積水)の失敗からは、何よりマーケティングを先行させること、生産・販売の第一線には現地の人材を活用すべきことという教訓を得て、その後の海外進出の基礎とした
- [11]1974年6月 スイスのツーグ市に資本金約10億円のセキスイ・グルッペAGが日本政府の正式認可を得て発足。積水化学・積水ハウス・積水化成品・積水樹脂の共同出資によるヨーロッパの国際統括会社
- [12]1975年9月 ハイ・ボルテージ・エンジニアリング社が所有するボルテック社の全株式を買収して経営を全面的に引き受け、運営にはアメリカ人を起用して現地主義に徹した
既存部門が縮むなかで、伸びたのは住宅だけであった。1973年9月期の住宅部門の売上高は82億円強と前期より40億円増え、1974年3月期には2,200戸を売って120億円、発売以来の通算戸数は5,000戸を超えた。1974年9月期には既存部門の売上高が前期比80億円減の708億円に落ちる一方で、住宅部門は182億円と62億円伸び、受注戸数は1万棟を突破して大手プレハブ5社に次ぐ位置に着けた。企業体質の改善のため大型設備投資を抑えていた時期に、住宅だけが唯一の例外として先行投資を認められていた。社史はその成長の理由を、需要層を絞り切ったこと、資金と人材を思い切って投じたこと、既存部門が優秀な人材を出し惜しまなかったことの三つに求めている。1974年4月にハイムM1が建設大臣の性能認定を受けた際の入居者調査では、満足率が他社製品の3〜4割に対し7割であった。
- 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
- [13]1974年9月期は第1・第2事業本部の既存部門が原料騰貴・原料逼迫・買控えムードのもとで低調に推移した
- [14]1973年9月期の住宅部門売上高は82億円強(前期より40億円増)、1974年3月期は2,200戸を売って売上高120億円、発売以来の通算戸数は5,000戸を突破
- [15]1974年9月期 既存事業部の売上高は708億円と前期比80億円減、住宅部門は182億円と前期より62億円増。発売以来の受注戸数は1万棟を突破し大手プレハブメーカー5社に次ぐ位置になった
- [16]ハイム発売前後の数期、企業体質改善のため大型設備投資を極力抑えていたが、住宅部門は唯一の例外として先行投資が積極的に行なわれた
- [17]ハイムが短期間に成長した理由として、マーケットセグメンテーションの徹底、思いきった資金および人材の投入、既存部門で培われた優秀な人材の参画の三つが挙げられた
- [18]1974年4月 ハイムM1が建設大臣の性能認定を受けた。建設省の入居者アンケートで住宅の満足率は他社製品の3〜4割に対しハイムは7割だった
参考文献[1]-[18]
- 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
- [1]1973年10月 第4次中東戦争の勃発とともにアラブ産油国がとった石油戦略が世界経済を一変させる危機的状況を招いた
- [2]塩化ビニル樹脂は1971〜72年ごろの1キロ60円が1973年8月には110円、闇値では400円ともいわれた
- [3]高圧ポリエチレンは1973年1月の1キロ95円が12月には157円へ65%値上がりした
- [4]樹脂加工メーカー首位として供給責任を果たすため一部採算を無視して主要原料の緊急輸入を行なったが、結果的に一部製品の生産中止を余儀なくされた
- [5]1973年9月期の売上高約695億円が1974年3月期には923億円へ増加した。原材料の大幅値上げを吸収するための製品価格引き上げと、限られた原料を付加価値の高い製品へ重点配分した結果
- [6]1975年3月期 売上高829億円(前年同期比100億円近い減収)、経常利益1億0100万円、税引後利益3億7,300万円。1966年9月期以来の最悪決算
- [7]1973年 柴田健三が社長に就任した
- [8]1973年10月の組織改正で広報部の新設、東京支社の設置、開発本部・技術本部の設置を行ない、事業本部制を採用して第1事業本部・第2事業本部・住宅事業本部を設置、あわせて国際事業本部を新設した
- [9]国際事業本部の新設は、従来各事業部が個別に行なってきた海外進出を全社的レベル・積水グループ全体の総合戦略として進めるためのものだった
- [10]SPC(アメリカ積水)の失敗からは、何よりマーケティングを先行させること、生産・販売の第一線には現地の人材を活用すべきことという教訓を得て、その後の海外進出の基礎とした
- [11]1974年6月 スイスのツーグ市に資本金約10億円のセキスイ・グルッペAGが日本政府の正式認可を得て発足。積水化学・積水ハウス・積水化成品・積水樹脂の共同出資によるヨーロッパの国際統括会社
- [12]1975年9月 ハイ・ボルテージ・エンジニアリング社が所有するボルテック社の全株式を買収して経営を全面的に引き受け、運営にはアメリカ人を起用して現地主義に徹した
- [13]1974年9月期は第1・第2事業本部の既存部門が原料騰貴・原料逼迫・買控えムードのもとで低調に推移した
- [14]1973年9月期の住宅部門売上高は82億円強(前期より40億円増)、1974年3月期は2,200戸を売って売上高120億円、発売以来の通算戸数は5,000戸を突破
- [15]1974年9月期 既存事業部の売上高は708億円と前期比80億円減、住宅部門は182億円と前期より62億円増。発売以来の受注戸数は1万棟を突破し大手プレハブメーカー5社に次ぐ位置になった
- [16]ハイム発売前後の数期、企業体質改善のため大型設備投資を極力抑えていたが、住宅部門は唯一の例外として先行投資が積極的に行なわれた
- [17]ハイムが短期間に成長した理由として、マーケットセグメンテーションの徹底、思いきった資金および人材の投入、既存部門で培われた優秀な人材の参画の三つが挙げられた
- [18]1974年4月 ハイムM1が建設大臣の性能認定を受けた。建設省の入居者アンケートで住宅の満足率は他社製品の3〜4割に対しハイムは7割だった
1979年〜土地に手を出さない住宅メーカーへの純化
1979年6月、藤沼基利氏が社長に就任した。積水化学として5代目、初の生え抜きであり、社歴の大半を人事・労務で過ごした人物である。住宅事業が採った基本方針は、土地で儲けないことであった。積水化学は合理的な価格帯に狙いを定め、原価を下げる道を選んだ。1970年代に住宅・不動産へ入ってきた企業の多くが、地価上昇による売買差益を当てにしたのとは逆の方向である。藤沼氏はその理由を、土地で儲ける才覚がなかったからだと説明する。地価は自社の努力でどうにかなる部分が小さく、だから土地の取得には踏み込まない、という考え方が土台にあった。顧客層は所得五分位の第3分位に置き、年収の3倍ほどで手が届く住宅という当初の線を崩さなかった。おかげで、含み損のある土地を保有せずに済んでいる。
- 日経ビジネス 1981年5月18日号
- [19]藤沼基利は1979年6月に積水化学工業の社長に就任した
- [20]藤沼基利は積水化学として5代目にして初の生え抜き社長。1944年東京大学経済学部卒、1951年特殊合成工業入社、1953年の吸収合併で積水化学工業に入社。社歴の大半が人事・労務畑
- [21]1970年代に住宅・不動産事業へ参入した企業の多くが地価の値上がりを見越した売買差益を狙ったのに対し、積水化学は合理的な価格帯をねらいコスト引き下げの方向をめざした
- [22]藤沼基利は「土地でもうける才覚がなかった」と述べ、土地は努力だけではどうにもならない要素が大きいのでそういうものには手を出すなという方針が前提にあったと語った
- [23]対象は五分位の所得階層分類でいう第3分位の中間所得層で、「年収の3倍程度の値段で買える住宅を」という当初の方針を変更していない
- [24]参入したころに土地を買い始めたのでは遅すぎてほとんど儲けはなく、結果としてコゲつきの資産を作らずに済んだ
販売の仕組みも既存事業とは別に組まれた。家庭雑貨なら問屋経由で小売店に並べれば売れる。だが住宅は注文の中身が込み入っており、商品のイメージが市場に行き渡るまでは、中身を一番知っている者が自ら売るほかなかった。このため代理店を通さず直接売る体制をとり、顧客の要望が生産の現場へ戻ってくる道筋をつくった。住宅部門の営業だけは賃金の仕組みを別にし、決まった額の残業手当に歩合を加えた。残業続きの働き方が根付いたのは、何もしなければ会社は丸ごと縮んでいき、自分たちの行く先もなくなるという危機感を社内が抱いていたからだ、と藤沼氏は見ている。こうした体制の結果、土地を除いて1戸約1300万円という価格にたどり着いた。1980年度には年間販売が1万戸を超え、受注から入居までは約40日、工場生産の比率は80%を上回っていた。
- 日経ビジネス 1981年5月18日号
- [25]当時としては珍しい新商品だったため、市場にイメージが浸透するまでは最も商品をよく知る自分たち自身が直接売らねばならなかった
- [26]直販体制を中心にして代理店にあまり頼らなかったことが、顧客の気持ちを生産現場へ反映させるうえで役立った
- [27]住宅部門の営業マンだけに別の賃金体系を新設し、固定的な残業手当の上に歩合給を乗せる制度にした
- [28]このままでは会社全体が縮小均衡に陥り自分たちにも未来がなくなるという緊迫感が社内にはりつめており、それまでの積水化学には考えられなかった「毎日が残業」という体制が定着した
- [29]1981年時点の平均単価は土地なしで1戸約1300万円、3.3平方メートル当たり34万円
- [30]1980年度にセキスイハイムの年間販売戸数は1万戸を超えた。工期は受注から入居まで約40日、工場生産の比率は80%を超える
量が積み上がる一方で、体力は付いてこなかった。1978年度の自己資本比率は9.7%で、樹脂加工17社平均の17.4%を大きく下回り、負債比率は929.9%に達していた。売上総利益率は17社平均の20.3%を上回る21.14%を確保しながら、1,000億円を超える長短借入金が経常利益を圧縮していた。住宅部門は売上高の3割以上、利益の半分を稼ぐ存在に育っていたが、土地の負担を伴うため借入金の減少を止める側に働いた。1976年3月期に22億円の経常欠損を出してから4年で、1979年度は売上高2950億円・経常利益90億円を見込むまでに戻したものの、借入金の重さは景気変動に弱い体質をそのまま残した。新規事業へ踏み込み続ける姿勢が、競争上の強さと自己資本の薄さを同時に作っていた。
- 日経ビジネス 1980年2月11日号
- [31]1978年度の自己資本比率は9.7%(樹脂加工17社計17.4%)、負債比率929.9%(同474.1%)
- [32]売上総利益率は17社平均20.3%を上回る21.14%を上げながら、1,000億円を超える長短借入金が経常利益を圧縮する主因になっていた
- [33]住宅部門は売上高の30%以上、利益の半分を稼ぐ存在だったが、土地負担を伴うため借入金の減少にマイナスに作用した
- [34]1976年3月期に22億円の経常欠損を計上。1978年度は売上高2360億7300万円・経常利益51億5300万円、1979年度は売上高2950億円・経常利益90億円を見込んだ
- [35]過大な借入金は不況時の金利負担増となり、結果的に景気変動に弱い体質を温存することになる
参考文献[19]-[35]
- 日経ビジネス 1981年5月18日号
- [19]藤沼基利は1979年6月に積水化学工業の社長に就任した
- [20]藤沼基利は積水化学として5代目にして初の生え抜き社長。1944年東京大学経済学部卒、1951年特殊合成工業入社、1953年の吸収合併で積水化学工業に入社。社歴の大半が人事・労務畑
- [21]1970年代に住宅・不動産事業へ参入した企業の多くが地価の値上がりを見越した売買差益を狙ったのに対し、積水化学は合理的な価格帯をねらいコスト引き下げの方向をめざした
- [22]藤沼基利は「土地でもうける才覚がなかった」と述べ、土地は努力だけではどうにもならない要素が大きいのでそういうものには手を出すなという方針が前提にあったと語った
- [23]対象は五分位の所得階層分類でいう第3分位の中間所得層で、「年収の3倍程度の値段で買える住宅を」という当初の方針を変更していない
- [24]参入したころに土地を買い始めたのでは遅すぎてほとんど儲けはなく、結果としてコゲつきの資産を作らずに済んだ
- [25]当時としては珍しい新商品だったため、市場にイメージが浸透するまでは最も商品をよく知る自分たち自身が直接売らねばならなかった
- [26]直販体制を中心にして代理店にあまり頼らなかったことが、顧客の気持ちを生産現場へ反映させるうえで役立った
- [27]住宅部門の営業マンだけに別の賃金体系を新設し、固定的な残業手当の上に歩合給を乗せる制度にした
- [28]このままでは会社全体が縮小均衡に陥り自分たちにも未来がなくなるという緊迫感が社内にはりつめており、それまでの積水化学には考えられなかった「毎日が残業」という体制が定着した
- [29]1981年時点の平均単価は土地なしで1戸約1300万円、3.3平方メートル当たり34万円
- [30]1980年度にセキスイハイムの年間販売戸数は1万戸を超えた。工期は受注から入居まで約40日、工場生産の比率は80%を超える
- 日経ビジネス 1980年2月11日号
- [31]1978年度の自己資本比率は9.7%(樹脂加工17社計17.4%)、負債比率929.9%(同474.1%)
- [32]売上総利益率は17社平均20.3%を上回る21.14%を上げながら、1,000億円を超える長短借入金が経常利益を圧縮する主因になっていた
- [33]住宅部門は売上高の30%以上、利益の半分を稼ぐ存在だったが、土地負担を伴うため借入金の減少にマイナスに作用した
- [34]1976年3月期に22億円の経常欠損を計上。1978年度は売上高2360億7300万円・経常利益51億5300万円、1979年度は売上高2950億円・経常利益90億円を見込んだ
- [35]過大な借入金は不況時の金利負担増となり、結果的に景気変動に弱い体質を温存することになる
1990年〜工業化の徹底と、中間層特化が招いた1999年の営業赤字
積水化学の住宅が他社と違ったのは、工場で作る比率であった。他のプレハブメーカーの工業化率が5〜7割のところ、セキスイハイムは8割を超え、現場の作業はユニットの据え付けと内装の仕上げに限られた。関東の主力である東京ハイム工場には全長400メートルのラインが2本あり、約30の工程を経て3分半に1ユニットが生まれる。住宅1棟に使う部材は1万点以上に及ぶため、1983年に導入した部材管理システムが釘1本までコード化し、約180社の部材メーカーへ回線で発注を流した。部品在庫は半減し納期は30%短縮され、1985年度から1993年度までの9年間で総額516億円の原価を削った。1994年4月に始めた削減計画は半年で70億円を削り、1995年3月期の中間決算の営業利益は前年同期比34.3%増の168億2100万円と過去最高になった。
- 日経ビジネス 1995年3月20日号
- [36]他のプレハブ住宅メーカーの工業化率が5〜7割に対し、セキスイハイムの工業化率は8割を超え、施工現場ではユニット同士の接続や屋根の取り付け以外に壁紙や床材を張る程度の手間しかかからない
- [37]東京ハイム工場(埼玉県蓮田市)には全長400mのラインが2本あり約30の工程が並ぶ。分速2.7mで動くラインから3分半に1ユニットが生み出され、生産能力は月約9000ユニット
- [38]住宅1棟に使う建築部材は1万点以上。1983年に導入したコンピューターによる部材管理システムが釘1本からパネル・鉄骨までコード化し、約180社の部材メーカーへVAN回線でリアルタイムに発注データを送る
- [39]全工場へのシステム導入で部品在庫が半減し納期も30%程度短縮され、1985年度から1993年度までの9年間で総額516億円のコスト削減につながった
- [40]1994年4月に正式スタートしたコスト削減計画「SHIPS-21」はわずか半年で70億円を削減。1995年3月期中間決算の営業利益は前年同期比34.3%増の168億2100万円と過去最高
財テクでつまずいたのは、金融子会社のセキスイファイナンスである。救済にあたり、積水化学は無利子・無担保の資金を1200億円あまり同社に回した。つまり、損失の出どころは本業の外にあった。含み損は特別損失として償却され、1992年度が126億円、1993年度が250億円だった。残りの約400億円も1994年度のうちに片づける計画になっていた。コスト削減を本業でいくら厳しく進めても、金融収支に足を取られていては成果が届かない。西沢進社長のもとで金融子会社を整理し、貸付金を全額引き上げる方針が採られた。同じ時期、研究開発では技術職を1988年の900人から1993年に1300人へ増やし、1990年につくば市へ住宅総合研究所を設けて各地に分かれていた開発部隊を集めていた。効率を上げる側と、過去の穴を埋める側が同時に走っていた。
- 日経ビジネス 1995年3月20日号
- [41]財テクに失敗した子会社セキスイファイナンスの救済のため1200億円余りを無利子で融資していた
- [42]含み損の償却は1992年度126億円、1993年度250億円を特別損失に計上済みで、残り約400億円を1994年度中に償却する
- [43]西沢進社長は、本業で血の出るようなコスト削減を進めても金融収支が足を引っ張っていてはどうしようもないとして、金融子会社を整理し貸付金を全額引き上げると述べた
- [44]技術職者を1988年の900人から1993年に1300人へ増員し、1990年には茨城県つくば市に住宅総合研究所を設立して各地に分散していた開発部隊を集約した
1997年、積水化学は3.3平方メートル当たり41万円からという価格でワルツを発売した。高額な住宅にしか付かなかった24時間換気や温水床暖房を標準仕様に入れながら、当時の主流商品より5万円以上安かった。消費税率の引き上げで持ち家の着工が前年度比3割減となった年に、この1商品だけで年間5000戸が売れた。ところが、ワルツが食ったのは他社ではなく自社の商品であった。他社が3.3平方メートル当たり上下20万円ほどの幅で商品を並べたのに対し、積水化学の幅は10万円しかない。1998年3月期、ワルツは全体の21.2%を占め、平均2800万円のドマーニは13.5%から6.5%へ、戸数で3700戸から1500戸へ半減した。住宅事業の売上高は1997年3月期の4884億円を頂点に2期続けて2割前後落ち、1999年3月期には1953年の上場以来初となる通期の営業赤字を見込むに至った。
- 日経ビジネス 1999年1月4日号
- [45]1997年に発売した「ワルツ」の価格は3.3平方メートル当たり41万円から
- [46]「ワルツ」はそれまで高額な住宅に採用されていた24時間換気や温水床暖房などの設備を標準仕様に取り入れながら、当時の住宅業界で主流の商品よりも5万円以上安かった
- [47]持ち家の着工戸数が前年度比3割減と空前の落ち込みを記録した1997年に「ワルツ」は年間5000戸売れた
- [48]他社が3.3平方メートル当たりの価格で上下20万円ほど開いているのに対し、積水化学は中間層に特化して10万円の差しかない商品構成だった
- [49]1998年3月期に「ワルツ」が全体の21.2%に達した半面、主力商品「ドマーニ」の占有率は13.5%から6.5%へ半減し、戸数では3700戸が1500戸へ減った。「ワルツ」の販売価格は平均2100万円、「ドマーニ」は同2800万円
- [50]住宅事業の売上高は1997年3月期の4884億円をピークに1998年3月期4021億円、1999年3月期見込み3176億円と2期連続で20%前後落ち込み、1999年3月期は14億円の営業赤字を見込んで1953年の上場以来初めての通期営業赤字となる
参考文献[36]-[50]
- 日経ビジネス 1995年3月20日号
- [36]他のプレハブ住宅メーカーの工業化率が5〜7割に対し、セキスイハイムの工業化率は8割を超え、施工現場ではユニット同士の接続や屋根の取り付け以外に壁紙や床材を張る程度の手間しかかからない
- [37]東京ハイム工場(埼玉県蓮田市)には全長400mのラインが2本あり約30の工程が並ぶ。分速2.7mで動くラインから3分半に1ユニットが生み出され、生産能力は月約9000ユニット
- [38]住宅1棟に使う建築部材は1万点以上。1983年に導入したコンピューターによる部材管理システムが釘1本からパネル・鉄骨までコード化し、約180社の部材メーカーへVAN回線でリアルタイムに発注データを送る
- [39]全工場へのシステム導入で部品在庫が半減し納期も30%程度短縮され、1985年度から1993年度までの9年間で総額516億円のコスト削減につながった
- [40]1994年4月に正式スタートしたコスト削減計画「SHIPS-21」はわずか半年で70億円を削減。1995年3月期中間決算の営業利益は前年同期比34.3%増の168億2100万円と過去最高
- [41]財テクに失敗した子会社セキスイファイナンスの救済のため1200億円余りを無利子で融資していた
- [42]含み損の償却は1992年度126億円、1993年度250億円を特別損失に計上済みで、残り約400億円を1994年度中に償却する
- [43]西沢進社長は、本業で血の出るようなコスト削減を進めても金融収支が足を引っ張っていてはどうしようもないとして、金融子会社を整理し貸付金を全額引き上げると述べた
- [44]技術職者を1988年の900人から1993年に1300人へ増員し、1990年には茨城県つくば市に住宅総合研究所を設立して各地に分散していた開発部隊を集約した
- 日経ビジネス 1999年1月4日号
- [45]1997年に発売した「ワルツ」の価格は3.3平方メートル当たり41万円から
- [46]「ワルツ」はそれまで高額な住宅に採用されていた24時間換気や温水床暖房などの設備を標準仕様に取り入れながら、当時の住宅業界で主流の商品よりも5万円以上安かった
- [47]持ち家の着工戸数が前年度比3割減と空前の落ち込みを記録した1997年に「ワルツ」は年間5000戸売れた
- [48]他社が3.3平方メートル当たりの価格で上下20万円ほど開いているのに対し、積水化学は中間層に特化して10万円の差しかない商品構成だった
- [49]1998年3月期に「ワルツ」が全体の21.2%に達した半面、主力商品「ドマーニ」の占有率は13.5%から6.5%へ半減し、戸数では3700戸が1500戸へ減った。「ワルツ」の販売価格は平均2100万円、「ドマーニ」は同2800万円
- [50]住宅事業の売上高は1997年3月期の4884億円をピークに1998年3月期4021億円、1999年3月期見込み3176億円と2期連続で20%前後落ち込み、1999年3月期は14億円の営業赤字を見込んで1953年の上場以来初めての通期営業赤字となる
筆者考察
積水化学工業が住宅で採った道は、家を建てる商売ではなく、家を作る工場を回す商売だった。土地で儲ける才覚が無かったと藤沼基利は言ったが、土地を持たないと決めた時点で、利益の源は工期と部材の数に限られる。だから釘1本にコードを振り、約180社の部材メーカーへ回線で発注を流し、3分半に1ユニットを出すラインを組んだ。9年で516億円、半年で70億円という削減額は、住宅メーカーの数字というより自動車工場の数字である。工業化率8割という比率は、この商売の設計図そのものだった。阪神大震災で全半壊が1件も出なかったことも、工場で作った躯体の精度がそのまま現れた結果である。
だが工場を回す商売は、作るものを絞るほど強くなる。積水化学は所得五分位の第3分位に狙いを定め、他社が上下20万円の幅で商品を並べるところを10万円に収めた。絞ったから安く作れ、安く作れたから中間層で競争優位を得た。1997年のワルツは、その論理を最後まで進めた商品である。年5000戸というヒットは市場から取ったのではなく、隣に並ぶ自社のドマーニから取った。単価2100万円が単価2800万円を置き換えれば、戸数が同じでも売上高は減る。上場から45年目に初めて通期の営業赤字を出した理由は、売れなかったからではなく、売れたものが安かったからである。
1972年〜1999年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1972年03月期 | 単体 | 823 | n/a | 22 | 2.7% | 15 | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,048 | +27.3% | 42 | 4.0% | 22 | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 1,618 | +54.4% | 93 | 5.7% | 42 | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 1,734 | +7.2% | 32 | 1.8% | 17 | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 1,680 | ▲3.1% | ▲22 | ▲1.3% | 12 | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 1,935 | +15.2% | 11 | 0.6% | 9 | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 2,129 | +10.0% | 31 | 1.5% | 10 | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 2,361 | +10.9% | 52 | 2.2% | 15 | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 2,987 | +26.5% | 102 | 3.4% | 43 | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 3,022 | +1.2% | 74 | 2.4% | 36 | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 2,976 | ▲1.5% | 31 | 1.0% | 18 | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 3,052 | +2.6% | 67 | 2.2% | 21 | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 3,240 | +6.2% | 71 | 2.2% | 37 | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 3,461 | +6.8% | 90 | 2.6% | 41 | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 新田工場を開設(1989/10) |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1993年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1994年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1995年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1996年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1997年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1998年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1999年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
5件
- 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
- 日経ビジネス 1980年2月11日号
- 日経ビジネス 1981年5月18日号
- 日経ビジネス 1995年3月20日号
- 日経ビジネス 1999年1月4日号