日本酸素ホールディングス:日本酸素の創立と大崎工場での酸素製造
1910年〜ドレーガー社の熔接器の輸入から興した資本金5万円の合資会社と、東京・大崎の酸素工場
山口武彦氏が1910年10月30日に資本金5万円で設立した日本酸素合資会社の起こりは、自ら営む輸入商の山武商会で扱った酸素の不便にある。山武商会は1909年に横須賀海軍工廠へドイツのドレーガー社製の酸素熔接切断器を納め、翌年に日本での一手販売権を得た。器具に添える酸素もドイツから瓶で取り寄せたため、空瓶を送り返して詰め替えを待つ手間と時間がかさんだ。山武商会の社員パウル・キュンメル氏に欧州を調べさせると、酸素は空気から分離でき、原料代がかからないと分かった。重い鋼製容器の長距離輸送を省ける国内製造には採算上の利点があり、山口武彦氏は日本銀行副総裁の高橋是清氏に出資を求めた。高橋是清氏は日銀の首藤諒氏と鈴木知雄氏を呼び、4人で子息名義の出資により会社を興した。
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 日本酸素合資会社の設立」
- [1]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [3]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [4]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [5]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [6]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [7]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- 企業史書籍 企業の歴史 明治百年(1968)「日本酸素」
- [2]山口武彦が高橋是清の協力を得て資本金5万円の日本酸素合資会社を1910年に設立し、国内初の酸素製造を始めた
- [8]山口武彦が高橋是清の協力を得て資本金5万円の日本酸素合資会社を1910年に設立し、国内初の酸素製造を始めた
日本酸素合資会社は1911年5月3日、東京府荏原郡大崎町の工場で総合試運転を行い、国内で初めて酸素の工業生産に成功した。1910年に358坪の用地を購入し、据え付けたのはドイツのヒルデブラント社製で毎時10立方メートルの単精溜式酸素分離器。空気圧縮機はドイツ製、酸素圧縮機はイギリス製で、付近に電気設備がなかったため、動力はガスエンジンによる。酸素の需要がまだ少なく、機械は週に3日ほど運転して4日休む状態から始まり、同年6月12日に営業運転へ移って充填を本格化した。分離器の不調では、ドイツへ電報で照会して1週間後の返答を待つ場面もあった。設備の中身まで輸入に依存したこの出発点が、後に分離器を自ら造る動機の下地になったとみられる。
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第二節 大崎工場の建設」
- [9]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- [11]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- [12]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- [13]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- [14]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- 企業史書籍 企業の歴史 明治百年(1968)「日本酸素」
- [10]日本酸素合資会社は日本で最初の酸素製造を開始した
大崎工場の稼働直後の1911年5月13日、山口武彦氏は東京高等工業学校で2日間の酸素熔接切断の講習会を催した。実演の担い手はドイツから招いた技術者ウンダーリッヒ氏で、逓信大臣の後藤新平氏や陸海軍の将官が見学に訪れた。翌6月の呉海軍工廠での装甲板の切断実験も、軍艦を造る現場に酸素の効用を示す場にあたる。呉海軍工廠では金鋸で長時間かけていた装甲板の切断が酸素に置き換わる見通しとなり、海軍内に自前の酸素工場を建てる案が出た。山口武彦氏は海軍首脳部に民間の酸素事業の育成を求め、1912年11月の社員総会で広島への工場設置を決めた。1913年9月に広島分工場を置き、主要な買い手である呉海軍工廠の近くに供給拠点を持った。
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第三節 酸素熔接切断の実験」
- [15]1911年5月13日から東京高等工業学校で2日間の講習会、ウンダーリッヒが実演し後藤新平逓相らが参観。同年6月上旬に呉海軍工廠で装甲板切断実験
- [16]1911年5月13日から東京高等工業学校で2日間の講習会、ウンダーリッヒが実演し後藤新平逓相らが参観。同年6月上旬に呉海軍工廠で装甲板切断実験
- [17]1911年5月13日から東京高等工業学校で2日間の講習会、ウンダーリッヒが実演し後藤新平逓相らが参観。同年6月上旬に呉海軍工廠で装甲板切断実験
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第四節 広島工場の建設」
- [18]呉工廠で装甲板切断が酸素に移る見通しから海軍内で自給工場案。山口武彦が民間育成を要望し、工場新設まで東京から供給。1912年11月の社員総会で広島工場設置を決定
- [19]呉工廠で装甲板切断が酸素に移る見通しから海軍内で自給工場案。山口武彦が民間育成を要望し、工場新設まで東京から供給。1912年11月の社員総会で広島工場設置を決定
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第二節 大崎工場の建設」
- [20]1913年9月に広島に工場を設置し、大崎を東京工場、広島を分工場と称した
参考文献[1]-[20]
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 日本酸素合資会社の設立」
- [1]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [3]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [4]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [5]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [6]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- [7]1910年10月30日に資本金5万円で日本酸素合資会社を設立。山武商会がドレーガー社の熔接切断器を1909年に横須賀海軍工廠へ納入し翌年一手販売権を取得。輸入酸素は空瓶返送で手間がかかり、キュンメルの調査で国内製造の採算性を確認。高橋是清・首藤諒・鈴木知雄が子息名義で出資
- 企業史書籍 企業の歴史 明治百年(1968)「日本酸素」
- [2]山口武彦が高橋是清の協力を得て資本金5万円の日本酸素合資会社を1910年に設立し、国内初の酸素製造を始めた
- [8]山口武彦が高橋是清の協力を得て資本金5万円の日本酸素合資会社を1910年に設立し、国内初の酸素製造を始めた
- [10]日本酸素合資会社は日本で最初の酸素製造を開始した
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第二節 大崎工場の建設」
- [9]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- [11]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- [12]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- [13]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- [14]1910年に大崎町に358坪を購入。1911年ヒルデブラント社製毎時10立方メートル単精溜式分離器・独製空気圧縮機・英製酸素圧縮機を輸入し、5月3日試運転で国内初の酸素工業化。電気設備がなくガスエンジン使用。週3日運転、6月12日営業運転開始。分離器不調時にドイツへ電報照会
- [20]1913年9月に広島に工場を設置し、大崎を東京工場、広島を分工場と称した
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第三節 酸素熔接切断の実験」
- [15]1911年5月13日から東京高等工業学校で2日間の講習会、ウンダーリッヒが実演し後藤新平逓相らが参観。同年6月上旬に呉海軍工廠で装甲板切断実験
- [16]1911年5月13日から東京高等工業学校で2日間の講習会、ウンダーリッヒが実演し後藤新平逓相らが参観。同年6月上旬に呉海軍工廠で装甲板切断実験
- [17]1911年5月13日から東京高等工業学校で2日間の講習会、ウンダーリッヒが実演し後藤新平逓相らが参観。同年6月上旬に呉海軍工廠で装甲板切断実験
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第四節 広島工場の建設」
- [18]呉工廠で装甲板切断が酸素に移る見通しから海軍内で自給工場案。山口武彦が民間育成を要望し、工場新設まで東京から供給。1912年11月の社員総会で広島工場設置を決定
- [19]呉工廠で装甲板切断が酸素に移る見通しから海軍内で自給工場案。山口武彦が民間育成を要望し、工場新設まで東京から供給。1912年11月の社員総会で広島工場設置を決定
1918年〜資本金100万円の日本酸素株式会社への改組と、海軍艦政本部の注文で始めた分離装置の自製
第1次世界大戦で国内工業が拡大すると、酸素の需要は大崎・広島の2工場の能力では応じきれなくなった。日本酸素合資会社は1916年9月12日の社員総会で、合資会社を解散して資本金100万円の株式会社を新設する方針を決めた。1917年8月に東京府下亀戸町で587坪の用地を購入し、1918年2月には新工場の建築に着手。1918年7月19日の創立総会で日本酸素株式会社が発足し、社長に首藤諒氏、専務取締役に高橋是福氏が就任した。新会社は合資会社の設備と営業権を35万円で譲り受け、目論見書には亀戸などに製造工場を新設する計画を掲げた。目論見書は、原料が空気で材料の確保に困らない点も事業の特色に挙げる。
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一一節 株式会社に組織変更」
- [21]第1次大戦で需要が急増し大崎・広島の能力で応じきれず、1916年9月12日の社員総会で資本金100万円の株式会社設立方針を決定。1917年8月亀戸町に587坪購入、1918年2月工場建築着手。合資会社財産を35万円で新会社に譲渡
- [22]第1次大戦で需要が急増し大崎・広島の能力で応じきれず、1916年9月12日の社員総会で資本金100万円の株式会社設立方針を決定。1917年8月亀戸町に587坪購入、1918年2月工場建築着手。合資会社財産を35万円で新会社に譲渡
- [23]第1次大戦で需要が急増し大崎・広島の能力で応じきれず、1916年9月12日の社員総会で資本金100万円の株式会社設立方針を決定。1917年8月亀戸町に587坪購入、1918年2月工場建築着手。合資会社財産を35万円で新会社に譲渡
- [25]第1次大戦で需要が急増し大崎・広島の能力で応じきれず、1916年9月12日の社員総会で資本金100万円の株式会社設立方針を決定。1917年8月亀戸町に587坪購入、1918年2月工場建築着手。合資会社財産を35万円で新会社に譲渡
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 株式会社の設立」
- [24]1918年7月19日創立総会で日本酸素株式会社設立、社長首藤諒・専務高橋是福。目論見書は合資会社買収・亀戸等に新工場設置を掲げ、原料が空気で材料確保に困らない点を特色とした
- [26]1918年7月19日創立総会で日本酸素株式会社設立、社長首藤諒・専務高橋是福。目論見書は合資会社買収・亀戸等に新工場設置を掲げ、原料が空気で材料確保に困らない点を特色とした
- [27]1918年7月19日創立総会で日本酸素株式会社設立、社長首藤諒・専務高橋是福。目論見書は合資会社買収・亀戸等に新工場設置を掲げ、原料が空気で材料確保に困らない点を特色とした
昭和初期の酸素業界は需給の不均衡で市価が下がり続け、日本酸素は生産高を増やして単価下落による減収を補った。生産高は1926年上期の42万立方から1928年下期には55万立方へ増加。1928年8月には、能率と純度で単精溜式を上回るハイラント社の複精溜式酸素分離器を、亀戸・名古屋・大阪の3工場向けに3台発注した。装置は輸入権を持つ磯村合名会社を通じて調達し、1929年2月に旧来の分離器と入れ替えて運転を始めた。1930年4月には大阪工場にハイラント社の液酸共用装置を据え付け、液体酸素の製造に着手した。一方で分離装置を海外から輸入し続けることは不得策とされ、取締役支配人の高橋直行氏らが1932年頃から国産化の試作を始めた。
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第六節 ハイラント式複精溜器の採用」
- [28]昭和初期に市価下落、生産高は1926年上期42万立方から1928年下期55万立方へ増加。1928年8月ハイラント社の毎時50立方複精溜式分離器3台を亀戸・名古屋・大阪用に発注(磯村合名が一手輸入権)、1929年2月入替運転開始
- [29]昭和初期に市価下落、生産高は1926年上期42万立方から1928年下期55万立方へ増加。1928年8月ハイラント社の毎時50立方複精溜式分離器3台を亀戸・名古屋・大阪用に発注(磯村合名が一手輸入権)、1929年2月入替運転開始
- [30]昭和初期に市価下落、生産高は1926年上期42万立方から1928年下期55万立方へ増加。1928年8月ハイラント社の毎時50立方複精溜式分離器3台を亀戸・名古屋・大阪用に発注(磯村合名が一手輸入権)、1929年2月入替運転開始
- [31]昭和初期に市価下落、生産高は1926年上期42万立方から1928年下期55万立方へ増加。1928年8月ハイラント社の毎時50立方複精溜式分離器3台を亀戸・名古屋・大阪用に発注(磯村合名が一手輸入権)、1929年2月入替運転開始
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第九節 液体酸素の製造」
- [32]1930年4月、大阪工場にハイラント社の毎時100立方液酸共用装置を据付け液体酸素製造に着手
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一一節 複精溜式酸素分離器の製作」
- [33]空気分離装置の輸入継続は不得策とされ、1932年頃から高橋直行・長谷川辰兄らが国産化に着手
1932年秋、海軍艦政本部第二部は魚雷用の酸素製造装置の製作を、極秘の扱いで日本酸素に依頼した。圧縮酸素を使えば魚雷の航跡が見えにくく航続距離も延びるという説明を受け、高橋直行氏らの報告を経て重役会は協力を決めた。複精溜式の製作経験が乏しいため分離器はハイラント社から輸入し、220気圧で使う蒸発器は亀戸工場で自製した。装置は1934年3月に呉海軍工廠へ納められ、外国製機械の運転しか経験のなかった技術陣にとって初めての設計と製作にあたる。同年5月1日に東京・蒲田に機械製作の工場を開設し、同年末に国産第1号の複精溜式酸素分離器を完成させた。海軍の注文が、酸素の販売会社を装置の製造会社へ変える転機になったと推察される。
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一一節 複精溜式酸素分離器の製作」
- [34]1932年秋、艦政本部第二部から魚雷用酸素製造装置の製作を極秘で依頼。1934年5月蒲田工場新設、同年末に毎時37立方の国産第1号複精溜式分離器を完成(1935年1月試運転)
- [35]1932年秋、艦政本部第二部から魚雷用酸素製造装置の製作を極秘で依頼。1934年5月蒲田工場新設、同年末に毎時37立方の国産第1号複精溜式分離器を完成(1935年1月試運転)
- [40]1932年秋、艦政本部第二部から魚雷用酸素製造装置の製作を極秘で依頼。1934年5月蒲田工場新設、同年末に毎時37立方の国産第1号複精溜式分離器を完成(1935年1月試運転)
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一二節 蒲田工場の開設」
- [36]海軍の説明(航跡不明・航続距離延長)を受け重役会で協力決定。分離器はハイラント社から輸入、220気圧の蒸発器は亀戸で自製し1933年12月試運転。1934年3月呉海軍工廠へ納入。1934年5月1日蒲田工場開設
- [37]海軍の説明(航跡不明・航続距離延長)を受け重役会で協力決定。分離器はハイラント社から輸入、220気圧の蒸発器は亀戸で自製し1933年12月試運転。1934年3月呉海軍工廠へ納入。1934年5月1日蒲田工場開設
- [38]海軍の説明(航跡不明・航続距離延長)を受け重役会で協力決定。分離器はハイラント社から輸入、220気圧の蒸発器は亀戸で自製し1933年12月試運転。1934年3月呉海軍工廠へ納入。1934年5月1日蒲田工場開設
- [39]海軍の説明(航跡不明・航続距離延長)を受け重役会で協力決定。分離器はハイラント社から輸入、220気圧の蒸発器は亀戸で自製し1933年12月試運転。1934年3月呉海軍工廠へ納入。1934年5月1日蒲田工場開設
- 企業史書籍 企業の歴史 明治百年(1968)「日本酸素」
- [41]1934年に蒲田製作所を新設して機械製作に着手、1935年に本邦最初の空気分離装置の製作に成功
参考文献[21]-[41]
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一一節 株式会社に組織変更」
- [21]第1次大戦で需要が急増し大崎・広島の能力で応じきれず、1916年9月12日の社員総会で資本金100万円の株式会社設立方針を決定。1917年8月亀戸町に587坪購入、1918年2月工場建築着手。合資会社財産を35万円で新会社に譲渡
- [22]第1次大戦で需要が急増し大崎・広島の能力で応じきれず、1916年9月12日の社員総会で資本金100万円の株式会社設立方針を決定。1917年8月亀戸町に587坪購入、1918年2月工場建築着手。合資会社財産を35万円で新会社に譲渡
- [23]第1次大戦で需要が急増し大崎・広島の能力で応じきれず、1916年9月12日の社員総会で資本金100万円の株式会社設立方針を決定。1917年8月亀戸町に587坪購入、1918年2月工場建築着手。合資会社財産を35万円で新会社に譲渡
- [25]第1次大戦で需要が急増し大崎・広島の能力で応じきれず、1916年9月12日の社員総会で資本金100万円の株式会社設立方針を決定。1917年8月亀戸町に587坪購入、1918年2月工場建築着手。合資会社財産を35万円で新会社に譲渡
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 株式会社の設立」
- [24]1918年7月19日創立総会で日本酸素株式会社設立、社長首藤諒・専務高橋是福。目論見書は合資会社買収・亀戸等に新工場設置を掲げ、原料が空気で材料確保に困らない点を特色とした
- [26]1918年7月19日創立総会で日本酸素株式会社設立、社長首藤諒・専務高橋是福。目論見書は合資会社買収・亀戸等に新工場設置を掲げ、原料が空気で材料確保に困らない点を特色とした
- [27]1918年7月19日創立総会で日本酸素株式会社設立、社長首藤諒・専務高橋是福。目論見書は合資会社買収・亀戸等に新工場設置を掲げ、原料が空気で材料確保に困らない点を特色とした
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第六節 ハイラント式複精溜器の採用」
- [28]昭和初期に市価下落、生産高は1926年上期42万立方から1928年下期55万立方へ増加。1928年8月ハイラント社の毎時50立方複精溜式分離器3台を亀戸・名古屋・大阪用に発注(磯村合名が一手輸入権)、1929年2月入替運転開始
- [29]昭和初期に市価下落、生産高は1926年上期42万立方から1928年下期55万立方へ増加。1928年8月ハイラント社の毎時50立方複精溜式分離器3台を亀戸・名古屋・大阪用に発注(磯村合名が一手輸入権)、1929年2月入替運転開始
- [30]昭和初期に市価下落、生産高は1926年上期42万立方から1928年下期55万立方へ増加。1928年8月ハイラント社の毎時50立方複精溜式分離器3台を亀戸・名古屋・大阪用に発注(磯村合名が一手輸入権)、1929年2月入替運転開始
- [31]昭和初期に市価下落、生産高は1926年上期42万立方から1928年下期55万立方へ増加。1928年8月ハイラント社の毎時50立方複精溜式分離器3台を亀戸・名古屋・大阪用に発注(磯村合名が一手輸入権)、1929年2月入替運転開始
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第九節 液体酸素の製造」
- [32]1930年4月、大阪工場にハイラント社の毎時100立方液酸共用装置を据付け液体酸素製造に着手
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一一節 複精溜式酸素分離器の製作」
- [33]空気分離装置の輸入継続は不得策とされ、1932年頃から高橋直行・長谷川辰兄らが国産化に着手
- [34]1932年秋、艦政本部第二部から魚雷用酸素製造装置の製作を極秘で依頼。1934年5月蒲田工場新設、同年末に毎時37立方の国産第1号複精溜式分離器を完成(1935年1月試運転)
- [35]1932年秋、艦政本部第二部から魚雷用酸素製造装置の製作を極秘で依頼。1934年5月蒲田工場新設、同年末に毎時37立方の国産第1号複精溜式分離器を完成(1935年1月試運転)
- [40]1932年秋、艦政本部第二部から魚雷用酸素製造装置の製作を極秘で依頼。1934年5月蒲田工場新設、同年末に毎時37立方の国産第1号複精溜式分離器を完成(1935年1月試運転)
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一二節 蒲田工場の開設」
- [36]海軍の説明(航跡不明・航続距離延長)を受け重役会で協力決定。分離器はハイラント社から輸入、220気圧の蒸発器は亀戸で自製し1933年12月試運転。1934年3月呉海軍工廠へ納入。1934年5月1日蒲田工場開設
- [37]海軍の説明(航跡不明・航続距離延長)を受け重役会で協力決定。分離器はハイラント社から輸入、220気圧の蒸発器は亀戸で自製し1933年12月試運転。1934年3月呉海軍工廠へ納入。1934年5月1日蒲田工場開設
- [38]海軍の説明(航跡不明・航続距離延長)を受け重役会で協力決定。分離器はハイラント社から輸入、220気圧の蒸発器は亀戸で自製し1933年12月試運転。1934年3月呉海軍工廠へ納入。1934年5月1日蒲田工場開設
- [39]海軍の説明(航跡不明・航続距離延長)を受け重役会で協力決定。分離器はハイラント社から輸入、220気圧の蒸発器は亀戸で自製し1933年12月試運転。1934年3月呉海軍工廠へ納入。1934年5月1日蒲田工場開設
- 企業史書籍 企業の歴史 明治百年(1968)「日本酸素」
- [41]1934年に蒲田製作所を新設して機械製作に着手、1935年に本邦最初の空気分離装置の製作に成功
1937年〜日本理化工業への改称と玉川製作所、終戦で整理した従業員1151名
日本酸素は1937年6月25日の臨時株主総会で、商号を日本理化工業株式会社に改めた。1932年に亀戸工場で分離器を試作する一方、海軍に納めた装置の性能が認められ、各種の分離器の注文が続いた。艦政本部から受けた装置は軍の極秘品であり、海軍は日本酸素の社名から製作の中身が外に知られることを恐れて改称を勧めた。長年なじまれた社名を捨てることは営業上の不利を招き、証券界の評判も悪かった。旧商号が他社に使われて信用を損なう事態への備えが、同年7月15日に全額出資で別に設立した資本金1万円の日本酸素株式会社である。改称後の日本理化工業はガスの製造と装置の製作の2部門を兼業し、その商号は戦後の1955年まで続いた。
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一八節 日本理化工業株式会社と商号変更」
- [42]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [43]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [44]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [45]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [46]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [48]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- 企業史書籍 企業の歴史 明治百年(1968)「日本酸素」
- [47]1937年に日本理化工業へ改称し、ガス製造と装置製作の両部門を兼業
1937年7月の日華事変の後、同年9月に公布された臨時資金調整法は、一定額を超える設備投資を政府の認可制とする法律にあたる。蒲田工場の事業は最優先の「甲イ」に置かれ、酸素製造は融資を控える「乙ハ」から後に「乙ロ」へ引き上げられた。日本理化工業の酸素販売量は1934年以降、全国の2割強を占め、1937年10月に釜石工場の新設と亀戸・小倉工場の増設の許可を得た。1940年には海軍省軍需局から人造石油用の水素精製装置の製作を求められ、蒲田製作所が艦政本部の仕事で埋まっていたため別の工場を建てた。資本金を900万円に増やして1941年5月22日に玉川製作所を発足させ、1942年6月に海軍の管理工場に指定された。
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 日華事変下酸素工場の設備拡張」
- [49]1937年9月臨時資金調整法公布。蒲田工場は甲イ、酸素製造は乙ハ(後に乙ロ)。1934年以降の当社酸素販売量は全国の2割強。1937年10月26日に釜石新設・亀戸・小倉増設の許可
- [50]1937年9月臨時資金調整法公布。蒲田工場は甲イ、酸素製造は乙ハ(後に乙ロ)。1934年以降の当社酸素販売量は全国の2割強。1937年10月26日に釜石新設・亀戸・小倉増設の許可
- [51]1937年9月臨時資金調整法公布。蒲田工場は甲イ、酸素製造は乙ハ(後に乙ロ)。1934年以降の当社酸素販売量は全国の2割強。1937年10月26日に釜石新設・亀戸・小倉増設の許可
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第三節 玉川製作所の建設」
- [52]1940年海軍省軍需局が人造石油用水素精製装置の製作を要請、蒲田は艦本二部の仕事で手一杯のため新設。資本金900万円に増資、1941年5月22日玉川製作所発足、1942年6月海軍管理工場に指定
- [53]1940年海軍省軍需局が人造石油用水素精製装置の製作を要請、蒲田は艦本二部の仕事で手一杯のため新設。資本金900万円に増資、1941年5月22日玉川製作所発足、1942年6月海軍管理工場に指定
終戦後の1945年9月26日、日本理化工業の役員会は戦後対策の方針を決め、全従業員2126名のうち1151名を整理の対象に据えた。工場は2、3の酸素工場を除いて操業を止め、軍需に専念してきた製作部門は全面的に休止した。方針は酸素が平和産業でも製造の継続を認められると見込み、工場疎開と釜石・山形工場の新増設を取りやめる内容である。社長の高橋直行氏は9月28日の告辞で、連合国が平和産業への転換を許すか不明だと従業員に説明した。同年11月1日に蒲田・玉川の両製作所を合併して東京製作所とし、1946年には肥料会社から窒素製造装置の注文が集まった。酸素と肥料向け装置という2つの民需が、戦後の再出発の足場になったのだろう。
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 終戦直後の復興措置」
- [54]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- [55]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- [56]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- [57]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- [58]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第二節 戦後初期の動向」
- [59]1946年に肥料会社から窒素製造装置の注文が殺到し、東京製作所は同年11月1日商工大臣から感謝状を受けた
参考文献[42]-[59]
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一八節 日本理化工業株式会社と商号変更」
- [42]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [43]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [44]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [45]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [46]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- [48]艦本の下命装置は軍極秘で、社名から製作内容が察知されるのを軍が恐れ改称を勧めた。営業上不利・証券界の評判も悪かった。1932年亀戸で試作、海軍納入品の性能が認められ注文継続。1937年6月25日臨時株主総会で日本理化工業に商号変更、7月15日旧商号保存のため資本金1万円の日本酸素株式会社を設立。商号は1955年まで継続
- 企業史書籍 企業の歴史 明治百年(1968)「日本酸素」
- [47]1937年に日本理化工業へ改称し、ガス製造と装置製作の両部門を兼業
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 日華事変下酸素工場の設備拡張」
- [49]1937年9月臨時資金調整法公布。蒲田工場は甲イ、酸素製造は乙ハ(後に乙ロ)。1934年以降の当社酸素販売量は全国の2割強。1937年10月26日に釜石新設・亀戸・小倉増設の許可
- [50]1937年9月臨時資金調整法公布。蒲田工場は甲イ、酸素製造は乙ハ(後に乙ロ)。1934年以降の当社酸素販売量は全国の2割強。1937年10月26日に釜石新設・亀戸・小倉増設の許可
- [51]1937年9月臨時資金調整法公布。蒲田工場は甲イ、酸素製造は乙ハ(後に乙ロ)。1934年以降の当社酸素販売量は全国の2割強。1937年10月26日に釜石新設・亀戸・小倉増設の許可
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第三節 玉川製作所の建設」
- [52]1940年海軍省軍需局が人造石油用水素精製装置の製作を要請、蒲田は艦本二部の仕事で手一杯のため新設。資本金900万円に増資、1941年5月22日玉川製作所発足、1942年6月海軍管理工場に指定
- [53]1940年海軍省軍需局が人造石油用水素精製装置の製作を要請、蒲田は艦本二部の仕事で手一杯のため新設。資本金900万円に増資、1941年5月22日玉川製作所発足、1942年6月海軍管理工場に指定
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 終戦直後の復興措置」
- [54]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- [55]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- [56]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- [57]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- [58]1945年9月26日役員会で戦後対策を決定、2,3の酸素工場以外は休止、製作部門は全面休止。酸素は平和産業として継続を見込み疎開・釜石・山形の新増設中止。全従業員2126名中1151名を整理。9月28日高橋社長告辞。11月1日蒲田・玉川を合併し東京製作所
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第二節 戦後初期の動向」
- [59]1946年に肥料会社から窒素製造装置の注文が殺到し、東京製作所は同年11月1日商工大臣から感謝状を受けた
出典・参考
16件
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 日本酸素合資会社の設立」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第二節 大崎工場の建設」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第三節 酸素熔接切断の実験」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第四節 広島工場の建設」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一一節 株式会社に組織変更」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 株式会社の設立」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第六節 ハイラント式複精溜器の採用」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第九節 液体酸素の製造」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一一節 複精溜式酸素分離器の製作」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一二節 蒲田工場の開設」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一八節 日本理化工業株式会社と商号変更」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 日華事変下酸素工場の設備拡張」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第三節 玉川製作所の建設」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第一節 終戦直後の復興措置」
- 刊行社史 日本酸素五十年史(1966)「第二節 戦後初期の動向」
- 企業史書籍 企業の歴史 明治百年(1968)「日本酸素」