SRAホールディングス:ソフトウエア・リサーチ・アソシエイツの設立
1967年〜沖ユニバックの提携で気落ちした丸森隆吾氏と、スポンサー無しの7人で興したソフト会社
創業者の丸森隆吾氏は早稲田大学大学院商学研究科を修了し、沖電気のコンピューターを販売する沖ビジネスマシン販売に入社した。沖ビジネスマシン販売は1961年末からOKITACの販売に着手する予定で、丸森隆吾氏は学生時代からの仲間の岸田孝一氏も誘った。ところが販売会社は沖電気に吸収合併され、1963年には米スペリーランドとの技術提携で沖ユニバックが発足した。自社機の販売が米国製品の国産化に置き換わり、丸森隆吾氏は外国製品を売るか高崎工場へ移るかの二択に直面し、当時の考えを『カストマーのためのソフトウェアづくりだった。これを,本気でやりたいと思った』と振り返る。丸森隆吾氏は1967年11月、出資者を持たずに7人ほどでソフトウエア・リサーチ・アソシエイツを設立した。設立当初の売上は、丸森隆吾氏によれば数百万円の規模だった。
- 情報化研究 (101) 1990年5月「この人この話 丸森隆吾氏 (株)SRA代表取締役社長」
- [1]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- [2]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- [3]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- [4]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- [6]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- 証券アナリストジャーナル 28(1) 1990年1月(丸森隆吾 講演要旨)
- [5]1967年(昭和42年)11月、沖電気工業に勤めていた丸森隆吾がソフトウェアリサーチ・アソシエイツを設立
創業当初のソフトウエア・リサーチ・アソシエイツは、メーカーや一部の計算センターから仕事を受注した。丸森隆吾氏はメーカーの下請けのままではソフトウェアがハードウェアの付属物にとどまるとみて、自前で顧客を開拓する方針を掲げた。メーカーからも利用者からも独立した立場でソフトウェアに固有の価値を認めさせることが、設立の目的である。1970年6月にはソフトウェア産業振興協会の設立に加わり、その頃には自前の顧客から独自の開発を受託できるようになった。丸森隆吾氏は構造計画研究所所長の服部正氏の産業存立論に共鳴し、従来の発注元である計算センターから下請け同士の協会と評されても参画を選んだ。業界団体を通じてソフトウェアの対価を産業として認めさせることが、下請けを抜ける近道と考えたと思われる。
- 情報化研究 (101) 1990年5月「この人この話 丸森隆吾氏 (株)SRA代表取締役社長」
- [7]創業時はメーカー・一部計算センターからの受注。下請けではソフトはハードのおまけなので自らマーケット開拓を志す。週休2日の土日に輪読・翻訳、岸田中心に翻訳書30冊超。1970年6月ソフトウェア産業振興協会の設立に参画、その頃には独自カストマーを得ていた。計算センターから「下請け同士で協会を作るのか」と言われる。服部正(構造計画研究所所長)の産業存立論に心服
- [8]創業時はメーカー・一部計算センターからの受注。下請けではソフトはハードのおまけなので自らマーケット開拓を志す。週休2日の土日に輪読・翻訳、岸田中心に翻訳書30冊超。1970年6月ソフトウェア産業振興協会の設立に参画、その頃には独自カストマーを得ていた。計算センターから「下請け同士で協会を作るのか」と言われる。服部正(構造計画研究所所長)の産業存立論に心服
- [10]創業時はメーカー・一部計算センターからの受注。下請けではソフトはハードのおまけなので自らマーケット開拓を志す。週休2日の土日に輪読・翻訳、岸田中心に翻訳書30冊超。1970年6月ソフトウェア産業振興協会の設立に参画、その頃には独自カストマーを得ていた。計算センターから「下請け同士で協会を作るのか」と言われる。服部正(構造計画研究所所長)の産業存立論に心服
- [11]創業時はメーカー・一部計算センターからの受注。下請けではソフトはハードのおまけなので自らマーケット開拓を志す。週休2日の土日に輪読・翻訳、岸田中心に翻訳書30冊超。1970年6月ソフトウェア産業振興協会の設立に参画、その頃には独自カストマーを得ていた。計算センターから「下請け同士で協会を作るのか」と言われる。服部正(構造計画研究所所長)の産業存立論に心服
- 証券アナリストジャーナル 28(1) 1990年1月(丸森隆吾 講演要旨)
- [9]ハードウェアの付属品だったソフトウェアの価値の確立を目指し、メーカーからもユーザーからも自由な独立系ソフトウェア会社として設立
参考文献[1]-[11]
- 情報化研究 (101) 1990年5月「この人この話 丸森隆吾氏 (株)SRA代表取締役社長」
- [1]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- [2]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- [3]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- [4]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- [6]丸森隆吾は早大大学院商学研究科修了後、沖ビジネスマシン販売に入社。同社は1961年末からOKITAC販売を計画。岸田孝一を誘う。販売会社は沖電気に吸収合併、1963年沖ユニバック設立。外国製を売るか高崎工場行きかの状況でカストマーのためのソフトづくりを志す。スポンサー無し・7人ほどで1967年11月創業。当初売上は数百万円
- [7]創業時はメーカー・一部計算センターからの受注。下請けではソフトはハードのおまけなので自らマーケット開拓を志す。週休2日の土日に輪読・翻訳、岸田中心に翻訳書30冊超。1970年6月ソフトウェア産業振興協会の設立に参画、その頃には独自カストマーを得ていた。計算センターから「下請け同士で協会を作るのか」と言われる。服部正(構造計画研究所所長)の産業存立論に心服
- [8]創業時はメーカー・一部計算センターからの受注。下請けではソフトはハードのおまけなので自らマーケット開拓を志す。週休2日の土日に輪読・翻訳、岸田中心に翻訳書30冊超。1970年6月ソフトウェア産業振興協会の設立に参画、その頃には独自カストマーを得ていた。計算センターから「下請け同士で協会を作るのか」と言われる。服部正(構造計画研究所所長)の産業存立論に心服
- [10]創業時はメーカー・一部計算センターからの受注。下請けではソフトはハードのおまけなので自らマーケット開拓を志す。週休2日の土日に輪読・翻訳、岸田中心に翻訳書30冊超。1970年6月ソフトウェア産業振興協会の設立に参画、その頃には独自カストマーを得ていた。計算センターから「下請け同士で協会を作るのか」と言われる。服部正(構造計画研究所所長)の産業存立論に心服
- [11]創業時はメーカー・一部計算センターからの受注。下請けではソフトはハードのおまけなので自らマーケット開拓を志す。週休2日の土日に輪読・翻訳、岸田中心に翻訳書30冊超。1970年6月ソフトウェア産業振興協会の設立に参画、その頃には独自カストマーを得ていた。計算センターから「下請け同士で協会を作るのか」と言われる。服部正(構造計画研究所所長)の産業存立論に心服
- 証券アナリストジャーナル 28(1) 1990年1月(丸森隆吾 講演要旨)
- [5]1967年(昭和42年)11月、沖電気工業に勤めていた丸森隆吾がソフトウェアリサーチ・アソシエイツを設立
- [9]ハードウェアの付属品だったソフトウェアの価値の確立を目指し、メーカーからもユーザーからも自由な独立系ソフトウェア会社として設立
1970年〜構造論的プログラミングの提唱と、日本で初めて入れたUNIX
ソフトウエア・リサーチ・アソシエイツは、特定のメーカーへの依存を避けるために自社でハードウェアを保有しない方針をとった。新人にはまず半年間、開発の方法論と構成論を教え、言語の教育は後回し。受注するまで使う言語が分からない以上、マニュアルを読めばどの機種でも開発できる技術者を育てる狙いである。方法論を先に教える教育でコンバージョンを機種を問わず請け負えるようになり、丸森隆吾氏は高い対価を当然とする立場をとった。方法論の提唱は1969年の構造論的プログラミングまで遡り、丸森隆吾氏は米国より早かったと振り返った。丸森隆吾氏は1989年12月の講演で、利益を全額、技術投資に充当する姿勢を22年間続けたと述べた。
- 情報化研究 (101) 1990年5月「この人この話 丸森隆吾氏 (株)SRA代表取締役社長」
- [12]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- [13]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- [14]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- [15]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- [16]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- 証券アナリストジャーナル 28(1) 1990年1月(丸森隆吾 講演要旨)
- [17]利益はすべて技術投資に充てる姿勢で22年間やってきた(1989年12月18日講演)
ソフトウエア・リサーチ・アソシエイツは1980年7月、創業13年目で初の自社機となるVAX11/780を導入した。導入の目的は、UNIXを動かしての自社の開発環境の整備。UNIXは米AT&Tベル研究所で生まれたOSであり、丸森隆吾氏は1980年の導入を日本で初めてと位置づけた。丸森隆吾氏は人件費の上昇を理由とする生産性向上を退け、利用者の効率と開発の生産性・品質を同時に高める目的を挙げた。その後10年にわたりUNIXを核に開発環境を拡充し、1989年12月時点では異機種のワークステーションの接続技術を事業の一つに数えた。自社機を13年持たなかった会社にとって、1980年の導入は機種への依存ではなく開発手法への投資だったのだろう。
- 情報化研究 (101) 1990年5月「この人この話 丸森隆吾氏 (株)SRA代表取締役社長」
- [18]1980年7月、創業13年目で初めてハード(スーパーミニコンVAX11/780)を導入。ソフト開発環境整備のツールとしてUNIXを導入するため。人件費のためでなくユーザーの効率向上とあわせ生産性・品質向上が目的
- [19]1980年7月、創業13年目で初めてハード(スーパーミニコンVAX11/780)を導入。ソフト開発環境整備のツールとしてUNIXを導入するため。人件費のためでなくユーザーの効率向上とあわせ生産性・品質向上が目的
- [21]1980年7月、創業13年目で初めてハード(スーパーミニコンVAX11/780)を導入。ソフト開発環境整備のツールとしてUNIXを導入するため。人件費のためでなくユーザーの効率向上とあわせ生産性・品質向上が目的
- 証券アナリストジャーナル 28(1) 1990年1月(丸森隆吾 講演要旨)
- [20]1980年に日本で初めてUNIXを導入、以後10年それを核に開発環境を拡充。UNIXはAT&Tベル研究所開発のOS。異機種間接続のワークステーション事業を展開(1989年12月講演)
- [22]1980年に日本で初めてUNIXを導入、以後10年それを核に開発環境を拡充。UNIXはAT&Tベル研究所開発のOS。異機種間接続のワークステーション事業を展開(1989年12月講演)
丸森隆吾氏は方法論の研究成果を海外で論文として発表し、批判を受ける場にも立つ方針をとった。国内ではソフトウェア研究を公表する主体がメーカーの研究所などにほぼ限られ、国際的に発言できる素地を作る必要があると考えたためである。海外の学会には入社1〜2年目の社員も含め、毎年社員の2〜3割を派遣した。1989年12月時点では海外の研究者と共同でソフトウェア設計の機械化を研究し、ロンドン、コロラド、ホノルルにも拠点を持った。標準化や特許の議論に加わるためにも、海外との交流を先に築くべきだと丸森隆吾氏は説いた。米国発のUNIXを先取りした経験が、米国の技術と研究者に直に接する拠点づくりへ会社を向かわせたとみられる。
- 情報化研究 (101) 1990年5月「この人この話 丸森隆吾氏 (株)SRA代表取締役社長」
- [23]方法論研究の成果を海外に論文発表し批判の矢面にも立つ。国内ではソフト研究発表はメーカー開発部門・研究所の一部のみで、国際的に発言できる素地を作りたい。海外学会に入社1〜2年生を含め年に2〜3割の社員を派遣。標準化・特許権の議論のためにも世界への発言と交流が必要
- [24]方法論研究の成果を海外に論文発表し批判の矢面にも立つ。国内ではソフト研究発表はメーカー開発部門・研究所の一部のみで、国際的に発言できる素地を作りたい。海外学会に入社1〜2年生を含め年に2〜3割の社員を派遣。標準化・特許権の議論のためにも世界への発言と交流が必要
- [25]方法論研究の成果を海外に論文発表し批判の矢面にも立つ。国内ではソフト研究発表はメーカー開発部門・研究所の一部のみで、国際的に発言できる素地を作りたい。海外学会に入社1〜2年生を含め年に2〜3割の社員を派遣。標準化・特許権の議論のためにも世界への発言と交流が必要
- [27]方法論研究の成果を海外に論文発表し批判の矢面にも立つ。国内ではソフト研究発表はメーカー開発部門・研究所の一部のみで、国際的に発言できる素地を作りたい。海外学会に入社1〜2年生を含め年に2〜3割の社員を派遣。標準化・特許権の議論のためにも世界への発言と交流が必要
- 証券アナリストジャーナル 28(1) 1990年1月(丸森隆吾 講演要旨)
- [26]1989年12月時点でロンドン・ホノルル・コロラドに拠点。海外の研究者と共同でソフト設計の機械化を研究
参考文献[12]-[27]
- 情報化研究 (101) 1990年5月「この人この話 丸森隆吾氏 (株)SRA代表取締役社長」
- [12]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- [13]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- [14]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- [15]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- [16]メーカー依存を避けるため自社ハードを持たない。教育は方法論・構成論が主で言語教育はしない、新人に半年は方法論。コンバージョンは何でもできる強み、対価が高いのは当然。1969年に構造論的プログラミングを提唱、米国より早いと言っていた。方法論の提唱は一貫した方針
- [18]1980年7月、創業13年目で初めてハード(スーパーミニコンVAX11/780)を導入。ソフト開発環境整備のツールとしてUNIXを導入するため。人件費のためでなくユーザーの効率向上とあわせ生産性・品質向上が目的
- [19]1980年7月、創業13年目で初めてハード(スーパーミニコンVAX11/780)を導入。ソフト開発環境整備のツールとしてUNIXを導入するため。人件費のためでなくユーザーの効率向上とあわせ生産性・品質向上が目的
- [21]1980年7月、創業13年目で初めてハード(スーパーミニコンVAX11/780)を導入。ソフト開発環境整備のツールとしてUNIXを導入するため。人件費のためでなくユーザーの効率向上とあわせ生産性・品質向上が目的
- [23]方法論研究の成果を海外に論文発表し批判の矢面にも立つ。国内ではソフト研究発表はメーカー開発部門・研究所の一部のみで、国際的に発言できる素地を作りたい。海外学会に入社1〜2年生を含め年に2〜3割の社員を派遣。標準化・特許権の議論のためにも世界への発言と交流が必要
- [24]方法論研究の成果を海外に論文発表し批判の矢面にも立つ。国内ではソフト研究発表はメーカー開発部門・研究所の一部のみで、国際的に発言できる素地を作りたい。海外学会に入社1〜2年生を含め年に2〜3割の社員を派遣。標準化・特許権の議論のためにも世界への発言と交流が必要
- [25]方法論研究の成果を海外に論文発表し批判の矢面にも立つ。国内ではソフト研究発表はメーカー開発部門・研究所の一部のみで、国際的に発言できる素地を作りたい。海外学会に入社1〜2年生を含め年に2〜3割の社員を派遣。標準化・特許権の議論のためにも世界への発言と交流が必要
- [27]方法論研究の成果を海外に論文発表し批判の矢面にも立つ。国内ではソフト研究発表はメーカー開発部門・研究所の一部のみで、国際的に発言できる素地を作りたい。海外学会に入社1〜2年生を含め年に2〜3割の社員を派遣。標準化・特許権の議論のためにも世界への発言と交流が必要
- 証券アナリストジャーナル 28(1) 1990年1月(丸森隆吾 講演要旨)
- [17]利益はすべて技術投資に充てる姿勢で22年間やってきた(1989年12月18日講演)
- [20]1980年に日本で初めてUNIXを導入、以後10年それを核に開発環境を拡充。UNIXはAT&Tベル研究所開発のOS。異機種間接続のワークステーション事業を展開(1989年12月講演)
- [22]1980年に日本で初めてUNIXを導入、以後10年それを核に開発環境を拡充。UNIXはAT&Tベル研究所開発のOS。異機種間接続のワークステーション事業を展開(1989年12月講演)
- [26]1989年12月時点でロンドン・ホノルル・コロラドに拠点。海外の研究者と共同でソフト設計の機械化を研究
出典・参考
2件
- 証券アナリストジャーナル 28(1) 1990年1月(丸森隆吾 講演要旨)
- 情報化研究 (101) 1990年5月「この人この話 丸森隆吾氏 (株)SRA代表取締役社長」