御幸毛織:舶来洋服地に対抗した広幅織物と庄内川工場の焼失
1905年〜祖父江利一郎の織布工場と英国製力織機の輸入
名古屋の毛織物工業は1892、93年ごろの綿毛布業に始まり、1904年に津島市の片岡工場が着尺セル地を織り始めて以来、梳毛織物が盛んになった。着尺セル地は少量ずつ織り分けねばならず、この製品特性が中小企業の生産規模に適合したとみられる。国内の羊毛工業の出発点は、軍官需向けの絨や毛布のような厚手の製品だった。一方、民需向けで好まれたのは、絹の感触に近いモスリンや着尺セルである。産地の伸びは速く、1927年には全国の生産のうち着尺セル地の97%、洋服用サージの69%を占めた。ただし梳毛紡績の上級糸にあたるトップは輸入に頼るしかなく、この状態は日本毛織が1909年に梳毛紡績へ乗り出すまで続いた。産地に織る技術は育ったが、国内では糸を作る工程が足りなかったのである。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- [1]名古屋地方の毛織工業は明治25、26年の綿毛布業に始まり、明治37年に津島市の片岡工場が着尺セル地を織り始めて以来、特に梳毛織物の隆昌をみた
- [2]着尺セル地は小量ずつ織らねばならないので、中小企業の特性に適合したためと思われる
- [3]わが国の羊毛工業は軍官需用の絨、毛布等厚手のものから始まったが、民需向けとしては絹の感触に近いモスリン、着尺セル等が好まれた
- [4]昭和2年には着尺セル地は全国生産の97%、洋服用サージも69%を占めるに至った
- [5]トップは明治42年に日本毛織が梳毛紡績を始めるまでは、なお輸入品を使用せねばならなかった
創業者の祖父江利一郎氏が名古屋で創業したのは1905年1月8日である。御幸毛織は明治38年にあたるこの年を創業年としている。もっとも前身は1908年に"御幸工場"の名で存在し、着尺セルを主要製品として綿毛交織品なども製造していた。前身の始まりを1908年に置く年次は、会社の掲げる創業年と一致しない。株式会社への改組は1918年11月27日で、愛知県西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地に資本金50万円をもって設立された。公称資本金は100万円で、払込はその半額にとどまった。設立の地である西志賀の1916番地には、後年まで本社と西志賀工場が置かれた。
- 御幸毛織株式会社 2024年10月30日「糸から服まで一貫生産にこだわる御幸毛織、「120周年特設サイト」を開設しました。」(PR TIMES)
- [6]明治38年(1905)の創業以来。祖父江利一郎により、名古屋に創業。2025年1月8日に創業120年を迎える
- [7]御幸毛織は「明治38年(1905)の創業以来」と記し、1905年を創業年としている
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [8]前身は1908年に「御幸工場」として存在し、着尺セルを主要製品として綿毛交織品等を製造していた
- [9]八十年史が前身の始まりとする1908年は、会社が創業年とする1905年と一致しない
- 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
- [10]1918年11月27日、愛知県西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地に資本金50万円をもって設立
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [11]設立時の公称資本金は100万円、払込資本金は50万円だった
- [12]本社 名古屋市西区西志賀町1916(西志賀工場)
設立当初の御幸毛織は純毛セル地の製織を主とし、あわせて四幅服地を織った。やがて広幅洋服地の生産に着目し、英国製の力織機を輸入した。原料には豪州羊毛を使い、範を英国製品に採って研究を重ねた。そこへ欧州大戦が重なり、舶来洋服地の輸入が困難になった。大戦中の羊毛業界は空前の好況に恵まれ、各社が増資して設備を広げるなかで御幸毛織ほか数社が新たに設立された。この輸入難に刺激され、御幸毛織は四幅服地の製織へさらに研究の歩を進めた。1919年の第1期営業報告書では、今後の競争優位・劣位を分けるのは技術本位、すなわち品質の優劣であるとした。徹底した設備と広い研究を積み、輸入品に対抗する準備を整えることを掲げた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [13]設立時は純毛セル地の製織を主に、四幅服地の製織を行なった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [14]時勢の進展に伴い広幅洋服地の生産に着目し、英国製力織機を輸入した
- [15]濠州羊毛を使用し、範を英国製品に採って研究を重ねた
- [16]欧州大戦に際会し、舶来洋服地の輸入が困難となった
- [18]輸入難に刺激され、四幅服地の製織に研究の歩を進めた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- [17]欧州大戦中は空前の好況に恵まれ、各社とも増資して設備を拡張するとともに、御幸毛織その他数社の創立をみた
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- [19]1919年の第1期営業報告書に「今後ノ勝敗ハ一ニ技術本位、即チ品質ノ優劣如何ニヨリ岐ルル」とある
- [20]第1期営業報告書は徹底した設備と研究の蓄積により輸入品に対抗する準備を掲げた
参考文献[1]-[20]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- [1]名古屋地方の毛織工業は明治25、26年の綿毛布業に始まり、明治37年に津島市の片岡工場が着尺セル地を織り始めて以来、特に梳毛織物の隆昌をみた
- [2]着尺セル地は小量ずつ織らねばならないので、中小企業の特性に適合したためと思われる
- [3]わが国の羊毛工業は軍官需用の絨、毛布等厚手のものから始まったが、民需向けとしては絹の感触に近いモスリン、着尺セル等が好まれた
- [4]昭和2年には着尺セル地は全国生産の97%、洋服用サージも69%を占めるに至った
- [5]トップは明治42年に日本毛織が梳毛紡績を始めるまでは、なお輸入品を使用せねばならなかった
- [17]欧州大戦中は空前の好況に恵まれ、各社とも増資して設備を拡張するとともに、御幸毛織その他数社の創立をみた
- [6]明治38年(1905)の創業以来。祖父江利一郎により、名古屋に創業。2025年1月8日に創業120年を迎える
- [7]御幸毛織は「明治38年(1905)の創業以来」と記し、1905年を創業年としている
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [8]前身は1908年に「御幸工場」として存在し、着尺セルを主要製品として綿毛交織品等を製造していた
- [9]八十年史が前身の始まりとする1908年は、会社が創業年とする1905年と一致しない
- [14]時勢の進展に伴い広幅洋服地の生産に着目し、英国製力織機を輸入した
- [15]濠州羊毛を使用し、範を英国製品に採って研究を重ねた
- [16]欧州大戦に際会し、舶来洋服地の輸入が困難となった
- [18]輸入難に刺激され、四幅服地の製織に研究の歩を進めた
- 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
- [10]1918年11月27日、愛知県西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地に資本金50万円をもって設立
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [11]設立時の公称資本金は100万円、払込資本金は50万円だった
- [12]本社 名古屋市西区西志賀町1916(西志賀工場)
- [13]設立時は純毛セル地の製織を主に、四幅服地の製織を行なった
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- [19]1919年の第1期営業報告書に「今後ノ勝敗ハ一ニ技術本位、即チ品質ノ優劣如何ニヨリ岐ルル」とある
- [20]第1期営業報告書は徹底した設備と研究の蓄積により輸入品に対抗する準備を掲げた
1920年〜南米・中国・インドへ拡大した市場と庄内川工場の梳毛紡績
1923年9月の関東大震災は東京地方の羊毛工場に致命的な打撃を与え、減資や破産が少なくなかった。だがこれを機に生活様式の洋風化が顕著に進み、洋服地の需要はむしろ増加した。厚手の軍官需品から出発した日本の羊毛工業に、民間の洋服地という市場が開いたのである。御幸毛織が続けてきた四幅服地の製織研究は1920年代後半に実を結び、舶来製品に劣らない優秀品を国産服地として製造することに成功した。英国製の力織機に豪州羊毛を通し、範を英国製品に採るという設立以来の道筋が、ここで初めて製品の形をとった。第1期営業報告書に掲げた輸入品への対抗は、およそ10年をかけて達成された。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- [21]大正12年9月の関東大震災により東京地方の工場は致命的な打撃を受け、減資、破産が少なくなかった
- [22]関東大震災を機に生活様式の洋風化が顕著に行われたため、洋服地の需要増加もみられた
- [23]わが国の羊毛工業は軍官需用の絨、毛布等厚手のものから始まった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [24]昭和初年(1926年以降)に、国産服地として舶来製品に劣らぬ優秀品の製造に成功した
- [25]英国製力織機を輸入し濠州羊毛を使用して範を英国製品に採り、研究を重ねた結果、優秀品の製造に成功した
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- [26]1919年の第1期営業報告書は徹底した設備と研究の蓄積により輸入品に対抗する準備を掲げた
製品は内需に応じただけでなく、南米、中国、インドをはじめとする各地に市場を開拓した。市場が広がったのは、国産服地が舶来製品に並ぶ水準へ達した後のことである。同じころ東京の羊毛各社はデフレ政策のもとで行き詰まり、1929年には後藤毛織、東洋モスリン、合同毛織が相次いで破綻した。1930年代に入ると円為替の切下げと満州、華北への勢力圏の拡大につれて羊毛製品の輸出が伸び、1937、38年ごろには日本の生産設備も輸出高もともに世界第5位に達した。御幸毛織が広幅洋服地で出た市場は、国内の需要にとどまらず、こうして開いた輸出の版図と重なっていた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [27]内需はもちろん、南米、中国、インド等の各地に市場を開拓した
- [28]昭和初年に国産服地として舶来製品に劣らぬ優秀品の製造に成功した結果、内需はもちろん南米、中国、インド等の各地に市場を開拓するに至った
- [31]御幸毛織は広幅洋服地の生産に着目して四幅服地の製織に成功し、内需と南米、中国、インド等の市場を開拓した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- [29]デフレ政策により昭和4年に至って後藤毛織、東洋モスリン、合同毛織も破綻した
- [30]円為替切下げ、満州、華北等への勢力圏拡大につれて輸出も大いにふるい、昭和12、13年ころには生産設備は世界第5位、輸出高も世界第5位となった
1934年10月、愛知県西春日井郡山田村、現在の名古屋市西区山田町に庄内川工場が竣工した。同工場は毛紡績工場として操業を開始し、御幸毛織はここで毛糸紡績に着手した。据えたのは梳毛紡績の設備だった。前身の御幸工場が着尺セルを織り始めてから四半世紀を経て、御幸毛織は織る工程だけを持つ織屋から、糸をつくる工程を自ら抱える会社へ動いた。もっともこの設備が動いた期間は、結局11年に満たなかった。梳毛の上級糸を長く輸入と他社に頼ってきた産業にあって、自ら紡ぐ設備を持つことは、製品の品質を決める原料をどこまで自分で握れるかという問いへの答えだった。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [32]1934年10月、愛知県西春日井郡山田村(現・名古屋市西区山田町)に庄内川工場を建設し竣工した
- [36]1934年10月に毛糸紡績に着手した庄内川工場は、1945年5月の戦災で焼失した
- 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】 / ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [33]庄内川工場は毛紡績工場として操業を開始し、毛糸紡績に着手した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [34]庄内川工場は梳毛紡績工場として新設された
- [35]前身の御幸工場は着尺セルを主要製品としていたが、1934年10月の庄内川工場で毛糸紡績に着手した
参考文献[21]-[36]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- [21]大正12年9月の関東大震災により東京地方の工場は致命的な打撃を受け、減資、破産が少なくなかった
- [22]関東大震災を機に生活様式の洋風化が顕著に行われたため、洋服地の需要増加もみられた
- [23]わが国の羊毛工業は軍官需用の絨、毛布等厚手のものから始まった
- [29]デフレ政策により昭和4年に至って後藤毛織、東洋モスリン、合同毛織も破綻した
- [30]円為替切下げ、満州、華北等への勢力圏拡大につれて輸出も大いにふるい、昭和12、13年ころには生産設備は世界第5位、輸出高も世界第5位となった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [24]昭和初年(1926年以降)に、国産服地として舶来製品に劣らぬ優秀品の製造に成功した
- [25]英国製力織機を輸入し濠州羊毛を使用して範を英国製品に採り、研究を重ねた結果、優秀品の製造に成功した
- [27]内需はもちろん、南米、中国、インド等の各地に市場を開拓した
- [28]昭和初年に国産服地として舶来製品に劣らぬ優秀品の製造に成功した結果、内需はもちろん南米、中国、インド等の各地に市場を開拓するに至った
- [31]御幸毛織は広幅洋服地の生産に着目して四幅服地の製織に成功し、内需と南米、中国、インド等の市場を開拓した
- [34]庄内川工場は梳毛紡績工場として新設された
- [35]前身の御幸工場は着尺セルを主要製品としていたが、1934年10月の庄内川工場で毛糸紡績に着手した
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- [26]1919年の第1期営業報告書は徹底した設備と研究の蓄積により輸入品に対抗する準備を掲げた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [32]1934年10月、愛知県西春日井郡山田村(現・名古屋市西区山田町)に庄内川工場を建設し竣工した
- [36]1934年10月に毛糸紡績に着手した庄内川工場は、1945年5月の戦災で焼失した
- 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】 / ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [33]庄内川工場は毛紡績工場として操業を開始し、毛糸紡績に着手した
1937年〜羊毛統制が閉じた民需市場と東洋紡績への全株式移譲
日華事変が始まると、羊毛工業は制度の側から圧迫を受けた。1937年10月に毛製品スフ混用規則が施行され、1938年3月には羊毛のリンク制が実施された。ついには内需用のセル地は生産そのものが禁じられた。原毛が不足したため各社は雑繊維の混用を余儀なくされ、最後には機械設備の供出にも応じなければならなかった。着尺セル地は前身の御幸工場以来の主要製品であり、御幸毛織はこの禁止によって出発点の製品を失った。1941年10月には陸軍管理工場の指定を受け、以後は軍絨の製織に従事した。1934年に据えた庄内川工場の梳毛紡績設備は、将校用軍絨を織るための設備になった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- [37]日華事変のため羊毛工業は非常な圧迫を被らねばならなかった
- [38]昭和12年10月に毛製品スフ混用規則が行われ、13年3月には羊毛のリンク制が実施された
- [39]ついには内需用セル地の生産禁止さえあった
- [40]原毛不足のため雑繊維の混用を余儀なくされ、あげくの果には機械設備の供出さえもしなければならなかった
- [42]内需用セル地の生産禁止により、内需向けの着尺セル地は生産できなくなった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [41]前身の御幸工場は着尺セルを主要製品として綿毛交織品等を製造していた
- [44]庄内川工場は軍指定工場となり、将校用軍絨の製造を開始した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [43]1941年10月、陸軍管理工場に指定され軍絨製織に従事した
1941年3月、御幸毛織は資本金10万円の猪飼毛織工場を吸収合併した。翌1942年5月、企業合同により東洋紡績株式会社の傘下に入った。戦局の進展に伴う時局の要請により、御幸毛織は全株式を東洋紡績へ移譲した。東洋紡績は1941年に琴浦紡績、伊丹製絨所、三重製絨所など6社を、1942年には東洋毛糸紡績、東洋毛織工業、日本毛糸紡績の3社を合併しており、羊毛部門をこの2年で一気に集めていた。合併された各社が法人格を失ったのに対し、御幸毛織がとったのは株式の移譲という形で、社名も会社も残った。株式の移譲を経て、御幸毛織は東洋紡績の傍系会社として新発足した。
- 証券 1962年7月号
- [45]1941年3月、資本金10万円の猪飼毛織工場を合併した
- 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
- [46]1942年5月、企業合同により東洋紡績株式会社の傘下に入った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [47]戦局の進展に伴う時局の要請により、全株式を東洋紡績に移譲した
- [50]東洋紡績の傍系会社として新発足した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「東洋紡績」
- [48]東洋紡績は昭和16年に琴浦紡績、伊丹製絨所、三重製絨所、吉見紡績、和泉織物、内外紡績を、17年に東洋毛糸紡績、東洋毛織工業、日本毛糸紡績を合併した
- [49]東洋紡績が昭和16、17年に合併した各社に対し、御幸毛織は全株式の移譲により傍系会社となった
1945年5月、御幸毛織は空襲により庄内川工場を焼失した。1934年に据えた毛紡績の設備は、この戦災で失われた。同年8月、終戦により陸軍管理工場の指定は解消された。業界では梳毛10万錘、紡毛20セットを単位とする企業統合が進み、梳毛の30数社が7社に集約されていた。加えて戦災を受けた工場が多かったため、終戦時の設備は梳毛でおよそ4分の1、紡毛で2分の1に減り、生産高は約10分の1まで落ち込んだ。本社と織布設備を置いた西志賀の1916番地は戦後も動かず、御幸毛織はそこから焼けた諸設備の整備拡充に入った。量ではなく品質を競争の軸に据えてきた会社にとって、失ったのは設備であって、競争優位の源泉そのものではなかった。
- 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
- [51]1945年5月、空襲により庄内川工場が焼失した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [52]1934年10月に毛糸紡績に着手した庄内川工場を、1945年5月の戦災で焼失した
- [53]1945年8月、終戦により陸軍管理工場の指定を解消した
- [56]本社 名古屋市西区西志賀町1916(西志賀工場)。西志賀工場は織物、染色整理加工を担った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- [54]梳毛は10万錘、紡毛は20セットを単位とする企業統合が行われ、梳毛30数社が7社に集約された
- [55]多くの戦災工場があったため、終戦時の設備はおおよそ梳毛は4分の1、紡毛は2分の1に減り、生産高も約10分の1になった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [57]庄内川工場は戦災を受けたが、いち早く工場諸設備を整備拡充し、急速なる技術の回復と生産の増強を図った
参考文献[37]-[57]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- [37]日華事変のため羊毛工業は非常な圧迫を被らねばならなかった
- [38]昭和12年10月に毛製品スフ混用規則が行われ、13年3月には羊毛のリンク制が実施された
- [39]ついには内需用セル地の生産禁止さえあった
- [40]原毛不足のため雑繊維の混用を余儀なくされ、あげくの果には機械設備の供出さえもしなければならなかった
- [42]内需用セル地の生産禁止により、内需向けの着尺セル地は生産できなくなった
- [54]梳毛は10万錘、紡毛は20セットを単位とする企業統合が行われ、梳毛30数社が7社に集約された
- [55]多くの戦災工場があったため、終戦時の設備はおおよそ梳毛は4分の1、紡毛は2分の1に減り、生産高も約10分の1になった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- [41]前身の御幸工場は着尺セルを主要製品として綿毛交織品等を製造していた
- [44]庄内川工場は軍指定工場となり、将校用軍絨の製造を開始した
- [47]戦局の進展に伴う時局の要請により、全株式を東洋紡績に移譲した
- [50]東洋紡績の傍系会社として新発足した
- [57]庄内川工場は戦災を受けたが、いち早く工場諸設備を整備拡充し、急速なる技術の回復と生産の増強を図った
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- [43]1941年10月、陸軍管理工場に指定され軍絨製織に従事した
- [52]1934年10月に毛糸紡績に着手した庄内川工場を、1945年5月の戦災で焼失した
- [53]1945年8月、終戦により陸軍管理工場の指定を解消した
- [56]本社 名古屋市西区西志賀町1916(西志賀工場)。西志賀工場は織物、染色整理加工を担った
- 証券 1962年7月号
- [45]1941年3月、資本金10万円の猪飼毛織工場を合併した
- 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
- [46]1942年5月、企業合同により東洋紡績株式会社の傘下に入った
- [51]1945年5月、空襲により庄内川工場が焼失した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「東洋紡績」
- [48]東洋紡績は昭和16年に琴浦紡績、伊丹製絨所、三重製絨所、吉見紡績、和泉織物、内外紡績を、17年に東洋毛糸紡績、東洋毛織工業、日本毛糸紡績を合併した
- [49]東洋紡績が昭和16、17年に合併した各社に対し、御幸毛織は全株式の移譲により傍系会社となった
筆者考察
御幸毛織が創業期に選んだのは、量を増やす道ではなく、輸入品と品質で並ぶ道だった。名古屋の毛織物産地は着尺セル地という少量多品種の製品で育ち、1927年には全国生産の97%を占めるまでになっていたが、梳毛の上級糸は長く輸入に頼っていた。織る技術はあっても糸をつくる工程が育っていない産地で、1918年に株式会社となった御幸毛織は、英国製の力織機を買い、豪州羊毛を通し、英国製品を手本に据えた。欧州大戦で舶来洋服地が入らなくなると、需要に空白が生まれ、同時に比べられる相手が目の前から消えた。第1期営業報告書が競争の分かれ目を技術本位、すなわち品質の優劣に置いたのは、空白を埋める量ではなく、やがて戻ってくる輸入品に耐える質を見ていたからである。
品質だけを競争の軸に据えた会社は、制度の変化に弱かった。舶来品に並ぶ服地をつくれるようになった御幸毛織は、南米、中国、インドへ市場を広げ、1934年には庄内川工場で梳毛紡績まで自ら抱えた。ところが1937年10月の毛製品スフ混用規則に始まる統制のもとで、会社は原料を選ぶ自由を失う。雑繊維を混ぜよと命じられ、内需用のセル地は生産を禁じられ、機械は供出させられた。良い原料を良い技術で織るという一点で立っていた会社にとって、これは市場を失う以上の打撃である。1942年の全株式移譲で東洋紡績の傍系となり、1945年5月には庄内川工場の紡績設備を空襲で失った。東洋紡績が同じ2年間に9社を合併で消したなかで、御幸毛織は社名も会社も残した。
出典・参考
9件
- 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】 / ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- 御幸毛織 有価証券報告書【沿革】
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「概説」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 03_羊毛「御幸毛織」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「東洋紡績」
- 証券 1962年7月号
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「御幸毛織」
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- 御幸毛織株式会社 2024年10月30日「糸から服まで一貫生産にこだわる御幸毛織、「120周年特設サイト」を開設しました。」(PR TIMES)