第2章 年〜年

マツキヨココカラ&カンパニー:松戸の薬局からチェーン展開まで

1966年〜市を会社に見立てた松本清市長と、3人の息子による事業の分割継承

松本清氏は千葉県議会議員を6期務めたのち松戸市長に転じ、1969年に市役所へ「すぐやる課」を新設した。就任の際には、市を会社に、職員を社員に、市民を客に見立てて働くよう職員へ求めたという。住民の頼みを窓口で即座に片づける課の方式は、ほどなく各地の自治体へ波及した。1973年には、すぐやる課やながいき課の窓口から保育所・学校の施設までを30分に収めた市の記録映画が撮られた。のちの書評は、この課を店の経営理念を市政へ移したものと位置づけ、その遺訓が営業の中心に残ると記した。もっとも、創業者が政治に軸足を置いた間、店は2店にとどまっていた。行政で名を得た応対の速さは、店を増やす段で看板として生きる資産になったとみられる。

  • 長銀総合研究所「長銀総研L 15(1)(168)」(1998年1月)
    • [1]松本清は千葉県議を6期務めて松戸市長となり、すぐやる課は1969年(昭和44年)に開設された
    • [2]市長就任時、市を株式会社、職員を社員、市民を客とみなす考えを職員に示した(和那の回想)
    • [6]先代(松本清)の頃は店舗数が2店で会社の規模も小さかった
  • 戦略経営者 14(1) 1999年1月号「松本和那――『すぐやる』意識を強く持て」
    • [3]松戸市長時代に設けたすぐやる課は全国の自治体に波及した
  • 市政 22(11) 1973年11月号「故松本清氏の業績を映画化」
    • [4]1973年、すぐやる課・ながいき課の窓口や保育所・学校施設を収めた30分の市政映画の撮影が進んだ
  • 月刊カレント 35(10) 1998年11月号「新刊寸評――私がマツモトキヨシです」
    • [5]すぐやる課は同社の経営理念を市政に応用したもので、先代の遺訓はいまも営業の中心とされる

創業者の松本清氏は1973年に没し、事業は3人の息子が分けて継いだ。長男の和那氏は1975年に社長となり、同じ年に千葉県議会議員に当選して政治との兼業に入った。次男の南海雄氏も同年に専務へ上がり、やがて薬粧とホームセンターを、三男の鉄男氏はスーパーを受け持つ体制が固まった。兄弟は互いの部門に干渉しない取り決めを守り、社長の和那氏は自らを部門間の調整役と位置づけた。その和那氏も、兄弟の内部分裂を経営上の最大の危険とみていた。和那氏は後年、店が増え始めたのは自分の代からで、兼業を続けられたのは県議の仕事量だったからだと振り返った。議員を兼ねる長男一人に決定を集めず、部門ごとに兄弟へ権限を割ったのは、社長が社を空けることを織り込んだ分担だったのだろう。

  • 市政 22(11) 1973年11月号「故松本清氏の業績を映画化」
    • [7]1973年11月号で松本清は前市長の故人として業績記録映画の撮影が報じられた
  • 政界 23(7) 2001年7月号「マツモトキヨシに起きた経営者一族の内紛」(舘澤貢次)
    • [8]創業者の死後、3人の息子による経営体制で推移した
    • [13]両副社長は部門を分けて持ち、互いの領域には口を挟まない経営形態を守った
  • 実業往来 543 1997年9月号(山岡俊介)
    • [9]和那は1975年に社長に就任した
  • 日経ビジネス 2001年4月2日号
    • [10]和那は1975年に千葉県議会議員に当選した
    • [11]南海雄は1970年営業部部長、1975年専務
    • [12]薬粧・ホームセンター事業を南海雄、スーパー事業を鉄男が担当した
  • ビジネス・インテリジェンス 12(9) 1998年9月号「岩瀬恵子のビジネストーク――マツモトキヨシ社長・衆議院議員 松本和那」
    • [14]3人が部門別に仕切り、和那は自らをそのコントロール役と述べた(1998年)
    • [15]和那は一番怖いのは内部分裂だと述べた(1998年)
  • 長銀総合研究所「長銀総研L 15(1)(168)」(1998年1月)
    • [16]店舗が増えたのは和那の代からで、経営と政治の兼業を続けられたのは県議だったからだと和那が回想した
参考文献[1]-[16]
  • 長銀総合研究所「長銀総研L 15(1)(168)」(1998年1月)
    • [1]松本清は千葉県議を6期務めて松戸市長となり、すぐやる課は1969年(昭和44年)に開設された
    • [2]市長就任時、市を株式会社、職員を社員、市民を客とみなす考えを職員に示した(和那の回想)
    • [6]先代(松本清)の頃は店舗数が2店で会社の規模も小さかった
    • [16]店舗が増えたのは和那の代からで、経営と政治の兼業を続けられたのは県議だったからだと和那が回想した
  • 戦略経営者 14(1) 1999年1月号「松本和那――『すぐやる』意識を強く持て」
    • [3]松戸市長時代に設けたすぐやる課は全国の自治体に波及した
  • 市政 22(11) 1973年11月号「故松本清氏の業績を映画化」
    • [4]1973年、すぐやる課・ながいき課の窓口や保育所・学校施設を収めた30分の市政映画の撮影が進んだ
    • [7]1973年11月号で松本清は前市長の故人として業績記録映画の撮影が報じられた
  • 月刊カレント 35(10) 1998年11月号「新刊寸評――私がマツモトキヨシです」
    • [5]すぐやる課は同社の経営理念を市政に応用したもので、先代の遺訓はいまも営業の中心とされる
  • 政界 23(7) 2001年7月号「マツモトキヨシに起きた経営者一族の内紛」(舘澤貢次)
    • [8]創業者の死後、3人の息子による経営体制で推移した
    • [13]両副社長は部門を分けて持ち、互いの領域には口を挟まない経営形態を守った
  • 実業往来 543 1997年9月号(山岡俊介)
    • [9]和那は1975年に社長に就任した
  • 日経ビジネス 2001年4月2日号
    • [10]和那は1975年に千葉県議会議員に当選した
    • [11]南海雄は1970年営業部部長、1975年専務
    • [12]薬粧・ホームセンター事業を南海雄、スーパー事業を鉄男が担当した
  • ビジネス・インテリジェンス 12(9) 1998年9月号「岩瀬恵子のビジネストーク――マツモトキヨシ社長・衆議院議員 松本和那」
    • [14]3人が部門別に仕切り、和那は自らをそのコントロール役と述べた(1998年)
    • [15]和那は一番怖いのは内部分裂だと述べた(1998年)

1974年〜スーパー事業と千葉県内の出店

1975年に薬局開設の距離制限が撤廃されると、マツモトキヨシの店の近くでも駅ビルやスーパーの中に薬局コーナーが設けられ始めた。マツモトキヨシはこれに応じ、1976年9月に松戸市内の大金平店を1号店としてスーパー事業に参入した。当時は大店法の出店規制が厳しく、その網にかからない中規模の店でも採算が立ち、近隣より安い値付けで客を集めた。1978年10月には新松戸にコンビニの1号店も開き、スーパーは1979年に10店を数えた。のちに副社長となる国行清は、スーパーの売上は品ぞろえの厚さで決まるとみて、行けば何でも手に入る店という評判を広めることを狙った。距離制限という立地の守りが外れた局面で、薬を売る場そのものを自社の業態に取り込む手を選んだと思われる。

  • 実業往来 543 1997年9月号(山岡俊介)
    • [17]1975年の規制緩和で薬局の距離制限が撤廃され、同社店舗近くの駅ビルやスーパー内に薬局コーナーができるようになった(関係者談)
    • [18]対応としてスーパー事業に参入し、1976年9月に松戸市内の大金平店を1号店とした
    • [19]大店法の規制が強く、同法にかからない中規模スーパーでも成り立ち、近所より安く売って業績を伸ばした
    • [20]1978年10月、松戸市内のベンリー新松戸店を1号店としてコンビニ事業に進出した
    • [21]スーパーは1979年に10店になった
  • 日本経済新聞社『千葉の中堅130社』(1988年4月)
    • [22]国行清副社長はスーパーの売上は商品の豊富さで決まるとみて、何でもそろうという評判を広めたいとした(1988年)

出店は松戸に集中し、東京のベッドタウンとして街が膨らむ速さと店の増え方が重なったという。店が一つの地域に固まっていれば、チラシは一度の配布で行き渡り、人手や商品の融通も店どうしで利かせやすかった。1988年4月の店舗は松戸37、柏25、我孫子7、都内27を軸に、周辺各県を合わせて174店に達した。国行清副社長は、薬局の売上は立地に比例し、人通りの多い通りで確かな知識の店員を置けば採算が立つとみていた。一方でスーパーは1986年に20店に増えたが、1980年代後半に大店法の運用が緩むと、品ぞろえと価格で上回る大手の大型店が県内に出てきた。千葉県内の出店余地も、この頃までにあらかた埋まっていた。薬局とスーパーの併営のままでは県内の伸びしろが尽きかけ、薬粧に絞って首都圏へ出る判断が次の課題として残ったと推察される。

  • 長銀総合研究所「長銀総研L 15(1)(168)」(1998年1月)
    • [23]松戸に集中出店し、出店のペースと松戸がベッドタウンとして発展するペースが合っていた(和那の回想)
    • [24]一点集中の出店でチラシ配布が一回で済み、人と商品のやりくりが容易になった(和那の回想)
  • 日本経済新聞社『千葉の中堅130社』(1988年4月)
    • [25]1988年4月時点の店舗は松戸37、柏25、我孫子7、都内27、ほか神奈川・埼玉・茨城・福島・秋田など計174店
    • [26]国行清副社長は、薬局の売上は立地の良し悪しに比例し、人通りの絶えない通りでスタッフの知識が確かなら採算性が高いとみていた
  • 実業往来 543 1997年9月号(山岡俊介)
    • [27]スーパーは1986年に20店舗となった
    • [28]1980年代後半から大店法の規制が緩和され、品ぞろえが豊富で価格の安い大型店を大手スーパーが県内各地に出店した
    • [29]上野進出(1987年)の時点で千葉県内にはあらかた出店していた(事情通談)
参考文献[17]-[29]
  • 実業往来 543 1997年9月号(山岡俊介)
    • [17]1975年の規制緩和で薬局の距離制限が撤廃され、同社店舗近くの駅ビルやスーパー内に薬局コーナーができるようになった(関係者談)
    • [18]対応としてスーパー事業に参入し、1976年9月に松戸市内の大金平店を1号店とした
    • [19]大店法の規制が強く、同法にかからない中規模スーパーでも成り立ち、近所より安く売って業績を伸ばした
    • [20]1978年10月、松戸市内のベンリー新松戸店を1号店としてコンビニ事業に進出した
    • [21]スーパーは1979年に10店になった
    • [27]スーパーは1986年に20店舗となった
    • [28]1980年代後半から大店法の規制が緩和され、品ぞろえが豊富で価格の安い大型店を大手スーパーが県内各地に出店した
    • [29]上野進出(1987年)の時点で千葉県内にはあらかた出店していた(事情通談)
  • 日本経済新聞社『千葉の中堅130社』(1988年4月)
    • [22]国行清副社長はスーパーの売上は商品の豊富さで決まるとみて、何でもそろうという評判を広めたいとした(1988年)
    • [25]1988年4月時点の店舗は松戸37、柏25、我孫子7、都内27、ほか神奈川・埼玉・茨城・福島・秋田など計174店
    • [26]国行清副社長は、薬局の売上は立地の良し悪しに比例し、人通りの絶えない通りでスタッフの知識が確かなら採算性が高いとみていた
  • 長銀総合研究所「長銀総研L 15(1)(168)」(1998年1月)
    • [23]松戸に集中出店し、出店のペースと松戸がベッドタウンとして発展するペースが合っていた(和那の回想)
    • [24]一点集中の出店でチラシ配布が一回で済み、人と商品のやりくりが容易になった(和那の回想)

1966年〜1986年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1966年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1977年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1978年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1979年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1980年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1981年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1982年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1983年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1984年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1985年09月期 単体 343 n/a 3 0.9% n/a
1986年09月期 単体 376 +9.6% 4 1.1% n/a

出所:千葉の中堅130社

出典・参考

9件
出典・参考
  • 市政 22(11) 1973年11月号「故松本清氏の業績を映画化」
  • 実業往来 543 1997年9月号(山岡俊介)
  • 月刊カレント 35(10) 1998年11月号「新刊寸評――私がマツモトキヨシです」
  • ビジネス・インテリジェンス 12(9) 1998年9月号「岩瀬恵子のビジネストーク――マツモトキヨシ社長・衆議院議員 松本和那」
  • 戦略経営者 14(1) 1999年1月号「松本和那――『すぐやる』意識を強く持て」
  • 政界 23(7) 2001年7月号「マツモトキヨシに起きた経営者一族の内紛」(舘澤貢次)
  • 日経ビジネス 2001年4月2日号
  • 日本経済新聞社『千葉の中堅130社』(1988年4月)
  • 長銀総合研究所「長銀総研L 15(1)(168)」(1998年1月)

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