第1章 年〜年

J.フロント リテイリング:大丸の八重洲口出店と業界首位

1952年〜東京進出という大冒険 ── 八重洲口に賭けた大丸

1952年秋の東京では、日本橋高島屋と銀座松坂屋の増築が完成し、接収を解かれた松屋の再開も決まるなかで、戦前から機会をうかがっていた大阪勢が一斉に東京進出へ動き出していた。なかでも大丸が建設地に選んだのが、東京駅八重洲口だった。日本橋には三越・高島屋・白木屋が陣を敷いており、三越側は大阪式の商法が東京で通用するはずはないと構えながらも、対策に追われていたという。銀座では松坂屋が売場面積6000坪の銀座一の店となり、三越は1500万円をかけて外装を直し、台所用品売場をなくして専門店化へ舵を切っていた。池袋や新宿でも関西勢と電鉄各社の出店計画が交錯し、商戦は東京の主要ターミナル全域へ広がっていった。

  • 読売新聞(1952年11月23日)
    • [1]1952年当時、日本橋高島屋・銀座松坂屋の増築完成や松屋の接収解除に加え、大阪勢の東京進出計画が重なり東京の百貨店競争が激化していた
    • [2]大丸は東京進出の建設地として東京駅八重洲口をねらっていた
    • [3]三越は大阪式の商法は東京では通用しないとしながらも対策に追われていた
    • [4]1952年当時、松坂屋は売場面積6000坪の銀座一の百貨店となり、三越は1500万円の外装工事と台所用品売場の廃止で専門店化を進めていた

八重洲口に向かう人の流れは足早に変わっていき、1955年には東京駅の乗降客が平日でも52万人に達し、その6割が八重洲口を利用して、丸の内側が表玄関だという常識は崩れていた。その前年、1954年の株式評は同社側の見方として、東京進出は大丸にとって大冒険で成否が今後の盛衰を分ける、産業界全体で景気が下向いている時期だけに東京店の伸びはしばらく望めない、と伝えていた。進出当時の八重洲口は外堀の埋め残しで荒涼としており、目をつける者は少なかったが、大丸は国鉄がそこに12階建ての建物を計画していると聞いて動いた。当時の八重洲口は、駅の裏の入り口こそあったものの、埋めていない外堀の溝に大きな石や瓦、丸太が放り込まれた状態だった『いまこそ目抜通りといわれますが、あの当時には、まだ外堀の跡が埋めてないので、溝で、中には大きな石や瓦がほかってあったり丸太があったり、汚くてしょうがない』。

  • 読売新聞(1955年5月21日)
    • [5]1955年当時、東京駅の乗降客は平日でも52万人あり、その6割が八重洲口を利用していた
  • 読売新聞(1954年10月21日)
    • [6]東京進出は当社にとって大冒険で当たるかどうかが今後の盛衰を決する、景気後退期で東京店の伸びは当面期待できないとされていた
  • 野田経済 1961年3月号
    • [7]進出当時の八重洲口は外堀の埋め残しで荒涼としていたが、国鉄が12階建ての建物を計画していると聞いて着目した

大丸が東京証券取引所へ株式を上場したのは、東京進出が報じられる前年の1951年11月20日である。上場時の資本金は3億6,000万円、発行済株式数は360万株で、店舗は大阪・京都・神戸の3店にとどまり、本店は大阪市南区心斎橋筋に置かれていた。1951年1月から7月までの百貨店売上高を比べると、三越88億9,823万円、高島屋77億4,100万円、松坂屋70億4,479万円に次ぐ第4位の57億7,065万円で、首位とは3割以上の開きがあった。もっとも売場1坪当たりの売上高では各期とも三越を上回っており、下回っていたのは販売員1人当たりの売上高のほうだった。戦前から機会をうかがっていた大阪勢の一角として東京へ出るとき、大丸が持っていたのはこの規模と効率だった。

  • 証券 1952年
    • [8]大丸は1951年11月20日に新規上場し、上場株式数は360万株だった
    • [9]上場時の資本金は3億6,000万円、発行済株式数360万株、本社は大阪市南区心斎橋筋にあり、京阪神3店舗で百貨店業を営んでいた
    • [10]1951年1月から7月の百貨店売上高は三越88億9,823万円、高島屋77億4,100万円、松坂屋70億4,479万円、大丸57億7,065万円で大丸は第4位だった
    • [11]大丸の売場1坪当たり売上高は各期とも三越を上回り、販売員1人当たり売上高は三越より少なかった
  • 読売新聞(1952年11月23日)
    • [12]大阪勢は戦前から東京進出の機会をうかがっており、1952年に一斉に進出計画を始めた
参考文献[1]-[12]
  • 読売新聞(1952年11月23日)
    • [1]1952年当時、日本橋高島屋・銀座松坂屋の増築完成や松屋の接収解除に加え、大阪勢の東京進出計画が重なり東京の百貨店競争が激化していた
    • [2]大丸は東京進出の建設地として東京駅八重洲口をねらっていた
    • [3]三越は大阪式の商法は東京では通用しないとしながらも対策に追われていた
    • [4]1952年当時、松坂屋は売場面積6000坪の銀座一の百貨店となり、三越は1500万円の外装工事と台所用品売場の廃止で専門店化を進めていた
    • [12]大阪勢は戦前から東京進出の機会をうかがっており、1952年に一斉に進出計画を始めた
  • 読売新聞(1955年5月21日)
    • [5]1955年当時、東京駅の乗降客は平日でも52万人あり、その6割が八重洲口を利用していた
  • 読売新聞(1954年10月21日)
    • [6]東京進出は当社にとって大冒険で当たるかどうかが今後の盛衰を決する、景気後退期で東京店の伸びは当面期待できないとされていた
  • 野田経済 1961年3月号
    • [7]進出当時の八重洲口は外堀の埋め残しで荒涼としていたが、国鉄が12階建ての建物を計画していると聞いて着目した
  • 証券 1952年
    • [8]大丸は1951年11月20日に新規上場し、上場株式数は360万株だった
    • [9]上場時の資本金は3億6,000万円、発行済株式数360万株、本社は大阪市南区心斎橋筋にあり、京阪神3店舗で百貨店業を営んでいた
    • [10]1951年1月から7月の百貨店売上高は三越88億9,823万円、高島屋77億4,100万円、松坂屋70億4,479万円、大丸57億7,065万円で大丸は第4位だった
    • [11]大丸の売場1坪当たり売上高は各期とも三越を上回り、販売員1人当たり売上高は三越より少なかった

1956年〜東京店が押し上げた業界首位と、都心立地への依存

大丸が東京店を開設して関東へ進出したのは1954年のことである。その2年後の1956年2月には、東京進出が大成功であったというのは表面上のことにすぎないと評されている。東京進出によって従来の経営の癌となっていた過剰人員の吸収には成功したが、その反面で地代家賃と金利の負担が増大し、東京店の売上を拡大するために宣伝費を多く支出する状態に置かれていた。東京店の百貨店としての立地条件もまだ固まっておらず、日本橋での三越本店の拡張と白木屋の若返り、十合の有楽町駅前進出、阪急の数寄屋橋への都心進出が控えるなかで、銀座一帯の競争激化に東京店だけが安閑としていられる状況ではなかった。

  • 日本企業要覧 1962年版「株式会社大丸」
    • [13]大丸は昭和29年(1954年)に東京店を開設して関東へ進出した
  • ダイヤモンド 1956年2月11日号
    • [14]1956年時点で大丸の東京進出は大成功であったというのは表面上のことだと評された
    • [15]東京進出で経営の癌であった過剰人員の吸収に成功した反面、地代家賃と金利の負担が増大し、東京店の売上を伸ばすため宣伝費を多く支出していた
    • [16]東京店の立地条件はまだ固まっておらず、三越本店の拡張、白木屋の若返り、十合の有楽町駅前進出、阪急の数寄屋橋進出により銀座一帯の競争が激化するとされた

大丸が小売業の売上日本一を三越と争ったのは1960年代のことである。1962年に売上高で三越を完全に抜くと、首位はその後も続き、1965年2月期の総売上高は492億5,400万円で業界第1位を連続して保った。理由として挙げられたのは、京阪神に3店を構える強みと、東京でターミナル店として恵まれた立地を得たことで、堅実ながら旧態依然とも見える三越の経営に比べ、大丸は老舗に似合わない清新で積極的な経営をしていると受け止められた。単位面積当たりの売上高では、とりわけ東京店と大阪店が抜きん出ていた。

  • 日経新聞(1981年12月15日)
    • [17]大丸は1960年代まで三越と小売業の売り上げ日本一を争っていた
  • 実業の世界 1962年5月号
    • [18]1962年時点で大丸は売上高において三越を完全にリードしていた
    • [20]三越の堅実経営に対し大丸は積極経営を展開しており、京阪神3店の強みと東京のターミナル立地に恵まれていると評された
  • 日本企業要覧 1966年版「株式会社大丸」
    • [19]1965年2月期の総売上高は492億5,400万円で、大丸は業界第1位を連続して確保した
    • [21]大丸は売上高が業界第1位で、単位面積当たり売上高は特に東京店と大阪店が抜群だった

首位を争っていたのと同じ時期に、大丸は日本の外へも店を出した。1960年7月30日に香港大丸百貨店有限公司を設立し、同年11月3日に香港島のコーズウェイベイ地区、パターソン街で開店している。資本金は300万香港ドル、出資比率は大丸が55%で、残りは香港でも大手に数えられる不動産業者の錦興置業公司が持った。売場面積8万4000平方フィートは現地最大のチェーンストアの約2倍にあたり、1階正面から2階へ通じる階段は東京のデパートと同様の豪華さだと現地で評された。1961年6月には、のちに大丸の取締役となる伊藤暹が総支配人に就任している。人の流れが変わる場所を先に取るという国内での選び方を、そのまま外の都市へ当てた形である。

  • 日本企業要覧 1980年版「株式会社大丸」
    • [22]大丸は香港・タイ・パリ・リヨンに海外店を開設した
  • 日経ビジネス 1972年10月30日号
    • [23]香港大丸百貨店有限公司は1960年7月30日に設立され、同年11月3日にコーズウェイベイ地区のパターソン街で開店した
    • [24]香港大丸の資本金は300万香港ドルで大丸の出資比率は55%、残る45%は不動産業者の錦興置業公司が出資していた
    • [25]香港大丸の売場面積は8万4000平方フィートで、香港最大のチェーンストアの約4万平方フィートを上回り、店内の豪華さでも他店を圧倒していた
  • 日本企業要覧 1966年版「株式会社大丸」
    • [26]大丸の取締役伊藤暹は1961年6月から香港大丸百貨有限公司の総支配人を務めた
参考文献[13]-[26]
  • 日本企業要覧 1962年版「株式会社大丸」
    • [13]大丸は昭和29年(1954年)に東京店を開設して関東へ進出した
  • ダイヤモンド 1956年2月11日号
    • [14]1956年時点で大丸の東京進出は大成功であったというのは表面上のことだと評された
    • [15]東京進出で経営の癌であった過剰人員の吸収に成功した反面、地代家賃と金利の負担が増大し、東京店の売上を伸ばすため宣伝費を多く支出していた
    • [16]東京店の立地条件はまだ固まっておらず、三越本店の拡張、白木屋の若返り、十合の有楽町駅前進出、阪急の数寄屋橋進出により銀座一帯の競争が激化するとされた
  • 日経新聞(1981年12月15日)
    • [17]大丸は1960年代まで三越と小売業の売り上げ日本一を争っていた
  • 実業の世界 1962年5月号
    • [18]1962年時点で大丸は売上高において三越を完全にリードしていた
    • [20]三越の堅実経営に対し大丸は積極経営を展開しており、京阪神3店の強みと東京のターミナル立地に恵まれていると評された
  • 日本企業要覧 1966年版「株式会社大丸」
    • [19]1965年2月期の総売上高は492億5,400万円で、大丸は業界第1位を連続して確保した
    • [21]大丸は売上高が業界第1位で、単位面積当たり売上高は特に東京店と大阪店が抜群だった
    • [26]大丸の取締役伊藤暹は1961年6月から香港大丸百貨有限公司の総支配人を務めた
  • 日本企業要覧 1980年版「株式会社大丸」
    • [22]大丸は香港・タイ・パリ・リヨンに海外店を開設した
  • 日経ビジネス 1972年10月30日号
    • [23]香港大丸百貨店有限公司は1960年7月30日に設立され、同年11月3日にコーズウェイベイ地区のパターソン街で開店した
    • [24]香港大丸の資本金は300万香港ドルで大丸の出資比率は55%、残る45%は不動産業者の錦興置業公司が出資していた
    • [25]香港大丸の売場面積は8万4000平方フィートで、香港最大のチェーンストアの約4万平方フィートを上回り、店内の豪華さでも他店を圧倒していた

1966年〜海外店の頭打ちと、都心型立地の環境悪化

1972年、進出して12年たった香港大丸の店舗はなお1店だった。出店を阻んだのはまず土地で、大陸側ではとりわけ入手が難しく、人口が30年前のおよそ50万人から450万人へ9倍に増えたうえ、香港政庁の収入の大きな部分を土地の売却・賃貸が占めていたため、地価は上昇をやめなかった。人員の面でも、大丸本社からの出向者は7人にすぎず、現地採用の420人と出店企業の派遣社員80人を抱えながら、日本流の接客を浸透させるには足りなかった。加えて商品の35%を日本からの輸入に頼っており、円が再び大きく切り上がれば仕入先を日本の外へ移さざるをえない立場にあった。

  • 日経ビジネス 1972年10月30日号
    • [27]香港大丸は競争相手が支店網を拡充するなかで1店舗のままだった
    • [28]総支配人の都三良は支店を増やせない理由をとくに大陸側での土地取得が困難なためだと説明した
    • [29]香港の人口は30年前の50万人程度から9倍の450万人に急増し、土地の売却と賃貸しが香港政庁の大きな歳入源であったため地価が高騰していた
    • [30]香港大丸の現地人従業員は420人、店内出店企業からの派遣社員は80人で、大丸本社からの出向社員は7人だった
    • [31]香港大丸の取扱商品の35%は日本からの輸入品で、円が再び大幅に切り上げられれば仕入先を日本以外に求めざるを得ない状況にあった

大丸と松坂屋は1970年代の初めに業務提携を結び、同じころ伊勢丹と松屋の間でも提携が成立した。小売業界では1973年、売上高で三越を初めて上回ったダイエーが首位に立ち、百貨店業界は転換点を迎えつつあった。1975年の大丸は三越に並ぶ大手と目され、松坂屋との連携を深める一方で東急百貨店にも接近し、グループ形成に力を入れていた。松坂屋の側でも、大丸との提携は成果を上げているとの評価があった。1975年2月期の総売上高は大丸が前年比10.7%増の1,677億1,900万円、松坂屋が同15.5%増の1,124億4,804万円である。もっともこの提携からは双方とも際立った成果を得られず、いつのまにか立ち消えとなった。

  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [32]1970年代の初めに大丸と松坂屋が業務提携を結んだ
    • [33]1970年代の初めに伊勢丹と松屋も業務提携を結んだ
    • [34]1973年にダイエーが売上高で初めて三越を抜いて小売業のトップになり、百貨店業界は曲がり角を迎えていた
    • [38]1970年代初めの大丸・松坂屋および伊勢丹・松屋の提携は、ともに具体的な成果を出せないまま自然解消した
  • 日本企業要覧 1975年版「株式会社大丸」
    • [35]1975年時点で大丸は三越と並ぶ大手とされ、松坂屋との提携強化と東急百貨店への接近でグループ化に力を注いでおり、松坂屋も大丸との業務提携で成果をあげていると評された
    • [36]1975年時点で大丸は三越と並ぶ大手とされ、松坂屋との提携強化と東急百貨店への接近でグループ化に力を注いでおり、松坂屋も大丸との業務提携で成果をあげていると評された
  • 日本企業要覧 1975年版「株式会社松坂屋」
    • [37]1975年2月期の総売上高は大丸が前年比10.7%増の1,677億1,900万円、松坂屋が前年比15.5%増の1,124億4,804万円だった

大阪をはじめ京都・神戸と、大丸の直営店の多くは典型的な都心型店で、立地をめぐる環境が悪くなったことが業績の低迷を大きく招いていた。1977年には2年続けて売上が伸びず、大手百貨店のうち減益が続いていたのは大丸だけだった。会社は立地環境の変化を認めたうえで、他力に頼らず自力で低成長時代を切り抜けると打ち出した。経営体質を改め、1978年度から売上・利益とも健全に戻す計画である。この方針を社外へ示したのは、創業家から出た当時の副社長、下村正太郎だった。1960年代まで三越と小売業の売上日本一を争った大丸の成長力が大きく鈍化した原因は、のちに店舗の立地条件の悪化に求められることになる。人の流れが変わる場所を先に取るという同じ強みが、流れが引いたあとは同じ速さで裏返った。

  • 臨時増刊東洋経済 1977年11月18日号「老大国大丸は復活前夜?」
    • [39]大阪をはじめ京都・神戸と直営店の多くが典型的な都心型店で、立地環境の悪化が業績低迷の大きな要因とされた
    • [40]1977年時点で大丸は2年間売上が伸び悩み、大手百貨店の中でただひとり減益を続けていた
    • [41]下村正太郎副社長は立地環境の変化を認めつつ他力に頼らず自力で低成長時代を切り抜けるとし、経営体質の転換により1978年度から売上・利益とも健全な姿になると述べた
    • [42]1977年当時の大丸の副社長は下村正太郎で、経営体質の転換と自力での低成長時代の突破を対外的に説明していた
  • 日経新聞(1981年12月15日)
    • [43]1960年代まで三越と売上日本一を争った大丸の成長力が大きく鈍化したのは店舗の立地条件の悪化が響いていた
参考文献[27]-[43]
  • 日経ビジネス 1972年10月30日号
    • [27]香港大丸は競争相手が支店網を拡充するなかで1店舗のままだった
    • [28]総支配人の都三良は支店を増やせない理由をとくに大陸側での土地取得が困難なためだと説明した
    • [29]香港の人口は30年前の50万人程度から9倍の450万人に急増し、土地の売却と賃貸しが香港政庁の大きな歳入源であったため地価が高騰していた
    • [30]香港大丸の現地人従業員は420人、店内出店企業からの派遣社員は80人で、大丸本社からの出向社員は7人だった
    • [31]香港大丸の取扱商品の35%は日本からの輸入品で、円が再び大幅に切り上げられれば仕入先を日本以外に求めざるを得ない状況にあった
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [32]1970年代の初めに大丸と松坂屋が業務提携を結んだ
    • [33]1970年代の初めに伊勢丹と松屋も業務提携を結んだ
    • [34]1973年にダイエーが売上高で初めて三越を抜いて小売業のトップになり、百貨店業界は曲がり角を迎えていた
    • [38]1970年代初めの大丸・松坂屋および伊勢丹・松屋の提携は、ともに具体的な成果を出せないまま自然解消した
  • 日本企業要覧 1975年版「株式会社大丸」
    • [35]1975年時点で大丸は三越と並ぶ大手とされ、松坂屋との提携強化と東急百貨店への接近でグループ化に力を注いでおり、松坂屋も大丸との業務提携で成果をあげていると評された
    • [36]1975年時点で大丸は三越と並ぶ大手とされ、松坂屋との提携強化と東急百貨店への接近でグループ化に力を注いでおり、松坂屋も大丸との業務提携で成果をあげていると評された
  • 日本企業要覧 1975年版「株式会社松坂屋」
    • [37]1975年2月期の総売上高は大丸が前年比10.7%増の1,677億1,900万円、松坂屋が前年比15.5%増の1,124億4,804万円だった
  • 臨時増刊東洋経済 1977年11月18日号「老大国大丸は復活前夜?」
    • [39]大阪をはじめ京都・神戸と直営店の多くが典型的な都心型店で、立地環境の悪化が業績低迷の大きな要因とされた
    • [40]1977年時点で大丸は2年間売上が伸び悩み、大手百貨店の中でただひとり減益を続けていた
    • [41]下村正太郎副社長は立地環境の変化を認めつつ他力に頼らず自力で低成長時代を切り抜けるとし、経営体質の転換により1978年度から売上・利益とも健全な姿になると述べた
    • [42]1977年当時の大丸の副社長は下村正太郎で、経営体質の転換と自力での低成長時代の突破を対外的に説明していた
  • 日経新聞(1981年12月15日)
    • [43]1960年代まで三越と売上日本一を争った大丸の成長力が大きく鈍化したのは店舗の立地条件の悪化が響いていた

筆者考察

大丸が1960年代に三越を抜いて業界の首位に立てたのは、商品でも売り方でもなく、人の流れが変わる場所を先に押さえたからである。1952年に東京進出の建設地として選んだ東京駅八重洲口は、外堀の埋め残しに石と丸太が転がる荒れた裏口だった。そこへ国鉄が12階建ての建物を計画していると聞いて動き、1955年には東京駅の乗降客52万人の6割が通る場所へ変わった。京阪神の3店に東京のターミナル店を足した4店で、1965年2月期の総売上高492億5,400万円を積み、単位面積当たりの売上高では東京店と大阪店が業界で抜群と評された。

同じ選び方は、場所そのものが動いたときに逆へ働く。1972年の香港大丸は、コーズウェイベイの一等地で売場8万4000平方フィートを構えながら、地価の高騰で2店目を持てず、現地従業員420人に対し本社からの出向は7人にとどまった。国内でも1977年には2年続けて売上が伸び悩み、大手百貨店でただひとり減益を続けている。心斎橋も四条も元町も八重洲口も、都心型店であることが同時に弱点になった。会社は立地という他力に頼らず自力で切り抜けると構えたが、立地を選ぶ力で伸びた会社は、立地が沈むときに同じ速さで沈む。

大丸の総売上高 1965年2月期・1975年2月期(億円)

492 1965年2月期 1,677 1975年2月期
  • 単体の総売上高。出所は日本企業要覧 1966年版・1975年版「株式会社大丸」。

出典・参考

16件
出典・参考
  • ダイヤモンド 1956年2月11日号
  • 野田経済 1961年3月号
  • 実業の世界 1962年5月号
  • 日経ビジネス 1972年10月30日号
  • 臨時増刊東洋経済 1977年11月18日号「老大国大丸は復活前夜?」
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
  • 読売新聞(1952年11月23日)
  • 読売新聞(1954年10月21日)
  • 読売新聞(1955年5月21日)
  • 日経新聞(1981年12月15日)
  • 証券 1952年
  • 日本企業要覧 1962年版「株式会社大丸」
  • 日本企業要覧 1966年版「株式会社大丸」
  • 日本企業要覧 1975年版「株式会社大丸」
  • 日本企業要覧 1975年版「株式会社松坂屋」
  • 日本企業要覧 1980年版「株式会社大丸」

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