横浜冷凍:横浜冷凍企業の創業と東証二部上場
1948年〜八丁幸の吉橋伊佐男氏が横浜で起こした横浜冷凍企業と、マグロ・食用カエルの対米輸出
1948年5月13日、横浜冷凍企業株式会社の設立。横浜市中央卸売市場内の水産・青果の関係会社が出資し、冷凍水産物の加工・販売・輸出と冷凍食料品の冷蔵保管を事業目的に掲げた。出発点は、市場の製氷冷蔵施設経営組合が市場の冷蔵庫を使って対米輸出を始めようとした計画である。輸出申請の窓口の食糧公団は承認の相手を民間事業者に限ったため、関係業者は輸出のための株式会社を組合とは別に設けた。社長には組合で最年少の委員だった八丁幸社長の吉橋伊佐男氏(当時37歳)が推され、戦前にマグロや肝油を輸出した経験が理由に挙がった。発足時の資本金は200万円、従業員は14人である。
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [1]横浜冷凍企業株式会社の設立は1948年(昭和23年)5月13日
- [3]市場の製氷冷蔵施設経営組合が輸出事業を準備したが、食糧公団は民間事業者でなければ輸出申請を承認しないとし、関係業者は民間会社の新設を決めた
- [4]市場の製氷冷蔵施設経営組合が輸出事業を準備したが、食糧公団は民間事業者でなければ輸出申請を承認しないとし、関係業者は民間会社の新設を決めた
- [5]社長に八丁幸社長の吉橋伊佐男(37歳・組合の最年少委員)が推され、戦前のマグロ・肝油輸出の経験が理由とされた
- [6]設立時の資本金200万円、従業員は総務・経理・業務・営業の計14人
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [2]1948年5月、横浜市中央卸売市場内の関係会社により冷凍水産物の加工・販売・輸出、冷凍食料品の冷蔵保管を目的に設立
冷凍水産物の輸出を設立の目的に掲げた横浜冷凍企業は、設立直後に食糧公団へ輸出を申請した。輸出割当て50トンの承認が下りたのは、申請から間もない1948年6月である。輸出品目が天産物に限られた当時、最初はマグロを主にビンナガとメカジキを扱い、のちに吉橋伊佐男氏の発案で冷凍の食用カエルを加えた。マグロの漁獲は潮流や水温の異変、天候不順で目標の5分の1を下回り、割当ての半分も消化できなかった。それでも米国向けの厳しい輸出検査を全品クレームなしで通し、創業間もない会社の信用の土台を築いた。量の不足を抱えながらも、設立から4カ月後の1948年9月期決算で32万841円の純利益を出した。
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [7]1948年5月の設立時の事業目的に冷凍水産物の輸出を含む
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [8]食糧公団に輸出申請書を提出し、1948年6月に50トンの輸出割当てがおりた
- [9]当時の輸出産品は天産物に限られ、最初の輸出品はマグロを主体にビンナガ・メカジキ。のちに吉橋伊佐男の発案で冷凍の食用カエルにも広げた
- [10]マグロの漁獲高が潮流・水温の異変や天候不順で目標の5分の1未満となり、割当ての半分も消化できなかった
- [11]厳格な輸出検査を全商品がノークレームで通過し、企業の信用を得た
- [12]創立4カ月後の1948年9月期決算で純利益32万841円
創業時の凍結室は冷えが弱く、24時間置いても凍り切らず、凍っても氷の結晶が肉の組織を傷めた。最初の4カ月の経験から自社の冷蔵工場の建設を決め、市場関係者が役員に並ぶ縁から、敷地は中央卸売市場の構内に得た。資金は復興金融公庫から2,000万円の融資を得て、不足分とつなぎ資金は日本興業銀行が増資を条件に融資した。機械は東京・芝浦に残った戦災の焼け残りの圧縮機やモーターを全漁連から220万円で取得し、修理して使った。工場の着工は1948年11月、完成は1949年4月で、冷蔵収容能力は800トンである。建設借入金2,873万円の負担から、1949年9月期は426万円の損失を計上した。
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [13]凍結室は冷えが悪く24時間経っても凍らず、凍っても肉の組織内に氷の結晶が生じた
- [14]創業4カ月の経験から自前の冷蔵庫建設を決め、社外役員が市場関係者だったことから中央卸売市場構内に敷地を確保
- [15]復興金融公庫に2,200万円を申請し2,000万円の融資、不足分とつなぎ資金は日本興業銀行が増資を条件に融資
- [16]芝浦の戦災焼け残りのコンプレッサー・モーター等を全漁連から220万円で買い取り再生
- [18]第2期(1948年10月〜1949年9月)は建設借入金2,873万円の負担で損失426万円
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [17]1949年4月、冷蔵収容能力800屯の冷凍冷蔵工場を建設
参考文献[1]-[18]
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [1]横浜冷凍企業株式会社の設立は1948年(昭和23年)5月13日
- [3]市場の製氷冷蔵施設経営組合が輸出事業を準備したが、食糧公団は民間事業者でなければ輸出申請を承認しないとし、関係業者は民間会社の新設を決めた
- [4]市場の製氷冷蔵施設経営組合が輸出事業を準備したが、食糧公団は民間事業者でなければ輸出申請を承認しないとし、関係業者は民間会社の新設を決めた
- [5]社長に八丁幸社長の吉橋伊佐男(37歳・組合の最年少委員)が推され、戦前のマグロ・肝油輸出の経験が理由とされた
- [6]設立時の資本金200万円、従業員は総務・経理・業務・営業の計14人
- [8]食糧公団に輸出申請書を提出し、1948年6月に50トンの輸出割当てがおりた
- [9]当時の輸出産品は天産物に限られ、最初の輸出品はマグロを主体にビンナガ・メカジキ。のちに吉橋伊佐男の発案で冷凍の食用カエルにも広げた
- [10]マグロの漁獲高が潮流・水温の異変や天候不順で目標の5分の1未満となり、割当ての半分も消化できなかった
- [11]厳格な輸出検査を全商品がノークレームで通過し、企業の信用を得た
- [12]創立4カ月後の1948年9月期決算で純利益32万841円
- [13]凍結室は冷えが悪く24時間経っても凍らず、凍っても肉の組織内に氷の結晶が生じた
- [14]創業4カ月の経験から自前の冷蔵庫建設を決め、社外役員が市場関係者だったことから中央卸売市場構内に敷地を確保
- [15]復興金融公庫に2,200万円を申請し2,000万円の融資、不足分とつなぎ資金は日本興業銀行が増資を条件に融資
- [16]芝浦の戦災焼け残りのコンプレッサー・モーター等を全漁連から220万円で買い取り再生
- [18]第2期(1948年10月〜1949年9月)は建設借入金2,873万円の負担で損失426万円
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [2]1948年5月、横浜市中央卸売市場内の関係会社により冷凍水産物の加工・販売・輸出、冷凍食料品の冷蔵保管を目的に設立
- [7]1948年5月の設立時の事業目的に冷凍水産物の輸出を含む
- [17]1949年4月、冷蔵収容能力800屯の冷凍冷蔵工場を建設
1950年〜朝鮮戦争の特需で入った米軍PXと、7万ポンドのマス落札
米軍との取引の入口となるのが、1949年4月に完成した収容能力800トンの冷蔵工場である。同年夏に横浜駐留の第8軍と交渉し、工場の検査合格と同時に占領軍への水産物販売の許可を得た。12月からは工場2階を改装した売店でPXへの納入を始め、エビ類や食用カエルの足、ニジマスを扱った。1950年6月に朝鮮戦争が始まると、GHQの要請で米軍へ直接納めるQMへの販売も始まった。他社の輸出マグロに大量のクレームが付く事態も生じ、会社は輸出を縮小し、米軍向けの国内業務へ比重を移した。1951年9月期は総売上1億1,191万円を計上し、うち冷蔵庫収入1,508万円の566万円が米軍関係である。
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [19]1949年4月、冷蔵収容能力800屯の冷凍冷蔵工場を建設
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [20]1949年夏に第8軍と交渉し、冷蔵工場の検査合格と同時に占領軍への水産物販売許可を得た
- [21]冷蔵工場2階を売店に改造し1949年12月からPXへの納入を開始、エビ類・フロッグレッグ・ニジマスなどを販売
- [22]朝鮮戦争の頃からGHQの要請でQM(補給廠)への販売・納入を開始
- [23]他社の輸出ビンナガに大量のクレームが付いたことから輸出を抑え、米軍関係の国内業務に重点を移した
- [24]第4期(1950年10月〜1951年9月)総売上1億1,191万円、冷蔵庫収入1,508万円のうち米軍関係566万円
1952年春の米軍QMによるマス7万ポンドの入札は、その後の米軍への納入を左右する案件で、大手の冷蔵会社が事実上の競合である。手持ちの設備は1949年4月完成の収容能力800トンの工場1棟にとどまり、7万ポンドは創立以来の大口の注文。社長の吉橋伊佐男氏と専務の太田金一郎氏は原価を積み上げ、まだ水揚げ前の魚を前提にポンド当たり37セントの札を決めた。常務の宇野寿一氏がこの値で入札に臨み、大手を抑えて落札した。マスは八丁幸の戦前からの取引先がいる釧路で調達して完納し、売上は2万5,900ドル(932万円)となった。1952年9月期の販売売上8,391万円のうち、米軍関係は7,512万円で89.5%を占めた。
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [25]1952年春の米軍QMのマス入札で、事実上の競合は大手冷蔵会社。落札がその後の米軍関係納入を左右することは確実だった
- [27]吉橋伊佐男と太田金一郎が原価を算出し、水揚げ前の魚を前提にポンド当たり37セントと決めた
- [28]常務の宇野寿一が入札し落札
- [29]マスは八丁幸の戦前からの取引先がいる釧路から調達して完納、売上2万5,900ドル(932万円)
- [30]第5期の売上8,391万円のうち米軍関係7,512万円、比率89.5%
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [26]1949年4月建設の冷蔵収容能力800屯の冷凍冷蔵工場が当時の設備
1953年9月期の創業以来の好成績を押し上げたのは、米軍QMへ新たに納めた赤松鯛である。米軍への納入が初めての品種だったため、横浜冷凍は赤松鯛の鑑定を久里浜の水産大学に依頼した。水産大学は『赤松鯛はアメリカのペンサコーラレッドスナッパーと同一のもの』との見解を示し、QMは購入を認めた。総収入は1億7,201万円、純利益は前期の約7.5倍の1,860万円となり、販売収入の92.05%、冷蔵庫収入の78.5%を米軍関係が占めた。株主には年1割の通常配当に加え、創立5周年の記念配当として年5分を上乗せした。同年11月には、設立時の横浜冷凍企業株式会社から企業の語を外し、商号を横浜冷凍株式会社に改めた。社長の吉橋伊佐男氏は改称の動機を、『わが社もほぼ土台が固まったし、一人前の株式会社らしい名前にしようというのが動機だった』と説明した。
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [31]第6期(1952年10月〜1953年9月)は赤松鯛が貢献し創業以来の好成績
- [32]久里浜の水産大学が赤松鯛を米国のペンサコーラ・レッドスナッパーと同一と説明し、QMが購入を了解
- [33]久里浜の水産大学が赤松鯛を米国のペンサコーラ・レッドスナッパーと同一と説明し、QMが購入を了解
- [34]第6期の総収入1億7,201万円、純利益1,860万円(前期の約7.5倍)、米軍関係は販売収入の92.05%・冷蔵庫収入の78.5%
- [35]配当は年1割に加え創立5周年記念配当年5分
- [37]吉橋伊佐男は社名変更の動機を、土台が固まったので一人前の株式会社らしい名前にするためと説明
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [36]1953年11月、商号を現社名(横浜冷凍株式会社)に変更
参考文献[19]-[37]
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [19]1949年4月、冷蔵収容能力800屯の冷凍冷蔵工場を建設
- [26]1949年4月建設の冷蔵収容能力800屯の冷凍冷蔵工場が当時の設備
- [36]1953年11月、商号を現社名(横浜冷凍株式会社)に変更
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [20]1949年夏に第8軍と交渉し、冷蔵工場の検査合格と同時に占領軍への水産物販売許可を得た
- [21]冷蔵工場2階を売店に改造し1949年12月からPXへの納入を開始、エビ類・フロッグレッグ・ニジマスなどを販売
- [22]朝鮮戦争の頃からGHQの要請でQM(補給廠)への販売・納入を開始
- [23]他社の輸出ビンナガに大量のクレームが付いたことから輸出を抑え、米軍関係の国内業務に重点を移した
- [24]第4期(1950年10月〜1951年9月)総売上1億1,191万円、冷蔵庫収入1,508万円のうち米軍関係566万円
- [25]1952年春の米軍QMのマス入札で、事実上の競合は大手冷蔵会社。落札がその後の米軍関係納入を左右することは確実だった
- [27]吉橋伊佐男と太田金一郎が原価を算出し、水揚げ前の魚を前提にポンド当たり37セントと決めた
- [28]常務の宇野寿一が入札し落札
- [29]マスは八丁幸の戦前からの取引先がいる釧路から調達して完納、売上2万5,900ドル(932万円)
- [30]第5期の売上8,391万円のうち米軍関係7,512万円、比率89.5%
- [31]第6期(1952年10月〜1953年9月)は赤松鯛が貢献し創業以来の好成績
- [32]久里浜の水産大学が赤松鯛を米国のペンサコーラ・レッドスナッパーと同一と説明し、QMが購入を了解
- [33]久里浜の水産大学が赤松鯛を米国のペンサコーラ・レッドスナッパーと同一と説明し、QMが購入を了解
- [34]第6期の総収入1億7,201万円、純利益1,860万円(前期の約7.5倍)、米軍関係は販売収入の92.05%・冷蔵庫収入の78.5%
- [35]配当は年1割に加え創立5周年記念配当年5分
- [37]吉橋伊佐男は社名変更の動機を、土台が固まったので一人前の株式会社らしい名前にするためと説明
1954年〜焼失した冷蔵工場の再建と、1株120円・40万株の公募による東証二部上場
1954年3月、唯一の冷凍冷蔵工場が火災で焼失した。保管品の3分の2はPXの荷物だったものの、米軍は100万ドルの保険で損失が埋まるとして補償を求めず、冷蔵庫の早期の提供だけを求めた。会社は川崎の昭和冷蔵から冷蔵庫を借りて米軍向けの営業を続けた。再建資金は保険金2,650万円、横浜丸魚の保証で安田信託銀行から得た2,000万円、中小企業金融公庫の1,000万円の計5,650万円である。吉橋伊佐男氏は木造を鉄筋3階建てに改め、室を細かく区切らない設計で1トン当たりの建設費を約2万5,000円に抑えた。新しい横浜工場の完成は1954年6月の地鎮祭から5カ月後の11月で、収容能力は2,228トンである。
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [38]1954年3月、冷凍冷蔵工場焼失
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [39]保管荷物の3分の2はPXのもの。米軍は100万ドルの保険の枠内で損はしないとし、冷蔵庫と作業所の早期提供だけを求めた
- [40]川崎の昭和冷蔵の冷蔵庫を借用して米軍関係の業務を継続
- [41]再建資金は保険金2,650万円、横浜丸魚の保証で安田信託銀行2,000万円、中小企業金融公庫1,000万円の計5,650万円
- [42]鉄筋3階建て・大部屋の冷蔵庫とし、1トン当たり建設費約2万5,000円で前工場より約1万円安い
- [43]横浜工場は1954年6月の地鎮祭から5カ月の11月に再建、規模2,228トン
工場の再建後、米軍への納入は年々減り、数年内には駐留米軍の完全撤退も見込まれた。会社は魚肉ハム・ソーセージの業界へ原料を納める事業に着手し、弾力を増すカジキ(黒皮)を鎌倉ハムへ初めて納めた。PX向け賃貸庫の全面返還が1959年中に見込まれ、1957年2月に倉庫証券の発行許可、6月に保税上屋の許可を得た。1958年9月期の総売上高は3億3,395万円で前期比70.9%増となり、伸びの主因はハム・ソーセージ用原料の販売である。1959年9月期は米軍用冷蔵庫の返還で冷蔵庫収入が2,584万円に減った一方、販売収入は6億443万円に達した。1962年9月期には販売部門の売上の85%をハム・ソーセージの配合原料が占めた。
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [44]米軍関係の納入・販売は漸減傾向にあり、数年後の駐留米軍の完全撤退が予想された
- [45]1950年代に魚肉ハム・ソーセージ業界へ原料納入を始め、弾力を出すカジキ(黒皮)を最初に鎌倉ハムへ納入
- [46]米軍PXへの賃貸庫は一部返還済みで1959年中に全部返還の見通し。対応として1957年2月倉庫証券発行許可、6月保税上屋許可
- [47]第11期(1957年10月〜1958年9月)総売上高3億3,395万円・前期比70.9%増、魚肉ハム・ソーセージ用原料魚の販売・加工が貢献
- [48]第12期(1958年10月〜1959年9月)販売収入6億443万円、冷蔵庫収入2,584万円(米軍用冷蔵庫の全面返還)
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [49]1962年9月期の販売部門の扱いはハム・ソーセージの配合原料85%、輸出用冷凍魚類9%、国内家庭用冷凍魚類6%
1962年9月期は冷蔵庫収入が7,504万円(前期比61%増)、総売上高が11億6,695万円となった。自社の冷蔵庫では保管の委託に応じきれず、1962年5月25日の役員会で所要資金3億円の新港埠頭工場の建設を決めた。資金は銀行借入2億円と自己資金1億円で賄い、自己資金は株式上場に伴う増資で調達する計画。1961年10月には東京・大阪・名古屋の3取引所が第二部を設け、上場条件の1つは資本金1億円以上である。会社は資本金を6,000万円から1億1,000万円に増やし、新株のうち40万株は1株120円で一般から募った。株式は1962年12月27日に東京証券取引所市場第二部に上場した。
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ51-100
- [50]第15期(1961年10月〜1962年9月)冷蔵庫収入は前期比61%増の7,504万円、総売上高11億6,695万円
- [51]冷蔵庫が保管委託に応じきれず、1962年5月25日の役員会で新港埠頭工場(所要資金3億円)の建設を決定
- [52]資金は横浜銀行・日本興業銀行・日本開発銀行から計2億円の借入と自己資金1億円。増資による自己資金調達のため株式上場に踏み切った
- [53]1961年10月に東京・大阪・名古屋で第二部開設。当時の第二部上場条件に資本金1億円以上
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [54]資本金は1961年11月の6,000万円から1962年12月に1億1,000万円、40万株を1株120円で公募
- [55]上場年月日は1962年12月27日(東証第二部・食料品)
参考文献[38]-[55]
- 証券 15(2)(165) 1963年
- [38]1954年3月、冷凍冷蔵工場焼失
- [49]1962年9月期の販売部門の扱いはハム・ソーセージの配合原料85%、輸出用冷凍魚類9%、国内家庭用冷凍魚類6%
- [54]資本金は1961年11月の6,000万円から1962年12月に1億1,000万円、40万株を1株120円で公募
- [55]上場年月日は1962年12月27日(東証第二部・食料品)
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- [39]保管荷物の3分の2はPXのもの。米軍は100万ドルの保険の枠内で損はしないとし、冷蔵庫と作業所の早期提供だけを求めた
- [40]川崎の昭和冷蔵の冷蔵庫を借用して米軍関係の業務を継続
- [41]再建資金は保険金2,650万円、横浜丸魚の保証で安田信託銀行2,000万円、中小企業金融公庫1,000万円の計5,650万円
- [42]鉄筋3階建て・大部屋の冷蔵庫とし、1トン当たり建設費約2万5,000円で前工場より約1万円安い
- [43]横浜工場は1954年6月の地鎮祭から5カ月の11月に再建、規模2,228トン
- [44]米軍関係の納入・販売は漸減傾向にあり、数年後の駐留米軍の完全撤退が予想された
- [45]1950年代に魚肉ハム・ソーセージ業界へ原料納入を始め、弾力を出すカジキ(黒皮)を最初に鎌倉ハムへ納入
- [46]米軍PXへの賃貸庫は一部返還済みで1959年中に全部返還の見通し。対応として1957年2月倉庫証券発行許可、6月保税上屋許可
- [47]第11期(1957年10月〜1958年9月)総売上高3億3,395万円・前期比70.9%増、魚肉ハム・ソーセージ用原料魚の販売・加工が貢献
- [48]第12期(1958年10月〜1959年9月)販売収入6億443万円、冷蔵庫収入2,584万円(米軍用冷蔵庫の全面返還)
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ51-100
- [50]第15期(1961年10月〜1962年9月)冷蔵庫収入は前期比61%増の7,504万円、総売上高11億6,695万円
- [51]冷蔵庫が保管委託に応じきれず、1962年5月25日の役員会で新港埠頭工場(所要資金3億円)の建設を決定
- [52]資金は横浜銀行・日本興業銀行・日本開発銀行から計2億円の借入と自己資金1億円。増資による自己資金調達のため株式上場に踏み切った
- [53]1961年10月に東京・大阪・名古屋で第二部開設。当時の第二部上場条件に資本金1億円以上
出典・参考
3件
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ1-50
- 横浜冷凍株式会社社史『ザ・ヨコレイ40』(1989年)コマ51-100
- 証券 15(2)(165) 1963年