第2章 年〜年

森永乳業:森永乳業の独立と粉乳中毒事件からの再建

1944年〜明治へ渡った目黒工場を取り戻すところから始めた戦後

戦時の統合で、森永の乳業は商圏の骨格を失っていた。北海道興農公社への現物出資で道内の事業所をすべて供出し、生産比率で北海道が7割を占めていた地盤が丸ごと手を離れた。東京でも同じことが起きた。1942年に東京乳業株式会社が設立され、翌1943年には目黒工場・滝野川工場・久留米特別牧場が明治の所有となった。1942年10月に森永製菓へ合併された乳業は、1943年11月に森永食糧工業と改称した会社の生産第二部となった。内地の工場群だけを抱えて終戦を迎えた。統合の理由は、戦争による製菓事業の著しい縮小と資源不足、応召に伴う人手不足だった。残ったのは製品でも設備でもなく、売る相手を持たない工場だった。

  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [1]北海道興農公社の設立により道内の全事業所を統合で失った
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [2]北海道の商圏は全体の7割を占めており、興農公社設立の際に供出した
    • [3]1942年 東京乳業株式会社の設立と、1943年の目黒工場・滝野川工場・久留米特別牧場の明治への帰属
    • [6]1942年の製菓への統合の理由 戦争による製菓事業の著しい縮小・資源不足・応召による人手不足
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1942年10月 森永製菓と合併
    • [5]1943年11月 森永製菓を森永食糧工業株式会社へ改称

取り戻す作業は交渉から始まった。大野勇氏は明治の植垣弥一郎社長へ直接談判し、目黒工場の返還を受けた。工場が戻っても販売店は明治の店として登録されていたため、売り先の確保が先だった。公正取引委員会と連合国軍総司令部へも、興農公社の返還を求めて働きかけた。1948年には松本の旧工場を廃して当時の日本で最大の工場を建てた。返還された目黒工場で市乳の生産を再開し、戦時統制で共同処理場となっていた京都工場も再開した。1949年には盛岡工場を建設し、戦前は他所資本に許可の下りなかった名古屋にも、進駐軍命令によって市乳工場を新設した。平塚工場では1948年に牛乳30石の達成を祝う会が鶴巻温泉で開かれている。

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [7]明治の植垣弥一郎社長への談判による目黒工場の返還
    • [8]目黒工場が返還されても販売店は明治の店として登録されており、販売店の確保から着手した
    • [9]公正取引委員会とGHQへ興農公社の返還を求めた
    • [13]1948年 平塚工場の牛乳30石祝いを鶴巻温泉で挙行
  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [10]1948年 松本の旧工場を廃して建てた当時の日本最大の工場
    • [11]返還された目黒工場での市乳生産の開始と、明治乳業との共同処理場だった京都工場の市乳工場化
    • [12]1949年 盛岡工場の建設と名古屋市乳工場の新設・名古屋は戦前は他府県資本に許可が下りず戦後の進駐軍命令で許可された

1927年の分離は、危うくなった製菓を救うための整理だった。今回の独立は乳業の側から出てきた話である。森永乳業株式会社の設立は1949年4月13日で、資本金は1千万円、中心に据えたのは東京乳業から戻ってきた目黒工場だった。松崎半三郎氏が社長、大野勇氏が専務に就いた。同年9月14日の6千万円の増資で資本金は7千万円となり、10月には森永製菓の乳業部門から事業を一切引き継いだ。戦後3年のあいだ乳業部門は好不況を繰り返し、このままでは再び製菓の重荷となって再整理を求められるという声が社内にあった。乳業の企業としての劣勢は、1917年の創立から20年あまり続いていた。松崎氏は分離にあたり『乳業は独立せよ。乳業は乳業、製菓は製菓で、荊棘の途を切り開いてゆけ。長年製菓に迷惑をかけて赤字の存在であった乳業が、けなげに一人で歩くというのだ。みんなで温かくみてやれ』と述べ、大野氏は全社員へ『同業各社はスーパードレッドノート(超弩級戦艦)だ。この巨大な戦艦に立ち向かうのにわれわれは駆逐艦である。すなわちスピードで立ち向かう以外に勝つ道はない』と説いた。

  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [14]1949年4月13日 東京乳業から返還された目黒工場を主体に資本金1千万円で森永乳業株式会社(第2次)を設立
    • [16]森永乳業(第2次)の社長 松崎半三郎・専務 大野勇
    • [20]乳業の企業としての劣勢は1917年の創立以来20有余年続いた
  • 株式会社年鑑 1954年版「森永乳業」
    • [15]設立 昭和24年4月13日・資本金1千万円をもって設立
    • [17]1949年9月14日 6千万円の増資により資本金7千万円
    • [18]1949年10月 森永製菓株式会社乳業部の営業一切の譲渡を受ける
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [19]戦後3年の乳業部門は好不況を繰り返し、このままでは再整理の時が来るという社内の声があった
    • [21]分離に際しての松崎会長の言と、専務就任時に大野勇が全社員へ示した方針
参考文献[1]-[21]
  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [1]北海道興農公社の設立により道内の全事業所を統合で失った
    • [10]1948年 松本の旧工場を廃して建てた当時の日本最大の工場
    • [11]返還された目黒工場での市乳生産の開始と、明治乳業との共同処理場だった京都工場の市乳工場化
    • [12]1949年 盛岡工場の建設と名古屋市乳工場の新設・名古屋は戦前は他府県資本に許可が下りず戦後の進駐軍命令で許可された
    • [14]1949年4月13日 東京乳業から返還された目黒工場を主体に資本金1千万円で森永乳業株式会社(第2次)を設立
    • [16]森永乳業(第2次)の社長 松崎半三郎・専務 大野勇
    • [20]乳業の企業としての劣勢は1917年の創立以来20有余年続いた
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [2]北海道の商圏は全体の7割を占めており、興農公社設立の際に供出した
    • [3]1942年 東京乳業株式会社の設立と、1943年の目黒工場・滝野川工場・久留米特別牧場の明治への帰属
    • [6]1942年の製菓への統合の理由 戦争による製菓事業の著しい縮小・資源不足・応召による人手不足
    • [7]明治の植垣弥一郎社長への談判による目黒工場の返還
    • [8]目黒工場が返還されても販売店は明治の店として登録されており、販売店の確保から着手した
    • [9]公正取引委員会とGHQへ興農公社の返還を求めた
    • [13]1948年 平塚工場の牛乳30石祝いを鶴巻温泉で挙行
    • [19]戦後3年の乳業部門は好不況を繰り返し、このままでは再整理の時が来るという社内の声があった
    • [21]分離に際しての松崎会長の言と、専務就任時に大野勇が全社員へ示した方針
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1942年10月 森永製菓と合併
    • [5]1943年11月 森永製菓を森永食糧工業株式会社へ改称
  • 株式会社年鑑 1954年版「森永乳業」
    • [15]設立 昭和24年4月13日・資本金1千万円をもって設立
    • [17]1949年9月14日 6千万円の増資により資本金7千万円
    • [18]1949年10月 森永製菓株式会社乳業部の営業一切の譲渡を受ける

1950年〜集中排除法が開いた北海道と、駆逐艦の速度で出した新製品

1948年に施行された過度経済力集中排除法は森永食糧工業を指定し、同時に北海道酪農協同株式会社にも適用された。興農公社の設立以来、全道の生産牛乳を一手に集荷・加工し、バターとチーズの国内製造量の過半を占めていたためである。雪印の商標を手元に残したのは雪印乳業で、北海道バターは関西で使い慣れたクロバー印を引き継いだ。これは1950年1月に出た決定指令により、北海道酪農協同が存続会社の北海道バター株式会社と、第二会社の雪印乳業株式会社に分けられた際の取り決めである。明治乳業と森永乳業は再編の対象から外れ、道内の工場を取り戻すことになり、今金工場は明治乳業が2,356万円、遠軽工場は森永乳業が2,385万円で引き取った。

  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [22]1948年施行の過度経済力集中排除法による森永食糧工業と北海道酪農協同株式会社の指定
    • [23]北海道酪農協同が指定された理由 全道の生産牛乳を一手に集荷加工しバター・チーズの国内製造量の過半を占めていた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「北海道バター」
    • [24]二分割に際し雪印の商標は雪印乳業の所有とし、北海道バターは関西地域で使用してきたクロバー印を継承した
    • [25]1950年 集中排除法による再編成で第二会社の雪印乳業を分離し、存続会社として北海道バターが残った
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [26]明治が今金工場を2,356万円で買い受け、森永には遠軽工場が2,385万円で譲渡された
    • [27]明治が今金工場を2,356万円で買い受け、森永には遠軽工場が2,385万円で譲渡された

独立した会社が選んだのは、製品を先に出す速度だった。1950年のビタドライは、配給の砂糖を受け取るのに半日かかるという母親の訴えをラジオで聞いた大野氏が、加糖粉乳の復活を命じて生まれた。ビタミンA・B・Cの配合は慶應義塾大学医学部の臨床実験で決めた。同じ1950年には三島工場の田中清一氏を食品業界で最初にアメリカへ派遣し、持ち帰った均質化の技術から1951年にホモ牛乳を登録した。粉乳では一日かかる乾燥を20分へ縮める瞬間噴霧乾燥装置を、容量が日本の工場に合わないという反対を押し切って導入した。1953年には乳糖をβ乳糖へ転化させた森永βドライを出した。1953年時点の事業内容には、煉乳・粉乳・バター・チーズに加えて人造バターや医薬品、清涼飲料水、アイスクリームまで並んでいた。

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [28]1950年のビタドライ開発 ラジオで聞いた配給の砂糖をめぐる母親の訴えを契機とする15%加糖粉乳と、慶應義塾大学医学部の臨床実験によるビタミンA・B・Cの配合決定
    • [29]1950年のビタドライ開発 ラジオで聞いた配給の砂糖をめぐる母親の訴えを契機とする15%加糖粉乳と、慶應義塾大学医学部の臨床実験によるビタミンA・B・Cの配合決定
    • [30]1950年 三島工場の田中清一を食品業界で最初にアメリカへ派遣
    • [31]1951年 ホモジナイズ牛乳をホモ牛乳と命名して登録
    • [32]一日かかる粉乳乾燥を20分へ短縮する瞬間噴霧乾燥装置の導入と、日本の工場に容量が合わないとする反対
    • [33]1953年 乳糖をβ乳糖へ転化させた森永βドライの発売
  • 株式会社年鑑 1954年版「森永乳業」
    • [34]1953年時点の主なる事業内容 煉乳・粉乳・バター・チーズほか各乳製品、人造バター・医薬品等の育児栄養品、牛乳搾取処理販売および清涼飲料水・アイスクリーム

製品の伸びは資本の拡充に現れた。1951年12月に資本金を1億5千万円へ倍額増資し、1952年2月4日には株式の店頭売買が承認された。1954年4月にはさらに4億6,500万円まで増資したうえで、同年9月8日に東京証券取引所へ株式を上場した。半期の売上高は1952年3月期の25億6,958万2千円から1953年3月期の25億7,438万8千円へ動いた。当期純利益は同じ期間に8,783万円から1億588万円へ増えている。原料乳の質を上げるため約100人の獣医を傘下の農家へ派遣し、乳牛の検診にあたらせたのもこの時期である。1955年には売上高も利益も業界の首位に立っていた。

  • 株式会社年鑑 1954年版「森永乳業」
    • [35]1951年12月 資本金1億5千万円への増資
    • [36]1952年2月4日 株式の店頭売買承認
    • [40]半期売上高 1952年3月期 25億6,958万2千円・1953年3月期 25億7,438万8千円/当期純利益 8,783万円・1億588万円
    • [41]半期売上高 1952年3月期 25億6,958万2千円・1953年3月期 25億7,438万8千円/当期純利益 8,783万円・1億588万円
  • 株式会社年鑑 1957年版「森永乳業」
    • [37]1954年4月 資本金4億6,500万円への増資
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1954年9月 東京証券取引所に株式上場
  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [39]1954年9月8日 東京証券取引所において当社株式上場
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [42]原料乳の質の向上のため約100人の獣医を傘下農家へ派遣して乳牛の検診を実施
    • [43]1955年には売上・利益とも業界一
参考文献[22]-[43]
  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [22]1948年施行の過度経済力集中排除法による森永食糧工業と北海道酪農協同株式会社の指定
    • [23]北海道酪農協同が指定された理由 全道の生産牛乳を一手に集荷加工しバター・チーズの国内製造量の過半を占めていた
    • [39]1954年9月8日 東京証券取引所において当社株式上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「北海道バター」
    • [24]二分割に際し雪印の商標は雪印乳業の所有とし、北海道バターは関西地域で使用してきたクロバー印を継承した
    • [25]1950年 集中排除法による再編成で第二会社の雪印乳業を分離し、存続会社として北海道バターが残った
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [26]明治が今金工場を2,356万円で買い受け、森永には遠軽工場が2,385万円で譲渡された
    • [27]明治が今金工場を2,356万円で買い受け、森永には遠軽工場が2,385万円で譲渡された
    • [28]1950年のビタドライ開発 ラジオで聞いた配給の砂糖をめぐる母親の訴えを契機とする15%加糖粉乳と、慶應義塾大学医学部の臨床実験によるビタミンA・B・Cの配合決定
    • [29]1950年のビタドライ開発 ラジオで聞いた配給の砂糖をめぐる母親の訴えを契機とする15%加糖粉乳と、慶應義塾大学医学部の臨床実験によるビタミンA・B・Cの配合決定
    • [30]1950年 三島工場の田中清一を食品業界で最初にアメリカへ派遣
    • [31]1951年 ホモジナイズ牛乳をホモ牛乳と命名して登録
    • [32]一日かかる粉乳乾燥を20分へ短縮する瞬間噴霧乾燥装置の導入と、日本の工場に容量が合わないとする反対
    • [33]1953年 乳糖をβ乳糖へ転化させた森永βドライの発売
    • [42]原料乳の質の向上のため約100人の獣医を傘下農家へ派遣して乳牛の検診を実施
    • [43]1955年には売上・利益とも業界一
  • 株式会社年鑑 1954年版「森永乳業」
    • [34]1953年時点の主なる事業内容 煉乳・粉乳・バター・チーズほか各乳製品、人造バター・医薬品等の育児栄養品、牛乳搾取処理販売および清涼飲料水・アイスクリーム
    • [35]1951年12月 資本金1億5千万円への増資
    • [36]1952年2月4日 株式の店頭売買承認
    • [40]半期売上高 1952年3月期 25億6,958万2千円・1953年3月期 25億7,438万8千円/当期純利益 8,783万円・1億588万円
    • [41]半期売上高 1952年3月期 25億6,958万2千円・1953年3月期 25億7,438万8千円/当期純利益 8,783万円・1億588万円
  • 株式会社年鑑 1957年版「森永乳業」
    • [37]1954年4月 資本金4億6,500万円への増資
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1954年9月 東京証券取引所に株式上場

1955年〜MFドライミルク中毒事件と、第三者へ白紙委任した補償

1955年7月以来、中国地方では乳児の奇病が続いていた。8月24日朝、岡山大学の見解として、原因は砒素中毒であり、徳島工場製のビタミン入りドライミルクの飲用によるものと発表された。工場記号はMF、徳島工場は育児粉乳市場の過半を占めていた森永ドライミルクの関西方面の主力工場だった。厚生省が同年12月の時点でまとめた被害は、西日本27府県、被災乳児1万1,778人、死亡乳児113人という前例のない規模に達した。数か月前に他社製品の中毒事件があり、高くてもよいから高品質のものを使えという通達を出した直後だった。大野氏は連絡を受けた瞬間、それを信じることができなかった。業界の首位に立ったその年に、主力製品が信用を失った。

  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [44]1955年8月24日朝 同年7月以来中国地方に発生した乳児の奇病が砒素中毒によるものと判明し、原因は徳島工場製のビタミン入りドライミルクの飲用によるとの岡山大学の見解が発表された
    • [45]1955年8月24日朝 同年7月以来中国地方に発生した乳児の奇病が砒素中毒によるものと判明し、原因は徳島工場製のビタミン入りドライミルクの飲用によるとの岡山大学の見解が発表された
    • [46]徳島工場は育児粉乳市場の過半を占めた森永ドライミルクの関西方面の主力工場・工場記号MF
    • [47]厚生省の発表による1955年12月時点の被害 西日本27府県・被災乳児1万1,778人・死亡乳児113人
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [48]数か月前の他社製品の中毒事件を受けて高品質の資材を使うよう通達を出した直後であり、連絡を受けた瞬間は信じられなかった
    • [49]数か月前の他社製品の中毒事件を受けて高品質の資材を使うよう通達を出した直後であり、連絡を受けた瞬間は信じられなかった

砒素の出どころは、日本軽金属清水工場でアルミニウムを製錬する際に副生した化合物である。砒酸を4〜6%含み使い道もなく放置されていたその物質を、松野製薬が脱色して再結晶させ、正規の品と同じ仕様の木箱に詰めて出荷していた。それが徳島工場に入ったのは、1955年4月から8月にかけての3回分で、間には徳島の薬品商の協和産業が立った。工場は粉乳を溶けやすくする目的で第二リン酸ナトリウムのつもりでこの薬品を仕入れており、原因は製造の工程の外にあった。東京大学理学部長の木村健二郎氏が調べると、結晶の構造は本来の薬品とまったく異なっていた。業務上過失致死などの罪で徳島工場長と製造課長が起訴され、一審の無罪、二審でのやり直しを経て、最後は一人の有罪が確定した。

  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [50]原因物質は日本軽金属清水工場のアルミニウム製錬で副生した化合物(砒酸4〜6%)で、松野製薬が脱色再結晶し米山化学製品と同一仕様の木箱に詰めて納入した
    • [51]原因物質は日本軽金属清水工場のアルミニウム製錬で副生した化合物(砒酸4〜6%)で、松野製薬が脱色再結晶し米山化学製品と同一仕様の木箱に詰めて納入した
    • [52]1955年4月から同年8月までの3回分が徳島の薬品商 協和産業を経て徳島工場へ納入された
    • [53]粉乳の溶解度向上のため徳島工場で使用していた第二りん酸ナトリウムとして購入した薬品に不純物として砒素が混入していた
    • [54]東京大学理学部長 木村健二郎の検査により、結晶構造が第二りん酸ナトリウムとは全くの別物と確認された
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [55]徳島工場の責任者2人の起訴・一審無罪・二審での裁判やり直しと最終的な1人の有罪

会社は道義的責任を全面的に認めた。全国の新聞へ謝罪の広告を出してMF製品を回収し、七海久常務を長とする対策本部を置いて被災者の医療と慰問にあたった。補償の額は自社で決めなかった。会社の立場を述べずに公正な第三者の判断へ従うべきだとして、厚生省へ斡旋を依頼した。白紙委任を誓約したうえで、法律家と医師ら5人による委員会が発足した。委員会は日本航空木星号事件や国鉄桜木町事件、洞爺丸事件などの補償例を参考に意見書を作成し、会社はこれに従って話し合いを進めた。従業員組合は昇給と賞与を辞退し、仕入れ先は支払いを延ばし、酪農家からは救済の一助にと100万円が贈られた。1956年には厚生省の指示で被災者の事後検診が実施された。

  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [56]全面的に道義的責任を認め、厚生省のあっせんによる5人委員会の勧告に従った
    • [57]全国の新聞への謝罪広告の掲載とMF製品の回収・七海常務を長とする対策本部の設置と被災者の医療・慰問
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [58]会社の立場を述べず公正な第三者の判断に従うため厚生省へ斡旋を依頼し、白紙委任を誓約して法律家・医師ら5人の委員会が発足した
    • [59]会社の立場を述べず公正な第三者の判断に従うため厚生省へ斡旋を依頼し、白紙委任を誓約して法律家・医師ら5人の委員会が発足した
    • [60]5人委員会は日航木星号事件・国鉄桜木町事件・洞爺丸事件などの補償例を参考に補償意見書を作成した
    • [61]従業員組合による昇給・賞与の辞退、仕入れ先の支払い延期、酪農家からの100万円の贈呈
    • [62]1956年 厚生省の指示による被災者の事後検診の実施

打撃は決算に現れた。1955年9月期の当期純損失は5,338万7千円、1956年3月期は1億7,517万1千円の損失となり、2期続けて赤字が出た。一方で半期の売上高は落ちなかった。1955年9月期の43億2,775万4千円から1956年3月期は44億1,334万7千円、9月期は50億1,589万9千円へ伸びた。同じ1956年9月期には1億5,520万円の当期純利益へ戻っている。1957年10月には資本金を9億6千万円へ倍額増資した。1960年3月期の半期売上高は86億924万9千円、当期純利益は2億1,866万4千円、従業員は2,691人に達した。信用を買い戻したのは新製品ではなく、責任を争わずに引き受けた手続きだった。

  • 株式会社年鑑 1957年版「森永乳業」
    • [63]当期純損失 1955年9月期 5,338万7千円・1956年3月期 1億7,517万1千円
    • [64]半期売上高 1955年9月期 43億2,775万4千円・1956年3月期 44億1,334万7千円・1956年9月期 50億1,589万9千円/1956年9月期の当期純利益 1億5,520万円
    • [65]半期売上高 1955年9月期 43億2,775万4千円・1956年3月期 44億1,334万7千円・1956年9月期 50億1,589万9千円/1956年9月期の当期純利益 1億5,520万円
    • [66]半期売上高 1955年9月期 43億2,775万4千円・1956年3月期 44億1,334万7千円・1956年9月期 50億1,589万9千円/1956年9月期の当期純利益 1億5,520万円
  • 株式会社年鑑 1960年版「森永乳業」
    • [67]1957年10月 資本金9億6千万円への増資
    • [68]1960年3月期の半期売上高 86億924万9千円・当期純利益 2億1,866万4千円・従業員2,691人
参考文献[44]-[68]
  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
    • [44]1955年8月24日朝 同年7月以来中国地方に発生した乳児の奇病が砒素中毒によるものと判明し、原因は徳島工場製のビタミン入りドライミルクの飲用によるとの岡山大学の見解が発表された
    • [45]1955年8月24日朝 同年7月以来中国地方に発生した乳児の奇病が砒素中毒によるものと判明し、原因は徳島工場製のビタミン入りドライミルクの飲用によるとの岡山大学の見解が発表された
    • [46]徳島工場は育児粉乳市場の過半を占めた森永ドライミルクの関西方面の主力工場・工場記号MF
    • [47]厚生省の発表による1955年12月時点の被害 西日本27府県・被災乳児1万1,778人・死亡乳児113人
    • [50]原因物質は日本軽金属清水工場のアルミニウム製錬で副生した化合物(砒酸4〜6%)で、松野製薬が脱色再結晶し米山化学製品と同一仕様の木箱に詰めて納入した
    • [51]原因物質は日本軽金属清水工場のアルミニウム製錬で副生した化合物(砒酸4〜6%)で、松野製薬が脱色再結晶し米山化学製品と同一仕様の木箱に詰めて納入した
    • [52]1955年4月から同年8月までの3回分が徳島の薬品商 協和産業を経て徳島工場へ納入された
    • [53]粉乳の溶解度向上のため徳島工場で使用していた第二りん酸ナトリウムとして購入した薬品に不純物として砒素が混入していた
    • [54]東京大学理学部長 木村健二郎の検査により、結晶構造が第二りん酸ナトリウムとは全くの別物と確認された
    • [56]全面的に道義的責任を認め、厚生省のあっせんによる5人委員会の勧告に従った
    • [57]全国の新聞への謝罪広告の掲載とMF製品の回収・七海常務を長とする対策本部の設置と被災者の医療・慰問
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [48]数か月前の他社製品の中毒事件を受けて高品質の資材を使うよう通達を出した直後であり、連絡を受けた瞬間は信じられなかった
    • [49]数か月前の他社製品の中毒事件を受けて高品質の資材を使うよう通達を出した直後であり、連絡を受けた瞬間は信じられなかった
    • [55]徳島工場の責任者2人の起訴・一審無罪・二審での裁判やり直しと最終的な1人の有罪
    • [58]会社の立場を述べず公正な第三者の判断に従うため厚生省へ斡旋を依頼し、白紙委任を誓約して法律家・医師ら5人の委員会が発足した
    • [59]会社の立場を述べず公正な第三者の判断に従うため厚生省へ斡旋を依頼し、白紙委任を誓約して法律家・医師ら5人の委員会が発足した
    • [60]5人委員会は日航木星号事件・国鉄桜木町事件・洞爺丸事件などの補償例を参考に補償意見書を作成した
    • [61]従業員組合による昇給・賞与の辞退、仕入れ先の支払い延期、酪農家からの100万円の贈呈
    • [62]1956年 厚生省の指示による被災者の事後検診の実施
  • 株式会社年鑑 1957年版「森永乳業」
    • [63]当期純損失 1955年9月期 5,338万7千円・1956年3月期 1億7,517万1千円
    • [64]半期売上高 1955年9月期 43億2,775万4千円・1956年3月期 44億1,334万7千円・1956年9月期 50億1,589万9千円/1956年9月期の当期純利益 1億5,520万円
    • [65]半期売上高 1955年9月期 43億2,775万4千円・1956年3月期 44億1,334万7千円・1956年9月期 50億1,589万9千円/1956年9月期の当期純利益 1億5,520万円
    • [66]半期売上高 1955年9月期 43億2,775万4千円・1956年3月期 44億1,334万7千円・1956年9月期 50億1,589万9千円/1956年9月期の当期純利益 1億5,520万円
  • 株式会社年鑑 1960年版「森永乳業」
    • [67]1957年10月 資本金9億6千万円への増資
    • [68]1960年3月期の半期売上高 86億924万9千円・当期純利益 2億1,866万4千円・従業員2,691人

筆者考察

三度の分離と合併を経た乳業が1949年に自ら製菓から降りたのは、独立して伸びる算段があったからではない。戦時の統合で北海道の商圏も東京の市乳も供出し、残ったのは売り先を持たない内地の工場だけだった。好況の期は製菓の中に埋もれ、不況が来れば整理の対象になる。同じ会社にいるかぎり、乳業は菓子と同じ財務の物差しで測られ続ける。ならば測られる場所を変えるほかない。大野勇が全社員へ説いた駆逐艦の比喩は、規模で劣る側が速度を選ぶという宣言であり、独立から5年でこの会社がしたことは、ビタドライ、ホモ牛乳、βドライと製品を先に出し、資本をあとから合わせることだった。

1955年の中毒事件で問われたのは、原因をどこまで自社の責任と認めるかだった。砒素は自社の工程で生じたものではなく、第二りん酸ナトリウムと偽って納入された薬品に入っていた。工場の責任者は一審で無罪となっており、法律上の過失を争う余地はあった。それでも会社は補償の額を自分で決めず、厚生省へ斡旋を依頼して白紙委任を誓約し、法律家と医師の委員会が他の大事故の例から算定した意見書に従った。争えば支払いは小さくなったかもしれないが、争った事実のほうが長く残る。2期続けて赤字を出しながら売上高が落ちなかったことに、その選び方の帰結が出ている。

1944年〜1960年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 69 n/a 5 3 4.3% n/a
1955年03月期 単体 91 +31.9% 5 3 3.3% n/a
1956年03月期 単体 87 ▲4.4% 5 n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 107 +23.0% 5 n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 130 +21.5% 6 n/a n/a 東京工場を開設(1957/04)
1959年03月期 単体 144 +10.8% n/a 3 2.1% n/a
1960年03月期 単体 176 +22.2% n/a 4 2.3% 阪神工場(現 近畿工場)を開設(1959/04)

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算

出典・参考

7件
出典・参考
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
  • 森永乳業五十年史(森永乳業株式会社、1967年)
  • 株式会社年鑑 1954年版「森永乳業」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「北海道バター」
  • 株式会社年鑑 1957年版「森永乳業」
  • 株式会社年鑑 1960年版「森永乳業」
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇

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