森永製菓:森永食糧工業への戦時合併と乳業部門の分離
1937年〜外地生産と五社合併で一つになった森永食糧工業
満洲事変を境に財界はようやく立ち直り、日中戦争に入ってからは社業も活況を呈した。1937年6月に起工した本社社屋は、戦時の建築制限令によって地上5階の設計案に対し3階までの認可しか得られず、1938年11月に鉄筋コンクリート地上3階・地下1階、延1315坪で落成している。戦線の拡大によって上海と天津が日本の勢力範囲に入ると、1938年に天津、翌1939年に上海へ出張所を置き、戦争の長期化に備えて大陸に工場を増設して現地生産を行う計画を立てた。1940年には京城郊外の永登浦に工場を建てて製造を始め、台湾では南部の原始林を伐り開いて農場を直営し、カカオ豆・コーヒー・紅茶の栽培のため1939年に森永台湾殖産を設立した。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [1]昭和に入り長く不況と闘った会社は満洲事変を契機に財界が立ち直り、日中戦争に入ってからは社業も活況を呈した
- [2]1937年6月起工の本社社屋は建築制限令のため地上5階の設計案に対し3階までの認可となり、1938年11月に鉄筋コンクリート地上3階地下1階・延1315坪で落成
- [3]1938年 天津、1939年 上海に出張所を設置
- [4]戦争の長期化に備えて大陸に工場を増設し現地生産を行う計画を立てた
- [5]1940年 京城郊外の永登浦に工場を建設して製造を開始
- [6]台湾南部の原始林を伐採開墾して農場を直営し、カカオビーンズ・コーヒー・紅茶の栽培のため1939年に森永台湾殖産会社を設立
1941年、内地の販売会社をまとめて合併し、森永配給を設立した。同社は1943年に森永キャンデーストアを合併して森永産業と改称した。製造の側では1942年10月に森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳の4社を合併し、中京工場と小山工場を承継した。東海製菓は1918年の創立で岡崎に本社を置き、小山・岡崎・名古屋・下関に工場を持つ、当時は明治製菓に次ぐ製菓会社であった。1943年11月には商号を森永食糧工業へ改めた。菓子の語を社名から外したこの改称は、原料統制のもとでは菓子だけを作る会社が立ち行かなかったことの表れである。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [7]1941年 内地販売会社を合併し森永配給会社を設立
- [8]森永配給会社は1943年に株式会社森永(元の森永キャンデーストア)を合併して森永産業会社と改称
- [10]東海製菓会社は1918年創立で岡崎に本社を置き、小山・岡崎・名古屋・下関に工場を有し、当時は明治製菓に次ぐ製菓会社であった
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [9]1942年10月 森永乳業・森永食品工業(中京工場を承継)・東海製菓(小山工場を承継)・森永関西牛乳を合併
- [11]1943年11月 商号を「森永食糧工業株式会社」へ改称
1945年には森永産業と森永東北農産工業を吸収合併して戦時体制を整えた。空襲が交通と通信を絶ち、本土上陸という最悪の事態まで想定されたため、従来の事業部門別の命令系統を廃して地区別に改め、全国を関東・東海・関西・九州・東北・北海・台湾・朝鮮の8管理部に分けた。1944年、岡崎工場は川西航空機の協力工場として航空機部品の製造に転換し、久留米工場では高級燃料のブタノールを製造した。同年12月には三島工場でペニシリンの液体抽出に成功し、製品は碧素と名づけて軍へ納入している。脱脂乳がペニシリン菌の培養に適するため食品の製造設備が転用できるという、軍医学校教官の稲垣克彦氏の着眼が発端だった。主力の鶴見工場は2度の空襲でチョコレート部とキャラメル部など約5千坪を焼失し、在庫の砂糖と小麦粉は一週間以上燃え続けた。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [12]1945年 森永産業会社・森永東北農産工業会社を吸収合併して戦時体制を整えた
- [13]空襲で交通・通信が杜絶し本土上陸の最悪事態も想定されたため、事業部門別命令系統を廃して地区別に改め全国を関東・東海・関西・九州・東北・北海・台湾・朝鮮の8管理部に分けた
- [14]1944年 岡崎工場は川西航空機会社の協力工場として航空機部品の製造に転換
- [15]1943年に台湾製糖会社の休止工場を譲り受けた久留米工場で高級燃料アセトン・ブタノールの本格的製造に乗り出した
- [16]1944年12月10日 三島工場でペニシリンの液体抽出に成功し、製品は碧素と命名して軍へ納入
- [17]軍医学校教官 稲垣克彦医学博士が脱脂乳がペニシリン菌培養に好適であることから食品製造設備の転用に着眼し、同社へ相談したことが端緒
- [18]鶴見工場は2度の空襲でチョコレート部・キャラメル部の主力工場と製品倉庫など約5千坪を焼失、在庫の砂糖・小麦粉は一週間以上燃え続けた
参考文献[1]-[18]
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [1]昭和に入り長く不況と闘った会社は満洲事変を契機に財界が立ち直り、日中戦争に入ってからは社業も活況を呈した
- [2]1937年6月起工の本社社屋は建築制限令のため地上5階の設計案に対し3階までの認可となり、1938年11月に鉄筋コンクリート地上3階地下1階・延1315坪で落成
- [3]1938年 天津、1939年 上海に出張所を設置
- [4]戦争の長期化に備えて大陸に工場を増設し現地生産を行う計画を立てた
- [5]1940年 京城郊外の永登浦に工場を建設して製造を開始
- [6]台湾南部の原始林を伐採開墾して農場を直営し、カカオビーンズ・コーヒー・紅茶の栽培のため1939年に森永台湾殖産会社を設立
- [7]1941年 内地販売会社を合併し森永配給会社を設立
- [8]森永配給会社は1943年に株式会社森永(元の森永キャンデーストア)を合併して森永産業会社と改称
- [10]東海製菓会社は1918年創立で岡崎に本社を置き、小山・岡崎・名古屋・下関に工場を有し、当時は明治製菓に次ぐ製菓会社であった
- [12]1945年 森永産業会社・森永東北農産工業会社を吸収合併して戦時体制を整えた
- [13]空襲で交通・通信が杜絶し本土上陸の最悪事態も想定されたため、事業部門別命令系統を廃して地区別に改め全国を関東・東海・関西・九州・東北・北海・台湾・朝鮮の8管理部に分けた
- [14]1944年 岡崎工場は川西航空機会社の協力工場として航空機部品の製造に転換
- [15]1943年に台湾製糖会社の休止工場を譲り受けた久留米工場で高級燃料アセトン・ブタノールの本格的製造に乗り出した
- [16]1944年12月10日 三島工場でペニシリンの液体抽出に成功し、製品は碧素と命名して軍へ納入
- [17]軍医学校教官 稲垣克彦医学博士が脱脂乳がペニシリン菌培養に好適であることから食品製造設備の転用に着眼し、同社へ相談したことが端緒
- [18]鶴見工場は2度の空襲でチョコレート部・キャラメル部の主力工場と製品倉庫など約5千坪を焼失、在庫の砂糖・小麦粉は一週間以上燃え続けた
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [9]1942年10月 森永乳業・森永食品工業(中京工場を承継)・東海製菓(小山工場を承継)・森永関西牛乳を合併
- [11]1943年11月 商号を「森永食糧工業株式会社」へ改称
1946年〜統制下で菓子の会社を支えた乳業部門
終戦後の経済統制は、戦時中の統制よりかえって一段と強化された。在庫の製品と原材料をそのまま自由に処分することは許されず、製品は供出しなければならなかった。1946年から澱粉と水飴の統制が解かれる1950年までの満4年間、受注は進駐軍の特需品、農林省と復員局への納品、各都道府県の配給品の3種類に限られた。鶴見工場は1946年から米国赤十字向けのビスケット類を受け、1947年10月にはPXのパン・ケーキ類へ切り替えて1952年まで7年間にわたり受注を続けた。ただし注文先が官庁であるため工場操業の見通しが立たず、経営方針の安定性を欠く悩みがあった。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「戰後より現況」
- [19]終戦後の経済統制はさらに強化され、戦時中の統制よりかえって一段と強化された
- [20]在庫製品・原材料をそのまま自由に処分することは許されず、製品は供出せねばならなかった
- [21]1950年に澱粉・水飴の統制が解除されるまでの満4年間、受注は進駐軍の特需品、農林省・復員局、各都道府県の配給品の3種類に限られた
- [22]鶴見工場は1946年からA・R・C(米国赤十字)のビスケット類を受注、1947年10月にP・Xのパン・ケーキ類へ切り換え、1952年まで7年間受注した
- [23]注文先が官庁であるため工場操業の見通しがつかず、経営方針の安定性を欠く悩みがあった
乳業部門の製品は育児上の必需品として優先的に扱われ、菓子は嗜好品として第二次的に遇された。このため乳業部門が独立する1949年までは、会社の経営が乳業部門に負うところが大きかった。原料牛乳の取扱いは1941年度の207万9千石をピークに下降し、1946年には日本の酪農史上で最低の79万6千石まで落ちて、1日の全乳量60石という状況に直面している。森永は全国で計画された生産量のおよそ3分の1を割り当てられ、第1回から第4回までを通じて中心的な役割を担った。割り当ての元になったのは当局の計画である。限られた牛乳でより多くの製品を行き渡らせるため、当局は乳分を50%とし、澱粉と砂糖を加える新しい規格を設けた。そのうえで、米国の占領地救済資金による脱脂粉乳を主な原料に育児食を作り、配る計画を立てた。この割り当てのおかげで、原料の不足と復員者の受け入れがまかなわれ、統制のために手が空いていた他の部門にまで恩恵が及んだ。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「戰後より現況」
- [24]乳業部門の製品は育児上の必需品として優先的に取扱われ、菓子は嗜好品として第二次的に遇された
- [25]乳業部門が独立する1949年までは会社の経営が乳業部門に負うところが多大であった
- [26]原料牛乳は1941年度の207万9千石をピークに下降し1946年には酪農史最低の79万6千石、1日の取扱い全乳量は60石まで落ちた
- [27]全国計画量の約3分の1の生産割当を得て第1回から第4回まで主導的立場に立った
- [28]当局は乳分50%に澱粉・砂糖等を加えた新規格品を制定し、米国の占領地救済資金による脱脂粉乳を主原料とする育児食の生産・配給を計画した
- [29]育児食の生産割当により原料不足や復員者の収容を賄い、強度の統制で無為に過ごさざるを得なかった他部門をも潤して苦況時代の乗り切りを助けた
1946年5月の定時総会で松崎半三郎氏が辞任し、初代社長の嗣子である森永太平氏が三代社長に就いた。太平氏は1924年に入社して各部門を経たのち、1942年に常務取締役、翌1943年に専務取締役を務めていた。1947年12月に過度経済力集中排除法が公布されると、翌1948年2月に指定を受けて書類の提出を求められる。地区的な分割か、エンゼルマークの使用禁止処分かが避けられない運命だと憂慮されたが、最悪の場合は乳業部門を切り離す決意のもとで、あくまで一本化を主張して関係各方面に諒解を求めた。排除法は緩和され、1948年6月に指定は取り消された。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「戰後より現況」
- [30]1946年5月の定時総会で松崎半三郎が社長を辞任し、初代社長の嗣子 森永太平が三代社長に就任
- [31]森永太平は1924年入社、事業各部門を経て1942年に常務取締役、1943年に専務取締役へ就任
- [32]1947年12月公布の過度経済力集中排除法により1948年2月に指定を受け書類の提出を求められた
- [33]地区的分割かエンゼルマークの使用禁止処分が必然と憂慮され、最悪の場合は乳業部門を切り離す決意のもとで一本化を主張し関係各方面に諒解を求めた
- [34]排除法が緩和され1948年6月に指定を取り消された
参考文献[19]-[34]
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「戰後より現況」
- [19]終戦後の経済統制はさらに強化され、戦時中の統制よりかえって一段と強化された
- [20]在庫製品・原材料をそのまま自由に処分することは許されず、製品は供出せねばならなかった
- [21]1950年に澱粉・水飴の統制が解除されるまでの満4年間、受注は進駐軍の特需品、農林省・復員局、各都道府県の配給品の3種類に限られた
- [22]鶴見工場は1946年からA・R・C(米国赤十字)のビスケット類を受注、1947年10月にP・Xのパン・ケーキ類へ切り換え、1952年まで7年間受注した
- [23]注文先が官庁であるため工場操業の見通しがつかず、経営方針の安定性を欠く悩みがあった
- [24]乳業部門の製品は育児上の必需品として優先的に取扱われ、菓子は嗜好品として第二次的に遇された
- [25]乳業部門が独立する1949年までは会社の経営が乳業部門に負うところが多大であった
- [26]原料牛乳は1941年度の207万9千石をピークに下降し1946年には酪農史最低の79万6千石、1日の取扱い全乳量は60石まで落ちた
- [27]全国計画量の約3分の1の生産割当を得て第1回から第4回まで主導的立場に立った
- [28]当局は乳分50%に澱粉・砂糖等を加えた新規格品を制定し、米国の占領地救済資金による脱脂粉乳を主原料とする育児食の生産・配給を計画した
- [29]育児食の生産割当により原料不足や復員者の収容を賄い、強度の統制で無為に過ごさざるを得なかった他部門をも潤して苦況時代の乗り切りを助けた
- [30]1946年5月の定時総会で松崎半三郎が社長を辞任し、初代社長の嗣子 森永太平が三代社長に就任
- [31]森永太平は1924年入社、事業各部門を経て1942年に常務取締役、1943年に専務取締役へ就任
- [32]1947年12月公布の過度経済力集中排除法により1948年2月に指定を受け書類の提出を求められた
- [33]地区的分割かエンゼルマークの使用禁止処分が必然と憂慮され、最悪の場合は乳業部門を切り離す決意のもとで一本化を主張し関係各方面に諒解を求めた
- [34]排除法が緩和され1948年6月に指定を取り消された
1949年〜商事と乳業を外へ出した菓子専業への復元
1949年4月、森永乳業を設立した。5月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ上場する。8月1日には統制の撤廃に備えて商事部を分離独立させ、資本金1千万円で森永商事を設立した。10月1日に乳業部門を森永乳業へ譲渡し、同じ10月1日に倍額増資で資本金を1億円としたうえで、商号を森永製菓へ復称した。1953年7月には酒造部門も分離して森永醸造を発足させ、1954年7月には売店部門を森永キャンデーストアとして分けた。集中排除法が外から迫った分割を、会社はこの5年のあいだに自らの手で選び直したのだろう。
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [35]1949年4月 森永乳業㈱設立
- [36]1949年5月 東京・大阪・名古屋証券取引所に上場
- [38]1949年10月 乳業部門を分離し森永乳業㈱に譲渡
- [41]1954年7月 売店部門を分離し㈱森永キャンデーストアとして発足
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「戰後より現況」
- [37]1949年8月1日 統制撤廃の新事態に備えて商事部を分離独立し、資本金1千万円で森永商事株式会社を設立
- [39]1949年10月1日 倍額増資により資本金を1億円とし、社名を森永製菓株式会社へ復称
- [40]1953年7月 酒造部門を分離独立して森永醸造株式会社を発足
1949年11月にまず水飴の統制が解除され、まもなく待望のキャラメルの自由販売が許された。会社は60グラム25円の公定価格をそのまま踏襲したうえで、翌年には率先して48グラム20円へ切り換えている。終戦以来キャラメルが配給品として最も大衆に親しまれていたため自由販売後の売行きは著しく、毎期1カ月あたり1千万函の売上増加を示す勢いであった。増産は主力の鶴見工場の戦災復興を待たねばならなかったが、建物を新築するのでは急場に間に合わないため、既存の工場に増産設備を施す方を採った。この2年半でキャラメルの増産に投じた資金は5億円に達している。北海道では札幌の薬品工場をキャラメル工場へ転換して1951年に操業させ、同地方の地盤の回復に備えた。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「戰後より現況」
- [42]1949年11月 まず水飴の統制が解除され、まもなくキャラメルの自由販売が許された
- [43]60グラム1個25円の公定価格をそのまま踏襲したが、翌年に率先して48グラム20円へ切り換えた
- [44]終戦以来キャラメルが配給品として大衆に親しまれていたため自由販売後の売行きは著しく、毎期1カ月1千万函の売上増加を示す勢いであった
- [45]キャラメル増産は鶴見工場の戦災復興を待つ必要があったが需要が急激で新築では間に合わないため、既存工場に増産設備を施すこととした
- [46]2年半でキャラメル増産のために投じた資金は5億円に達した
- [47]北海道では札幌市所在の薬品工場をキャラメル製造工場に転換して1951年に操業、同地方の地盤回復に備えた
1952年、工務課長が欧米へ出張したのをきっかけに、森永は長年の自社研究をもとにした最新式の一貫製造機を英国の機械製作所に発注し、それまでの設備の3倍を生産できる装置として鶴見工場に据え付けた。同じ1952年の4月に砂糖、6月に小麦粉の統制が外れると、ビスケットづくりに各社が一斉に乗り出し、店頭には製品があふれた。森永がまず出したのはチョイスである。戦後の進駐軍向けで、すでに名の通っていた品だった。ハーバード・クリーム、マンナ、マリーがこれに続いた。売上高は1954年3月期の124億円から1964年3月期には348億円へ伸びた。1961年12月には台湾製菓股份有限公司と資本提携している。戦時に集めた体を平時に解き、残した菓子の側へ設備と宣伝を寄せたのが、この期の選択であった。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「戰後より現況」
- [48]1952年 工務課長 松崎保の欧米出張を機に、永年の自社研究を基礎とする最新型の一貫製造機を英国の機械製作所に製作させ鶴見工場に設備した。能力は旧来設備の3倍
- [49]1952年4月に砂糖、6月に小麦粉の統制が解除され、各社が競ってビスケットの製造を始めて製品は市場に氾濫した
- [50]戦後にO・S・Sの注文で既に知られていたチョイスを発売し、続いてハーバード・クリーム、マンナ、マリーを市場へ送り出した
- 上場会社総覧(1956年版)・会社年鑑(1967年版)
- [51]森永製菓 売上高 1954年3月期 124億円 / 1964年3月期 348億円(単体)
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [52]1961年12月 台湾製菓股份有限公司と資本提携(現・台湾森永製菓股份有限公司)
参考文献[35]-[52]
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [35]1949年4月 森永乳業㈱設立
- [36]1949年5月 東京・大阪・名古屋証券取引所に上場
- [38]1949年10月 乳業部門を分離し森永乳業㈱に譲渡
- [41]1954年7月 売店部門を分離し㈱森永キャンデーストアとして発足
- [52]1961年12月 台湾製菓股份有限公司と資本提携(現・台湾森永製菓股份有限公司)
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「戰後より現況」
- [37]1949年8月1日 統制撤廃の新事態に備えて商事部を分離独立し、資本金1千万円で森永商事株式会社を設立
- [39]1949年10月1日 倍額増資により資本金を1億円とし、社名を森永製菓株式会社へ復称
- [40]1953年7月 酒造部門を分離独立して森永醸造株式会社を発足
- [42]1949年11月 まず水飴の統制が解除され、まもなくキャラメルの自由販売が許された
- [43]60グラム1個25円の公定価格をそのまま踏襲したが、翌年に率先して48グラム20円へ切り換えた
- [44]終戦以来キャラメルが配給品として大衆に親しまれていたため自由販売後の売行きは著しく、毎期1カ月1千万函の売上増加を示す勢いであった
- [45]キャラメル増産は鶴見工場の戦災復興を待つ必要があったが需要が急激で新築では間に合わないため、既存工場に増産設備を施すこととした
- [46]2年半でキャラメル増産のために投じた資金は5億円に達した
- [47]北海道では札幌市所在の薬品工場をキャラメル製造工場に転換して1951年に操業、同地方の地盤回復に備えた
- [48]1952年 工務課長 松崎保の欧米出張を機に、永年の自社研究を基礎とする最新型の一貫製造機を英国の機械製作所に製作させ鶴見工場に設備した。能力は旧来設備の3倍
- [49]1952年4月に砂糖、6月に小麦粉の統制が解除され、各社が競ってビスケットの製造を始めて製品は市場に氾濫した
- [50]戦後にO・S・Sの注文で既に知られていたチョイスを発売し、続いてハーバード・クリーム、マンナ、マリーを市場へ送り出した
- 上場会社総覧(1956年版)・会社年鑑(1967年版)
- [51]森永製菓 売上高 1954年3月期 124億円 / 1964年3月期 348億円(単体)
1937年〜1964年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | 40 | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 81 | +102.5% | 5 | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 100 | +23.5% | 6 | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 124 | +24.0% | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 139 | +12.1% | 8 | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 121 | ▲12.9% | 6 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 125 | +3.3% | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 140 | +12.0% | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 137 | ▲2.1% | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 148 | +8.0% | 6 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 176 | +18.9% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 227 | +29.0% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 296 | +30.4% | n/a | 14 | 4.7% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 348 | +17.6% | n/a | 12 | 3.4% | n/a |
出所:上場会社総覧、会社年鑑
出典・参考
4件
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「戰後より現況」
- 上場会社総覧(1956年版)・会社年鑑(1967年版)