森永製菓:森永商店の設立と日本煉乳の合併
1899年〜二坪の職場で始めた米国仕込みの洋菓子量産
森永製菓の出発は、1899年8月に森永太一郎氏が東京・赤坂溜池の二坪の職場に構えた森永西洋菓子製造所である。太一郎氏は肥前伊万里に生まれ、横浜で陶器の商いに従事したのち渡米し、滞米11年で洋菓子の製造法を修得して帰国した。当時の日本の菓子は見た目の形さえ整っていればよいとする家内工業の域を出ておらず、太一郎氏は原料の配合に細心の注意を払い、嗜好品にすぎなかった菓子へ栄養価を持たせ、子供のための菓子を安く量産する道を選んだ。創業の年の暮れには日本で最初のキャラメルを作り、創業の8カ月後に溜池表通り、3年後に赤坂田町へ職場を移した。1904年には衛生に配慮して業界に先駆けて従業員の制服を採り入れ、1905年にはエンゼルマークを商標登録した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
- [1]1899年8月 森永太一郎が東京・赤坂溜池の二坪の職場で森永西洋菓子製造所を創業
- [2]森永太一郎 滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国
- [7]創業8カ月後に溜池表通りへ、3年後に赤坂田町へ移転
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [3]森永太一郎は肥前伊万里の生まれ、横浜で陶器の業に従事したのち渡米(徳富蘇峰撰の銅像銘)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
- [4]当時の日本の菓子工業は家内工業の域を出ず、見た目の形が整っていればよいとされた
- [5]菓子の栄養価を高め「子供のための菓子」を安価に量産する方針
- [6]1899年末 日本で最初のキャラメルを製造
- 森永製菓 統合報告書2025
- [8]1904年 衛生に配慮し業界に先駆けて従業員の制服を採用
- [9]1905年 エンゼルマークを商標登録
1905年1月に入店した松崎半三郎氏は、支配人として経営全般を担った。1907年には芝田町へ新工場を建てて移り、翌1908年に大阪支店を開いた。1910年2月には資本金30万円で株式会社森永商店を設立して太一郎氏が社長に就き、1912年11月に森永製菓へ改称した。菓子に栄養価を持たせるという方針を製品の側で裏づけるため、1915年に森永化学試験部を開き、東京帝国大学名誉教授で薬学博士の丹波敬三氏を顧問に、薬学博士の岡田春吉氏を所長に迎えて、原料の精選と化学的処理を担わせた。販路の側でも同じ1915年頃から全国に特約販売店を設け、赤坂時代の小売店への直売から問屋を介する形へ切り替えている。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
- [10]1905年1月 松崎半三郎が支配人として入店し経営全般を担当
- [11]1907年 芝田町に新工場を建設して移転、1908年 大阪支店開設
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [12]1910年2月 資本金30万円で株式会社森永商店を設立、社長 森永太一郎
- [13]1912年11月 森永製菓へ商号変更
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [14]1915年 森永化学試験部を開設。顧問に東京帝大名誉教授・薬学博士 丹波敬三、所長に薬学博士 岡田春吉を招聘し、原料の精選と化学的処理にあたらせた
- [15]大正4年(1915年)頃から全国的に特約販売店を設置。赤坂の創業時代は小売店への直売だったが販路の拡大で問屋を通す形へ移った
1914年3月、キャラメルをポケット用の紙サックに詰めた製品を売り出した。それまでのキャラメルは一斤八十粒四十銭のばら売りが常識で、1908年7月に作った美麗なブリキ印刷の小罐は容器代に内容が伴わず、十粒十銭という高価のため不成功に終わっていた。営業部長の大串松次氏が提案した紙サック入りは、湿気を防げないという理由で社内では容易に採用されなかったが、その進言と研究によって実現し、1914年春に上野公園で開かれた大正博覧会の特設売店で二十粒十銭として発売すると、博覧会土産として人気を呼んだ。同じ年の秋から翌年の春にかけて連続3回の売出を行い、総額13万罐を売り切って同期の売上高は151万余円に達した。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
- [16]1914年3月 ミルクキャラメル・ポケット用(紙サック入)を発表。ばら売りが常識の時代に紙サックの新型が人気を呼んだ
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [17]ポケット用サック考案以前のキャラメルはすべてばら売りで、一斤八十粒四十銭(一粒五厘)の時代が1914年の発売まで続いた
- [18]1908年7月 ブリキ印刷の小罐(10粒入)を製作したが容器代に内容が伴わず、キャラメル十粒十銭の高価のため不成功に終わった
- [19]営業部長 大串松次が紙サック入れを提案したが、湿気を防ぎ得ないとの理由で容易に採用されなかった
- [20]1914年春 上野公園の大正博覧会の特設売店で紙サック入りキャラメル二十粒十銭を発売し、博覧会土産として人気を呼んだ
- [21]1914年秋から1915年春にかけて連続3回の売出を行い総額13万罐を売り切り、同期の売上高は151万余円に達した
参考文献[1]-[21]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
- [1]1899年8月 森永太一郎が東京・赤坂溜池の二坪の職場で森永西洋菓子製造所を創業
- [2]森永太一郎 滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国
- [7]創業8カ月後に溜池表通りへ、3年後に赤坂田町へ移転
- [10]1905年1月 松崎半三郎が支配人として入店し経営全般を担当
- [11]1907年 芝田町に新工場を建設して移転、1908年 大阪支店開設
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [3]森永太一郎は肥前伊万里の生まれ、横浜で陶器の業に従事したのち渡米(徳富蘇峰撰の銅像銘)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
- [4]当時の日本の菓子工業は家内工業の域を出ず、見た目の形が整っていればよいとされた
- [5]菓子の栄養価を高め「子供のための菓子」を安価に量産する方針
- [6]1899年末 日本で最初のキャラメルを製造
- [16]1914年3月 ミルクキャラメル・ポケット用(紙サック入)を発表。ばら売りが常識の時代に紙サックの新型が人気を呼んだ
- 森永製菓 統合報告書2025
- [8]1904年 衛生に配慮し業界に先駆けて従業員の制服を採用
- [9]1905年 エンゼルマークを商標登録
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [12]1910年2月 資本金30万円で株式会社森永商店を設立、社長 森永太一郎
- [13]1912年11月 森永製菓へ商号変更
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [14]1915年 森永化学試験部を開設。顧問に東京帝大名誉教授・薬学博士 丹波敬三、所長に薬学博士 岡田春吉を招聘し、原料の精選と化学的処理にあたらせた
- [15]大正4年(1915年)頃から全国的に特約販売店を設置。赤坂の創業時代は小売店への直売だったが販路の拡大で問屋を通す形へ移った
- [17]ポケット用サック考案以前のキャラメルはすべてばら売りで、一斤八十粒四十銭(一粒五厘)の時代が1914年の発売まで続いた
- [18]1908年7月 ブリキ印刷の小罐(10粒入)を製作したが容器代に内容が伴わず、キャラメル十粒十銭の高価のため不成功に終わった
- [19]営業部長 大串松次が紙サック入れを提案したが、湿気を防ぎ得ないとの理由で容易に採用されなかった
- [20]1914年春 上野公園の大正博覧会の特設売店で紙サック入りキャラメル二十粒十銭を発売し、博覧会土産として人気を呼んだ
- [21]1914年秋から1915年春にかけて連続3回の売出を行い総額13万罐を売り切り、同期の売上高は151万余円に達した
1915年〜休止工場の買収と販売会社が運んだキャラメルの全国普及
1915年、芝田町工場の一カ所では急増する需要に応じきれなくなり、太一郎氏が渡米中であったことから松崎支配人の判断で品川御殿山の醤油会社の休止工場を買い受け、第二工場としてキャラメル日産二千罐の増産を始めた。翌1916年2月、新築したばかりの三階建乾燥室の屋根裏から発火して田町工場はほとんど全焼したが、第二工場があったため製品の生産は途切れなかった。焼け跡には仮工場の建築を急ぎ、6月11日に竣工させて生産力を回復している。1917年には大阪府鷺洲町の元大阪硝子会社の休止工場を買収し、翌1918年1月から製造を始めた。第一次世界大戦の好況に乗って、キャラメルの生産は創業以来まれに見る活況を呈した。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [22]芝田町工場一カ所では需要に応じられなくなり、1915年 森永社長のアメリカ外遊中に松崎支配人の判断で品川御殿山の醤油会社の休止工場を買受け、第二工場としてキャラメル日産二千罐の増産を開始
- [23]1916年2月25日夕 新築の三階建乾燥室屋根裏から発火し田町工場がほとんど全焼したが、大崎第二工場があったため生産には事欠かなかった
- [24]焼跡に仮工場を建築し1916年6月11日に竣工して生産力を回復
- [25]1917年 大阪府鷺洲町大仁の元大阪硝子会社の休止工場を買収し、1918年1月から製造を開始
- [26]第一次欧洲大戦の好況により1916年頃からキャラメルの生産は創業50年の発展史上まれに見る活況を呈した
1918年9月、芝田町工場にチョコレートの製造機械を据え、10月から森永ミルクチョコレートを売り出した。カカオ豆から一貫して処理する作業が日本で工業化されずにいたのは、機械設備に巨額の資本と高度の技術を要したためで、太一郎氏と松崎氏が外遊で欧米の普及ぶりを見ていたことが着手の理由だった。機械は米国から購入し、技師オスカー・グランランド氏を招いている。原料の側では、1914年のミルクキャラメル発売以来、煉乳とバターの需要を国内の酪農では満たせず輸入に頼る事情にあったため、1917年9月に愛国煉乳合資会社を買収して資本金30万円の日本煉乳を創立し、1920年7月にこれを合併して三島工場を承継した。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
- [27]1918年9月 芝田町工場にチョコレート製造機械を設置、10月からミルクチョコレートを発売
- 森永製菓 統合報告書2025
- [28]1918年 国産第1号ミルクチョコレート発売
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [29]カカオビーンズから処理する一貫作業が容易に工業化されなかったのは、機械設備に巨額の資本と高度の技術を要したため
- [30]チョコレートとココアが生活必需品として欧米に普及している事実を森永社長と松崎支配人が外遊で見聞したことが製造着手の理由
- [31]チョコレートの機械設備は米国より購入し、米人技師オスカー・グランランドを招聘
- [32]1914年のミルクキャラメル発売以来、煉乳・バターが主要原料となったが当時の日本の酪農業では需要を満たせず輸入に頼る事情にあった
- [33]1917年9月 千葉県安房郡吉尾村の愛国煉乳合資会社を買収し資本金30万円の日本煉乳会社を創立
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [34]1920年7月 日本煉乳を合併し三島工場を承継
専属を掲げても類似品を扱う店は絶えず、特約店の制度だけでは自社の製品を専心売る業者を確保できなかった。大阪の特約店の親睦団体だった友進会を1921年に共同販売制の組合へ改め、1922年7月に株式組織へ変更し、翌1923年3月に森永製品関西販売と改称した。これが販売会社の皮切りで、1929年までに内外地を合わせて23の販売会社が設立された。その傘下には問屋と中卸を組織化する森永会を全国152団体置き、1924年には小売業者を組織化する森永共栄会を各地に結成した。1923年4月には丸ビルに森永キャンデーストアを開き、1928年8月には有力小売店4千余店による森永ベルトライン協会を設立している。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [35]専属特約制度を作っても名実伴わず類似品を扱う店が絶えなかった
- [36]大阪の親睦団体 友進会を1921年に共同販売制の組合へ改組、1922年7月に株式組織へ変更、1923年3月8日に森永製品関西販売株式会社へ改称
- [37]森永製品関西販売を皮切りに1929年までに内外地を合わせて23の販売会社を設立
- [38]販売会社の傘下に問屋・中卸を糾合した森永会を全国152団体結成し、1924年には小売業者を組織化する森永共栄会を各地に結成
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [39]1923年4月 丸ビルに森永キャンデーストア開店
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [40]1928年8月 有力小売店を結集して森永ベルトライン協会を設立、参加店は4千余店
参考文献[22]-[40]
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [22]芝田町工場一カ所では需要に応じられなくなり、1915年 森永社長のアメリカ外遊中に松崎支配人の判断で品川御殿山の醤油会社の休止工場を買受け、第二工場としてキャラメル日産二千罐の増産を開始
- [23]1916年2月25日夕 新築の三階建乾燥室屋根裏から発火し田町工場がほとんど全焼したが、大崎第二工場があったため生産には事欠かなかった
- [24]焼跡に仮工場を建築し1916年6月11日に竣工して生産力を回復
- [25]1917年 大阪府鷺洲町大仁の元大阪硝子会社の休止工場を買収し、1918年1月から製造を開始
- [26]第一次欧洲大戦の好況により1916年頃からキャラメルの生産は創業50年の発展史上まれに見る活況を呈した
- [29]カカオビーンズから処理する一貫作業が容易に工業化されなかったのは、機械設備に巨額の資本と高度の技術を要したため
- [30]チョコレートとココアが生活必需品として欧米に普及している事実を森永社長と松崎支配人が外遊で見聞したことが製造着手の理由
- [31]チョコレートの機械設備は米国より購入し、米人技師オスカー・グランランドを招聘
- [32]1914年のミルクキャラメル発売以来、煉乳・バターが主要原料となったが当時の日本の酪農業では需要を満たせず輸入に頼る事情にあった
- [33]1917年9月 千葉県安房郡吉尾村の愛国煉乳合資会社を買収し資本金30万円の日本煉乳会社を創立
- [35]専属特約制度を作っても名実伴わず類似品を扱う店が絶えなかった
- [36]大阪の親睦団体 友進会を1921年に共同販売制の組合へ改組、1922年7月に株式組織へ変更、1923年3月8日に森永製品関西販売株式会社へ改称
- [37]森永製品関西販売を皮切りに1929年までに内外地を合わせて23の販売会社を設立
- [38]販売会社の傘下に問屋・中卸を糾合した森永会を全国152団体結成し、1924年には小売業者を組織化する森永共栄会を各地に結成
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
- [27]1918年9月 芝田町工場にチョコレート製造機械を設置、10月からミルクチョコレートを発売
- 森永製菓 統合報告書2025
- [28]1918年 国産第1号ミルクチョコレート発売
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- [34]1920年7月 日本煉乳を合併し三島工場を承継
- [39]1923年4月 丸ビルに森永キャンデーストア開店
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [40]1928年8月 有力小売店を結集して森永ベルトライン協会を設立、参加店は4千余店
1923年〜二大工場へ投じた巨費と、昭和恐慌下の半額減資
1924年、資本金300万円を一挙に5倍の1500万円へ増資し、増資新株のうち2万株をプレミアム付きで公募した。塚口工場の一部落成に続く鶴見工場の建設で、ビスケットとチョコレートの機械を大量に購入する巨額の資金が要ったためである。塚口には福知山線塚口駅前の敷地6万坪を買い、1923年に第一期工事を終えて英国ベーカー・パーキンス社の最新式ガス・オブン三線式7台を据え、英人技師を招いて英国風のビスケット製造に取りかかった。鶴見では1923年に鶴見川を挟んだ5万坪を買収し、1925年6月にまずビスケット、翌1926年5月にウエファースとチョコレート、9月にキャラメルの製造を順に始めている。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [41]1924年 資本金300万円を一躍5倍の1500万円へ増資し、増資新株のうち2万株をプレミアム付で公募
- [42]塚口工場の一部落成に続く鶴見工場建設に伴うビスケットとチョコレート機械の大量購入のため巨額の資金を要した
- [43]福知山線塚口駅前の敷地6万坪を買収し1923年に第一期工事を完成。英国ベーカー・パーキンス社の最新式ガス・オブン三線式7台を据付け、英人技師 A・F・アッシエルを招聘して英国風ビスケットの製造に着手
- [44]1923年に神奈川県鶴見川を挟んだ5万坪を買収、1925年6月にビスケット製造に着手、1926年5月にウエファース・チョコレート、9月にキャラメルの製造を順次開始
1923年9月の関東大震災で本社も工場も被害は軽微だった一方、京浜の同業者の大半が焼失したため、森永製菓の製品は文字通り飛ぶように売れた。震災後の好景気をいつまでも続く需要と見て、二つの大工場に巨額の資金を注ぎ込んだ判断は、のちに大きな重荷となった。実際にはこの需要は一時的なもので、欧州大戦の反動による不況は年ごとに深まり、1927年には財界が破綻するに至る。年間売上高は1924年の1700万円が頂点で、以後は販売にいくら力を入れても落ち込みが止まらず、満洲事変までのおよそ10年間減り続けた。経費を削るため、1926年5月には本社を丸ビルから田町工場の跡地に建てたバラックへ移した。大雨が降れば雨が漏る事務所で、耐乏の日々が続いた。
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [45]1923年9月の関東大震災で本社・工場の被害は軽微だった一方、京浜の同業者の大半が焼失したため製品は飛ぶように売れた
- [46]1924年の5倍増資と塚口・鶴見の二大工場建設で巨費を固定させたことが後日の禍根になった
- [47]震災景気は一時的で欧州大戦の反動的不況は年と共に深刻となり、1927年に財界の破綻を来した
- [48]1924年の年間売上高1700万円を頂点として下降状態となり、満洲事変まで約10年間売上高の減退が続いた
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [49]1926年5月 不況対策として経費節約のため本社を丸ビルから田町工場跡のバラック建てへ引き揚げ、豪雨の日は雨漏りする事務所で臥薪嘗胆が続いた
拡張の代償は1930年の金解禁の後に表れ、財界の不況が深刻となるなかで設備の拡張によって増えた生産を消化できず、経営は難局に直面した。1931年9月期から1932年上期までの3期は無配となり、1932年9月期をもって半額減資を断行して資本金を750万円とした。1931年夏には減資と並行して、ミルクキャラメルの景品に紙製の模型飛行機を付け、九州から北海道までを縦断する飛行距離1万2千キロの飛行機セールを行い、模型3種合計300万個を売り尽くした。1932年10月からは空箱を材料とするキャラメル芸術を毎年募集し、1935年の第4回には参加学校2千余校・応募作品56万余点を集めている。設備で先回りした会社が次に量を作ったのは、工場ではなく需要の側であった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
- [50]1930年の金解禁以降の財界不況で、設備拡張による生産増加を消化できず経営が難局に直面
- [51]1931年9月期から1932年上期まで3期無配
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [52]1932年9月期をもって半額減資を断行し資本金を750万円とした
- [53]1931年6月末から10月にかけてミルクキャラメルの景品に紙製模型飛行機を付けた飛行機セールを実施。飛行距離1万2千キロ、模型3種合計300万個を売り尽くした
- [54]1932年10月から毎年キャラメル芸術を募集。第4回(1935年)は参加学校2千余校・応募作品56万余点に達した
参考文献[41]-[54]
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- [41]1924年 資本金300万円を一躍5倍の1500万円へ増資し、増資新株のうち2万株をプレミアム付で公募
- [42]塚口工場の一部落成に続く鶴見工場建設に伴うビスケットとチョコレート機械の大量購入のため巨額の資金を要した
- [43]福知山線塚口駅前の敷地6万坪を買収し1923年に第一期工事を完成。英国ベーカー・パーキンス社の最新式ガス・オブン三線式7台を据付け、英人技師 A・F・アッシエルを招聘して英国風ビスケットの製造に着手
- [44]1923年に神奈川県鶴見川を挟んだ5万坪を買収、1925年6月にビスケット製造に着手、1926年5月にウエファース・チョコレート、9月にキャラメルの製造を順次開始
- [45]1923年9月の関東大震災で本社・工場の被害は軽微だった一方、京浜の同業者の大半が焼失したため製品は飛ぶように売れた
- [46]1924年の5倍増資と塚口・鶴見の二大工場建設で巨費を固定させたことが後日の禍根になった
- [47]震災景気は一時的で欧州大戦の反動的不況は年と共に深刻となり、1927年に財界の破綻を来した
- [48]1924年の年間売上高1700万円を頂点として下降状態となり、満洲事変まで約10年間売上高の減退が続いた
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- [49]1926年5月 不況対策として経費節約のため本社を丸ビルから田町工場跡のバラック建てへ引き揚げ、豪雨の日は雨漏りする事務所で臥薪嘗胆が続いた
- [52]1932年9月期をもって半額減資を断行し資本金を750万円とした
- [53]1931年6月末から10月にかけてミルクキャラメルの景品に紙製模型飛行機を付けた飛行機セールを実施。飛行距離1万2千キロ、模型3種合計300万個を売り尽くした
- [54]1932年10月から毎年キャラメル芸術を募集。第4回(1935年)は参加学校2千余校・応募作品56万余点に達した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
- [50]1930年の金解禁以降の財界不況で、設備拡張による生産増加を消化できず経営が難局に直面
- [51]1931年9月期から1932年上期まで3期無配
出典・参考
6件
- 森永製菓 統合報告書2025
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「昭和時代」
- 森永五十五年史(森永製菓、1954年)「大正時代」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項