第1章 年〜年

東亜道路工業:日本ビチュマルスの設立と外国資本の引き受け

1930年〜米IBE社の乳剤ビチュマルスと、特許権使用料に縛られた日本ビチュマルス

1930年11月28日、東京市麹町区丸の内に本店を置く資本金30万円の日本ビチュマルスの設立。前身の日本液体アスファルト工業は、米IBE社の特許で乳剤を初出荷した直後に昭和不況に見舞われ、売上が伸び悩んだ。IBE社は契約を盾に株式の全額払込と自社役員の受け入れを迫り、両社は紛争に陥った。来日した特許の所有者マルコム・ベレンジャー氏との交渉で、旧会社を清算し米国側が株式の60%を持つ新会社を設けることが決まった。新会社が負うのは、IBE社に現金7万5,000円と1t当たり3円の特許権使用料を払う契約である。1968年刊の企業史も、米国の乳剤会社から特許を受け、米スタンダード系石油会社の資本参加を得た設立と記している。日本側に不利な条件を呑んででも、乳剤の特許の実施権を保つことを優先したとみられる。

  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「日本ビチュマルス㈱設立の経緯」
    • [1]1930年11月28日、資本金30万円で日本ビチュマルスを設立。本店は東京市麹町区丸の内2丁目
    • [2]日本液体アスファルト工業は乳剤初出荷後に昭和不況で業績不振に陥った
    • [3]IBE社が株式の全額払込と役員選出を要求し、両社間に紛争が生じた
    • [4]ベレンジャー来日後の交渉で旧会社を清算し、米国側が60%を持つ資本金30万円の新会社設立で合意
    • [5]新会社はIBE社に現金7万5,000円と1t当たり3円の特許権使用料を払う取決め
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「東亜道路工業」
    • [6]1930年11月、米インターナショナル・ビチューメン・エマルジョンズ社から特許を受け、スタンダード・ヴァキューム社の資本参加を得て設立

ビチュマルス乳剤は内務省の土木出張所への納入を足がかりに、府県が発注する簡易舗装で普及した。一方で国内でも乳剤の製造が始まり、民間の同業者は1935年に15社以上となった。官庁が国産品奨励運動を進めたため、外資系の日本ビチュマルスは競争力を大きく失った。関東の総代理店だった日本ビチュマルス鋪装工業は1931年10月に代理店契約を解約し、国産乳剤の販売に転じた。社長の川口磐三氏は1969年の講演で、日本道路や大林道路を当社から分離独立した会社に数えている。IBE社への特許権使用料も利益を圧迫し、1931年12月の為替暴落で支払いの実質負担は約2倍に膨らんだ。1933年3月25日には、大林組系の役員が使用料に抗議して総会で辞任した。

  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「経営の危機に直面」
    • [7]内務省土木出張所への納入を通じ、府県発注の簡易舗装工事でビチュマルスが普及
    • [8]民間の乳剤製造・販売業者は1934年頃11社、1935年に15社以上
    • [9]国産品奨励運動により外資系の日本ビチュマルスの競争力が極端に低下
    • [10]関東総代理店の日本ビチュマルス鋪装工業(日本道路の前身)が1931年10月に離脱し、純国産乳剤エムラスの総代理店となった
    • [12]1931年12月の金輸出再禁止で為替が暴落し、アスファルト購入と特許権使用料の支払額は実質2倍になった
    • [13]大林組系経営陣は特許権使用料に抗議し、1933年3月25日の株主総会で辞任
  • 証券アナリストジャーナル 1969年(川口磐三)
    • [11]日本道路・大林道路などが当社から分離独立した会社であると社長が講演で説明

1933年3月以降、日本ビチュマルスは取締役の報酬辞退と支配人の給料半減で経費を切り詰め、同年4〜9月に前年同期比1万8,936円を削減した。それでも特許権使用料は同年9月末に原料費と工場経費の合計の20%に達し、会社は契約全般の見直しに入った。論点は特別特許権使用料の撤廃、米国側資本金の減資、会社解散の検討にまで及んだ。支配人の植村克巳氏ら2名は10月16日付の書簡で、提案を退けるなら日本側株主の権益11万3,350円の引取りをIBE社に求めた。IBE社は同年末、1933年度は工場渡し原価の7.5%、1934年度は純利益の25%を使用料とする方式に譲歩。社長の川口磐三氏は1969年の講演で、特許の関係で日米合弁として出発したと振り返った。解散の可能性を示したことが、IBE社の譲歩を引き出したと思われる。

  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「合理化の推進とIBE社との交渉」
    • [14]1933年3月以降、取締役の役員報酬辞退・支配人給料半減で、同年4〜9月に前年同期比1万8,936円の経費削減
    • [15]1933年9月末の特許権使用料は原料費と工場経費の合計の20%に相当し、契約内容全般を再検討
    • [16]問題点に特別特許権使用料の撤廃・米国側資本金の減資・会社解散の検討を挙げた
    • [17]1933年10月16日付書簡(植村克巳・綿野吉二署名)で、日本側株主の権益11万3,350円のIBE社による買取りを提案
    • [18]IBE社は1933年末、昭和8年度は工場渡し原価の7.5%、9年度は純利益の25%を特許権使用料とする方式に譲歩
  • 証券アナリストジャーナル 1969年(川口磐三)
    • [19]米国側から特許を受けた関係で当初は日米合弁会社として出発した
参考文献[1]-[19]
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「日本ビチュマルス㈱設立の経緯」
    • [1]1930年11月28日、資本金30万円で日本ビチュマルスを設立。本店は東京市麹町区丸の内2丁目
    • [2]日本液体アスファルト工業は乳剤初出荷後に昭和不況で業績不振に陥った
    • [3]IBE社が株式の全額払込と役員選出を要求し、両社間に紛争が生じた
    • [4]ベレンジャー来日後の交渉で旧会社を清算し、米国側が60%を持つ資本金30万円の新会社設立で合意
    • [5]新会社はIBE社に現金7万5,000円と1t当たり3円の特許権使用料を払う取決め
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「東亜道路工業」
    • [6]1930年11月、米インターナショナル・ビチューメン・エマルジョンズ社から特許を受け、スタンダード・ヴァキューム社の資本参加を得て設立
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「経営の危機に直面」
    • [7]内務省土木出張所への納入を通じ、府県発注の簡易舗装工事でビチュマルスが普及
    • [8]民間の乳剤製造・販売業者は1934年頃11社、1935年に15社以上
    • [9]国産品奨励運動により外資系の日本ビチュマルスの競争力が極端に低下
    • [10]関東総代理店の日本ビチュマルス鋪装工業(日本道路の前身)が1931年10月に離脱し、純国産乳剤エムラスの総代理店となった
    • [12]1931年12月の金輸出再禁止で為替が暴落し、アスファルト購入と特許権使用料の支払額は実質2倍になった
    • [13]大林組系経営陣は特許権使用料に抗議し、1933年3月25日の株主総会で辞任
  • 証券アナリストジャーナル 1969年(川口磐三)
    • [11]日本道路・大林道路などが当社から分離独立した会社であると社長が講演で説明
    • [19]米国側から特許を受けた関係で当初は日米合弁会社として出発した
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「合理化の推進とIBE社との交渉」
    • [14]1933年3月以降、取締役の役員報酬辞退・支配人給料半減で、同年4〜9月に前年同期比1万8,936円の経費削減
    • [15]1933年9月末の特許権使用料は原料費と工場経費の合計の20%に相当し、契約内容全般を再検討
    • [16]問題点に特別特許権使用料の撤廃・米国側資本金の減資・会社解散の検討を挙げた
    • [17]1933年10月16日付書簡(植村克巳・綿野吉二署名)で、日本側株主の権益11万3,350円のIBE社による買取りを提案
    • [18]IBE社は1933年末、昭和8年度は工場渡し原価の7.5%、9年度は純利益の25%を特許権使用料とする方式に譲歩

1937年〜戦時統制下の外資の引き受けと、江商の系列に入った東亜道路工業

1940年11月13日、スタンダード系の取締役3名と監査役1名が日本ビチュマルスの役員を退任した。同年12月5日の臨時株主総会は補欠選挙を実施し、松浦治郎氏を代表取締役に選任。スタンダード系株主の持株7,466株は、太平洋貿易とその系列の株主に分散された。1939年8月の石油配給統制規則で石油製品の購入が統制され、石油を介したIBE社との提携は維持が難しくなっていた。1932年には、米国側が資本金の3分の2を持つ会社であることを理由に、硫黄島の滑走路舗装の引合を辞退した例もある。社長の川口磐三氏は1969年の講演で、外資の入った会社は軍関係の仕事がしにくくなったため外資を買い取ったと説明した。軍の工事を受注できる資本構成に改めることが、外資を排した主な狙いだったのだろう。

  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「戦時統制の強化」
    • [20]1940年11月13日、スタンダード系取締役3名と監査役1名が退任
    • [21]1940年12月5日の臨時株主総会で補欠選挙を行い、松浦治郎を代表取締役に選任
    • [22]スタンダード系株主の持株7,466株は太平洋貿易と同系列の株主に分散され、外資系から脱した
    • [23]1939年8月8日の石油配給統制規則で石油製品の自由購入ができなくなり、IBE社との提携維持は困難に
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「経営の危機に直面」
    • [24]1932年、資本金の3分の2を米国側が持つ合弁会社として硫黄島飛行場の舗装工事の引合を辞退
  • 証券アナリストジャーナル 1969年(川口磐三)
    • [25]1940年、外資参加会社は軍関係の仕事ができにくくなったので話合いのうえ外資を買い取った

1942年2月17日の臨時株主総会で、日本ビチュマルスは商号の変更を決議した。新社名は社内から公募し、外国資本を排して国策に沿う企業として新生した経緯にちなんで東亜道路工業と決めた。同年2月27日に登記を終え、東亜道路工業株式会社が発足した。1941年12月の開戦後は英語の使用が極端に制限され、横文字のビチュマルスを社名に掲げれば営業に支障をきたすと予想された。外資系企業として有形無形の制約を受けてきた経緯も、改称を後押しした。1968年刊の企業史も、外資の撤収と日本側による引受けに続く出来事として1942年2月の改称を記している。社名から米国との結びつきを消し、官公庁や軍の工事の受注を守る狙いがあったと推察される。

  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「東亜道路工業㈱の発足」
    • [26]1942年2月17日の臨時株主総会で商号変更を決議
    • [27]社名を社内から公募し、スタンダード系外国資本を排除して国策に沿う企業として新生したことにちなみ東亜道路工業に決定
    • [28]1942年2月27日に商号を東亜道路工業株式会社に変更し登記を完了
    • [29]開戦後は英語使用が極端に制限され、横文字のビチュマルスを社名に冠すると企業活動に支障をきたすと予想された
    • [30]外資系企業として有形無形の制約を受けてきた
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「東亜道路工業」
    • [31]外資を全面撤収して日本側が引き受けた後、1942年2月に東亜道路工業と改称

外資を買い取った1940年以降、東亜道路工業の株主は日本側だけとなっていた。その親会社の太平洋貿易は、1943年11月25日に江商へ7対10の比率で合併された。合併の経緯は営業報告書に記されておらず、戦時の企業整備に沿った合併とみられる。東亜道路工業は東亜アスファルト工業やビチウマルス工業など太平洋貿易傘下の子会社とともに江商の系列に入った。1944年3月29日、太平洋貿易の社長だった川口磐夫氏が代表取締役社長に就任し、松浦治郎氏は専務取締役となった。川口磐夫氏は創立以来の実質的な経営者で、役員に名を連ねたのはこの時が初めてだった。戦時中は原料資材の配給が追いつかず、乳剤とグリースの生産高は年を追って減った。軍関係の工事を続けて請け負ったことで、会社は事業を維持した。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年(川口磐三)
    • [32]1940年に外資を買い取り、完全に日本側の会社となった
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「東亜道路工業㈱の発足」
    • [33]1943年11月25日、親会社の太平洋貿易が江商に7対10の比率で合併された
    • [34]太平洋貿易と江商の合併の経緯は営業報告書に記載がなく、戦時中の政策から推測するほかない
    • [35]当社は東亜アスファルト工業・ビチウマルス工業・昭和森林工業など太平洋貿易傘下の子会社とともに江商の系列に入った
    • [36]1944年3月29日、太平洋貿易社長の川口磐夫が代表取締役社長に就任し、松浦治郎が専務取締役に就任
    • [37]川口磐夫が経営陣に名を連ねたのはこの時が初めてで、創立以来の実質的な経営者だった
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「戦時下の事業展開」
    • [38]原料資材の配給がともなわず、乳剤・グリースの生産高は次第に減少し操業率が低下
    • [39]軍関係の工事を引き続き請け負い、乳剤・グリース部門の減産に対応して事業を維持
参考文献[20]-[39]
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「戦時統制の強化」
    • [20]1940年11月13日、スタンダード系取締役3名と監査役1名が退任
    • [21]1940年12月5日の臨時株主総会で補欠選挙を行い、松浦治郎を代表取締役に選任
    • [22]スタンダード系株主の持株7,466株は太平洋貿易と同系列の株主に分散され、外資系から脱した
    • [23]1939年8月8日の石油配給統制規則で石油製品の自由購入ができなくなり、IBE社との提携維持は困難に
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「経営の危機に直面」
    • [24]1932年、資本金の3分の2を米国側が持つ合弁会社として硫黄島飛行場の舗装工事の引合を辞退
  • 証券アナリストジャーナル 1969年(川口磐三)
    • [25]1940年、外資参加会社は軍関係の仕事ができにくくなったので話合いのうえ外資を買い取った
    • [32]1940年に外資を買い取り、完全に日本側の会社となった
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「東亜道路工業㈱の発足」
    • [26]1942年2月17日の臨時株主総会で商号変更を決議
    • [27]社名を社内から公募し、スタンダード系外国資本を排除して国策に沿う企業として新生したことにちなみ東亜道路工業に決定
    • [28]1942年2月27日に商号を東亜道路工業株式会社に変更し登記を完了
    • [29]開戦後は英語使用が極端に制限され、横文字のビチュマルスを社名に冠すると企業活動に支障をきたすと予想された
    • [30]外資系企業として有形無形の制約を受けてきた
    • [33]1943年11月25日、親会社の太平洋貿易が江商に7対10の比率で合併された
    • [34]太平洋貿易と江商の合併の経緯は営業報告書に記載がなく、戦時中の政策から推測するほかない
    • [35]当社は東亜アスファルト工業・ビチウマルス工業・昭和森林工業など太平洋貿易傘下の子会社とともに江商の系列に入った
    • [36]1944年3月29日、太平洋貿易社長の川口磐夫が代表取締役社長に就任し、松浦治郎が専務取締役に就任
    • [37]川口磐夫が経営陣に名を連ねたのはこの時が初めてで、創立以来の実質的な経営者だった
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「東亜道路工業」
    • [31]外資を全面撤収して日本側が引き受けた後、1942年2月に東亜道路工業と改称
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「戦時下の事業展開」
    • [38]原料資材の配給がともなわず、乳剤・グリースの生産高は次第に減少し操業率が低下
    • [39]軍関係の工事を引き続き請け負い、乳剤・グリース部門の減産に対応して事業を維持

1946年〜従業員の全員解雇からの再建と、江商から独立したビチュマルス道路工業

1945年11月、東亜道路工業は会社再建策の一つとして従業員全員の解雇を通告した。業務の中断を防ぐ社員は即日、他の必要な社員は退職手当の支給後に再採用する手順を定めた。狙いは必要最小限の人材を確保し、復員や引揚げの社員から人材を受け入れる組織を作ることにあった。同年12月24日に専務取締役の松浦治郎氏が急性肺炎で死去し、1946年1月23日に植村忠美氏が専務取締役に就任した。1946年10月29日の商号変更は、米軍からの受注拡大と乳剤の普及を見込み、知名度の高い名を戻してビチュマルス道路工業とするものである。同じ10月に江商が所有する株式を200万円で買い取り、1947年4月の150万円への増資で江商の傘下から実質的に独立した。1968年刊の企業史は、この改称を戦後の再出発と位置づけている。

  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「ビチュマルス道路工業㈱の独立」
    • [40]1945年11月、会社再建方策として従業員全員解雇を通告
    • [41]業務中絶を防ぐ一部社員は即日再採用、他の必要な社員は退職手当支給後に再採用
    • [42]必要最小限の人材確保と、復員・引揚げ社員からの人材受け入れ体制の確立が目的
    • [43]1945年12月24日に専務松浦治郎が急性肺炎で逝去、1946年1月23日に植村忠美が専務取締役に就任
    • [44]米軍からの受注促進とビチュマルスの普及のため、1946年10月29日にビチュマルス道路工業に商号変更
    • [45]1946年10月に江商所有の全株を200万円で買い戻し、1947年4月4日の150万円への増資で江商傘下から実質的に分離独立
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「東亜道路工業」
    • [46]1946年10月にビチュマルス道路工業に改称して再出発

1945年10月、ビチュマルス道路工業の横浜工場は米軍の管理工場に指定され、軍が支給するアスファルトで乳剤の製造を始めた。進駐軍は道路整備を最重点とし、1946年7月には命令で東京都江東区亀戸町に加熱式アスファルトプラントを設置させた。資本金の推移は、1947年に150万円、1948年に800万円である。1948年3月の650万円の増資は、横浜の乳剤工場の本格稼働と亀戸合材工場の新設に充てた。同年7月の証券取引法改正で株式は東京証券業協会の承認銘柄となり、12月12日に2万5,000株の店頭売買が始まった。1950年5月15日には横浜工場の一室で研究所が正式に発足し、増田久仁男氏が所長に就任した。米軍の工事に依存する収益を、資本市場からの資金と乳剤の技術で裏打ちしようとした動きと思われる。

  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「占領軍の進駐と業界の再建」
    • [47]1945年10月に横浜工場が米軍の管理工場に指定され、軍支給のアスファルトで軍向け乳剤の製造を開始
    • [48]米進駐軍は道路整備を最重点とし、1946年7月に命令で亀戸に加熱式アスファルトプラントを設置
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「東亜道路工業」
    • [49]1947年に150万円、1948年に800万円に増資
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「ビチュマルス道路工業㈱の独立」
    • [50]1948年3月に650万円を増資して資本金800万円、横浜乳剤工場の本格稼働と亀戸合材工場の新設計画を具体化
    • [51]1948年7月の証券取引法改正で東京証券業協会の承認銘柄となり、同年12月12日から2万5,000株の店頭売買を開始(株価65円)
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「研究開発の推進」
    • [52]1950年5月15日、横浜工場の一室で研究所が正式発足、所長は増田久仁男
参考文献[40]-[52]
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「ビチュマルス道路工業㈱の独立」
    • [40]1945年11月、会社再建方策として従業員全員解雇を通告
    • [41]業務中絶を防ぐ一部社員は即日再採用、他の必要な社員は退職手当支給後に再採用
    • [42]必要最小限の人材確保と、復員・引揚げ社員からの人材受け入れ体制の確立が目的
    • [43]1945年12月24日に専務松浦治郎が急性肺炎で逝去、1946年1月23日に植村忠美が専務取締役に就任
    • [44]米軍からの受注促進とビチュマルスの普及のため、1946年10月29日にビチュマルス道路工業に商号変更
    • [45]1946年10月に江商所有の全株を200万円で買い戻し、1947年4月4日の150万円への増資で江商傘下から実質的に分離独立
    • [50]1948年3月に650万円を増資して資本金800万円、横浜乳剤工場の本格稼働と亀戸合材工場の新設計画を具体化
    • [51]1948年7月の証券取引法改正で東京証券業協会の承認銘柄となり、同年12月12日から2万5,000株の店頭売買を開始(株価65円)
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「東亜道路工業」
    • [46]1946年10月にビチュマルス道路工業に改称して再出発
    • [49]1947年に150万円、1948年に800万円に増資
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「占領軍の進駐と業界の再建」
    • [47]1945年10月に横浜工場が米軍の管理工場に指定され、軍支給のアスファルトで軍向け乳剤の製造を開始
    • [48]米進駐軍は道路整備を最重点とし、1946年7月に命令で亀戸に加熱式アスファルトプラントを設置
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「研究開発の推進」
    • [52]1950年5月15日、横浜工場の一室で研究所が正式発足、所長は増田久仁男

出典・参考

11件
出典・参考
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「日本ビチュマルス㈱設立の経緯」
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「経営の危機に直面」
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「合理化の推進とIBE社との交渉」
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「戦時統制の強化」
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「東亜道路工業㈱の発足」
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第1章「戦時下の事業展開」
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「ビチュマルス道路工業㈱の独立」
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「占領軍の進駐と業界の再建」
  • 東亜道路工業六十年史(1990) 第2章「研究開発の推進」
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968)「東亜道路工業」
  • 証券アナリストジャーナル 1969年(川口磐三)

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