ピーエス・コンストラクション:日本初のPC工場とピー・エス・コンクリートの設立
1951年〜七尾造船所に置いた日本初のPC工場と、国鉄のマクラギ2,000本
東日本重工業の七尾造船所は1950年ごろ、造船の受注不足を補うため起重機船を自ら建造し、港湾土木への進出を図った。同じころ国鉄は木材資源の不足を見越し、マクラギをプレストレスト・コンクリート(PC)製へ切り替える比較検討に入っていた。造船所はこの動きを知って1950年8月に日本プレコン川崎工場を、11月に福井大学の吉田宏彦教授の研究室を見学した。1951年には国鉄技術研究所の猪股俊司氏を招いての講演会、7月には七尾での1週間の講習会の開催。戦時中に七尾造機を買収して得た設備を使い、緊張装置や試験装置は自社で製作した。東日本重工業は工作課の中にPCの特別部門を設け、数年にわたる試作研究を企業化の準備に充てた。造船の仕事が減るなかで設備と人員を遊ばせない手立てとして、新しい構造材が選ばれたとみられる。
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 前史「ピー・エス・コンクリート研究時代」
- [1]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- [2]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- [3]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- [4]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- [5]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「ピー・エス・コンクリート」
- [6]東日本重工業(現三菱重工業)が数年にわたり試作研究したPCを本格的に企業化するため発足
七尾の工場が最初にまとまった注文を得た相手は国鉄だった。1951年8月、工場は国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注した。続いて東京駅6・7番ホームの桁の試作試験工事と、落石覆や橋上歩板の発注が国鉄から入った。6番ホーム用の長さ10.4mの桁は破壊試験を課され、100t油圧ジャッキ2台で荷重をかけて強度を確かめた。地元の七尾市役所からも、市内の御抜川に架ける長生橋の発注を受けた。同年4月には運輸省の科学技術応用研究補助金を「PCマクラギおよび鉄道桁の研究」の名目で認許された。木製に代わるマクラギを求める国鉄の発注は、東日本重工業が試作を重ねたPCを本格的に企業化する足場になった。研究の段階から国鉄の技術者と接していたことが、最初の受注につながったと推察される。
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 前史・新会社の設立
- [7]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [8]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [9]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [10]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [11]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [12]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「ピー・エス・コンクリート」
- [13]東日本重工業が試作研究してきたPCを本格的に企業化するため新会社が発足
参考文献[1]-[13]
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 前史「ピー・エス・コンクリート研究時代」
- [1]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- [2]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- [3]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- [4]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- [5]1950年ごろ七尾造船所は造船工事不足で起重機船・ポンプ船を建造し港湾土木に進出。国鉄が木材不足を見越しPCマクラギ移行を比較検討中と知る。1950年8月日本プレコン川崎工場、11月福井大学吉田宏彦教授研究室を見学。1951年3月猪股俊司博士の講演会、7月夏季講習会(1週間)。七尾造機買収由来の設備で緊張装置等を自家製作。工作課内にPC特別部門
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「ピー・エス・コンクリート」
- [6]東日本重工業(現三菱重工業)が数年にわたり試作研究したPCを本格的に企業化するため発足
- [13]東日本重工業が試作研究してきたPCを本格的に企業化するため新会社が発足
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 前史・新会社の設立
- [7]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [8]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [9]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [10]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [11]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
- [12]1951年8月国鉄から鉄研型PCマクラギ2,000本を受注、続いて東京駅6・7番ホーム桁の試作試験工事・落石覆・橋上歩板を受注。6番ホーム用10.4m桁の破壊試験を100t油圧ジャッキ2台で実施。七尾市役所から御抜川の長生橋を受注。1951年4月運輸省科学技術応用研究補助金を認許
1952年〜七尾工場を現物出資した5,000万円の新会社と、東京電力田端変電所の工事
1952年3月1日、東日本重工業の七尾工場を引き継ぐピー・エス・コンクリートが設立登記を終えた。七尾造船所は業況が振るわず、早晩の閉鎖が避けられない段階。関係者はPC製造を引き揚げや放棄で終わらせず、地元と従業員のために独立した企業とする方針を固めた。1951年12月20日に発起人の最終打合会を持ち、1952年1月10日の発起人会で社名・資本金・定款を決めた。設立当初の株式発行高5,000万円のうち4,000万円は東日本重工業の現物出資で、残る1,000万円は現金出資で賄った。初代社長には平山復二郎氏が就任した。1958年12月末時点でも三菱日本重工業が12万2,000株を持つ筆頭株主だった。閉鎖の迫る造船所から新技術の部門を切り出すことで、事業と雇用を同時に残そうとしたのだろう。
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 新会社の設立
- [14]七尾造船所は業況不振で早晩閉鎖の段階。PC製造事業を独立させ一つの企業とする機運。1951年12月20日発起人最終打合会、1952年1月10日発起人会、2月26日設立認可、3月1日設立登記。社長平山復二郎
- [15]七尾造船所は業況不振で早晩閉鎖の段階。PC製造事業を独立させ一つの企業とする機運。1951年12月20日発起人最終打合会、1952年1月10日発起人会、2月26日設立認可、3月1日設立登記。社長平山復二郎
- [16]七尾造船所は業況不振で早晩閉鎖の段階。PC製造事業を独立させ一つの企業とする機運。1951年12月20日発起人最終打合会、1952年1月10日発起人会、2月26日設立認可、3月1日設立登記。社長平山復二郎
- [17]七尾造船所は業況不振で早晩閉鎖の段階。PC製造事業を独立させ一つの企業とする機運。1951年12月20日発起人最終打合会、1952年1月10日発起人会、2月26日設立認可、3月1日設立登記。社長平山復二郎
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「ピー・エス・コンクリート」
- [18]東日本重工業の現物出資4,000万円を主体に、その他から1,000万円の現金出資を得て発足
- 株式会社年鑑 1954年版「ピー・エス・コンクリート」
- [19]設立1952年3月1日、社長平山復二郎
- 株式会社年鑑 1959年版「ピー・エス・コンクリート」
- [20]大株主(1958年12月31日現在)三菱日本重工 122,000株
設立時の目論見書は、現物出資分を除く1,000万円を東京工場の建設に充て、不足分は収入金と借入金で順次賄う計画を示した。予定地は東京都西多摩郡福生町にあった旧ニッサ工業の工場だった。鉄研型マクラギの月産は第1次の4,000本から、1952年7月の第3次で9,000本へ引き上げる段取りを組んでいた。実際の関東の拠点は、1952年11月に小田原市の吉村工業を買収して建設した鴨宮工場となった。続いて1953年11月に岡山県倉敷市の水島工場、1954年6月に兵庫県伊丹市の伊丹工場を開設した。資本金は1952年11月に1億円、1953年11月に2億円へと増資を重ねた。能登の工場1か所では、関東・東海や関西の需要地まで製品を運ぶ負担が重かったと考えられる。
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 新会社の設立・工場の拡充
- [21]創立目論見書: 株式発行高5,000万円中、現物出資外1,000万円を東京工場建設に充て不足分は収入金と借入金で賄う。東京工場予定地は福生町(旧ニッサ工業)。鉄研型枕木月産計画 第1次4,000本→第3次9,000本(1952年7月)。1952年11月吉村工業(小田原市)を買収し鴨宮工場を建設
- [22]創立目論見書: 株式発行高5,000万円中、現物出資外1,000万円を東京工場建設に充て不足分は収入金と借入金で賄う。東京工場予定地は福生町(旧ニッサ工業)。鉄研型枕木月産計画 第1次4,000本→第3次9,000本(1952年7月)。1952年11月吉村工業(小田原市)を買収し鴨宮工場を建設
- [23]創立目論見書: 株式発行高5,000万円中、現物出資外1,000万円を東京工場建設に充て不足分は収入金と借入金で賄う。東京工場予定地は福生町(旧ニッサ工業)。鉄研型枕木月産計画 第1次4,000本→第3次9,000本(1952年7月)。1952年11月吉村工業(小田原市)を買収し鴨宮工場を建設
- [24]創立目論見書: 株式発行高5,000万円中、現物出資外1,000万円を東京工場建設に充て不足分は収入金と借入金で賄う。東京工場予定地は福生町(旧ニッサ工業)。鉄研型枕木月産計画 第1次4,000本→第3次9,000本(1952年7月)。1952年11月吉村工業(小田原市)を買収し鴨宮工場を建設
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「ピー・エス・コンクリート」
- [25]1952年11月鴨宮工場、1953年11月水島工場(倉敷市)、1954年6月伊丹工場(伊丹市)を開設
- 株式会社年鑑 1959年版「ピー・エス・コンクリート」
- [26]沿革: 1952年3月資本金5,000万円で設立、1952年11月1億円、1953年11月2億円に増資
鉄道向けの製品に続いて、会社は建築のポストテンション工事を請け始めた。建築で初めて受注したのは、1953年夏に東京・千駄谷で施工した竹中工務店竹友寮の円形ホールの梁だった。電力会社の発電所でもPC部材の採用が広がり、東京電力は1954年に鶴見第2火力発電所の屋根と床に採用した。1961年には東京電力田端変電所での、建築のポストテンション工事の施工。1950年代末の事業内容は、PC製品の製造販売と一般土木建築工事の2本立てになっていた。従業員は553人を数え、工場は七尾・鴨宮・伊丹・水島に東北の北上・東根を加えた6か所となった。国鉄以外の発注元を電力会社や民間企業に広げたことが、株式市場での次の段に進む下地になったと思われる。
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 建築工事の施工実績
- [27]建築ポストテンション工事の初受注は1953年夏の竹中工務店竹友寮(千駄谷)円形ホールの梁。東京電力は1954年鶴見第2火力に屋根・床を採用。1961年東京電力田端変電所で建築ポストテンション工事
- [28]建築ポストテンション工事の初受注は1953年夏の竹中工務店竹友寮(千駄谷)円形ホールの梁。東京電力は1954年鶴見第2火力に屋根・床を採用。1961年東京電力田端変電所で建築ポストテンション工事
- [29]建築ポストテンション工事の初受注は1953年夏の竹中工務店竹友寮(千駄谷)円形ホールの梁。東京電力は1954年鶴見第2火力に屋根・床を採用。1961年東京電力田端変電所で建築ポストテンション工事
- [30]建築ポストテンション工事の初受注は1953年夏の竹中工務店竹友寮(千駄谷)円形ホールの梁。東京電力は1954年鶴見第2火力に屋根・床を採用。1961年東京電力田端変電所で建築ポストテンション工事
- 株式会社年鑑 1959年版「ピー・エス・コンクリート」
- [31]主なる事業内容: PC・プレカストコンクリートの製造販売、一般土木建築工事。従業員553人。工場: 七尾・鴨宮(小田原)・伊丹・水島・北上・東根
- [32]主なる事業内容: PC・プレカストコンクリートの製造販売、一般土木建築工事。従業員553人。工場: 七尾・鴨宮(小田原)・伊丹・水島・北上・東根
参考文献[14]-[32]
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 新会社の設立
- [14]七尾造船所は業況不振で早晩閉鎖の段階。PC製造事業を独立させ一つの企業とする機運。1951年12月20日発起人最終打合会、1952年1月10日発起人会、2月26日設立認可、3月1日設立登記。社長平山復二郎
- [15]七尾造船所は業況不振で早晩閉鎖の段階。PC製造事業を独立させ一つの企業とする機運。1951年12月20日発起人最終打合会、1952年1月10日発起人会、2月26日設立認可、3月1日設立登記。社長平山復二郎
- [16]七尾造船所は業況不振で早晩閉鎖の段階。PC製造事業を独立させ一つの企業とする機運。1951年12月20日発起人最終打合会、1952年1月10日発起人会、2月26日設立認可、3月1日設立登記。社長平山復二郎
- [17]七尾造船所は業況不振で早晩閉鎖の段階。PC製造事業を独立させ一つの企業とする機運。1951年12月20日発起人最終打合会、1952年1月10日発起人会、2月26日設立認可、3月1日設立登記。社長平山復二郎
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「ピー・エス・コンクリート」
- [18]東日本重工業の現物出資4,000万円を主体に、その他から1,000万円の現金出資を得て発足
- [25]1952年11月鴨宮工場、1953年11月水島工場(倉敷市)、1954年6月伊丹工場(伊丹市)を開設
- 株式会社年鑑 1954年版「ピー・エス・コンクリート」
- [19]設立1952年3月1日、社長平山復二郎
- 株式会社年鑑 1959年版「ピー・エス・コンクリート」
- [20]大株主(1958年12月31日現在)三菱日本重工 122,000株
- [26]沿革: 1952年3月資本金5,000万円で設立、1952年11月1億円、1953年11月2億円に増資
- [31]主なる事業内容: PC・プレカストコンクリートの製造販売、一般土木建築工事。従業員553人。工場: 七尾・鴨宮(小田原)・伊丹・水島・北上・東根
- [32]主なる事業内容: PC・プレカストコンクリートの製造販売、一般土木建築工事。従業員553人。工場: 七尾・鴨宮(小田原)・伊丹・水島・北上・東根
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 新会社の設立・工場の拡充
- [21]創立目論見書: 株式発行高5,000万円中、現物出資外1,000万円を東京工場建設に充て不足分は収入金と借入金で賄う。東京工場予定地は福生町(旧ニッサ工業)。鉄研型枕木月産計画 第1次4,000本→第3次9,000本(1952年7月)。1952年11月吉村工業(小田原市)を買収し鴨宮工場を建設
- [22]創立目論見書: 株式発行高5,000万円中、現物出資外1,000万円を東京工場建設に充て不足分は収入金と借入金で賄う。東京工場予定地は福生町(旧ニッサ工業)。鉄研型枕木月産計画 第1次4,000本→第3次9,000本(1952年7月)。1952年11月吉村工業(小田原市)を買収し鴨宮工場を建設
- [23]創立目論見書: 株式発行高5,000万円中、現物出資外1,000万円を東京工場建設に充て不足分は収入金と借入金で賄う。東京工場予定地は福生町(旧ニッサ工業)。鉄研型枕木月産計画 第1次4,000本→第3次9,000本(1952年7月)。1952年11月吉村工業(小田原市)を買収し鴨宮工場を建設
- [24]創立目論見書: 株式発行高5,000万円中、現物出資外1,000万円を東京工場建設に充て不足分は収入金と借入金で賄う。東京工場予定地は福生町(旧ニッサ工業)。鉄研型枕木月産計画 第1次4,000本→第3次9,000本(1952年7月)。1952年11月吉村工業(小田原市)を買収し鴨宮工場を建設
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 建築工事の施工実績
- [27]建築ポストテンション工事の初受注は1953年夏の竹中工務店竹友寮(千駄谷)円形ホールの梁。東京電力は1954年鶴見第2火力に屋根・床を採用。1961年東京電力田端変電所で建築ポストテンション工事
- [28]建築ポストテンション工事の初受注は1953年夏の竹中工務店竹友寮(千駄谷)円形ホールの梁。東京電力は1954年鶴見第2火力に屋根・床を採用。1961年東京電力田端変電所で建築ポストテンション工事
- [29]建築ポストテンション工事の初受注は1953年夏の竹中工務店竹友寮(千駄谷)円形ホールの梁。東京電力は1954年鶴見第2火力に屋根・床を採用。1961年東京電力田端変電所で建築ポストテンション工事
- [30]建築ポストテンション工事の初受注は1953年夏の竹中工務店竹友寮(千駄谷)円形ホールの梁。東京電力は1954年鶴見第2火力に屋根・床を採用。1961年東京電力田端変電所で建築ポストテンション工事
出典・参考
8件
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 前史「ピー・エス・コンクリート研究時代」
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 前史・新会社の設立
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 新会社の設立
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 新会社の設立・工場の拡充
- ピー・エス・コンクリート『会社12年のあゆみ 1952-1963』1965年 建築工事の施工実績
- 株式会社年鑑 1954年版「ピー・エス・コンクリート」
- 株式会社年鑑 1959年版「ピー・エス・コンクリート」
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「ピー・エス・コンクリート」