極洋:極洋捕鯨の設立と「極洋丸」の南氷洋初出漁
1937年〜資本金2000万円で興した南氷洋の母船式捕鯨と、戦禍で失った船隊
極洋捕鯨は1937年9月、南氷洋での母船式捕鯨を主たる目的に掲げ、資本金2000万円で設立された。初代社長には、土佐出身で立志伝型の人物と評された山地土佐太郎氏が就任。捕鯨は1925年に船尾から鯨を引き揚げる母船が考案されて以降、船団で南氷洋へ出る遠洋漁業に移った。日本では1934年に母船式の南氷洋捕鯨が初めて試みられ、その後に出漁する船団が相次いだ。社名の「極洋」は、南氷洋での捕鯨という設立の目的をそのまま示す。創立には、南洋関係の事業に携わっていた法華津孝太氏の父も初めから加わった。山地土佐太郎氏は、日本の初の試みから3年後に専業の後発会社として南氷洋に参入したとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [1]1937年9月、南氷洋の母船式捕鯨業を主目的に資本金2000万円で設立、初代社長は山地土佐太郎
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [2]山地土佐太郎は土佐出身で強情我慢の立志伝型の人物だった
- [6]法華津孝太の父は南洋関係の仕事をしており、極洋捕鯨の創立に初めから関係した
- 極洋捕鯨30年史(1968)
- [3]1925年に捕鯨母船が考案され南氷洋出漁が始まる。日本は1934年に初めて試み以後盛んに。極洋捕鯨は社名どおり南氷洋捕鯨を目的に創立
- [4]1925年に捕鯨母船が考案され南氷洋出漁が始まる。日本は1934年に初めて試み以後盛んに。極洋捕鯨は社名どおり南氷洋捕鯨を目的に創立
- [5]1925年に捕鯨母船が考案され南氷洋出漁が始まる。日本は1934年に初めて試み以後盛んに。極洋捕鯨は社名どおり南氷洋捕鯨を目的に創立
極洋捕鯨は1938年11月、捕鯨船9隻で最初の南氷洋捕鯨に出漁した。母船は初代の極洋丸で、戦前の南氷洋出漁は1941年まで計3回である。太平洋戦争の開戦後、船隊の大半は戦争で沈んだ。母船は徴用されて沖縄で撃沈され、捕鯨船も大砲を積んだ急造の海防艦として沈没した。沈んだ船には保険が下りず、海運会社と異なり政府の補助も受けられなかった。1946年に残った船は、徴用の代償金で造った50〜60トンの木造捕鯨船2隻だけである。山地土佐太郎氏は資金を工面して300トン未満の捕鯨船4隻を新造し、日本水産と共同で小笠原沖の捕鯨を続けた。極洋捕鯨は戦後、南氷洋に出せる母船を持たないまま再建を始めることになったと思われる。
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [7]1938年11月に捕鯨船9隻で最初の南氷洋捕鯨に出漁、太平洋戦争で保有船舶の大半を喪失
- [9]1938年11月に捕鯨船9隻で最初の南氷洋捕鯨に出漁、太平洋戦争で保有船舶の大半を喪失
- 極洋捕鯨30年史(1968)
- [8]1938年に初代極洋丸で南氷洋に出漁、戦前は3回出漁
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [10]戦時中に母船は徴用され沖縄で沈没、捕鯨船は海防艦に転用され沈没。保険・政府補助なし。1946年は50-60トンの木造捕鯨船2隻のみ
- [11]戦時中に母船は徴用され沖縄で沈没、捕鯨船は海防艦に転用され沈没。保険・政府補助なし。1946年は50-60トンの木造捕鯨船2隻のみ
- [12]戦時中に母船は徴用され沖縄で沈没、捕鯨船は海防艦に転用され沈没。保険・政府補助なし。1946年は50-60トンの木造捕鯨船2隻のみ
- [13]戦時中に母船は徴用され沖縄で沈没、捕鯨船は海防艦に転用され沈没。保険・政府補助なし。1946年は50-60トンの木造捕鯨船2隻のみ
参考文献[1]-[13]
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [1]1937年9月、南氷洋の母船式捕鯨業を主目的に資本金2000万円で設立、初代社長は山地土佐太郎
- [7]1938年11月に捕鯨船9隻で最初の南氷洋捕鯨に出漁、太平洋戦争で保有船舶の大半を喪失
- [9]1938年11月に捕鯨船9隻で最初の南氷洋捕鯨に出漁、太平洋戦争で保有船舶の大半を喪失
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [2]山地土佐太郎は土佐出身で強情我慢の立志伝型の人物だった
- [6]法華津孝太の父は南洋関係の仕事をしており、極洋捕鯨の創立に初めから関係した
- [10]戦時中に母船は徴用され沖縄で沈没、捕鯨船は海防艦に転用され沈没。保険・政府補助なし。1946年は50-60トンの木造捕鯨船2隻のみ
- [11]戦時中に母船は徴用され沖縄で沈没、捕鯨船は海防艦に転用され沈没。保険・政府補助なし。1946年は50-60トンの木造捕鯨船2隻のみ
- [12]戦時中に母船は徴用され沖縄で沈没、捕鯨船は海防艦に転用され沈没。保険・政府補助なし。1946年は50-60トンの木造捕鯨船2隻のみ
- [13]戦時中に母船は徴用され沖縄で沈没、捕鯨船は海防艦に転用され沈没。保険・政府補助なし。1946年は50-60トンの木造捕鯨船2隻のみ
- 極洋捕鯨30年史(1968)
- [3]1925年に捕鯨母船が考案され南氷洋出漁が始まる。日本は1934年に初めて試み以後盛んに。極洋捕鯨は社名どおり南氷洋捕鯨を目的に創立
- [4]1925年に捕鯨母船が考案され南氷洋出漁が始まる。日本は1934年に初めて試み以後盛んに。極洋捕鯨は社名どおり南氷洋捕鯨を目的に創立
- [5]1925年に捕鯨母船が考案され南氷洋出漁が始まる。日本は1934年に初めて試み以後盛んに。極洋捕鯨は社名どおり南氷洋捕鯨を目的に創立
- [8]1938年に初代極洋丸で南氷洋に出漁、戦前は3回出漁
1947年〜下関から出た東シナ海の底曳と、1億5000万円への増資
終戦後の南氷洋捕鯨は、戦前の6船団に対して2船団しか許可されなかった。極洋捕鯨はこの枠に入れず、1947年度は油槽船と捕鯨船を、1948年度は捕鯨船だけを他社の船団に参加させた。事業の中心を沿岸捕鯨に置き、その閑漁期を埋めるため東シナ海の底曳とトロールに参入した。1947年3月に漁船建造の資金として資本金を7000万円に増やし、同年10月から下関を基地に操業を始めた。30年史の位置づけでは、この以西底曳が捕鯨以外の漁業に出る第1歩であり、多角経営の起点にあたる。1950年の時点では下関に西部支社があり、保有船は底曳船10隻とトロール船2隻である。南氷洋の枠を得られない間、底曳とトロールは船と乗組員の稼働を保つ収入源になったと推察される。
- 極洋捕鯨30年史(1968)
- [14]戦後の南氷洋捕鯨は戦前6船団に対し2船団の許可。以西底曳・トロールへの進出は捕鯨以外の漁業への第1歩で多角経営の始まり
- [18]戦後の南氷洋捕鯨は戦前6船団に対し2船団の許可。以西底曳・トロールへの進出は捕鯨以外の漁業への第1歩で多角経営の始まり
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [15]戦後は沿岸捕鯨中心。1947年3月資本金7000万円(漁船建造資金)、10月下関基地で東シナ海の底曳・トロール開始。1947年度は油槽船・捕鯨船、1948年度は捕鯨船を他社船団に参加
- [16]戦後は沿岸捕鯨中心。1947年3月資本金7000万円(漁船建造資金)、10月下関基地で東シナ海の底曳・トロール開始。1947年度は油槽船・捕鯨船、1948年度は捕鯨船を他社船団に参加
- [17]戦後は沿岸捕鯨中心。1947年3月資本金7000万円(漁船建造資金)、10月下関基地で東シナ海の底曳・トロール開始。1947年度は油槽船・捕鯨船、1948年度は捕鯨船を他社船団に参加
- 株式会社年鑑 1950年版「極洋捕鯨」
- [19]西部支社は下関市。所有船舶は捕鯨船10隻・底曳船10隻・運搬船8隻・トロール船2隻・油槽船2隻
法華津孝太氏は1948年の暮れに外務省を辞め、専務として極洋捕鯨に入社した。発端は、小笠原三九郎氏が首相の吉田茂氏に、極洋捕鯨はGHQの受けが悪く語学のできる人材が欲しいと相談したことにある。吉田茂氏は法華津孝太氏を呼び、いずれ外務省へ戻すと約束して手伝いを勧めた。法華津孝太氏は当時、天皇に外交を進講する無任所の勅任参事官で、職務に余力があった。父の縁で山地土佐太郎氏・小笠原三九郎氏と親しかったことも、法華津孝太氏が挙げた引き受けの理由の一つである。吉田茂氏は送り出す際に『あの会社をうまく建て直したら、鯨一匹ぶらさげてあいさつに来いよ』と告げた。1950年には、会長の山地土佐太郎氏、取締役の小笠原三九郎氏とともに、法華津孝太氏が専務として経営陣に名を連ねた。
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [20]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [21]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [22]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [23]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [24]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [25]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- 株式会社年鑑 1950年版「極洋捕鯨」
- [26]役員は会長山地土佐太郎、取締役小笠原三九郎、専務法華津孝太
極洋捕鯨は1949年5月、設備拡張の資金として資本金を1億5000万円に増資。同じ年、法華津孝太氏は大阪商船が大連航路で運航した5,500トンの「ばいかる丸」を日本船舶から取得して、母船へ改造した。カムチャツカや南洋の漁業基地を戦争で失った日本は、母船式の船団に切り替えるほかないと考えたためである。1950年6月には鮎川捕鯨を合併し、資本金は1億5030万円となった。1950年の時点で、沿岸捕鯨の事業場は鮎川・釜石・釧路・紋別など全国8か所に広がっていた。翌1951年には、中型捕鯨母船1隻を含む所有船舶が計33隻、従業員が814人に達した。増資で調達した資金は、南氷洋へ戻るための母船と捕鯨船の整備に充当されたと考えられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [27]1949年5月設備拡張資金のため資本金1億5000万円に増資。1950年6月鮎川捕鯨を合併し資本金1億5030万円
- [30]1949年5月設備拡張資金のため資本金1億5000万円に増資。1950年6月鮎川捕鯨を合併し資本金1億5030万円
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [28]1949年、大阪商船大連航路のばいかる丸(5,500トン)を日本船舶から購入し母船に改造。基地を失った日本は母船式船団への切り替えが急務と考えた
- [29]1949年、大阪商船大連航路のばいかる丸(5,500トン)を日本船舶から購入し母船に改造。基地を失った日本は母船式船団への切り替えが急務と考えた
- 株式会社年鑑 1950年版「極洋捕鯨」
- [31]事業場は全国8か所(鮎川・釜石・釧路・紋別・大島・大濱ほか)
- 株式会社年鑑 1951年版「極洋捕鯨」
- [32]所有船舶は中型捕鯨母船1隻・捕鯨船8隻ほか計33隻、従業員814人
参考文献[14]-[32]
- 極洋捕鯨30年史(1968)
- [14]戦後の南氷洋捕鯨は戦前6船団に対し2船団の許可。以西底曳・トロールへの進出は捕鯨以外の漁業への第1歩で多角経営の始まり
- [18]戦後の南氷洋捕鯨は戦前6船団に対し2船団の許可。以西底曳・トロールへの進出は捕鯨以外の漁業への第1歩で多角経営の始まり
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [15]戦後は沿岸捕鯨中心。1947年3月資本金7000万円(漁船建造資金)、10月下関基地で東シナ海の底曳・トロール開始。1947年度は油槽船・捕鯨船、1948年度は捕鯨船を他社船団に参加
- [16]戦後は沿岸捕鯨中心。1947年3月資本金7000万円(漁船建造資金)、10月下関基地で東シナ海の底曳・トロール開始。1947年度は油槽船・捕鯨船、1948年度は捕鯨船を他社船団に参加
- [17]戦後は沿岸捕鯨中心。1947年3月資本金7000万円(漁船建造資金)、10月下関基地で東シナ海の底曳・トロール開始。1947年度は油槽船・捕鯨船、1948年度は捕鯨船を他社船団に参加
- [27]1949年5月設備拡張資金のため資本金1億5000万円に増資。1950年6月鮎川捕鯨を合併し資本金1億5030万円
- [30]1949年5月設備拡張資金のため資本金1億5000万円に増資。1950年6月鮎川捕鯨を合併し資本金1億5030万円
- 株式会社年鑑 1950年版「極洋捕鯨」
- [19]西部支社は下関市。所有船舶は捕鯨船10隻・底曳船10隻・運搬船8隻・トロール船2隻・油槽船2隻
- [26]役員は会長山地土佐太郎、取締役小笠原三九郎、専務法華津孝太
- [31]事業場は全国8か所(鮎川・釜石・釧路・紋別・大島・大濱ほか)
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [20]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [21]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [22]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [23]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [24]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [25]小笠原三九郎がGHQ対応のため語学のできる人材を吉田茂に求め、吉田が法華津孝太に極洋捕鯨行きを勧めた。勅任参事官で暇があり、父の縁で山地・小笠原と昵懇。1948年暮れに外務省を辞め専務で入社
- [28]1949年、大阪商船大連航路のばいかる丸(5,500トン)を日本船舶から購入し母船に改造。基地を失った日本は母船式船団への切り替えが急務と考えた
- [29]1949年、大阪商船大連航路のばいかる丸(5,500トン)を日本船舶から購入し母船に改造。基地を失った日本は母船式船団への切り替えが急務と考えた
- 株式会社年鑑 1951年版「極洋捕鯨」
- [32]所有船舶は中型捕鯨母船1隻・捕鯨船8隻ほか計33隻、従業員814人
1951年〜抹香鯨の単独操業で出した赤字と、北洋の母船式捕鯨で倍にした13億8000万円の収入
極洋捕鯨は1951年3月、戦後に購入した第五山永丸と大椎丸の大型油槽船2隻を軸とする海運部門を、資本金1億円の太平洋海運として分離した。1951年10月、ばいかる丸は捕鯨船5隻を率いて南氷洋へ向かった。国際捕鯨会議の制限により、南氷洋で捕獲できたのは食用にならない抹香鯨だけである。法華津孝太氏は抹香鯨油の値上がりから黒字を確実とみて、出漁を決めた。船団は1952年4月に222頭を積んで帰港したものの、鯨油は出港前のトン当たり16万円から4万円に下落した。法華津孝太氏の回想によれば、この出漁の損失は2億円にのぼる。捕獲成績の不振も重なり、極洋捕鯨の決算は多額の赤字となった。
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [33]1951年3月、第五山永丸・大椎丸の油槽船2隻を基幹とする海運部門を太平洋海運として分離。1951年度の南氷洋単独船団による抹香鯨試験操業は捕獲不振と鯨油暴落で多額の赤字
- [40]1951年3月、第五山永丸・大椎丸の油槽船2隻を基幹とする海運部門を太平洋海運として分離。1951年度の南氷洋単独船団による抹香鯨試験操業は捕獲不振と鯨油暴落で多額の赤字
- 株式会社年鑑 1952年版「極洋捕鯨」
- [34]1951年3月海運部門を分離し太平洋海運(資本金1億円)を設立
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [35]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
- [36]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
- [37]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
- [38]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
- [39]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
赤字を受け、極洋捕鯨は経営陣を刷新し、経費の節減に取り組んだ。法華津孝太氏は南の海に代わる漁場として、北洋での捕鯨を決めた。北洋には、1940年と1941年に極洋捕鯨・日本水産・大洋漁業の共同出資会社が出漁した前例がある。ソ連とはまだ戦争状態が続き、拿捕の恐れから大洋漁業と日本水産の社長は出漁に反対した。法華津孝太氏は外務省時代の国際感覚からソ連は拿捕しないと見通し、両社に捕鯨船を1隻ずつ出させた。船団はばいかる丸と捕鯨船4隻の編成で、1952年7月にカムチャッカ東南の海域へ出港。出漁は3社の共同経営とし、主たる運営者は極洋捕鯨である。操業はソ連沿岸から50カイリ以上離れた公海に限った。
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [41]赤字を契機に経営陣刷新・経費節減。1952年度、戦後初の北洋母船式捕鯨に日本水産・大洋漁業と3社共同経営で出漁、主たる運営は極洋、カムチャッカ東南海域
- [46]赤字を契機に経営陣刷新・経費節減。1952年度、戦後初の北洋母船式捕鯨に日本水産・大洋漁業と3社共同経営で出漁、主たる運営は極洋、カムチャッカ東南海域
- [48]赤字を契機に経営陣刷新・経費節減。1952年度、戦後初の北洋母船式捕鯨に日本水産・大洋漁業と3社共同経営で出漁、主たる運営は極洋、カムチャッカ東南海域
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [42]南が駄目なら北と北洋出漁を決意。ソ連と戦争状態が未解消で大洋・日水の社長は反対。外務省時代の感覚で拿捕なしと判断し両社から捕鯨船1隻ずつ。1952年7月出航、50カイリ以上離れた公海で操業
- [44]南が駄目なら北と北洋出漁を決意。ソ連と戦争状態が未解消で大洋・日水の社長は反対。外務省時代の感覚で拿捕なしと判断し両社から捕鯨船1隻ずつ。1952年7月出航、50カイリ以上離れた公海で操業
- [45]南が駄目なら北と北洋出漁を決意。ソ連と戦争状態が未解消で大洋・日水の社長は反対。外務省時代の感覚で拿捕なしと判断し両社から捕鯨船1隻ずつ。1952年7月出航、50カイリ以上離れた公海で操業
- [49]南が駄目なら北と北洋出漁を決意。ソ連と戦争状態が未解消で大洋・日水の社長は反対。外務省時代の感覚で拿捕なしと判断し両社から捕鯨船1隻ずつ。1952年7月出航、50カイリ以上離れた公海で操業
- 極洋捕鯨30年史(1968)
- [43]北洋捕鯨は1940・41年に3社共同出資の北洋捕鯨(株)が出漁。1952年の第1回はばいかる丸と捕鯨船4隻(極洋2・日水1・大洋1)
- [47]北洋捕鯨は1940・41年に3社共同出資の北洋捕鯨(株)が出漁。1952年の第1回はばいかる丸と捕鯨船4隻(極洋2・日水1・大洋1)
ばいかる丸の船団は2カ月余りの操業で母船を満杯にし、ひげ鯨319頭を積んで横浜に戻った。抹香鯨と異なり、ひげ鯨は肉も油も食用になる。1953年度も北洋は好漁で、総収入は1952年度の7億9000万円から13億8000万円へほぼ倍増した。30年史によれば、第1回の出漁で北洋の資源の豊富さと安全に操業できることが確認された。戦後初の北洋での母船式漁業がソ連に拿捕されずに終わり、翌年からはさけますの母船などが相次いで北洋に出漁した。極洋捕鯨自身も1954年度に函館公海漁業と共同で1船団を組み、北洋の鮭鱒流網漁業に加わった。南氷洋の赤字を埋めた北洋の捕鯨は、極洋捕鯨が捕鯨以外の母船式漁業へ事業を広げる起点になったのだろう。
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [50]ばいかる丸船団は2カ月余で母船満杯、ひげ鯨319頭で横浜帰港。戦後初の北洋母船式漁業で安全が確かめられ、翌年からさけます母船などが出漁
- [51]ばいかる丸船団は2カ月余で母船満杯、ひげ鯨319頭で横浜帰港。戦後初の北洋母船式漁業で安全が確かめられ、翌年からさけます母船などが出漁
- [54]ばいかる丸船団は2カ月余で母船満杯、ひげ鯨319頭で横浜帰港。戦後初の北洋母船式漁業で安全が確かめられ、翌年からさけます母船などが出漁
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [52]1953年度も好漁で総収入は1952年度7億9000万円から13億8000万円へほぼ倍増。1954年度に函館公海漁業と共同で1船団を編成し北洋の鮭鱒流網漁業に進出
- [55]1953年度も好漁で総収入は1952年度7億9000万円から13億8000万円へほぼ倍増。1954年度に函館公海漁業と共同で1船団を編成し北洋の鮭鱒流網漁業に進出
- 極洋捕鯨30年史(1968)
- [53]第1回北洋出漁で資源が豊富で安全操業できることが判明
参考文献[33]-[55]
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- [33]1951年3月、第五山永丸・大椎丸の油槽船2隻を基幹とする海運部門を太平洋海運として分離。1951年度の南氷洋単独船団による抹香鯨試験操業は捕獲不振と鯨油暴落で多額の赤字
- [40]1951年3月、第五山永丸・大椎丸の油槽船2隻を基幹とする海運部門を太平洋海運として分離。1951年度の南氷洋単独船団による抹香鯨試験操業は捕獲不振と鯨油暴落で多額の赤字
- [41]赤字を契機に経営陣刷新・経費節減。1952年度、戦後初の北洋母船式捕鯨に日本水産・大洋漁業と3社共同経営で出漁、主たる運営は極洋、カムチャッカ東南海域
- [46]赤字を契機に経営陣刷新・経費節減。1952年度、戦後初の北洋母船式捕鯨に日本水産・大洋漁業と3社共同経営で出漁、主たる運営は極洋、カムチャッカ東南海域
- [48]赤字を契機に経営陣刷新・経費節減。1952年度、戦後初の北洋母船式捕鯨に日本水産・大洋漁業と3社共同経営で出漁、主たる運営は極洋、カムチャッカ東南海域
- [52]1953年度も好漁で総収入は1952年度7億9000万円から13億8000万円へほぼ倍増。1954年度に函館公海漁業と共同で1船団を編成し北洋の鮭鱒流網漁業に進出
- [55]1953年度も好漁で総収入は1952年度7億9000万円から13億8000万円へほぼ倍増。1954年度に函館公海漁業と共同で1船団を編成し北洋の鮭鱒流網漁業に進出
- 株式会社年鑑 1952年版「極洋捕鯨」
- [34]1951年3月海運部門を分離し太平洋海運(資本金1億円)を設立
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」
- [35]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
- [36]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
- [37]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
- [38]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
- [39]1951年10月ばいかる丸で南氷洋へ。国際捕鯨会議の制限で抹香鯨のみ。油価上昇で黒字確実とみて出漁。1952年4月222頭で帰港、油価はトン16万円から4万円へ。損失2億円
- [42]南が駄目なら北と北洋出漁を決意。ソ連と戦争状態が未解消で大洋・日水の社長は反対。外務省時代の感覚で拿捕なしと判断し両社から捕鯨船1隻ずつ。1952年7月出航、50カイリ以上離れた公海で操業
- [44]南が駄目なら北と北洋出漁を決意。ソ連と戦争状態が未解消で大洋・日水の社長は反対。外務省時代の感覚で拿捕なしと判断し両社から捕鯨船1隻ずつ。1952年7月出航、50カイリ以上離れた公海で操業
- [45]南が駄目なら北と北洋出漁を決意。ソ連と戦争状態が未解消で大洋・日水の社長は反対。外務省時代の感覚で拿捕なしと判断し両社から捕鯨船1隻ずつ。1952年7月出航、50カイリ以上離れた公海で操業
- [49]南が駄目なら北と北洋出漁を決意。ソ連と戦争状態が未解消で大洋・日水の社長は反対。外務省時代の感覚で拿捕なしと判断し両社から捕鯨船1隻ずつ。1952年7月出航、50カイリ以上離れた公海で操業
- [50]ばいかる丸船団は2カ月余で母船満杯、ひげ鯨319頭で横浜帰港。戦後初の北洋母船式漁業で安全が確かめられ、翌年からさけます母船などが出漁
- [51]ばいかる丸船団は2カ月余で母船満杯、ひげ鯨319頭で横浜帰港。戦後初の北洋母船式漁業で安全が確かめられ、翌年からさけます母船などが出漁
- [54]ばいかる丸船団は2カ月余で母船満杯、ひげ鯨319頭で横浜帰港。戦後初の北洋母船式漁業で安全が確かめられ、翌年からさけます母船などが出漁
- 極洋捕鯨30年史(1968)
- [43]北洋捕鯨は1940・41年に3社共同出資の北洋捕鯨(株)が出漁。1952年の第1回はばいかる丸と捕鯨船4隻(極洋2・日水1・大洋1)
- [47]北洋捕鯨は1940・41年に3社共同出資の北洋捕鯨(株)が出漁。1952年の第1回はばいかる丸と捕鯨船4隻(極洋2・日水1・大洋1)
- [53]第1回北洋出漁で資源が豊富で安全操業できることが判明
出典・参考
6件
- 極洋捕鯨30年史(1968)
- 株式会社年鑑 1950年版「極洋捕鯨」
- 株式会社年鑑 1951年版「極洋捕鯨」
- 株式会社年鑑 1952年版「極洋捕鯨」
- 会社銀行八十年史(1955)「極洋捕鯨」
- 私の履歴書 経済人9「法華津孝太」