第1章 年〜年

山之内製薬:山之内薬品商会の創立と日本初のスルファミン製剤の製造

1923年〜大阪で開いた山之内薬品商会のカンポリジンと、恐慌下に別会社で販売した健康ブラシ

創業者の山内健二氏は1923年4月3日、大阪市で山之内薬品商会を創立した。高木商店薬品部の支配人を辞して五十嵐辰三郎氏と構えた店で、最初の商品は鼻炎治療剤の清鼻液だった。商会は新薬の研究と創製に力を入れ、最初の自社製品として神経痛・リウマチ治療の注射薬カンポリジンを開発。1924年12月に此花区上福島へ店舗兼工場を移し、翌1925年1月からカンポリジンの販売を始めた。販路は関西を道修町の田辺五兵衛商店、関東を日本橋の中村滝商店との総代理店契約で押さえ、発売から数年で累計2,000万アンプルを販売した。問屋の系譜を持たない後発にとって、医家に指名される自社の注射薬が商いの足場になったとみられる。

  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [1]1923年4月3日に山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立、当初は鼻炎治療剤清鼻液の製造販売。1924年12月上福島へ移転、1925年1月カンポリジン発売、数年で通算2,000万アンプル、田辺五兵衛商店・中村滝商店と総代理店契約
    • [2]1923年4月3日に山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立、当初は鼻炎治療剤清鼻液の製造販売。1924年12月上福島へ移転、1925年1月カンポリジン発売、数年で通算2,000万アンプル、田辺五兵衛商店・中村滝商店と総代理店契約
    • [4]1923年4月3日に山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立、当初は鼻炎治療剤清鼻液の製造販売。1924年12月上福島へ移転、1925年1月カンポリジン発売、数年で通算2,000万アンプル、田辺五兵衛商店・中村滝商店と総代理店契約
    • [5]1923年4月3日に山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立、当初は鼻炎治療剤清鼻液の製造販売。1924年12月上福島へ移転、1925年1月カンポリジン発売、数年で通算2,000万アンプル、田辺五兵衛商店・中村滝商店と総代理店契約
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [3]創業時から新薬類の研究・創製に注力し、神経痛・ロイマチス治療剤カンポリジン注射薬が処女製品

1927年の金融恐慌から1929年の世界恐慌へ続いた不況は、創業間もない商会の資金繰りを圧迫した。銀行の融資を望めない山内健二氏は、素封家の前島右市郎氏に担保なしで事業資金2万円の融通を頼み込んだ。承諾は『私は約3時間,ねばりにねばりました』という交渉の末に得たものである。1928年10月には商会とは別に大阪市北区梅ケ枝町へ健康舎を設け、長谷川卯三郎医学博士の指導による健康ブラシを2個1組35銭で発売。梅田新道の街角で文楽人形を使った店頭宣伝が評判を呼び、鉄道省や日本銀行が大口の納入先に加わった。本業の注射薬カンポリジンも売り続け、発売から30年余りを経た1955年にも主要製品の一つに数えられた。

  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [6]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
    • [7]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
    • [8]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
    • [9]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
    • [10]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [11]カンポリジンは発売30余年後の1955年時点でも主要製品の一つ
参考文献[1]-[11]
  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [1]1923年4月3日に山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立、当初は鼻炎治療剤清鼻液の製造販売。1924年12月上福島へ移転、1925年1月カンポリジン発売、数年で通算2,000万アンプル、田辺五兵衛商店・中村滝商店と総代理店契約
    • [2]1923年4月3日に山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立、当初は鼻炎治療剤清鼻液の製造販売。1924年12月上福島へ移転、1925年1月カンポリジン発売、数年で通算2,000万アンプル、田辺五兵衛商店・中村滝商店と総代理店契約
    • [4]1923年4月3日に山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立、当初は鼻炎治療剤清鼻液の製造販売。1924年12月上福島へ移転、1925年1月カンポリジン発売、数年で通算2,000万アンプル、田辺五兵衛商店・中村滝商店と総代理店契約
    • [5]1923年4月3日に山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立、当初は鼻炎治療剤清鼻液の製造販売。1924年12月上福島へ移転、1925年1月カンポリジン発売、数年で通算2,000万アンプル、田辺五兵衛商店・中村滝商店と総代理店契約
    • [6]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
    • [7]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
    • [8]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
    • [9]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
    • [10]昭和恐慌期に山内健二が前島右市郎から無担保で事業資金2万円を借り入れ。1928年10月大阪市北区梅ケ枝町に健康舎を設立、長谷川卯三郎医学博士指導の健康ブラシ(2個1組35銭)を発売、文楽人形の店頭宣伝、鉄道省・日本銀行など大口納入
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [3]創業時から新薬類の研究・創製に注力し、神経痛・ロイマチス治療剤カンポリジン注射薬が処女製品
    • [11]カンポリジンは発売30余年後の1955年時点でも主要製品の一つ

1934年〜向島に開いた東京店と、国産スルファミン剤ゲリゾン・アルバジル

山之内薬品商会は1934年1月、東京市向島区寺島町に東京店を開設し、建物の一部に工場を併置した。満州事変後に景気が持ち直すなか、不況期に蓄えた力を東京市場へ振り向ける判断である。店長には米コロンビア大学への留学から戻った松島武夫氏を大阪本店から充て、幹部は山内健二氏が富山薬学専門学校などを回り面接で選んだ。向島の工場と営業所は、輸入医薬品を国産品で置き換える拠点と位置づけられた。1935年には向島工場で殺菌消毒剤マーキュロクロームを国産化し、マキロンの名で発売している。マキロンの陸海軍向け納入の増加が、のちのズルフォンアミド剤の軍需納入につながる糸口となった。

  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [12]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
    • [13]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
    • [14]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
    • [16]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
    • [17]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [15]向島に工場と営業所を設置し、輸入医薬品の防遏と国産医薬品の進歩に努めた

山之内薬品商会は1937年7月、国産のズルフォンアミド剤ゲリゾンを発売した。1935年にドイツ・バイエルのゲルハルト・ドマーク博士らが創製したプロントジールの情報を大阪本店のプロパーが病院から得て、渡辺順平氏と寺井靖氏が1カ月余りで合成を仕上げた。ゲリゾンは国内最初のスルファミン製剤として全国に名を広げた。ただし同じ時期には他社のテラポールも国内最初のズルフォンアミド剤として出ており、先行の幅は大きくない。翌1938年9月には二基ズルフォンアミド剤アルバジルを創製し、製法特許を取得。輸入薬の統制が強まる時期に国産の合成薬を2品続けて出せたことが、会社の事業基盤を形づくったと思われる。

  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [18]1937年7月ゲリゾン発売。プロントジールの情報を得て渡辺順平・寺井靖らが1カ月余で合成。同時期のテラポールとともにわが国最初のズルフォンアミド剤。1938年9月アルバジルを創製・発売し製法特許を獲得
    • [19]1937年7月ゲリゾン発売。プロントジールの情報を得て渡辺順平・寺井靖らが1カ月余で合成。同時期のテラポールとともにわが国最初のズルフォンアミド剤。1938年9月アルバジルを創製・発売し製法特許を獲得
    • [21]1937年7月ゲリゾン発売。プロントジールの情報を得て渡辺順平・寺井靖らが1カ月余で合成。同時期のテラポールとともにわが国最初のズルフォンアミド剤。1938年9月アルバジルを創製・発売し製法特許を獲得
    • [22]1937年7月ゲリゾン発売。プロントジールの情報を得て渡辺順平・寺井靖らが1カ月余で合成。同時期のテラポールとともにわが国最初のズルフォンアミド剤。1938年9月アルバジルを創製・発売し製法特許を獲得
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [20]1937年にわが国最初のスルファミン製剤ゲリゾン、アルバジルの製造に成功し全国的に名声

山之内薬品商会は1938年6月から1939年3月にかけて、店と工場を単位に6つの法人へ改組した。1938年に設けられた全国医薬品原料配給統制会などの統制機構は、原則として個人企業を加入させなかった。公開会社への転換はかねて東京店長の松島武夫氏が進言しており、統制の強化がその実行を早めた。株式会社の資本金はいずれも臨時資金調整法の適用を受けない20万円未満に収め、大和田製薬や蒲田製薬は各18万円で発足した。蒲田製薬の設立日である1939年3月20日は、のちに山之内製薬の設立日として扱われた。一挙に1社へまとめず小さな法人に分けた手順は、資金規制を避けつつ統制機構に加わるための現実的な選択だったのだろう。

  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [23]1938年6月〜1939年3月に営業部門・工場単位で6法人を組織。統制機構は個人企業を認めず、臨時資金調整法適用外の20万円未満の株式会社を設立。松島武夫が公開会社化を進言。蒲田製薬は1939年3月20日設立、資本金18万円
    • [25]1938年6月〜1939年3月に営業部門・工場単位で6法人を組織。統制機構は個人企業を認めず、臨時資金調整法適用外の20万円未満の株式会社を設立。松島武夫が公開会社化を進言。蒲田製薬は1939年3月20日設立、資本金18万円
    • [26]1938年6月〜1939年3月に営業部門・工場単位で6法人を組織。統制機構は個人企業を認めず、臨時資金調整法適用外の20万円未満の株式会社を設立。松島武夫が公開会社化を進言。蒲田製薬は1939年3月20日設立、資本金18万円
    • [27]1938年6月〜1939年3月に営業部門・工場単位で6法人を組織。統制機構は個人企業を認めず、臨時資金調整法適用外の20万円未満の株式会社を設立。松島武夫が公開会社化を進言。蒲田製薬は1939年3月20日設立、資本金18万円
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)山之内製薬
    • [24]昭和14年3月に株式会社組織に改めた
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [28]山之内製薬の設立年月日は昭和14年3月20日
参考文献[12]-[28]
  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [12]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
    • [13]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
    • [14]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
    • [16]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
    • [17]1934年1月向島区寺島町に東京店を開設し工場を併置、店長は留学帰りの松島武夫。1935年マーキュロクロームを国産化しマキロンとして発売、軍需納入がズルフォンアミド剤の軍需納入の糸口に
    • [18]1937年7月ゲリゾン発売。プロントジールの情報を得て渡辺順平・寺井靖らが1カ月余で合成。同時期のテラポールとともにわが国最初のズルフォンアミド剤。1938年9月アルバジルを創製・発売し製法特許を獲得
    • [19]1937年7月ゲリゾン発売。プロントジールの情報を得て渡辺順平・寺井靖らが1カ月余で合成。同時期のテラポールとともにわが国最初のズルフォンアミド剤。1938年9月アルバジルを創製・発売し製法特許を獲得
    • [21]1937年7月ゲリゾン発売。プロントジールの情報を得て渡辺順平・寺井靖らが1カ月余で合成。同時期のテラポールとともにわが国最初のズルフォンアミド剤。1938年9月アルバジルを創製・発売し製法特許を獲得
    • [22]1937年7月ゲリゾン発売。プロントジールの情報を得て渡辺順平・寺井靖らが1カ月余で合成。同時期のテラポールとともにわが国最初のズルフォンアミド剤。1938年9月アルバジルを創製・発売し製法特許を獲得
    • [23]1938年6月〜1939年3月に営業部門・工場単位で6法人を組織。統制機構は個人企業を認めず、臨時資金調整法適用外の20万円未満の株式会社を設立。松島武夫が公開会社化を進言。蒲田製薬は1939年3月20日設立、資本金18万円
    • [25]1938年6月〜1939年3月に営業部門・工場単位で6法人を組織。統制機構は個人企業を認めず、臨時資金調整法適用外の20万円未満の株式会社を設立。松島武夫が公開会社化を進言。蒲田製薬は1939年3月20日設立、資本金18万円
    • [26]1938年6月〜1939年3月に営業部門・工場単位で6法人を組織。統制機構は個人企業を認めず、臨時資金調整法適用外の20万円未満の株式会社を設立。松島武夫が公開会社化を進言。蒲田製薬は1939年3月20日設立、資本金18万円
    • [27]1938年6月〜1939年3月に営業部門・工場単位で6法人を組織。統制機構は個人企業を認めず、臨時資金調整法適用外の20万円未満の株式会社を設立。松島武夫が公開会社化を進言。蒲田製薬は1939年3月20日設立、資本金18万円
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [15]向島に工場と営業所を設置し、輸入医薬品の防遏と国産医薬品の進歩に努めた
    • [20]1937年にわが国最初のスルファミン製剤ゲリゾン、アルバジルの製造に成功し全国的に名声
    • [28]山之内製薬の設立年月日は昭和14年3月20日
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)山之内製薬
    • [24]昭和14年3月に株式会社組織に改めた

1940年〜5法人を合わせた山之内製薬と、日本医薬工業の合併を経た東証・大証への上場

山之内製薬は1942年5月19日、同系の5法人を合併して資本金80万円の1社となった。統制の強化で官庁への申請や届け出が増え、6法人が別々に対応する体制は管理の手間がかさみ、企業としての結集力も欠いた。合併の母体は六郷製薬で、1939年10月に本店を日本橋小舟町へ移し、1940年10月28日に商号を山之内製薬株式会社へ改めた。統合後の本社は東京市日本橋区小舟町に置かれた。1943年には資本金を160万円へ増資し、板橋区の蓮根工場で主要原料を自給した。各工場が生産したスルファミン剤は全国生産量の約30%を占めた。工場の多くと海外支店は、戦災と敗戦で失われた。

  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [29]統制下の官庁対応の不便と結集力不足から、六郷製薬を母体に1939年10月本店移転、1940年10月28日山之内製薬株式会社に改称、1942年5月19日に関係各社を合併し資本金80万円
    • [30]統制下の官庁対応の不便と結集力不足から、六郷製薬を母体に1939年10月本店移転、1940年10月28日山之内製薬株式会社に改称、1942年5月19日に関係各社を合併し資本金80万円
    • [31]統制下の官庁対応の不便と結集力不足から、六郷製薬を母体に1939年10月本店移転、1940年10月28日山之内製薬株式会社に改称、1942年5月19日に関係各社を合併し資本金80万円
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [32]1942年同系五社を合併し資本金80万円、本社を日本橋小舟町へ移転。1943年160万円に増資、蓮根工場で主要原料を自給、スルファミン製剤の全国生産量の約30%
    • [33]1942年同系五社を合併し資本金80万円、本社を日本橋小舟町へ移転。1943年160万円に増資、蓮根工場で主要原料を自給、スルファミン製剤の全国生産量の約30%
    • [34]1942年同系五社を合併し資本金80万円、本社を日本橋小舟町へ移転。1943年160万円に増資、蓮根工場で主要原料を自給、スルファミン製剤の全国生産量の約30%
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)山之内製薬
    • [35]戦災と終戦で工場の多くと海外支店を失った

1945年の空襲で本郷・蒲田・大和田などの工場が全焼し、山之内製薬は主力の生産拠点を失った。戦後は伝染病の流行に備えたスルファミン剤の増産を政府から求められ、残った5工場の稼働では当局の要望する量を下回った。新工場として東京光学器械の板橋の北工場の取得を計画したものの、銀行融資は得られず、特別経理会社の指定で増資も認められなかった。このため1947年5月に姉妹会社の日本医薬工業を設立し、製剤部門を担わせた。1948年11月17日に公正取引委員会の認可が下り、1949年3月の合併で資本金は6,356万円となった。原料から合成、製品、販売までを1社で手がける体制はこの合併で整った。

  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [36]1945年3〜6月の空襲で本郷・向島・池袋・神戸・蒲田・大和田工場が全焼・半焼
  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)2章 戦後の再建と難局の打開
    • [37]戦後の悪疫流行でスルファミン剤増産を要請されたが残存5工場で不足。銀行融資不可、特別経理会社指定で増資不可のため新会社設立。1948年11月17日公取委が合併認可、1949年3月資本金6,356万円、原料-合成-製品-販売の一貫体制
    • [38]戦後の悪疫流行でスルファミン剤増産を要請されたが残存5工場で不足。銀行融資不可、特別経理会社指定で増資不可のため新会社設立。1948年11月17日公取委が合併認可、1949年3月資本金6,356万円、原料-合成-製品-販売の一貫体制
    • [40]戦後の悪疫流行でスルファミン剤増産を要請されたが残存5工場で不足。銀行融資不可、特別経理会社指定で増資不可のため新会社設立。1948年11月17日公取委が合併認可、1949年3月資本金6,356万円、原料-合成-製品-販売の一貫体制
    • [41]戦後の悪疫流行でスルファミン剤増産を要請されたが残存5工場で不足。銀行融資不可、特別経理会社指定で増資不可のため新会社設立。1948年11月17日公取委が合併認可、1949年3月資本金6,356万円、原料-合成-製品-販売の一貫体制
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [39]1947年5月に姉妹会社日本医薬工業を創立し製剤部門を担当、1949年3月に合併

山之内製薬の株式は1949年5月16日、再開した東京・大阪の両証券取引所で売買が始まった。GHQが同年5月11日に東京・大阪・名古屋の取引所の開業を許可してから、わずか5日後の上場である。多数の株主による経営を掲げ、日本医薬工業の設立時にも協力会を組織して出資を広く募ったものの、経済情勢から公開は進まなかった。株主数は1939年3月の12名から1942年12月に60名、1943年12月に592名、1948年4月に1,354名へ増えた。上場後の1949年10月には資本金を1億円に増やし、生産の増強と自社製品の拡充に充てた。翌1950年には米国ロシュ社と技術提携し、サルファ剤サイアジンを発売した。

  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)2章 戦後の再建と難局の打開
    • [42]多数の株主による民主的経営を意図し株式公開に努めた。1949年5月11日GHQが取引所開業を許可、同月16日から東京・大阪両取引所で取引開始。株主数1939年3月12名、1942年12月60名、1943年12月592名、1948年4月1,354名
    • [43]多数の株主による民主的経営を意図し株式公開に努めた。1949年5月11日GHQが取引所開業を許可、同月16日から東京・大阪両取引所で取引開始。株主数1939年3月12名、1942年12月60名、1943年12月592名、1948年4月1,354名
    • [44]多数の株主による民主的経営を意図し株式公開に努めた。1949年5月11日GHQが取引所開業を許可、同月16日から東京・大阪両取引所で取引開始。株主数1939年3月12名、1942年12月60名、1943年12月592名、1948年4月1,354名
    • [45]多数の株主による民主的経営を意図し株式公開に努めた。1949年5月11日GHQが取引所開業を許可、同月16日から東京・大阪両取引所で取引開始。株主数1939年3月12名、1942年12月60名、1943年12月592名、1948年4月1,354名
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [46]1949年10月資本金1億円に増資し生産増強と自社製品拡充。1950年米国ロシュ社と技術提携しサイアジンを発売
    • [47]1949年10月資本金1億円に増資し生産増強と自社製品拡充。1950年米国ロシュ社と技術提携しサイアジンを発売
参考文献[29]-[47]
  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
    • [29]統制下の官庁対応の不便と結集力不足から、六郷製薬を母体に1939年10月本店移転、1940年10月28日山之内製薬株式会社に改称、1942年5月19日に関係各社を合併し資本金80万円
    • [30]統制下の官庁対応の不便と結集力不足から、六郷製薬を母体に1939年10月本店移転、1940年10月28日山之内製薬株式会社に改称、1942年5月19日に関係各社を合併し資本金80万円
    • [31]統制下の官庁対応の不便と結集力不足から、六郷製薬を母体に1939年10月本店移転、1940年10月28日山之内製薬株式会社に改称、1942年5月19日に関係各社を合併し資本金80万円
    • [36]1945年3〜6月の空襲で本郷・向島・池袋・神戸・蒲田・大和田工場が全焼・半焼
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
    • [32]1942年同系五社を合併し資本金80万円、本社を日本橋小舟町へ移転。1943年160万円に増資、蓮根工場で主要原料を自給、スルファミン製剤の全国生産量の約30%
    • [33]1942年同系五社を合併し資本金80万円、本社を日本橋小舟町へ移転。1943年160万円に増資、蓮根工場で主要原料を自給、スルファミン製剤の全国生産量の約30%
    • [34]1942年同系五社を合併し資本金80万円、本社を日本橋小舟町へ移転。1943年160万円に増資、蓮根工場で主要原料を自給、スルファミン製剤の全国生産量の約30%
    • [39]1947年5月に姉妹会社日本医薬工業を創立し製剤部門を担当、1949年3月に合併
    • [46]1949年10月資本金1億円に増資し生産増強と自社製品拡充。1950年米国ロシュ社と技術提携しサイアジンを発売
    • [47]1949年10月資本金1億円に増資し生産増強と自社製品拡充。1950年米国ロシュ社と技術提携しサイアジンを発売
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)山之内製薬
    • [35]戦災と終戦で工場の多くと海外支店を失った
  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)2章 戦後の再建と難局の打開
    • [37]戦後の悪疫流行でスルファミン剤増産を要請されたが残存5工場で不足。銀行融資不可、特別経理会社指定で増資不可のため新会社設立。1948年11月17日公取委が合併認可、1949年3月資本金6,356万円、原料-合成-製品-販売の一貫体制
    • [38]戦後の悪疫流行でスルファミン剤増産を要請されたが残存5工場で不足。銀行融資不可、特別経理会社指定で増資不可のため新会社設立。1948年11月17日公取委が合併認可、1949年3月資本金6,356万円、原料-合成-製品-販売の一貫体制
    • [40]戦後の悪疫流行でスルファミン剤増産を要請されたが残存5工場で不足。銀行融資不可、特別経理会社指定で増資不可のため新会社設立。1948年11月17日公取委が合併認可、1949年3月資本金6,356万円、原料-合成-製品-販売の一貫体制
    • [41]戦後の悪疫流行でスルファミン剤増産を要請されたが残存5工場で不足。銀行融資不可、特別経理会社指定で増資不可のため新会社設立。1948年11月17日公取委が合併認可、1949年3月資本金6,356万円、原料-合成-製品-販売の一貫体制
    • [42]多数の株主による民主的経営を意図し株式公開に努めた。1949年5月11日GHQが取引所開業を許可、同月16日から東京・大阪両取引所で取引開始。株主数1939年3月12名、1942年12月60名、1943年12月592名、1948年4月1,354名
    • [43]多数の株主による民主的経営を意図し株式公開に努めた。1949年5月11日GHQが取引所開業を許可、同月16日から東京・大阪両取引所で取引開始。株主数1939年3月12名、1942年12月60名、1943年12月592名、1948年4月1,354名
    • [44]多数の株主による民主的経営を意図し株式公開に努めた。1949年5月11日GHQが取引所開業を許可、同月16日から東京・大阪両取引所で取引開始。株主数1939年3月12名、1942年12月60名、1943年12月592名、1948年4月1,354名
    • [45]多数の株主による民主的経営を意図し株式公開に努めた。1949年5月11日GHQが取引所開業を許可、同月16日から東京・大阪両取引所で取引開始。株主数1939年3月12名、1942年12月60名、1943年12月592名、1948年4月1,354名

出典・参考

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出典・参考
  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)1章 創業より躍進へ
  • 山之内製薬50年史(山之内製薬、1975年)2章 戦後の再建と難局の打開
  • 会社銀行八十年史(1955年)山之内製薬
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)山之内製薬

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