第2章 年〜年

北辰電機製作所:戦災による施設85%の喪失と工業計器専業での再建

1946年〜16ミリ映写機で技術を温存した民需転換と第二会社への分立

1945年4月の爆撃で北辰電機製作所は施設の85%を失い、資本金1,000万円を残したまま終戦を迎えた。設備の大半を焼いたため、戦後の再建は同業他社に比べて苦労が大きかった。1946年、会社は民需に転換して工業計器と航海機器の製作を始め、あわせて技術を温存する目的で16ミリ発声映写機の試作に着手し、同年に第1号機を完成させた。ただし映写機を本格的に製品化するまでには、そこからさらに3年を要した。1949年以後は外航船の建造が再開して転輪羅針儀の発注が戻り、工業計器類の生産を軸に据えて次第に立ち直った。

  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
    • [1]1945年4月の爆撃で工場の85%を失い終戦を迎えた(終戦時の資本金1,000万円)
    • [4]1946年に技術温存の目的で始めた16ミリ発声映写機の試作を完成し、第1号機の完成は1946年
    • [5]映写機を本格的に製品化するには3年を要した
    • [6]1949年以後は外航船の建造再開で転輪羅針儀の発注もあり工業計器類の生産を中心に次第に立ち直った
  • 日証 1957年「北辰電機製作所」
    • [2]戦災で設備の大半を失ったため戦後の再建は同業他社に比べ苦労が大きかった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [3]1946年に民需へ転換し工業計器と航海機器の製作を開始した

1949年2月1日、旧法人は企業再建整備法により解散し、工業計器類を担う北辰電機製作所と、16ミリ映写機と航海機器を担う北辰精密工業の2社が第二会社として設立された。登記上は新しい会社だが、2社はいずれも旧会社の全額現物出資によって分立しており、設備も製品の系列も旧社から連続している。分立した時期はドッジ不況の最中で毎期の欠損に苦しみ、資金難から取引銀行の業務管理を受けた場面もあった。1951年からは特需関連産業の需要が旺盛になり、被戦災工場の修復による能率向上と相まって経理面が改善し、工業計器の好調で黒字へ転じた。1952年4月には北辰精密工業を吸収合併して資本金2,000万円となり、同年12月の有償無償各1の3倍増資で6,000万円まで積み増した。

  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
    • [7]1949年2月、企業再建整備法により旧北辰電機製作所が解散し、北辰電機製作所(工業計器類)と北辰精密工業(16ミリ映写機・航海機器)が第二会社として設立された。設立登記日は1949年2月1日
    • [8]第二会社2社は旧会社の全額現物出資をもって分立した
    • [9]第二会社として設立された頃はドッジ不況の最中で毎期欠損に苦しみ、資金難から取引銀行の業務管理を受ける場面もあった
    • [10]1951年から特需関連産業の需要が旺盛で、被戦災工場の修復による能率向上と相まって経理面が改善し、工業計器の好調で黒字に転換した
    • [11]1952年4月に北辰精密工業を吸収合併して資本金2,000万円、同年12月に有償無償各1の3倍増資で6,000万円

国内の工業計器生産額は、1949年の9,774万円から1950年に5億1,647万円、1951年に9億2,874万円、1952年に13億1,862万円へ伸び、1953年は20億円と推定された。特需で受注が増えた各産業が設備を広げたこと、企業合理化の手立てとして計器による製品の質的向上と人件費・資材の節約が重んじられたことが、伸びを押し上げた。北辰電機製作所はこの市場で全国生産高の2割を占め、横河電機・富士電機・島津製作所と小メーカー十数社が並ぶなかで首位に立った。もっとも需要が本格的に増えたのは1951年からの2、3年に限られ、戦後の各社進出で受注競争は激しく、価格は1951年末から横ばいを続けていた。

  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
    • [12]全国工業計器生産実績(電気計測器工業会調)は1949年97,747千円、1950年516,470千円、1951年928,743千円、1952年1,318,621千円、1953年は推定2,000,000千円
    • [13]伸びの主因は特需景気での受注増大に伴う各産業の設備拡大と、企業合理化策として工業計器による製品の質的向上・人件費と資材の節約が重視されたこと
    • [14]工業計器で当社は全国生産高の2割に当たり1位、同業は横河・富士電機・島津のほか小メーカー十数社
    • [15]本格的に需要が増えたのは近々2、3年のことで、戦後各社の進出により受注競争は激しく価格は1951年末以来横這い
参考文献[1]-[15]
  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
    • [1]1945年4月の爆撃で工場の85%を失い終戦を迎えた(終戦時の資本金1,000万円)
    • [4]1946年に技術温存の目的で始めた16ミリ発声映写機の試作を完成し、第1号機の完成は1946年
    • [5]映写機を本格的に製品化するには3年を要した
    • [6]1949年以後は外航船の建造再開で転輪羅針儀の発注もあり工業計器類の生産を中心に次第に立ち直った
    • [7]1949年2月、企業再建整備法により旧北辰電機製作所が解散し、北辰電機製作所(工業計器類)と北辰精密工業(16ミリ映写機・航海機器)が第二会社として設立された。設立登記日は1949年2月1日
    • [8]第二会社2社は旧会社の全額現物出資をもって分立した
    • [9]第二会社として設立された頃はドッジ不況の最中で毎期欠損に苦しみ、資金難から取引銀行の業務管理を受ける場面もあった
    • [10]1951年から特需関連産業の需要が旺盛で、被戦災工場の修復による能率向上と相まって経理面が改善し、工業計器の好調で黒字に転換した
    • [11]1952年4月に北辰精密工業を吸収合併して資本金2,000万円、同年12月に有償無償各1の3倍増資で6,000万円
    • [12]全国工業計器生産実績(電気計測器工業会調)は1949年97,747千円、1950年516,470千円、1951年928,743千円、1952年1,318,621千円、1953年は推定2,000,000千円
    • [13]伸びの主因は特需景気での受注増大に伴う各産業の設備拡大と、企業合理化策として工業計器による製品の質的向上・人件費と資材の節約が重視されたこと
    • [14]工業計器で当社は全国生産高の2割に当たり1位、同業は横河・富士電機・島津のほか小メーカー十数社
    • [15]本格的に需要が増えたのは近々2、3年のことで、戦後各社の進出により受注競争は激しく価格は1951年末以来横這い
  • 日証 1957年「北辰電機製作所」
    • [2]戦災で設備の大半を失ったため戦後の再建は同業他社に比べ苦労が大きかった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [3]1946年に民需へ転換し工業計器と航海機器の製作を開始した

1953年〜東京証券取引所への上場と輸入計器に圧迫される国内市場

1953年に航空計器の生産を再開し、翌1954年4月5日、北辰電機製作所は東京証券取引所へ株式を上場した。上場時の資本金は1億6,000万円、上場株式数は320万株で、本社工場は東京都大田区下丸子町312番地にあった。生産金額の比率は工業計器類および自動制御装置が68.6%、16ミリ映写機が16.5%、航海機器が13.9%、航空計器が1.0%で、工業計器がすでに生産額の3分の2を超えていた。従業員は1953年9月末で600人、うち約40人が技術者である。戦災施設の復旧に力を割いていたため、配当を始められたのは1953年3月期だった。1954年5月の総会には第3次資産再評価案を提出する予定で、再評価余裕額は約1億8,000万円と見込んでいた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [16]1953年に航空計器の生産を再開した
  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
    • [17]1954年4月5日に東京証券取引所へ新規上場した
    • [18]上場時の資本金は160,000千円、上場株式数は3,200千株、本社は東京都大田区下丸子町312番地
    • [19]生産金額比率は工業計器類および自動制御装置68.6%、16ミリ映写機16.5%、航海機器13.9%、航空計器1.0%
    • [20]1953年9月末の従業員は600名で、うち約40名が技術者
    • [21]戦災施設の復旧に勢力を割かれ、配当開始は1953年3月期から
    • [22]1954年5月の総会に第三次資産再評価案を提出する予定で、再評価余裕額は約1億8,000万円

産業設備投資のうち計器が占める割合は、米国の4%に対し日本は1%程度にすぎず、賃金水準の差がこの開きに間接的に響いていた。輸入工業計器は、プラントに付随するものを含めると年に7億円ほどにのぼり、国内の市場を押さえつけていた。清水荘平社長の見方では、工業計器づくりは誰が担っても精密な技術の要る難しい仕事で、若輩の自分が手を出す事業ではなかった。それでも、成し遂げる者がいなければならない大事な事業だと考え、思い切って国産化に踏み出した。実際に始めると予想を上回る難しさで、良い部品の調達からして苦労が始まった。加工をいくら入念緻密にしても材料が悪ければ良い製品は生まれないとして、清水社長は材料の面になお多くの課題が残っていると見ていた。

  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
    • [23]米国では産業設備投資の4%を計器が占めるが日本は1%程度で、賃金水準の違いが間接的に影響している
    • [24]輸入工業計器はプラント附属のものを含め年間7億円ほどになり国内市場を圧迫していた
  • 東商 1960年「工業計器と四十年」(清水荘平)
    • [25]清水荘平は、工業計器の製作は誰がやっても精密な技術を要する難しい仕事で自分のような若輩が乗り出すべき事業ではないと思っていたが、誰かがやりとげなければならない重要な事業だから思い切って国産化を志したと述べた
    • [26]手をつけると想像以上の難事業で、まず優秀な部品を調達することから苦労した
    • [27]どんなに入念緻密な加工をしても材質が粗悪なら立派な製品はできず、材質の点にはまだ多くの問題がある

1956年から1957年にかけては、オートメーション景気と造船ブームが受注を押し上げた。1956年9月期は前期に比べ4割の増収と8割の増益になり、配当を3分引き上げて1割5分とした。戦災で設備の大半を失い、同業他社より重い再建を背負った会社が、ここで本格的な展開期に入った。1957年3月期の総受注額は12億から13億円に達する見込みで、これを消化する生産能力も拡充したことから、通期の売上高は10億円前後と見られた。工業用計器の需要が予想以上に旺盛で生産設備の再拡充を迫られ、1957年1月末払込みで2割無償を付けた倍額増資を行い、資本金を5億2,800万円へ引き上げた。

  • 日証 1957年「北辰電機製作所」
    • [28]オートメーション景気と造船ブームで工業計器の受注が著増した
    • [29]1956年9月期は前期比4割の増収・8割の増益で、3分増配して1割5分配当とした
    • [30]戦災で設備の大半を失い戦後再建の苦労が同業他社より大きかったが、オートメーション景気と造船ブームで本格的な展開期に入った
    • [31]期中の総受注額は12億〜13億円に達する見込みで、生産能力の拡充により通期売上高は10億円前後の見込み
    • [32]工業用計器の需要が予想以上に旺盛で生産設備の再拡充を迫られ、1957年1月末払込みで2割無償付きの倍額増資を実施、資本金は528,000千円
参考文献[16]-[32]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [16]1953年に航空計器の生産を再開した
  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
    • [17]1954年4月5日に東京証券取引所へ新規上場した
    • [18]上場時の資本金は160,000千円、上場株式数は3,200千株、本社は東京都大田区下丸子町312番地
    • [19]生産金額比率は工業計器類および自動制御装置68.6%、16ミリ映写機16.5%、航海機器13.9%、航空計器1.0%
    • [20]1953年9月末の従業員は600名で、うち約40名が技術者
    • [21]戦災施設の復旧に勢力を割かれ、配当開始は1953年3月期から
    • [22]1954年5月の総会に第三次資産再評価案を提出する予定で、再評価余裕額は約1億8,000万円
    • [23]米国では産業設備投資の4%を計器が占めるが日本は1%程度で、賃金水準の違いが間接的に影響している
    • [24]輸入工業計器はプラント附属のものを含め年間7億円ほどになり国内市場を圧迫していた
  • 東商 1960年「工業計器と四十年」(清水荘平)
    • [25]清水荘平は、工業計器の製作は誰がやっても精密な技術を要する難しい仕事で自分のような若輩が乗り出すべき事業ではないと思っていたが、誰かがやりとげなければならない重要な事業だから思い切って国産化を志したと述べた
    • [26]手をつけると想像以上の難事業で、まず優秀な部品を調達することから苦労した
    • [27]どんなに入念緻密な加工をしても材質が粗悪なら立派な製品はできず、材質の点にはまだ多くの問題がある
  • 日証 1957年「北辰電機製作所」
    • [28]オートメーション景気と造船ブームで工業計器の受注が著増した
    • [29]1956年9月期は前期比4割の増収・8割の増益で、3分増配して1割5分配当とした
    • [30]戦災で設備の大半を失い戦後再建の苦労が同業他社より大きかったが、オートメーション景気と造船ブームで本格的な展開期に入った
    • [31]期中の総受注額は12億〜13億円に達する見込みで、生産能力の拡充により通期売上高は10億円前後の見込み
    • [32]工業用計器の需要が予想以上に旺盛で生産設備の再拡充を迫られ、1957年1月末払込みで2割無償付きの倍額増資を実施、資本金は528,000千円

1954年〜チェプラート社からIBMに及ぶ技術導入と受注の反転

1932年のドイツ製アンシュツ転輪羅針儀に始まった技術導入は、戦後に相手先と分野を広げた。1954年、航海機器の空冷式転輪羅針儀についてドイツのチェプラート社と、航空計器のオートシンとマグネシンについて米国のベンディックス社と、それぞれ技術援助契約を締結した。1956年にはジャイロ水平儀と液体流量計をベンディックス社から、燃量計を米国のリキッドメーター社から導入し、1957年に工業計器で米国のバートン社と、1958年に各種の流量計・濃度計・粘度計で米国のフィッシャー社と契約した。1960年には質量分析計をベンディックス社から入れ、さらにデータ処理装置について米国のIBMと特許権実施契約を締結したことで、導入の対象は計器そのものから情報処理にまで及んだ。

  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
    • [33]1932年にドイツのアンシュツ転輪羅針儀の技術を導入した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [34]1954年、航海機器(空冷式転輪羅針儀)でドイツのチェプラート社と、航空計器(オートシン・マグネシン)で米国ベンディックス社と各技術援助契約を締結
    • [35]1956年、航空計器(ジャイロ水平儀・液体流量計)でベンディックス社と、航空計器(燃量計)で米国リキッドメーター社と各技術援助契約を締結
    • [36]1957年、工業計器で米国バートン社と技術援助契約を締結
    • [37]1958年、工業計器(各種流量計・濃度計・粘度計等)で米国フィッシャー社と技術援助契約を締結
    • [38]1960年、工業計器(質量分析計)でベンディックス社と技術援助契約、データ・プロセシング装置で米国IBM社と特許権実施契約を締結

1962年、オートメーション機器の専用工場が完成した。しかし業績は同じ年に折り返す。売上高は1961年9月期の28億8,135万円、1962年3月期の28億5,053万円から、1962年9月期に19億6,962万円、1963年3月期には19億612万円へ減少した。税込利益は2億8,025万円、2億5,413万円と来たあと1962年9月期に2,327万円まで細り、1963年3月期は308万円で、売上利益率は9.7%から0.2%になった。有価証券報告書の税込純利益で見れば、1963年3月期は5,010万円の損失である。資本金は20億円のまま据え置かれ、資本金回転率は年3.8回から1.1回へ下がった。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [39]1962年にオートメーション機器専用工場が完成した
    • [40]売上高は1961年9月期2,881,350千円、1962年3月期2,850,538千円、1962年9月期1,969,620千円、1963年3月期1,906,122千円
    • [41]税込利益は1961年9月期280,257千円、1962年3月期254,137千円、1962年9月期23,277千円、1963年3月期3,087千円で、売上利益率は9.7%から0.2%へ低下
    • [42]有価証券報告書の税込純利益は28期(1963年3月期)が50,102千円の損失
    • [43]資本金は2,000,000千円で据え置き、資本金回転率は年3.8回から1.1回へ低下

1963年3月期の販売実績は、工業計器が13億2,533万円、航空計器が2億1,332万円、航海機器と磁気ドラムが合わせて2億3,996万円、映写機が1億2,748万円で、合計19億612万円だった。生産比率でみると工業計器73%、航空計器11%、航海機器8%、磁気ドラム2%、映写機6%となり、上場時の68.6%からさらに工業計器へ寄った。従業員は1,939人。金融系列は住友系で、主取引銀行には住友銀行と住友信託銀行、日本興業銀行に加えて協和銀行と横浜銀行が並ぶ。工業計器の専業メーカーとしては横河電機に次ぐ業界2位につけた。1963年には工業計器の技術についてルーマニアのマシンインポート社と技術援助契約を締結し、技術を導入する側から出す側にも回った。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [44]1963年3月期の販売実績は工業計器1,325,338千円、航空計器213,328千円、航海機器・磁気ドラム239,967千円、映写機127,489千円、合計1,906,122千円
    • [45]生産比率は工業計器73%、航空計器11%、航海機器8%、磁気ドラム2%、映写機6%
    • [46]従業員数は1,939人
    • [47]金融系列は住友系、主取引銀行は住友・住友信託・興銀・協和・横浜
    • [48]工業計器専業メーカーのなかでは横河電機に次いで業界第2位
    • [49]1963年、工業計器の技術輸出についてルーマニアのマシンインポート社と技術援助契約を締結
参考文献[33]-[49]
  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
    • [33]1932年にドイツのアンシュツ転輪羅針儀の技術を導入した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [34]1954年、航海機器(空冷式転輪羅針儀)でドイツのチェプラート社と、航空計器(オートシン・マグネシン)で米国ベンディックス社と各技術援助契約を締結
    • [35]1956年、航空計器(ジャイロ水平儀・液体流量計)でベンディックス社と、航空計器(燃量計)で米国リキッドメーター社と各技術援助契約を締結
    • [36]1957年、工業計器で米国バートン社と技術援助契約を締結
    • [37]1958年、工業計器(各種流量計・濃度計・粘度計等)で米国フィッシャー社と技術援助契約を締結
    • [38]1960年、工業計器(質量分析計)でベンディックス社と技術援助契約、データ・プロセシング装置で米国IBM社と特許権実施契約を締結
    • [39]1962年にオートメーション機器専用工場が完成した
    • [40]売上高は1961年9月期2,881,350千円、1962年3月期2,850,538千円、1962年9月期1,969,620千円、1963年3月期1,906,122千円
    • [41]税込利益は1961年9月期280,257千円、1962年3月期254,137千円、1962年9月期23,277千円、1963年3月期3,087千円で、売上利益率は9.7%から0.2%へ低下
    • [42]有価証券報告書の税込純利益は28期(1963年3月期)が50,102千円の損失
    • [43]資本金は2,000,000千円で据え置き、資本金回転率は年3.8回から1.1回へ低下
    • [44]1963年3月期の販売実績は工業計器1,325,338千円、航空計器213,328千円、航海機器・磁気ドラム239,967千円、映写機127,489千円、合計1,906,122千円
    • [45]生産比率は工業計器73%、航空計器11%、航海機器8%、磁気ドラム2%、映写機6%
    • [46]従業員数は1,939人
    • [47]金融系列は住友系、主取引銀行は住友・住友信託・興銀・協和・横浜
    • [48]工業計器専業メーカーのなかでは横河電機に次いで業界第2位
    • [49]1963年、工業計器の技術輸出についてルーマニアのマシンインポート社と技術援助契約を締結

出典・参考

4件
出典・参考
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
  • 証券 1954年(5)(58)(新規上場会社紹介)
  • 日証 1957年「北辰電機製作所」
  • 東商 1960年「工業計器と四十年」(清水荘平)

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