第3章 年〜年

北辰電機製作所:工業計器専業3位と1983年の横河電機製作所への吸収合併

1964年〜着手中の事業計画なしから始めた部課制の廃止

1964年時点の北辰電機製作所は、着手中の事業計画を一つも持たなかった。1963年3月期の販売実績は合計19億612万円で、うち工業計器が13億2,533万円、航海機器と磁気ドラムが2億3,996万円、航空計器が2億1,332万円、映写機が1億2,748万円を占めた。外国製の置き換えは計器ごとに提携先を分けて進めており、1954年には航海機器の空冷式転輪羅針儀でドイツのチェプラート社と、航空計器のオートシン・マグネシンで米国ベンディックス社と技術援助契約を締結していた。社長は1934年に就任した創業者の清水荘平氏が務めた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [1]1964年版の会社産業総覧で、北辰電機製作所の【着手中の事業計画】欄は「特になし」
    • [2]38年3月期の販売実績は合計1,906,122千円、うち工業計器1,325,338千円、航海機器・磁気ドラム239,967千円、航空計器213,328千円、映写機127,489千円
    • [3]【重要な提携】昭和29年、航海機器(空冷式転輪羅針儀)についてドイツのチエプラート社と、航空計器(オートシン・マグネシン)について米国ベンデイツクス社と各技術援助
    • [4]【役員】社長 清水荘平、創設者、昭和9年社長

1960年、北辰電機は日本能率協会の経営診断を受け、製品がそれぞれ固有の市場を持つという勧告に沿って営業と製造を一体化し、事業部制を敷いた。ところが事業部長の関心は傘下事業部の利益に向かい、製品開発も短期で成果の出るものへ偏ったため、営業・技術・製造をつなぐ流れは良くなったものの、小じんまりとして技術の会社に相応しくないという理由で、同社は再び横割りの組織へ戻した。受注を選べた売り手市場が買い手市場に変わってからは営業と製造技術の間で衝突が絶えず、1962年から1963年の深刻な不況で業績も振るわないなか、労働組合の賃金要求は激しさを増していた。

  • 経営 1968年「北辰電機製作所における部課制の廃止と機能別組織の実際」(千葉正皓)
    • [5]日本能率協会の経営診断の勧告を受け、昭和35年に営業と製造を一体化して事業部制を導入したが、事業部長の関心が傘下事業部の利益に向き製品開発も短期的な成果に重点が向いたこと、小じんまりして技術会社に相応しくないことから再び横割組織に戻った
    • [6]日本能率協会の経営診断の勧告を受け、昭和35年に営業と製造を一体化して事業部制を導入したが、事業部長の関心が傘下事業部の利益に向き製品開発も短期的な成果に重点が向いたこと、小じんまりして技術会社に相応しくないことから再び横割組織に戻った
    • [7]昭和三二、三年頃までは売手市場で受注を選択できたがその後買手市場に変わり、部門間のコンフリクト、とくに営業・製造技術の間にはいつもごたごたが絶えなかった。三七・八年の不況は深刻で会社の業績も振わず、加えて組合の賃金要求も激しさを増してきた

1964年後半から1965年初めにかけて組織の全面的な見直しに入った北辰電機は、数人のチームに社内の実情を調査させ、米国の実際も現地で調べたうえで対策案を作らせ、経営に本当に必要な機能かどうかを既存の部門にこだわらず洗い直した。24部・73課・134係あった組織は、約20の機能単位へ置き換えられた。部長・課長の名称は消え、係長級から取締役級までが担当と呼ばれ、機能ごとの責任者がその運営の最高責任者として権限を持った。稟議の件数は大幅に減った一方で部門間の通知と報告は激増し、売上高が100億円を超えてからも同社はこれを従来と同じ人員でこなした。

  • 経営 1968年「北辰電機製作所における部課制の廃止と機能別組織の実際」(千葉正皓)
    • [8]昭和39年後半から40年初めにかけて全面的な検討が必要との結論が出され、数人のチームが社内の実情を調査分析しアメリカでの実際も現地で勉強したうえで対策案を作成。二四部、七三課、一三四係あった組織が約二〇の機能単位にまとめられた
    • [9]昭和39年後半から40年初めにかけて全面的な検討が必要との結論が出され、数人のチームが社内の実情を調査分析しアメリカでの実際も現地で勉強したうえで対策案を作成。二四部、七三課、一三四係あった組織が約二〇の機能単位にまとめられた
    • [10]部・課長の名称を廃し「担当」の名称を用いた。担当には従来の係長クラスから取締役クラスまでが含まれ、機能即権限の考え方で当該機能部門の担当が最高責任者であり権限を有する
    • [11]稟議件数は大巾に減少したが、各部門間の通知、報告は件数が激増している。今では一〇〇億円を軽く越している事実、然もこれを従来と同じ人員でこなしている
参考文献[1]-[11]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
    • [1]1964年版の会社産業総覧で、北辰電機製作所の【着手中の事業計画】欄は「特になし」
    • [2]38年3月期の販売実績は合計1,906,122千円、うち工業計器1,325,338千円、航海機器・磁気ドラム239,967千円、航空計器213,328千円、映写機127,489千円
    • [3]【重要な提携】昭和29年、航海機器(空冷式転輪羅針儀)についてドイツのチエプラート社と、航空計器(オートシン・マグネシン)について米国ベンデイツクス社と各技術援助
    • [4]【役員】社長 清水荘平、創設者、昭和9年社長
  • 経営 1968年「北辰電機製作所における部課制の廃止と機能別組織の実際」(千葉正皓)
    • [5]日本能率協会の経営診断の勧告を受け、昭和35年に営業と製造を一体化して事業部制を導入したが、事業部長の関心が傘下事業部の利益に向き製品開発も短期的な成果に重点が向いたこと、小じんまりして技術会社に相応しくないことから再び横割組織に戻った
    • [6]日本能率協会の経営診断の勧告を受け、昭和35年に営業と製造を一体化して事業部制を導入したが、事業部長の関心が傘下事業部の利益に向き製品開発も短期的な成果に重点が向いたこと、小じんまりして技術会社に相応しくないことから再び横割組織に戻った
    • [7]昭和三二、三年頃までは売手市場で受注を選択できたがその後買手市場に変わり、部門間のコンフリクト、とくに営業・製造技術の間にはいつもごたごたが絶えなかった。三七・八年の不況は深刻で会社の業績も振わず、加えて組合の賃金要求も激しさを増してきた
    • [8]昭和39年後半から40年初めにかけて全面的な検討が必要との結論が出され、数人のチームが社内の実情を調査分析しアメリカでの実際も現地で勉強したうえで対策案を作成。二四部、七三課、一三四係あった組織が約二〇の機能単位にまとめられた
    • [9]昭和39年後半から40年初めにかけて全面的な検討が必要との結論が出され、数人のチームが社内の実情を調査分析しアメリカでの実際も現地で勉強したうえで対策案を作成。二四部、七三課、一三四係あった組織が約二〇の機能単位にまとめられた
    • [10]部・課長の名称を廃し「担当」の名称を用いた。担当には従来の係長クラスから取締役クラスまでが含まれ、機能即権限の考え方で当該機能部門の担当が最高責任者であり権限を有する
    • [11]稟議件数は大巾に減少したが、各部門間の通知、報告は件数が激増している。今では一〇〇億円を軽く越している事実、然もこれを従来と同じ人員でこなしている

1965年〜DDCの開発と二つの労働組合の併存

国産のプロセス用電算機第1号となるHOCシリーズと、日本初のDDCシステムは、いずれも北辰電機の開発による。

  • 横河電機「100周年記念誌 時代を超えて」Column「北辰電機製作所の軌跡」49頁
    • [12]北辰電機製作所は国産プロセス用電算機第1号「HOC」シリーズ、日本初のDDCシステムを開発した

1972年3月以降、社内には総評全国金属労働組合東京地方本部北辰電機支部と、全国金属産業労働組合同盟に加盟する北辰電機労働組合の二つが併存し、1978年時点の組合員数は前者が約44名、後者が約1,850名にのぼった。1974年12月24日の衆議院法務委員会で取り上げられた同社の規模は、資本金30億円、従業員約2,300名だった。支部側の申し立てを受けて、東京都地方労働委員会は1976年12月7日に一部救済を命じ、考課点の是正と夏季賞与の差額支払、11名を1971年6月にさかのぼる昇格、10日間のポスト・ノーティス掲示を主文に掲げた。会社は命令の取り消しを求めて提訴し、1981年10月22日、東京地方裁判所は1名を1971年6月にさかのぼって主事補に昇格させ差額を支払う部分を除き、命令を取り消した。

  • 衆議院 第84回国会 答弁第26号(1978年4月18日受領)
    • [13]昭和47年3月以降、総評全国金属労働組合東京地方本部北辰電機支部(現在組合員数約44名)と全国金属産業労働組合同盟加盟の北辰電機労働組合(現在組合員数約1,850名)との二組合が併存することとなった
    • [14]1974年12月24日の衆議院法務委員会で青柳盛雄議員が「資本金三十億円」「従業員は約二千三百名」と発言
  • 厚生労働省 労働委員会命令データベース 東京都地方労働委員会 昭和47年(不)第42号(1976年12月7日命令)
    • [15]東京都地方労働委員会 昭和47年(不)第42号、1976年12月7日命令、一部救済。申立人は総評全国金属労働組合ほか。主文は考課点の是正・夏季賞与差額支払、11名を1971年6月に遡及昇格、差別禁止、ポスト・ノーティス10日間掲示など
  • 厚生労働省 労働委員会関係裁判例 東京地方裁判所 昭和52年(行ウ)第6号(1981年10月22日判決)
    • [16]東京地方裁判所 昭和52年(行ウ)第6号、1981年10月22日判決。原告は株式会社北辰電機製作所、被告は東京都地方労働委員会。命令主文第2項のうち1名を1971年6月に遡って主事補に昇格させ差額を支払う部分を除き、命令を取り消した
参考文献[12]-[16]

出典・参考

6件
出典・参考
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「北辰電機製作所」
  • 厚生労働省 労働委員会命令データベース 東京都地方労働委員会 昭和47年(不)第42号(1976年12月7日命令)
  • 衆議院 第84回国会 答弁第26号(1978年4月18日受領)
  • 厚生労働省 労働委員会関係裁判例 東京地方裁判所 昭和52年(行ウ)第6号(1981年10月22日判決)
  • 経営 1968年「北辰電機製作所における部課制の廃止と機能別組織の実際」(千葉正皓)
  • 横河電機「100周年記念誌 時代を超えて」Column「北辰電機製作所の軌跡」49頁

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