第1章 年〜年

飯野海運:飯野商会の発足と外航タンカー富士山丸

1899年〜石炭販売と人夫供給で創業した飯野商会と、資本金100万円の飯野商事

飯野寅吉氏は1899年7月、京都府加佐郡余部村に飯野商会を設け、石炭の販売と人夫の供給を始めた。創業時の主な業務は、曳かれる艀による石炭の運送と港湾荷役だった。神戸と門司で石炭商を営んできた飯野寅吉氏は、日清戦争後の反動期に入って事業の先行きを警戒した。舞鶴では1897年1月から軍港の建設工事が進み、軍艦と商船の出入りに伴う石炭需要の増加が見込まれた。1901年10月に舞鶴鎮守府が開庁し、1902年1月には鎮守府への石炭の納入と人夫の供給を請け負う契約を初めて結んだ。1907年頃には艀と倉庫、石炭の運搬具を揃え、舞鶴で最大の港運業者になった。海軍の軍港建設という一つの需要に事業の起点を置いた創業だったとみられる。

  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [1]飯野寅吉は神戸・門司で石炭商。1897年の反動期に先行きを警戒し、軍港建設中で石炭需要増が見込まれた舞鶴へ。1899年7月余部村に石炭販売・人夫供給の飯野商会を設立。1900年鎮守府建設部の入札で落札せず。1901年10月鎮守府開庁
    • [3]飯野寅吉は神戸・門司で石炭商。1897年の反動期に先行きを警戒し、軍港建設中で石炭需要増が見込まれた舞鶴へ。1899年7月余部村に石炭販売・人夫供給の飯野商会を設立。1900年鎮守府建設部の入札で落札せず。1901年10月鎮守府開庁
    • [4]飯野寅吉は神戸・門司で石炭商。1897年の反動期に先行きを警戒し、軍港建設中で石炭需要増が見込まれた舞鶴へ。1899年7月余部村に石炭販売・人夫供給の飯野商会を設立。1900年鎮守府建設部の入札で落札せず。1901年10月鎮守府開庁
  • 会社銀行八十年史(1955年)「飯野海運」
    • [2]飯野商会は当初、被曳船による石炭運送と港湾荷役を業務とした
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [5]1899年7月舞鶴に飯野商会を創立。1902年1月舞鶴海軍鎮守府と石炭納入・人夫供給の請負契約。1907年頃はしけ・倉庫・運搬具を整え舞鶴最大の港運業者に
    • [6]1899年7月舞鶴に飯野商会を創立。1902年1月舞鶴海軍鎮守府と石炭納入・人夫供給の請負契約。1907年頃はしけ・倉庫・運搬具を整え舞鶴最大の港運業者に

飯野商会は1914年4月、徳山と呉に支店を開設し、舞鶴の外へ事業を広げた。日露戦争後の建艦競争に応じ、海軍は1912年から7年にわたる総額約35000万円の軍備拡張予算を組んだ。呉と徳山で艀を多く抱えた港運業者の永井幾太郎氏は、この頃に徳山の事業から撤退した。後継の候補として、舞鶴鎮守府長官の坂本一氏と実弟の武市常喜氏が飯野商会の名を呉鎮守府に挙げた。飯野商会は1914年8月に入札で請負を得て、9月から徳山海軍煉炭製造所の構内運搬、煉炭の呉海軍工廠への運送、人夫供給を始めた。呉では同じ時期に設けた支店が、呉鎮守府と艦船への納炭と運搬を担った。舞鶴で鎮守府から得た信用が、海軍の人脈を通じて別の軍港の仕事を呼び込んだと推察される。

  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [7]1914年4月徳山に支店を開設し徳山海軍煉炭製造所の運搬・人夫供給を請負。同月呉に支店を開き呉海軍鎮守府と艦船への納炭・運搬を開始
    • [12]1914年4月徳山に支店を開設し徳山海軍煉炭製造所の運搬・人夫供給を請負。同月呉に支店を開き呉海軍鎮守府と艦船への納炭・運搬を開始
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [8]海軍は1912年から7年間の軍備拡張予算約35000万円を計上。永井幾太郎が徳山から撤退し、舞鶴鎮守府長官坂本一と実弟武市常喜が後継として飯野商会を推薦。1914年8月落札、9月から煉炭製造所の構内運搬・煉炭の呉工廠への運送・人夫供給
    • [9]海軍は1912年から7年間の軍備拡張予算約35000万円を計上。永井幾太郎が徳山から撤退し、舞鶴鎮守府長官坂本一と実弟武市常喜が後継として飯野商会を推薦。1914年8月落札、9月から煉炭製造所の構内運搬・煉炭の呉工廠への運送・人夫供給
    • [10]海軍は1912年から7年間の軍備拡張予算約35000万円を計上。永井幾太郎が徳山から撤退し、舞鶴鎮守府長官坂本一と実弟武市常喜が後継として飯野商会を推薦。1914年8月落札、9月から煉炭製造所の構内運搬・煉炭の呉工廠への運送・人夫供給
    • [11]海軍は1912年から7年間の軍備拡張予算約35000万円を計上。永井幾太郎が徳山から撤退し、舞鶴鎮守府長官坂本一と実弟武市常喜が後継として飯野商会を推薦。1914年8月落札、9月から煉炭製造所の構内運搬・煉炭の呉工廠への運送・人夫供給

飯野寅吉氏は1918年12月27日、舞鶴の余部町で資本金100万円の飯野商事株式会社を設立し、個人商店の事業を移した。株式会社への改組を促したのは、海軍の軍備拡張に支えられた徳山と呉の事業の拡大である。港運業者の多くが「組」を名乗るなか、飯野寅吉氏は飯野商事という社名を選んだ。払込資本金は設立時の25万円から、1921年に50万円、1929年に100万円への増額。同じ12月には若松に出張所を開設して呉への石炭の輸送を担い、南洋群島のパラオにも出張所を設けた。設立時の拠点は呉・徳山の2支店と神戸・若松・舞鶴の3出張所で、事業は石炭運送1本に絞られていた。

  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [13]1918年12月27日資本金100万円で飯野商事株式会社を設立。同月若松出張所(呉へ石炭輸送)とパラオ出張所を開設
    • [18]1918年12月27日資本金100万円で飯野商事株式会社を設立。同月若松出張所(呉へ石炭輸送)とパラオ出張所を開設
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [14]徳山・呉の事業が軍拡景気で充実し、企業の株式会社化の流れに応じて1918年12月27日余部町に飯野商事を設立。大戦中の企業新設は海運業が首位。港運業者の多くが「組」を名乗る中で飯野商事と命名。払込資本金は25万円→1921年50万円→1929年100万円
    • [15]徳山・呉の事業が軍拡景気で充実し、企業の株式会社化の流れに応じて1918年12月27日余部町に飯野商事を設立。大戦中の企業新設は海運業が首位。港運業者の多くが「組」を名乗る中で飯野商事と命名。払込資本金は25万円→1921年50万円→1929年100万円
    • [16]徳山・呉の事業が軍拡景気で充実し、企業の株式会社化の流れに応じて1918年12月27日余部町に飯野商事を設立。大戦中の企業新設は海運業が首位。港運業者の多くが「組」を名乗る中で飯野商事と命名。払込資本金は25万円→1921年50万円→1929年100万円
    • [17]徳山・呉の事業が軍拡景気で充実し、企業の株式会社化の流れに応じて1918年12月27日余部町に飯野商事を設立。大戦中の企業新設は海運業が首位。港運業者の多くが「組」を名乗る中で飯野商事と命名。払込資本金は25万円→1921年50万円→1929年100万円
  • 会社銀行八十年史(1955年)「飯野海運」
    • [19]1918年12月資本金100万円の飯野商事を設立し、呉・徳山に支店、神戸・若松・舞鶴に出張所を置いて石炭運送専業の機構を確立
参考文献[1]-[19]
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [1]飯野寅吉は神戸・門司で石炭商。1897年の反動期に先行きを警戒し、軍港建設中で石炭需要増が見込まれた舞鶴へ。1899年7月余部村に石炭販売・人夫供給の飯野商会を設立。1900年鎮守府建設部の入札で落札せず。1901年10月鎮守府開庁
    • [3]飯野寅吉は神戸・門司で石炭商。1897年の反動期に先行きを警戒し、軍港建設中で石炭需要増が見込まれた舞鶴へ。1899年7月余部村に石炭販売・人夫供給の飯野商会を設立。1900年鎮守府建設部の入札で落札せず。1901年10月鎮守府開庁
    • [4]飯野寅吉は神戸・門司で石炭商。1897年の反動期に先行きを警戒し、軍港建設中で石炭需要増が見込まれた舞鶴へ。1899年7月余部村に石炭販売・人夫供給の飯野商会を設立。1900年鎮守府建設部の入札で落札せず。1901年10月鎮守府開庁
    • [8]海軍は1912年から7年間の軍備拡張予算約35000万円を計上。永井幾太郎が徳山から撤退し、舞鶴鎮守府長官坂本一と実弟武市常喜が後継として飯野商会を推薦。1914年8月落札、9月から煉炭製造所の構内運搬・煉炭の呉工廠への運送・人夫供給
    • [9]海軍は1912年から7年間の軍備拡張予算約35000万円を計上。永井幾太郎が徳山から撤退し、舞鶴鎮守府長官坂本一と実弟武市常喜が後継として飯野商会を推薦。1914年8月落札、9月から煉炭製造所の構内運搬・煉炭の呉工廠への運送・人夫供給
    • [10]海軍は1912年から7年間の軍備拡張予算約35000万円を計上。永井幾太郎が徳山から撤退し、舞鶴鎮守府長官坂本一と実弟武市常喜が後継として飯野商会を推薦。1914年8月落札、9月から煉炭製造所の構内運搬・煉炭の呉工廠への運送・人夫供給
    • [11]海軍は1912年から7年間の軍備拡張予算約35000万円を計上。永井幾太郎が徳山から撤退し、舞鶴鎮守府長官坂本一と実弟武市常喜が後継として飯野商会を推薦。1914年8月落札、9月から煉炭製造所の構内運搬・煉炭の呉工廠への運送・人夫供給
    • [14]徳山・呉の事業が軍拡景気で充実し、企業の株式会社化の流れに応じて1918年12月27日余部町に飯野商事を設立。大戦中の企業新設は海運業が首位。港運業者の多くが「組」を名乗る中で飯野商事と命名。払込資本金は25万円→1921年50万円→1929年100万円
    • [15]徳山・呉の事業が軍拡景気で充実し、企業の株式会社化の流れに応じて1918年12月27日余部町に飯野商事を設立。大戦中の企業新設は海運業が首位。港運業者の多くが「組」を名乗る中で飯野商事と命名。払込資本金は25万円→1921年50万円→1929年100万円
    • [16]徳山・呉の事業が軍拡景気で充実し、企業の株式会社化の流れに応じて1918年12月27日余部町に飯野商事を設立。大戦中の企業新設は海運業が首位。港運業者の多くが「組」を名乗る中で飯野商事と命名。払込資本金は25万円→1921年50万円→1929年100万円
    • [17]徳山・呉の事業が軍拡景気で充実し、企業の株式会社化の流れに応じて1918年12月27日余部町に飯野商事を設立。大戦中の企業新設は海運業が首位。港運業者の多くが「組」を名乗る中で飯野商事と命名。払込資本金は25万円→1921年50万円→1929年100万円
  • 会社銀行八十年史(1955年)「飯野海運」
    • [2]飯野商会は当初、被曳船による石炭運送と港湾荷役を業務とした
    • [19]1918年12月資本金100万円の飯野商事を設立し、呉・徳山に支店、神戸・若松・舞鶴に出張所を置いて石炭運送専業の機構を確立
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [5]1899年7月舞鶴に飯野商会を創立。1902年1月舞鶴海軍鎮守府と石炭納入・人夫供給の請負契約。1907年頃はしけ・倉庫・運搬具を整え舞鶴最大の港運業者に
    • [6]1899年7月舞鶴に飯野商会を創立。1902年1月舞鶴海軍鎮守府と石炭納入・人夫供給の請負契約。1907年頃はしけ・倉庫・運搬具を整え舞鶴最大の港運業者に
    • [7]1914年4月徳山に支店を開設し徳山海軍煉炭製造所の運搬・人夫供給を請負。同月呉に支店を開き呉海軍鎮守府と艦船への納炭・運搬を開始
    • [12]1914年4月徳山に支店を開設し徳山海軍煉炭製造所の運搬・人夫供給を請負。同月呉に支店を開き呉海軍鎮守府と艦船への納炭・運搬を開始
    • [13]1918年12月27日資本金100万円で飯野商事株式会社を設立。同月若松出張所(呉へ石炭輸送)とパラオ出張所を開設
    • [18]1918年12月27日資本金100万円で飯野商事株式会社を設立。同月若松出張所(呉へ石炭輸送)とパラオ出張所を開設

1922年〜軍縮で減少した海軍の荷役と、資本金20万円で分社化した飯野汽船

1922年2月6日にワシントン海軍軍縮条約が調印され、海軍の八八艦隊建造計画は挫折した。舞鶴は軍港から要港に格下げとなり、海軍工廠は工作部に縮小されて、約8,000人の工廠従業員は5,000人まで減らされた。舞鶴海軍工廠への人夫供給は、1922年度の月平均1,500人から、1926年度には年間45人となった。呉では海軍が予算縮小を理由に、艀・港内荷役・人夫供給の契約単価の1割削減を飯野商事に通告した。社長の飯野寅吉氏は自ら呉で鎮守府長官に面会し、単価の引き下げを受け入れた。同年12月23日には、社員の減給と経費の緊縮を各支店支配人に通達で求めた。1925年10月には軍艦厳島の払下げを受け、呉の吉浦港で船体を解体した。海軍の発注に収益の大半を依存する事業構造の脆さが、軍縮で一度に顕在化したのだろう。

  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [20]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [21]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [22]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [23]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [24]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [25]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [26]1925年10月飯野商事は軍艦厳島の払下げを受け呉吉浦港で解体

飯野寅吉氏は1922年4月、資本金20万円で飯野汽船株式会社を設立し、汽船による海上輸送を飯野商事から切り分けた。瀬戸内で艀による石炭輸送を担ってきた飯野商事は、輸送量の増加に伴い木造汽船の用船に移った。汽船は艀に比べて航海日数が短く、安全で、積載量と荷役の能率でも有利だった。1920年2月に西郷丸を用船して西戸崎から呉へ石炭を運んだのが最初の汽船運航で、同年8月までに23航海・18,140トンを数えた。1921年に購入した六甲丸と新和歌丸を、飯野寅吉氏は海運業の独立を見据えて自己名義で保有し、新会社に引き渡した。飯野汽船は1925年6月、愛媛県の小大下島から大阪窯業向けの石灰石輸送を始め、海軍以外の荷主の貨物を運んだ。港運と海運を別会社に分けた判断は、後年の海運専業への布石になったと考えられる。

  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [27]1922年4月資本金20万円で飯野汽船株式会社を設立。1925年6月小大下島から大阪窯業向け石灰石輸送を開始
    • [33]1922年4月資本金20万円で飯野汽船株式会社を設立。1925年6月小大下島から大阪窯業向け石灰石輸送を開始
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [28]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円
    • [29]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円
    • [30]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円
    • [31]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円
    • [32]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円

海軍に代わる大口の荷として飯野商事が得たのは、鉄道省が機関車用に買い入れる石炭の納入と輸送である。鉄道省用炭は大正末期に年間約350万トンにのぼり、全国の石炭消費の14%を占めた。1924年5月に入社した俣野健輔氏が東京に事務所を構えてこの市場を開拓し、同年度に撫順炭2万トンの納入を得た。大会社が長年の地盤を持つ市場への参入を、俣野健輔氏は『私がそういう仕事にぶつかった時はちょうど不況のどん底でまことに容易ならぬ時代でした』と述べた。1927年には保転炭2万トンと貝島鉱業の購買炭35,000トンの輸送も得た。1928年からは九州積みの保転炭を糸崎・高松揚げで全量引き受け、省炭輸送は飯野商事の主要業務となった。1928年度以降の13年間、省炭輸送は毎年の総収入のうち17%以上、多い年には30%を稼ぎ出した。

  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [34]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [35]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [36]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [37]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [38]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [40]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [41]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [39]1928年4月飯野商事の鉄道省納炭輸送が本格化(糸崎港で省炭荷役)
参考文献[20]-[41]
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [20]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [21]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [22]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [23]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [24]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [25]1922年2月6日ワシントン軍縮条約調印で八八艦隊計画が挫折。舞鶴は要港に縮小、工廠従業員約8,000人→5,000人。舞鶴工廠への人夫供給は1922年度月平均1,500人→1926年度年間45人。呉海軍は契約単価1割削減を通告し飯野寅吉社長が受諾。1922年12月23日付で社員減給・経費緊縮を通達
    • [28]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円
    • [29]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円
    • [30]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円
    • [31]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円
    • [32]汽船輸送ははしけより航海日数・安全・積載量・荷役能率で有利。1920年2月西郷丸を用船し西戸崎→呉の石炭輸送、同年8月まで23航海18,140トン。1921年六甲丸・新和歌丸を購入、海運業独立を考え寅吉個人名義に。1922年4月8日飯野汽船創立発起人会、資本総額20万円
    • [34]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [35]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [36]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [37]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [38]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [40]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
    • [41]鉄道省用炭は大正末期年約350万トンで全国消費の14%。俣野健輔が1924年5月入社し東京事務所で開拓、1924年度撫順炭2万トン納入、1926年まで同量。1927年保転炭2万トン・貝島鉱業購買炭35,000トン輸送。1928年以降保転炭の九州積み糸崎・高松揚げ全量。省炭収入は1928〜1940年度に総収入の17〜30%
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [26]1925年10月飯野商事は軍艦厳島の払下げを受け呉吉浦港で解体
    • [27]1922年4月資本金20万円で飯野汽船株式会社を設立。1925年6月小大下島から大阪窯業向け石灰石輸送を開始
    • [33]1922年4月資本金20万円で飯野汽船株式会社を設立。1925年6月小大下島から大阪窯業向け石灰石輸送を開始
    • [39]1928年4月飯野商事の鉄道省納炭輸送が本格化(糸崎港で省炭荷役)

1929年〜第一鷹取丸で始めたタンカーと、13,586重量トンの富士山丸

飯野商事が最初のタンカー第一鷹取丸(1,266重量トン)を完成させ、海軍の石油輸送に向けて徳山へ出航させたのは1929年2月8日である。海軍が用船していた寶鈴丸が台湾の糖蜜輸送に移ったため、徳山海軍燃料廠は1928年に飯野商事へ代船の建造を依頼した。軍縮以来の業績不振と1927年の金融恐慌後の不況で、建造資金の調達は難しかった。播磨造船所の見積もり18万円を下げるため、飯野商事は工作部を設けて大阪の尻無川岸で自ら建造し、解体船の機関と沈没船のボイラーを転用した。結果は資材と工事費の合計約20万円で、見積もりから約2万円の超過。同じ1929年2月には海軍特務艦野間の払下げを受けてタンカーに改造し、日本丸と名付けた。日本丸の就航で、飯野商事は海外航路に参入した。

  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [42]1928年10月第一鷹取丸の建造に着手、1929年2月竣工。1929年2月海軍特務艦野間の払下げを受けタンカーに改造し日本丸と命名
    • [48]1928年10月第一鷹取丸の建造に着手、1929年2月竣工。1929年2月海軍特務艦野間の払下げを受けタンカーに改造し日本丸と命名
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [43]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
    • [44]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
    • [45]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
    • [46]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
    • [47]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
  • 会社銀行八十年史(1955年)「飯野海運」
    • [49]1929年特務艦野間の払下げを受け油槽船日本丸に改造し海外航路に進出

飯野商事は1931年8月27日、播磨造船所で13,586重量トンのタンカー富士山丸を竣工させ、海軍の重油輸送に配船した。建造の前提は、海軍省軍需局長が1929年6月にタンカー業者8社へ示した優秀タンカーの保護政策である。載貨1万トン以上・満載速力14ノット以上の船に、海軍の重油を優先して運ばせる内容だった。船価2,155千円のうち110万円は日本興業銀行から借り入れ、政府の造船資金貸付補給制度による初の融資を受けた。融資の審査では、1928年以来年間50万円内外にのぼる省炭輸送の収入が返済能力の裏付けとなった。富士山丸は7,200馬力のドイツMAN社製ディーゼル機関1基を備え、公式試運転で18.8ノットを記録した。就航後は日米間の石油輸送に従事し、太平洋戦争前までの日本の外航タンカーの標準型となった。

  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [50]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [52]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [53]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [54]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [55]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [56]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [51]飯野商事が世界的優秀タンカー富士山丸(第一代)を播磨造船所で建造
  • 会社銀行八十年史(1955年)「飯野海運」
    • [57]富士山丸は日米間の石油輸送に従事し、太平洋戦争前まで外航油槽船の標準型となった

飯野汽船は1931年11月、朝鮮の長項港から積み出す朝鮮米の内地輸送を一手に引き受けた。忠清南道の穀物商組合連合会は、鮮航同盟会から長項積みの付帯費を1トン1円30銭に引き上げると告げられ、80銭を求める交渉も拒絶された。連合会と京南鉄道は同盟会に加盟しない船の誘致を決め、大阪で別に組織された大穀会を通じて飯野汽船に輸送を申し入れた。関係者は1931年9月21日に大阪で覚書を交わし、運賃を長項から阪神まで100石44円50銭、付帯費を1トン80銭と定めた。同盟会の群山から阪神までの運賃70円、付帯費1円20銭を大きく下回る条件である。第1船の彦島丸は1931年11月1日に長項へ入港した。海運同盟の外側で、海軍に依存しない民間の荷を得た事例と言えよう。

  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [58]1931年11月飯野汽船は朝鮮長項積出しの朝鮮米内地輸送を一手に引き受けた
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [59]忠清南道穀物商組合連合会は鮮航同盟会から長項積み付帯費を1トン1円30銭に引き上げると申し出られ、80銭を求めて拒絶された。京南鉄道・道当局・連合会は盟外船誘致を決め、大穀会を通じて飯野汽船に申し入れ。1931年9月21日大阪で覚書、運賃100石44円50銭(長項/阪神)・付帯費1トン80銭。同盟会は群山/阪神70円・付帯費1円20銭
    • [60]忠清南道穀物商組合連合会は鮮航同盟会から長項積み付帯費を1トン1円30銭に引き上げると申し出られ、80銭を求めて拒絶された。京南鉄道・道当局・連合会は盟外船誘致を決め、大穀会を通じて飯野汽船に申し入れ。1931年9月21日大阪で覚書、運賃100石44円50銭(長項/阪神)・付帯費1トン80銭。同盟会は群山/阪神70円・付帯費1円20銭
    • [61]忠清南道穀物商組合連合会は鮮航同盟会から長項積み付帯費を1トン1円30銭に引き上げると申し出られ、80銭を求めて拒絶された。京南鉄道・道当局・連合会は盟外船誘致を決め、大穀会を通じて飯野汽船に申し入れ。1931年9月21日大阪で覚書、運賃100石44円50銭(長項/阪神)・付帯費1トン80銭。同盟会は群山/阪神70円・付帯費1円20銭
    • [62]忠清南道穀物商組合連合会は鮮航同盟会から長項積み付帯費を1トン1円30銭に引き上げると申し出られ、80銭を求めて拒絶された。京南鉄道・道当局・連合会は盟外船誘致を決め、大穀会を通じて飯野汽船に申し入れ。1931年9月21日大阪で覚書、運賃100石44円50銭(長項/阪神)・付帯費1トン80銭。同盟会は群山/阪神70円・付帯費1円20銭
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)年表
    • [63]1931年11月1日朝鮮米輸送第1船彦島丸が長項に入港
参考文献[42]-[63]
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
    • [42]1928年10月第一鷹取丸の建造に着手、1929年2月竣工。1929年2月海軍特務艦野間の払下げを受けタンカーに改造し日本丸と命名
    • [48]1928年10月第一鷹取丸の建造に着手、1929年2月竣工。1929年2月海軍特務艦野間の払下げを受けタンカーに改造し日本丸と命名
    • [51]飯野商事が世界的優秀タンカー富士山丸(第一代)を播磨造船所で建造
    • [58]1931年11月飯野汽船は朝鮮長項積出しの朝鮮米内地輸送を一手に引き受けた
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
    • [43]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
    • [44]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
    • [45]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
    • [46]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
    • [47]第一鷹取丸(1,266重量トン)は海軍石油輸送が目的。寶鈴丸の台湾転配で徳山海軍燃料廠が代船建造を依頼、1928年6月計画具体化。軍縮と金融恐慌後の不況で資金調達難。播磨造船所見積18万円に対し工作部を設け尻無川岸で自社建造、解体船の機関・沈没船のボイラーを転用、総額約20万円で約2万円高。1929年2月8日徳山へ処女航海
    • [50]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [52]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [53]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [54]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [55]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [56]1929年6月海軍省軍需局長がタンカー業者8社に優秀タンカー保護政策(載貨1万トン以上・満載14ノット以上の船に重油を優先運搬)を提示。富士山丸は船価2,155千円、日本興業銀行から造船資金貸付補給制度の第1回融資110万円。省炭収入年50万円内外が返済能力の裏付け。1931年8月27日竣工、13,586重量トン、試運転18.8ノット、MAN製ディーゼル7,200馬力1基
    • [59]忠清南道穀物商組合連合会は鮮航同盟会から長項積み付帯費を1トン1円30銭に引き上げると申し出られ、80銭を求めて拒絶された。京南鉄道・道当局・連合会は盟外船誘致を決め、大穀会を通じて飯野汽船に申し入れ。1931年9月21日大阪で覚書、運賃100石44円50銭(長項/阪神)・付帯費1トン80銭。同盟会は群山/阪神70円・付帯費1円20銭
    • [60]忠清南道穀物商組合連合会は鮮航同盟会から長項積み付帯費を1トン1円30銭に引き上げると申し出られ、80銭を求めて拒絶された。京南鉄道・道当局・連合会は盟外船誘致を決め、大穀会を通じて飯野汽船に申し入れ。1931年9月21日大阪で覚書、運賃100石44円50銭(長項/阪神)・付帯費1トン80銭。同盟会は群山/阪神70円・付帯費1円20銭
    • [61]忠清南道穀物商組合連合会は鮮航同盟会から長項積み付帯費を1トン1円30銭に引き上げると申し出られ、80銭を求めて拒絶された。京南鉄道・道当局・連合会は盟外船誘致を決め、大穀会を通じて飯野汽船に申し入れ。1931年9月21日大阪で覚書、運賃100石44円50銭(長項/阪神)・付帯費1トン80銭。同盟会は群山/阪神70円・付帯費1円20銭
    • [62]忠清南道穀物商組合連合会は鮮航同盟会から長項積み付帯費を1トン1円30銭に引き上げると申し出られ、80銭を求めて拒絶された。京南鉄道・道当局・連合会は盟外船誘致を決め、大穀会を通じて飯野汽船に申し入れ。1931年9月21日大阪で覚書、運賃100石44円50銭(長項/阪神)・付帯費1トン80銭。同盟会は群山/阪神70円・付帯費1円20銭
  • 会社銀行八十年史(1955年)「飯野海運」
    • [49]1929年特務艦野間の払下げを受け油槽船日本丸に改造し海外航路に進出
    • [57]富士山丸は日米間の石油輸送に従事し、太平洋戦争前まで外航油槽船の標準型となった
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)年表
    • [63]1931年11月1日朝鮮米輸送第1船彦島丸が長項に入港

出典・参考

4件
出典・参考
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)記録
  • 刊行社史『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)年表
  • 会社銀行八十年史(1955年)「飯野海運」

免責事項およびポリシー