丸三証券:東京株式取引所の定期仲買人としての開業
1909年〜兜町の有力者3人が1万円ずつ出した丸三商店と、開店直後の上げ相場
丸三証券の起点は、1909年12月に東京・兜町で設けられた多田岩吉商店である。川北商店の川北徳三郎氏、金万の南波礼吉氏、山大商店の高井治兵衛氏の3人が各1万円を出資し、3万円という資本金にちなんで屋号を「丸三」と定めた。出資を取りまとめたのは川北徳三郎氏で、自分の店で働いていた吉田政四郎氏のために、親友の有力業者2人を誘った。店主には川北徳三郎氏の義兄である多田岩吉氏が立って経理を受け持ち、吉田政四郎氏とともに店を切り盛りした。1910年時点の取引員は定期仲買人70軒と直取引仲買人70軒で、多田岩吉商店は清算取引を扱う格上の定期仲買人にあたる。会社銀行八十年史も、資本金3万円で多田岩吉氏・吉田政四郎氏らが創立した店を丸三証券の始まりに置いている。
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- [1]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- [2]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- [3]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- [4]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- [5]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [6]創業は明治43年、長尾秀一・多田岩吉・吉田政四郎の3人が資本金3万円でマル三多田商店を創立
多田岩吉商店は1910年1月の大発会から営業を始め、のちの丸三証券会長である長尾秀一氏も25歳で場立ちから働き始めた。会社銀行八十年史は、この1910年を創業の年として長尾秀一氏を創立者の1人に数えている。開業は日糖事件などで冷え込んだ相場が、2度の利下げを受けて戻り始めた時期と重なり、新東株は1月の113円から6月には185円まで上げた。沈滞期に準備して開店したため客は全員が新規で、損を抱えた古い建玉がなく、上げ相場で勧めた銘柄が当たって客が定着した。出来高順位では1911年下半期に7等、1912年上半期に6等、同年下半期に4等へ上がった。古い客の因果玉を背負わない新店であったことが、開店直後の競争優位として働いたとみられる。
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- [7]1910年1月の大発会から多田岩吉商店が開業。長尾秀一(当時25歳)が入店し場立ちから始める
- [9]沈滞期に準備して開店したので顧客は全て新しく因果玉がなく、上げ潮で勧めれば当たった。新東は明治43年発会113円から6月185円
- [10]沈滞期に準備して開店したので顧客は全て新しく因果玉がなく、上げ潮で勧めれば当たった。新東は明治43年発会113円から6月185円
- [11]出来高順位は明治44年下半期7等、45年上半期6等、同下半期4等(開店2〜3年でベスト4)
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [8]明治43年創業、長尾秀一が多田岩吉・吉田政四郎とともに創立したと記載
参考文献[1]-[11]
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- [1]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- [2]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- [3]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- [4]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- [5]1909年12月、川北徳三郎・南波礼吉・高井治兵衛の3人が1万円ずつ出資し資本金3万円で多田岩吉商店(屋号 丸三)を設立。川北の義兄多田岩吉が代表・経理、川北商店出身の吉田政四郎が経営。定期仲買人
- [7]1910年1月の大発会から多田岩吉商店が開業。長尾秀一(当時25歳)が入店し場立ちから始める
- [9]沈滞期に準備して開店したので顧客は全て新しく因果玉がなく、上げ潮で勧めれば当たった。新東は明治43年発会113円から6月185円
- [10]沈滞期に準備して開店したので顧客は全て新しく因果玉がなく、上げ潮で勧めれば当たった。新東は明治43年発会113円から6月185円
- [11]出来高順位は明治44年下半期7等、45年上半期6等、同下半期4等(開店2〜3年でベスト4)
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [6]創業は明治43年、長尾秀一・多田岩吉・吉田政四郎の3人が資本金3万円でマル三多田商店を創立
- [8]明治43年創業、長尾秀一が多田岩吉・吉田政四郎とともに創立したと記載
1920年〜吉田政四郎商店の震災被災と、長尾秀一氏が継いだ残る資産5万円の店
店主の多田岩吉氏は1920年8月に死去し、共同経営者の吉田政四郎氏が跡を継いで店名を吉田政四郎商店に改めた。長尾秀一氏は吉田政四郎氏の親戚の娘と結婚して一族に加わり、吉田政四郎商店の支配人を務めた。戦後恐慌の後の戻り相場では石油株が上げを主導し、新潟筋の客を多く抱えた店は石油株の注文で出来高を増やした。1921年上半期には多額売買の順位で13等に入ったが、それ以後は上位20店に名前が見えない。会社銀行八十年史も、多田岩吉氏と吉田政四郎氏を創業時から経営にあたった2人として挙げている。創業から経営を担ってきた吉田政四郎氏が継いだことで、新潟筋などの客は店主の交代後も離れなかったと思われる。
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- [12]大正9年8月に店主多田岩吉が死去、共同経営者吉田政四郎が継ぎ吉田政四郎商店に。長尾秀一は吉田の親戚の娘と結婚し支配人。新潟筋の石油株注文で出来高増、大正10年上半期13等、以後20傑外
- [13]大正9年8月に店主多田岩吉が死去、共同経営者吉田政四郎が継ぎ吉田政四郎商店に。長尾秀一は吉田の親戚の娘と結婚し支配人。新潟筋の石油株注文で出来高増、大正10年上半期13等、以後20傑外
- [14]大正9年8月に店主多田岩吉が死去、共同経営者吉田政四郎が継ぎ吉田政四郎商店に。長尾秀一は吉田の親戚の娘と結婚し支配人。新潟筋の石油株注文で出来高増、大正10年上半期13等、以後20傑外
- [15]大正9年8月に店主多田岩吉が死去、共同経営者吉田政四郎が継ぎ吉田政四郎商店に。長尾秀一は吉田の親戚の娘と結婚し支配人。新潟筋の石油株注文で出来高増、大正10年上半期13等、以後20傑外
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [16]創業者として長尾秀一・多田岩吉・吉田政四郎の3人を挙げる
1923年9月1日の関東大震災で東京株式取引所が類焼し、木造の多い仲買店とともに吉田政四郎商店も店舗を失った。建て直しの間の営業場所は、日新海運という会社の土間。取引所の取引は10月から仮市場で順次再開され、1924年1月には元の小網町の場所に本建築の店舗が完成した。吉田政四郎氏は一般取引員組合の委員を続け、1924年5月に設立された短期取引員組合でも委員に選ばれた。公職で多忙な吉田政四郎氏に代わり、支配人の長尾秀一氏が店の経営の多くを取り仕切った。小網町の店舗の地は、1955年時点の丸三証券の本社所在地と同じである。店主が業界の公務に時間を割き、日々の営業を支配人に任せた体制が、のちの継承の下地になったと推察される。
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- [17]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- [18]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- [19]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- [20]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- [21]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [22]1955年時点の本社は東京都中央区日本橋小網2の12
吉田政四郎氏は1925年5月に脳溢血で急死した。吉田政四郎商店はすでに3人の出資者へ負債を返した個人経営で、店主の死によって解散するのが当然の状況だった。長尾秀一氏の調べでは、甘く見積もっても残る資産は5万円ほどで、経営を続けるには足りない額である。それでも店の信用があり、客から預かった株もあったため、長尾秀一氏は経営を続けながら資金を整えると決めた。継承の判断を後押ししたのは、有力業者3名による万一の際の後援の誓約。店は主務省の認可を得て1925年8月に長尾秀一氏の名義で営業を引き継ぎ、長尾秀一商店となった。継承と長尾商店への改称を1926年とする記録もある。
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- [23]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [24]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [25]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [26]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [27]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [28]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [29]大正15年に長尾秀一が同商店を継承し長尾商店と改称
参考文献[12]-[29]
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- [12]大正9年8月に店主多田岩吉が死去、共同経営者吉田政四郎が継ぎ吉田政四郎商店に。長尾秀一は吉田の親戚の娘と結婚し支配人。新潟筋の石油株注文で出来高増、大正10年上半期13等、以後20傑外
- [13]大正9年8月に店主多田岩吉が死去、共同経営者吉田政四郎が継ぎ吉田政四郎商店に。長尾秀一は吉田の親戚の娘と結婚し支配人。新潟筋の石油株注文で出来高増、大正10年上半期13等、以後20傑外
- [14]大正9年8月に店主多田岩吉が死去、共同経営者吉田政四郎が継ぎ吉田政四郎商店に。長尾秀一は吉田の親戚の娘と結婚し支配人。新潟筋の石油株注文で出来高増、大正10年上半期13等、以後20傑外
- [15]大正9年8月に店主多田岩吉が死去、共同経営者吉田政四郎が継ぎ吉田政四郎商店に。長尾秀一は吉田の親戚の娘と結婚し支配人。新潟筋の石油株注文で出来高増、大正10年上半期13等、以後20傑外
- [17]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- [18]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- [19]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- [20]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- [21]大正12年9月の震災で取引所・吉田政四郎商店の店舗が焼失。日新海運の土間を借りて営業、大正13年1月に小網町の元の場所に本建築完成。吉田は一般取引員組合・短期取引員組合の委員で多忙、長尾秀一が支配人として店を取り仕切る
- [23]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [24]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [25]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [26]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [27]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- [28]大正14年5月に吉田政四郎が急死。出資者への負債は返済済みの個人経営で解散が当然だったが、残る資産は5万円ほど、店の信用と顧客の預かり株があり、有力業者3名の後援誓約を得て、長尾秀一名義で8月15日から営業継承(長尾秀一商店)
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [16]創業者として長尾秀一・多田岩吉・吉田政四郎の3人を挙げる
- [22]1955年時点の本社は東京都中央区日本橋小網2の12
- [29]大正15年に長尾秀一が同商店を継承し長尾商店と改称
1927年〜証拠金を必ず取る長尾秀一商店と、個人取引員を消した日本証券取引所法
長尾秀一商店は、信用のある客にも証拠金を納めさせなければ売買に応じなかった。当時は信用客から証拠金を取らない店が多かったが、長尾秀一氏は証拠金を納めない客は危険だという堅実主義を掲げ、店員にこの規律を徹底させた。叱責の対象は、店の奥で将棋を指して客回りに出ない外務員である。1927年3月に始まった金融恐慌では銀行の休業が全国に広がり、相場は高低の幅を大きくした。短期取引に重点を移したことで、1926年下半期に短期取引の部の多額売買額で14等、1927年上半期に15等となった。長尾秀一氏は継承後に資本金を100万円まで増額した。取引で万事が緩かった仲買店のなかで、長尾秀一商店は固い店との信用を築いた。
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- [30]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [31]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [32]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [33]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [34]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [36]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [35]継承後、資本金を100万円に増額
1932年から1937年の軍需インフレ相場でも、長尾秀一商店は証拠金を確実に取り、店主が自ら相場を張らない経営を通した。差別化要因は地方と外地の客筋で、台湾の大口客は砂糖株の注文をほぼ長尾秀一商店だけに出し、業界では「丸三の砂糖株」の名が通った。台湾との電話は1分2円かかったが、採算に合うほどの注文が入り、樺太とも電話で取引した。内地でも長野・甲府・横浜・新潟の長岡や柏崎から注文を受け、横浜と甲府の業者には販売経費を店が負担する代わりに手数料の戻しを抑えた。戦後の丸三証券も、新潟県の高田市に支店、糸魚川に出張所を置いている。堅実経営で得た信用が、遠方の客から注文を一手に預かる差別化要因になったのだろう。
- 丸三証券六十年史(1970)コマ51-100
- [37]昭和7〜12年の軍需インフレ期も証拠金を取る堅実経営。台湾の大口客が砂糖株の注文をほぼ長尾秀一商店に出し「丸三の砂糖株」と呼ばれた。台湾との電話1分2円、樺太とも電話取引。長野・甲府・横浜・長岡・柏崎から注文、横浜・甲府業者には経費負担・戻し手数料を抑える能率主義
- [38]昭和7〜12年の軍需インフレ期も証拠金を取る堅実経営。台湾の大口客が砂糖株の注文をほぼ長尾秀一商店に出し「丸三の砂糖株」と呼ばれた。台湾との電話1分2円、樺太とも電話取引。長野・甲府・横浜・長岡・柏崎から注文、横浜・甲府業者には経費負担・戻し手数料を抑える能率主義
- [39]昭和7〜12年の軍需インフレ期も証拠金を取る堅実経営。台湾の大口客が砂糖株の注文をほぼ長尾秀一商店に出し「丸三の砂糖株」と呼ばれた。台湾との電話1分2円、樺太とも電話取引。長野・甲府・横浜・長岡・柏崎から注文、横浜・甲府業者には経費負担・戻し手数料を抑える能率主義
- [40]昭和7〜12年の軍需インフレ期も証拠金を取る堅実経営。台湾の大口客が砂糖株の注文をほぼ長尾秀一商店に出し「丸三の砂糖株」と呼ばれた。台湾との電話1分2円、樺太とも電話取引。長野・甲府・横浜・長岡・柏崎から注文、横浜・甲府業者には経費負担・戻し手数料を抑える能率主義
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [41]戦後、高田市・秩父市に支店、大阪・糸魚川・川崎等に出張所・営業所を設置
1943年3月31日公布の日本証券取引所法は、取引員の新規免許を合併の場合に限った。同法は個人営業の取引員を認めず、営業中の個人取引員には3年の猶予期間を置いて法人へ切り替えるよう求めた。取引員は第一種から第三種に区分され、資本金の最低額は第一種が100万円、第二種と第三種が50万円である。同年10月19日には大蔵省が取引員整備実施要綱を公表し、全国の取引員441名を半数に整理する方針を示した。当時の東京の取引員は、第一種89、第二種21、第三種5の計115店。その約半数を減らす統合は、店主ごとに経営方針が異なるため容易に進まなかった。長尾秀一商店は1944年4月の企業整備で、資本金100万円の丸三証券となった。
- 丸三証券六十年史(1970)コマ51-100
- [42]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [43]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [44]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [45]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [46]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [47]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [48]昭和19年4月、企業整備に際し資本金100万円の丸三証券(株)に組織変更
参考文献[30]-[48]
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- [30]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [31]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [32]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [33]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [34]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- [36]長尾秀一商店は堅実主義で、信頼できる客でも証拠金を納めなければ取引させず、外務員に客回りを徹底させた。短期取引の多額売買額で大正15年下半期14等、昭和2年上半期15等。ルーズな仲買店の中で固い店の信用を築く
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券
- [35]継承後、資本金を100万円に増額
- [41]戦後、高田市・秩父市に支店、大阪・糸魚川・川崎等に出張所・営業所を設置
- [48]昭和19年4月、企業整備に際し資本金100万円の丸三証券(株)に組織変更
- 丸三証券六十年史(1970)コマ51-100
- [37]昭和7〜12年の軍需インフレ期も証拠金を取る堅実経営。台湾の大口客が砂糖株の注文をほぼ長尾秀一商店に出し「丸三の砂糖株」と呼ばれた。台湾との電話1分2円、樺太とも電話取引。長野・甲府・横浜・長岡・柏崎から注文、横浜・甲府業者には経費負担・戻し手数料を抑える能率主義
- [38]昭和7〜12年の軍需インフレ期も証拠金を取る堅実経営。台湾の大口客が砂糖株の注文をほぼ長尾秀一商店に出し「丸三の砂糖株」と呼ばれた。台湾との電話1分2円、樺太とも電話取引。長野・甲府・横浜・長岡・柏崎から注文、横浜・甲府業者には経費負担・戻し手数料を抑える能率主義
- [39]昭和7〜12年の軍需インフレ期も証拠金を取る堅実経営。台湾の大口客が砂糖株の注文をほぼ長尾秀一商店に出し「丸三の砂糖株」と呼ばれた。台湾との電話1分2円、樺太とも電話取引。長野・甲府・横浜・長岡・柏崎から注文、横浜・甲府業者には経費負担・戻し手数料を抑える能率主義
- [40]昭和7〜12年の軍需インフレ期も証拠金を取る堅実経営。台湾の大口客が砂糖株の注文をほぼ長尾秀一商店に出し「丸三の砂糖株」と呼ばれた。台湾との電話1分2円、樺太とも電話取引。長野・甲府・横浜・長岡・柏崎から注文、横浜・甲府業者には経費負担・戻し手数料を抑える能率主義
- [42]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [43]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [44]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [45]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [46]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
- [47]昭和18年3月31日日本証券取引所法公布。新規免許は合併の場合のみ、個人取引員は3年猶予で法人化、第一種資本金100万円・第二三種50万円。同年10月19日取引員整備実施要綱で441名を半減。東京は第一種89・第二種21・第三種5の115店
出典・参考
3件
- 丸三証券六十年史(1970)コマ1-50
- 丸三証券六十年史(1970)コマ51-100
- 会社銀行八十年史(1955)丸三証券