第1章 年〜年

大分銀行:大分銀行の設立

1892年〜大分町の名士が発起した資本金6万円の銀行と、初代頭取の渡邊雄次郎氏

大分銀行の発起人は1892年11月6日、西大分町の蓬来館で創業総会を催し、定款と創立委員を定めた。発起人には創立委員長の渡邊雄次郎氏をはじめ、後藤喜太郎氏、田吹玄珠氏、甲斐治平氏、渡邊芳一氏ら大分町の名士が名を連ねた。県庁の所在地として大分町は交通と商業の要になりつつあった一方、町内に本店を置く銀行は第二十三国立銀行だけだった。金融機関の不備が商工業の停滞を招いているとの見方も、設立を後押しした。発起人は11月18日に岩崎小二郎県知事へ銀行の設立を出願し、認可は12月27日に下りた。同じ12月に、資本金6万円の株式会社大分銀行の設立。国立銀行1行に資金の融通を委ねる状態では商人の求めに応じきれないとの危機感が、名士たちを私立銀行の設立へ向かわせたとみられる。

  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [1]1892年11月6日に渡邊雄次郎創立委員長のもと蓬来館で創業総会、発起人は渡邊雄次郎・後藤喜太郎・田吹玄珠・甲斐治平・渡邊芳一ら。町内本店の銀行は第二十三国立銀行のみ
    • [2]1892年11月6日に渡邊雄次郎創立委員長のもと蓬来館で創業総会、発起人は渡邊雄次郎・後藤喜太郎・田吹玄珠・甲斐治平・渡邊芳一ら。町内本店の銀行は第二十三国立銀行のみ
    • [3]1892年11月6日に渡邊雄次郎創立委員長のもと蓬来館で創業総会、発起人は渡邊雄次郎・後藤喜太郎・田吹玄珠・甲斐治平・渡邊芳一ら。町内本店の銀行は第二十三国立銀行のみ
  • 大分銀行七十年史(1964年)コマ1-50
    • [4]大分町は県庁所在地として交通・商業の中心となりつつあったが金融機関が十分でなく商工業は振るわなかった
  • 大分合同銀行五十年史(1943年)コマ1-50
    • [5]1892年11月18日に岩崎小二郎知事へ銀行設立を出願し12月27日付で認可
  • 大分銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1892年12月に株式会社大分銀行設立(資本金6万円)、1893年2月創業

1893年1月14日の開業総会で取締役が選ばれ、互選により渡邊雄次郎氏が初代頭取に就任した。取締役には渡邊芳一氏と甲斐治平氏、監査役には後藤喜太郎氏、小野吉彦氏、田吹玄珠氏が選ばれた。渡邊雄次郎氏は府内の資産家の番付で『士族方の横綱』と評され、新しい学問を修めた人物でもある。頭取に推されたのは数え35歳のときで、翌1894年春には改進党の領袖として衆議院選挙に出て、30票差で落選した。銀行は大分町荷揚町45番地に営業所を置き、2月1日に資本金6万円で営業を始めた。資産家としての信用と県政界での知名度を兼ね備えた人物を頭取に据え、新設の私立銀行への信頼を得ようとしたのだろう。

  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [7]1893年1月14日に取締役選任、渡邊雄次郎が初代頭取に互選。物持ち番付で士族方の横綱と評され新しい学問を身につけた。35歳で頭取、1894年春に改進党から衆院選に出て30票差で落選
    • [9]1893年1月14日に取締役選任、渡邊雄次郎が初代頭取に互選。物持ち番付で士族方の横綱と評され新しい学問を身につけた。35歳で頭取、1894年春に改進党から衆院選に出て30票差で落選
    • [10]1893年1月14日に取締役選任、渡邊雄次郎が初代頭取に互選。物持ち番付で士族方の横綱と評され新しい学問を身につけた。35歳で頭取、1894年春に改進党から衆院選に出て30票差で落選
  • 大分合同銀行五十年史(1943年)コマ1-50
    • [8]開業総会で取締役に渡邊雄次郎・渡邊芳一・甲斐治平、監査役に後藤喜太郎・小野吉彦・田吹玄珠を選び、荷揚町45番地で資本金6万円で2月1日開業
    • [11]開業総会で取締役に渡邊雄次郎・渡邊芳一・甲斐治平、監査役に後藤喜太郎・小野吉彦・田吹玄珠を選び、荷揚町45番地で資本金6万円で2月1日開業

開業の翌1894年8月に日清戦争が始まり、戦後の1895年秋から1896年にかけて運輸や商工業の事業が大きく広がった。大分銀行は1895年4月に資本金を10万円へ、1896年7月には20万円へと続けて増資した。1896年7月の増資は、戦後の経済情勢に対処するための第2回の増資にあたる。1898年7月には資本金を50万円とし、1897年の日出を皮切りに鶴崎、長洲、竹田へと店舗網を広げた。渡邊雄次郎氏は1900年1月4日に数え42歳で死去し、同月15日に監査役の小野吉彦氏が2代目頭取に就任した。開業から5年余りで資本金を6万円から50万円へ積み増し、日出から竹田まで4カ所に店舗を広げたことが、創業頭取の死去を越えて地盤を保つ土台になったとみられる。

  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [12]日清戦争後1895年秋から1896年に事業盛況。資本金1895年4月10万円、1896年7月20万円、1898年7月50万円。1897年9月日出、1898年鶴崎、1899年長洲、1900年竹田に店舗。渡邊雄次郎は1900年1月4日死去、1月15日に監査役小野吉彦が2代目頭取
    • [13]日清戦争後1895年秋から1896年に事業盛況。資本金1895年4月10万円、1896年7月20万円、1898年7月50万円。1897年9月日出、1898年鶴崎、1899年長洲、1900年竹田に店舗。渡邊雄次郎は1900年1月4日死去、1月15日に監査役小野吉彦が2代目頭取
    • [15]日清戦争後1895年秋から1896年に事業盛況。資本金1895年4月10万円、1896年7月20万円、1898年7月50万円。1897年9月日出、1898年鶴崎、1899年長洲、1900年竹田に店舗。渡邊雄次郎は1900年1月4日死去、1月15日に監査役小野吉彦が2代目頭取
    • [16]日清戦争後1895年秋から1896年に事業盛況。資本金1895年4月10万円、1896年7月20万円、1898年7月50万円。1897年9月日出、1898年鶴崎、1899年長洲、1900年竹田に店舗。渡邊雄次郎は1900年1月4日死去、1月15日に監査役小野吉彦が2代目頭取
  • 大分銀行七十年史(1964年)コマ1-50
    • [14]1896年7月1日に経済情勢に対処するため第2回の増資を実施
参考文献[1]-[16]
  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [1]1892年11月6日に渡邊雄次郎創立委員長のもと蓬来館で創業総会、発起人は渡邊雄次郎・後藤喜太郎・田吹玄珠・甲斐治平・渡邊芳一ら。町内本店の銀行は第二十三国立銀行のみ
    • [2]1892年11月6日に渡邊雄次郎創立委員長のもと蓬来館で創業総会、発起人は渡邊雄次郎・後藤喜太郎・田吹玄珠・甲斐治平・渡邊芳一ら。町内本店の銀行は第二十三国立銀行のみ
    • [3]1892年11月6日に渡邊雄次郎創立委員長のもと蓬来館で創業総会、発起人は渡邊雄次郎・後藤喜太郎・田吹玄珠・甲斐治平・渡邊芳一ら。町内本店の銀行は第二十三国立銀行のみ
    • [7]1893年1月14日に取締役選任、渡邊雄次郎が初代頭取に互選。物持ち番付で士族方の横綱と評され新しい学問を身につけた。35歳で頭取、1894年春に改進党から衆院選に出て30票差で落選
    • [9]1893年1月14日に取締役選任、渡邊雄次郎が初代頭取に互選。物持ち番付で士族方の横綱と評され新しい学問を身につけた。35歳で頭取、1894年春に改進党から衆院選に出て30票差で落選
    • [10]1893年1月14日に取締役選任、渡邊雄次郎が初代頭取に互選。物持ち番付で士族方の横綱と評され新しい学問を身につけた。35歳で頭取、1894年春に改進党から衆院選に出て30票差で落選
    • [12]日清戦争後1895年秋から1896年に事業盛況。資本金1895年4月10万円、1896年7月20万円、1898年7月50万円。1897年9月日出、1898年鶴崎、1899年長洲、1900年竹田に店舗。渡邊雄次郎は1900年1月4日死去、1月15日に監査役小野吉彦が2代目頭取
    • [13]日清戦争後1895年秋から1896年に事業盛況。資本金1895年4月10万円、1896年7月20万円、1898年7月50万円。1897年9月日出、1898年鶴崎、1899年長洲、1900年竹田に店舗。渡邊雄次郎は1900年1月4日死去、1月15日に監査役小野吉彦が2代目頭取
    • [15]日清戦争後1895年秋から1896年に事業盛況。資本金1895年4月10万円、1896年7月20万円、1898年7月50万円。1897年9月日出、1898年鶴崎、1899年長洲、1900年竹田に店舗。渡邊雄次郎は1900年1月4日死去、1月15日に監査役小野吉彦が2代目頭取
    • [16]日清戦争後1895年秋から1896年に事業盛況。資本金1895年4月10万円、1896年7月20万円、1898年7月50万円。1897年9月日出、1898年鶴崎、1899年長洲、1900年竹田に店舗。渡邊雄次郎は1900年1月4日死去、1月15日に監査役小野吉彦が2代目頭取
  • 大分銀行七十年史(1964年)コマ1-50
    • [4]大分町は県庁所在地として交通・商業の中心となりつつあったが金融機関が十分でなく商工業は振るわなかった
    • [14]1896年7月1日に経済情勢に対処するため第2回の増資を実施
  • 大分合同銀行五十年史(1943年)コマ1-50
    • [5]1892年11月18日に岩崎小二郎知事へ銀行設立を出願し12月27日付で認可
    • [8]開業総会で取締役に渡邊雄次郎・渡邊芳一・甲斐治平、監査役に後藤喜太郎・小野吉彦・田吹玄珠を選び、荷揚町45番地で資本金6万円で2月1日開業
    • [11]開業総会で取締役に渡邊雄次郎・渡邊芳一・甲斐治平、監査役に後藤喜太郎・小野吉彦・田吹玄珠を選び、荷揚町45番地で資本金6万円で2月1日開業
  • 大分銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1892年12月に株式会社大分銀行設立(資本金6万円)、1893年2月創業

1915年〜小野駿一氏の積極経営と、6行の吸収で430万円に達した資本金

大分銀行は1915年5月に竹町2丁目へ行舎を新築し、7月1日から新しい本店で営業を始めた。同年8月に第3代頭取の原大三郎氏が病没し、9月3日に常務取締役の小野駿一氏が第4代頭取に昇任した。小野駿一氏は2代目頭取の小野吉彦氏の長男で、早稲田大学を卒業し、33歳での頭取就任となる。小野駿一氏は豊州ガスや大分セメントの社長を兼ね、県会議員も約2年半務めて憲政会の若手の実力者と目された。預金は大戦の影響が県内に及んだ1915年ころから急増し、1916年上期の388万円から1919年上期には1,000万円を超えた。県の政財界に顔が利く若い頭取の就任と大戦景気による預金の急増が重なり、出店を重ねる積極経営へ転じたとみられる。

  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [17]1915年5月竹町2丁目に行舎新築・7月1日営業開始。小野駿一は小野吉彦の長男で早大卒、33歳で頭取。豊州ガス・大分セメント社長等を兼ね県会議員約2年半、憲政会の若き大御所。預金は1916年上期388万円、1919年上期1,000万円超
    • [19]1915年5月竹町2丁目に行舎新築・7月1日営業開始。小野駿一は小野吉彦の長男で早大卒、33歳で頭取。豊州ガス・大分セメント社長等を兼ね県会議員約2年半、憲政会の若き大御所。預金は1916年上期388万円、1919年上期1,000万円超
    • [20]1915年5月竹町2丁目に行舎新築・7月1日営業開始。小野駿一は小野吉彦の長男で早大卒、33歳で頭取。豊州ガス・大分セメント社長等を兼ね県会議員約2年半、憲政会の若き大御所。預金は1916年上期388万円、1919年上期1,000万円超
    • [21]1915年5月竹町2丁目に行舎新築・7月1日営業開始。小野駿一は小野吉彦の長男で早大卒、33歳で頭取。豊州ガス・大分セメント社長等を兼ね県会議員約2年半、憲政会の若き大御所。預金は1916年上期388万円、1919年上期1,000万円超
  • 大分銀行七十年史(1964年)コマ1-50
    • [18]1915年8月に原頭取が病没し常務取締役小野駿一が頭取に就任

大分銀行は1918年4月14日に杵築町の青莚銀行を吸収し、資本金は132万6,800円に増えた。青莚銀行の店舗は翌15日に杵築支店となり、6月には柳ケ浦銀行も合併して資本金は140万6,800円となった。政府は1918年5月、単独の増資よりも合同による銀行の規模拡大を勧める方針を打ち出していた。さらに11月29日には159万3,200円を増資し、資本金を300万円に引き上げた。貸出金は1916年下期の361万円から1918年末の929万円へ増え、貸出が預金を上回る時期が長く続いた。預金を上回る勢いで貸出が膨らむなかで、合併と増資によって元手を厚くする必要に迫られたとみられる。

  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [22]1918年4月14日青莚銀行合併で資本金132万6,800円、4月15日杵築支店。6月柳ケ浦銀行合併で140万6,800円。11月29日159万3,200円増資で300万円。貸出金は1916年下期361万円、1918年末929万円。オーバーローンの時代が長かった
    • [23]1918年4月14日青莚銀行合併で資本金132万6,800円、4月15日杵築支店。6月柳ケ浦銀行合併で140万6,800円。11月29日159万3,200円増資で300万円。貸出金は1916年下期361万円、1918年末929万円。オーバーローンの時代が長かった
    • [25]1918年4月14日青莚銀行合併で資本金132万6,800円、4月15日杵築支店。6月柳ケ浦銀行合併で140万6,800円。11月29日159万3,200円増資で300万円。貸出金は1916年下期361万円、1918年末929万円。オーバーローンの時代が長かった
    • [26]1918年4月14日青莚銀行合併で資本金132万6,800円、4月15日杵築支店。6月柳ケ浦銀行合併で140万6,800円。11月29日159万3,200円増資で300万円。貸出金は1916年下期361万円、1918年末929万円。オーバーローンの時代が長かった
  • 大分銀行八十年小史(1974年)コマ1-50
    • [24]1918年5月に政府が単独増資でなく合同による規模拡大を指導。青莚・柳ケ浦の合併後、11月に300万円へ増資

大分銀行は1921年11月1日、豊後銀行、別府銀行、大分貯金銀行など6行を合併し、資本金は430万円に拡大した。残る3行は萩原銀行、豊岡共立貯蓄銀行、豊岡実業銀行で、合併の斡旋役は県農工銀行頭取の山口半七氏。6行のうち豊後銀行は大分銀行の分身で、1920年の動揺で預金が減り、日銀から70万円の特別融資を受けていた。大分貯金銀行は同じ店舗内の貯金部門で、豊岡の2行は頭取の原駿一郎氏の死去で経営危機にあった。各行は資産の償却を済ませないまま合併に加わり、大分銀行は多額の不良資産を抱えた。政府の合同政策に沿った県内銀行の整理という外形の裏で、実態は倒産寸前の関係銀行の救済だったと推察される。

  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [27]1921年11月1日、豊後・別府・大分貯金・豊岡実業・豊岡共立貯蓄・萩原の6行を合併し資本金430万円。山口半七の斡旋。豊後銀行は分身、大分貯金銀行は同一店舗の貯金部門、豊岡2行は原駿一郎死去で危機。資産未償却で不良資産を抱えた
    • [28]1921年11月1日、豊後・別府・大分貯金・豊岡実業・豊岡共立貯蓄・萩原の6行を合併し資本金430万円。山口半七の斡旋。豊後銀行は分身、大分貯金銀行は同一店舗の貯金部門、豊岡2行は原駿一郎死去で危機。資産未償却で不良資産を抱えた
    • [30]1921年11月1日、豊後・別府・大分貯金・豊岡実業・豊岡共立貯蓄・萩原の6行を合併し資本金430万円。山口半七の斡旋。豊後銀行は分身、大分貯金銀行は同一店舗の貯金部門、豊岡2行は原駿一郎死去で危機。資産未償却で不良資産を抱えた
    • [31]1921年11月1日、豊後・別府・大分貯金・豊岡実業・豊岡共立貯蓄・萩原の6行を合併し資本金430万円。山口半七の斡旋。豊後銀行は分身、大分貯金銀行は同一店舗の貯金部門、豊岡2行は原駿一郎死去で危機。資産未償却で不良資産を抱えた
  • 大分銀行七十年史(1964年)コマ1-50
    • [29]豊後銀行は反動恐慌の動揺で預金が漸減し、大分銀行と二十三銀行経由で日銀から70万円の特融を受けた
参考文献[17]-[31]
  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [17]1915年5月竹町2丁目に行舎新築・7月1日営業開始。小野駿一は小野吉彦の長男で早大卒、33歳で頭取。豊州ガス・大分セメント社長等を兼ね県会議員約2年半、憲政会の若き大御所。預金は1916年上期388万円、1919年上期1,000万円超
    • [19]1915年5月竹町2丁目に行舎新築・7月1日営業開始。小野駿一は小野吉彦の長男で早大卒、33歳で頭取。豊州ガス・大分セメント社長等を兼ね県会議員約2年半、憲政会の若き大御所。預金は1916年上期388万円、1919年上期1,000万円超
    • [20]1915年5月竹町2丁目に行舎新築・7月1日営業開始。小野駿一は小野吉彦の長男で早大卒、33歳で頭取。豊州ガス・大分セメント社長等を兼ね県会議員約2年半、憲政会の若き大御所。預金は1916年上期388万円、1919年上期1,000万円超
    • [21]1915年5月竹町2丁目に行舎新築・7月1日営業開始。小野駿一は小野吉彦の長男で早大卒、33歳で頭取。豊州ガス・大分セメント社長等を兼ね県会議員約2年半、憲政会の若き大御所。預金は1916年上期388万円、1919年上期1,000万円超
    • [22]1918年4月14日青莚銀行合併で資本金132万6,800円、4月15日杵築支店。6月柳ケ浦銀行合併で140万6,800円。11月29日159万3,200円増資で300万円。貸出金は1916年下期361万円、1918年末929万円。オーバーローンの時代が長かった
    • [23]1918年4月14日青莚銀行合併で資本金132万6,800円、4月15日杵築支店。6月柳ケ浦銀行合併で140万6,800円。11月29日159万3,200円増資で300万円。貸出金は1916年下期361万円、1918年末929万円。オーバーローンの時代が長かった
    • [25]1918年4月14日青莚銀行合併で資本金132万6,800円、4月15日杵築支店。6月柳ケ浦銀行合併で140万6,800円。11月29日159万3,200円増資で300万円。貸出金は1916年下期361万円、1918年末929万円。オーバーローンの時代が長かった
    • [26]1918年4月14日青莚銀行合併で資本金132万6,800円、4月15日杵築支店。6月柳ケ浦銀行合併で140万6,800円。11月29日159万3,200円増資で300万円。貸出金は1916年下期361万円、1918年末929万円。オーバーローンの時代が長かった
    • [27]1921年11月1日、豊後・別府・大分貯金・豊岡実業・豊岡共立貯蓄・萩原の6行を合併し資本金430万円。山口半七の斡旋。豊後銀行は分身、大分貯金銀行は同一店舗の貯金部門、豊岡2行は原駿一郎死去で危機。資産未償却で不良資産を抱えた
    • [28]1921年11月1日、豊後・別府・大分貯金・豊岡実業・豊岡共立貯蓄・萩原の6行を合併し資本金430万円。山口半七の斡旋。豊後銀行は分身、大分貯金銀行は同一店舗の貯金部門、豊岡2行は原駿一郎死去で危機。資産未償却で不良資産を抱えた
    • [30]1921年11月1日、豊後・別府・大分貯金・豊岡実業・豊岡共立貯蓄・萩原の6行を合併し資本金430万円。山口半七の斡旋。豊後銀行は分身、大分貯金銀行は同一店舗の貯金部門、豊岡2行は原駿一郎死去で危機。資産未償却で不良資産を抱えた
    • [31]1921年11月1日、豊後・別府・大分貯金・豊岡実業・豊岡共立貯蓄・萩原の6行を合併し資本金430万円。山口半七の斡旋。豊後銀行は分身、大分貯金銀行は同一店舗の貯金部門、豊岡2行は原駿一郎死去で危機。資産未償却で不良資産を抱えた
  • 大分銀行七十年史(1964年)コマ1-50
    • [18]1915年8月に原頭取が病没し常務取締役小野駿一が頭取に就任
    • [29]豊後銀行は反動恐慌の動揺で預金が漸減し、大分銀行と二十三銀行経由で日銀から70万円の特融を受けた
  • 大分銀行八十年小史(1974年)コマ1-50
    • [24]1918年5月に政府が単独増資でなく合同による規模拡大を指導。青莚・柳ケ浦の合併後、11月に300万円へ増資

1922年〜反動恐慌による休業と、405万円の減資を経た復活開店

1922年12月1日に熊本の九州銀行が休業すると、取り付けは九州から全国に広がった。大分銀行では別府支店から取り付けが始まって本店に及び、12月19日の1日だけで420人に19万7,000円を払い出した。日銀からの特別融資による打開策も実らず、12月21日から大分銀行は休業。取り付けの波は二十三銀行にも押し寄せ、二十三銀行は日本銀行の支援を背に払い戻しを続け、3日間で平静を取り戻した。日本銀行調査局は当時の銀行破綻の原因の1つに、現金支払準備金の割合の少なさを挙げた。6行合併で抱えた不良資産に加えて支払準備の薄さが重なり、日銀の後ろ盾を得た二十三銀行との明暗を分けたのだろう。

  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [32]1922年12月1日九州銀行休業。別府支店から本店へ取り付け、12月19日だけで420人・19万7,000円を支払い。日銀調査局は銀行破綻の原因に現金支払準備金の割合の少なさを挙げる
    • [33]1922年12月1日九州銀行休業。別府支店から本店へ取り付け、12月19日だけで420人・19万7,000円を支払い。日銀調査局は銀行破綻の原因に現金支払準備金の割合の少なさを挙げる
    • [36]1922年12月1日九州銀行休業。別府支店から本店へ取り付け、12月19日だけで420人・19万7,000円を支払い。日銀調査局は銀行破綻の原因に現金支払準備金の割合の少なさを挙げる
  • 大分合同銀行五十年史(1943年)コマ1-50
    • [34]取り付けに遭い1922年12月21日から休業
  • 大分銀行八十年小史(1974年)コマ1-50
    • [35]取り付けは二十三銀行本店にも及んだが日銀の援助で支払に応じ3日間で平静

休業と同時に取締役の八坂三治氏と高橋欽哉氏、監査役の永井次郎氏が常勤し、事務の整理にあたった。頭取の小野駿一氏は、日本銀行総裁の井上準之助氏や富士紡社長の和田豊治氏ら県出身の先輩に善後策を仰いだ。再建は大阪の加島銀行の協力で進むことになり、資本金430万円を25万円に減資してから650万円へ増資する条項がまとまった。減資額は405万円で、50円を超える預金の4割余りを権利放棄させ、550万円の預金を切り捨てる厳しい内容である。整理条項は1923年6月に調印され、7月29日の株主総会で承認された。預金者3万6,800人から承認を取り付けるのに5カ月かかり、資本金は12月12日に25万円となった。

  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [37]八坂三治・高橋欽哉取締役と永井次郎監査役が常勤し整理。減資額405万円(94.2%)、50円超預金の4割8厘5毛を権利放棄、切捨て550万円。1923年6月整理条項調印、7月29日株主総会承認。預金者3万6,800人の承認に5カ月。1923年12月12日に25万円へ減資
    • [40]八坂三治・高橋欽哉取締役と永井次郎監査役が常勤し整理。減資額405万円(94.2%)、50円超預金の4割8厘5毛を権利放棄、切捨て550万円。1923年6月整理条項調印、7月29日株主総会承認。預金者3万6,800人の承認に5カ月。1923年12月12日に25万円へ減資
    • [41]八坂三治・高橋欽哉取締役と永井次郎監査役が常勤し整理。減資額405万円(94.2%)、50円超預金の4割8厘5毛を権利放棄、切捨て550万円。1923年6月整理条項調印、7月29日株主総会承認。預金者3万6,800人の承認に5カ月。1923年12月12日に25万円へ減資
    • [42]八坂三治・高橋欽哉取締役と永井次郎監査役が常勤し整理。減資額405万円(94.2%)、50円超預金の4割8厘5毛を権利放棄、切捨て550万円。1923年6月整理条項調印、7月29日株主総会承認。預金者3万6,800人の承認に5カ月。1923年12月12日に25万円へ減資
  • 大分銀行八十年小史(1974年)コマ1-50
    • [38]小野頭取が井上準之助日銀総裁・和田豊治富士紡社長ら県出身の先輩に善後策を依頼
  • 大分合同銀行五十年史(1943年)コマ1-50
    • [39]整理条項第1条:資本金430万円を25万円に減資し650万円に増資。加島銀行後援の下に整理復活

再建の増資は、預金から振り替えた第2優先株300万円と、新たに発行した第1優先株325万円で組み立てた。第1優先株の引受額は、二十三銀行100万円、加島銀行175万円、県内の有力者50万円の割り振りとなる。1924年1月23日の株主総会で小野駿一氏ら全役員が辞任し、加島銀行頭取の廣岡惠三氏が頭取に就任した。大分銀行が1年余りの休業を経て営業を再開したのは、1月29日のことである。相談役には和田豊治氏、二十三銀行頭取の長野善五郎氏、山口半七氏を迎えた。開店日から2月19日までに払い出した預金は820万円に上り、信用の回復には時間がかかった。大分銀行は1927年10月に二十三銀行を合併し、商号を大分合同銀行に変更した。

  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [43]第2優先株300万円(預金振替)と第1優先株325万円(加島銀行175万円・二十三銀行100万円・県下有力者50万円)。1924年1月23日の総会で小野頭取以下全役員辞任、加島銀行頭取・大同生命社長の廣岡惠三が頭取
    • [44]第2優先株300万円(預金振替)と第1優先株325万円(加島銀行175万円・二十三銀行100万円・県下有力者50万円)。1924年1月23日の総会で小野頭取以下全役員辞任、加島銀行頭取・大同生命社長の廣岡惠三が頭取
    • [45]第2優先株300万円(預金振替)と第1優先株325万円(加島銀行175万円・二十三銀行100万円・県下有力者50万円)。1924年1月23日の総会で小野頭取以下全役員辞任、加島銀行頭取・大同生命社長の廣岡惠三が頭取
  • 大分合同銀行五十年史(1943年)コマ1-50
    • [46]1924年1月29日に加島銀行後援の下で復活開店。相談役に和田豊治・長野善五郎・山口半七を委嘱
    • [47]1924年1月29日に加島銀行後援の下で復活開店。相談役に和田豊治・長野善五郎・山口半七を委嘱
  • 大分銀行七十年史(1964年)コマ1-50
    • [48]開店日から2月19日までに払い出した預金は820万円
  • 大分銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1927年10月に二十三銀行を合併し商号を大分合同銀行に変更
参考文献[32]-[49]
  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
    • [32]1922年12月1日九州銀行休業。別府支店から本店へ取り付け、12月19日だけで420人・19万7,000円を支払い。日銀調査局は銀行破綻の原因に現金支払準備金の割合の少なさを挙げる
    • [33]1922年12月1日九州銀行休業。別府支店から本店へ取り付け、12月19日だけで420人・19万7,000円を支払い。日銀調査局は銀行破綻の原因に現金支払準備金の割合の少なさを挙げる
    • [36]1922年12月1日九州銀行休業。別府支店から本店へ取り付け、12月19日だけで420人・19万7,000円を支払い。日銀調査局は銀行破綻の原因に現金支払準備金の割合の少なさを挙げる
    • [37]八坂三治・高橋欽哉取締役と永井次郎監査役が常勤し整理。減資額405万円(94.2%)、50円超預金の4割8厘5毛を権利放棄、切捨て550万円。1923年6月整理条項調印、7月29日株主総会承認。預金者3万6,800人の承認に5カ月。1923年12月12日に25万円へ減資
    • [40]八坂三治・高橋欽哉取締役と永井次郎監査役が常勤し整理。減資額405万円(94.2%)、50円超預金の4割8厘5毛を権利放棄、切捨て550万円。1923年6月整理条項調印、7月29日株主総会承認。預金者3万6,800人の承認に5カ月。1923年12月12日に25万円へ減資
    • [41]八坂三治・高橋欽哉取締役と永井次郎監査役が常勤し整理。減資額405万円(94.2%)、50円超預金の4割8厘5毛を権利放棄、切捨て550万円。1923年6月整理条項調印、7月29日株主総会承認。預金者3万6,800人の承認に5カ月。1923年12月12日に25万円へ減資
    • [42]八坂三治・高橋欽哉取締役と永井次郎監査役が常勤し整理。減資額405万円(94.2%)、50円超預金の4割8厘5毛を権利放棄、切捨て550万円。1923年6月整理条項調印、7月29日株主総会承認。預金者3万6,800人の承認に5カ月。1923年12月12日に25万円へ減資
    • [43]第2優先株300万円(預金振替)と第1優先株325万円(加島銀行175万円・二十三銀行100万円・県下有力者50万円)。1924年1月23日の総会で小野頭取以下全役員辞任、加島銀行頭取・大同生命社長の廣岡惠三が頭取
    • [44]第2優先株300万円(預金振替)と第1優先株325万円(加島銀行175万円・二十三銀行100万円・県下有力者50万円)。1924年1月23日の総会で小野頭取以下全役員辞任、加島銀行頭取・大同生命社長の廣岡惠三が頭取
    • [45]第2優先株300万円(預金振替)と第1優先株325万円(加島銀行175万円・二十三銀行100万円・県下有力者50万円)。1924年1月23日の総会で小野頭取以下全役員辞任、加島銀行頭取・大同生命社長の廣岡惠三が頭取
  • 大分合同銀行五十年史(1943年)コマ1-50
    • [34]取り付けに遭い1922年12月21日から休業
    • [39]整理条項第1条:資本金430万円を25万円に減資し650万円に増資。加島銀行後援の下に整理復活
    • [46]1924年1月29日に加島銀行後援の下で復活開店。相談役に和田豊治・長野善五郎・山口半七を委嘱
    • [47]1924年1月29日に加島銀行後援の下で復活開店。相談役に和田豊治・長野善五郎・山口半七を委嘱
  • 大分銀行八十年小史(1974年)コマ1-50
    • [35]取り付けは二十三銀行本店にも及んだが日銀の援助で支払に応じ3日間で平静
    • [38]小野頭取が井上準之助日銀総裁・和田豊治富士紡社長ら県出身の先輩に善後策を依頼
  • 大分銀行七十年史(1964年)コマ1-50
    • [48]開店日から2月19日までに払い出した預金は820万円
  • 大分銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1927年10月に二十三銀行を合併し商号を大分合同銀行に変更

出典・参考

5件
出典・参考
  • 大分銀行 有価証券報告書【沿革】
  • 大分合同銀行五十年史(1943年)コマ1-50
  • 大分銀行七十年史(1964年)コマ1-50
  • 大分銀行百年史(1994年)コマ1-50
  • 大分銀行八十年小史(1974年)コマ1-50

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