紀陽銀行:紀陽貯蓄銀行の設立と出張所網の広がり
1895年〜第四十三国立銀行の縁で集った和歌山の発起人と、資本金5万円の紀陽貯蓄銀行
1894年末の和歌山県には8つの銀行があり、和歌山市に本店を置くのはそのうち第四十三国立銀行と山崎銀行の2行である。貯蓄銀行は県南の串本町にある熊野貯蓄銀行の1行のみ。日清戦争を機に勤倹貯蓄の気運が強まり、県都の和歌山市にも庶民の小口預金を専ら扱う銀行が要ると考えられた。発起人19名の中心は第四十三国立銀行頭取の宮本吉右衛門氏と同行取締役の谷井勘蔵氏で、同行の支配人を務めた後藤栄蔵氏も加わった。発起人は1895年1月22日、貯蓄銀行条例に準拠する発起認可願を大蔵大臣に出し、2月8日に認可を得た。設立の許可は同年4月に下り、翌5月の設立へ進んだ。国立銀行の首脳がみずから別の銀行を立てたのは、商業資金を扱う本業と切り分けて零細な預金を専ら受ける銀行を別に持つためだったとみられる。
- 紀陽銀行史(1975)「紀陽貯蓄銀行の誕生」
- [1]1894年末の和歌山県の銀行は8行、和歌山市内本店は第四十三国立銀行と山崎銀行の2行、貯蓄銀行は串本町の熊野貯蓄銀行1行
- [2]1894年末の和歌山県の銀行は8行、和歌山市内本店は第四十三国立銀行と山崎銀行の2行、貯蓄銀行は串本町の熊野貯蓄銀行1行
- [3]日清戦争を機に勤倹貯蓄の風潮が高まり、和歌山市に庶民のための専業貯蓄銀行が必要と考えられた
- [4]設立発起人19名の中心は宮本吉右衛門(1888年から第四十三国立銀行頭取)と谷井勘蔵(同行取締役)。後藤栄蔵は同行の元支配人・取締役
- 創立五十五年史(1950)「第一章 創業當時 第一節 發起」
- [5]1895年1月22日に貯蓄銀行条例(明治23年法律第73号)準拠の発起認可願を大蔵大臣に提出、2月8日認可
- 紀陽銀行 有価証券報告書【沿革】
- [6]1895年4月に貯蓄銀行条例による設立許可、5月2日設立
発起人は1895年3月22日、和歌山市内の迎陽館で創業総会を開催し、定款と役員を確定した。取締役5名の互選により、谷井勘蔵氏が初代頭取に選ばれた。4月20日に大蔵大臣の設立認可を受け、4月30日には資本金5万円の半額、2万5000円が払い込まれた。設立日は5月2日、資本金は5万円で、本店は和歌山市である。開業は翌3日で、店は目論見書にあった本町1丁目13番地ではなく、ぶらくり丁の一角にあたる米屋町6番地に構えた。行員は支配人の後藤栄蔵氏以下6名で、のちに第4代頭取となる山田虎次郎氏は、頭取以下の全員が和服に角帯と前垂の姿で働いたと回想している。預金は一口5銭から受ける貯蓄預金だけで、1895年6月末の残高は1万8455円だった。
- 創立五十五年史(1950)「第一章 第二節 創立」
- [7]1895年3月22日迎陽館で創業総会、定款確定と取締役5名・監査役3名の選挙、取締役互選で谷井勘蔵を頭取に
- [8]1895年3月22日迎陽館で創業総会、定款確定と取締役5名・監査役3名の選挙、取締役互選で谷井勘蔵を頭取に
- 紀陽銀行史(1975)「紀陽貯蓄銀行の誕生」
- [9]1895年4月4日設立認可願提出、4月20日認可、4月30日資本金5万円のうち2万5000円の払込完了
- [11]1895年5月3日開業、営業所は和歌山市米屋町6番地(ぶらくり丁の一角)。目論見書の本町1丁目13番地から設立認可願で変更
- [12]創業時の行員は支配人後藤栄蔵以下6名。山田虎次郎(のち第4代頭取)の回想で頭取以下全員が和服角帯前垂姿で執務
- 紀陽銀行 有価証券報告書【沿革】
- [10]設立日1895年5月2日、資本金5万円、本店和歌山市
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」
- [13]創業時の預金種目は貯蓄預り金のみ(一口5銭以上)。第1期末(1895年6月)の総預金18,455円
参考文献[1]-[13]
- 紀陽銀行史(1975)「紀陽貯蓄銀行の誕生」
- [1]1894年末の和歌山県の銀行は8行、和歌山市内本店は第四十三国立銀行と山崎銀行の2行、貯蓄銀行は串本町の熊野貯蓄銀行1行
- [2]1894年末の和歌山県の銀行は8行、和歌山市内本店は第四十三国立銀行と山崎銀行の2行、貯蓄銀行は串本町の熊野貯蓄銀行1行
- [3]日清戦争を機に勤倹貯蓄の風潮が高まり、和歌山市に庶民のための専業貯蓄銀行が必要と考えられた
- [4]設立発起人19名の中心は宮本吉右衛門(1888年から第四十三国立銀行頭取)と谷井勘蔵(同行取締役)。後藤栄蔵は同行の元支配人・取締役
- [9]1895年4月4日設立認可願提出、4月20日認可、4月30日資本金5万円のうち2万5000円の払込完了
- [11]1895年5月3日開業、営業所は和歌山市米屋町6番地(ぶらくり丁の一角)。目論見書の本町1丁目13番地から設立認可願で変更
- [12]創業時の行員は支配人後藤栄蔵以下6名。山田虎次郎(のち第4代頭取)の回想で頭取以下全員が和服角帯前垂姿で執務
- 創立五十五年史(1950)「第一章 創業當時 第一節 發起」
- [5]1895年1月22日に貯蓄銀行条例(明治23年法律第73号)準拠の発起認可願を大蔵大臣に提出、2月8日認可
- 紀陽銀行 有価証券報告書【沿革】
- [6]1895年4月に貯蓄銀行条例による設立許可、5月2日設立
- [10]設立日1895年5月2日、資本金5万円、本店和歌山市
- 創立五十五年史(1950)「第一章 第二節 創立」
- [7]1895年3月22日迎陽館で創業総会、定款確定と取締役5名・監査役3名の選挙、取締役互選で谷井勘蔵を頭取に
- [8]1895年3月22日迎陽館で創業総会、定款確定と取締役5名・監査役3名の選挙、取締役互選で谷井勘蔵を頭取に
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」
- [13]創業時の預金種目は貯蓄預り金のみ(一口5銭以上)。第1期末(1895年6月)の総預金18,455円
1896年〜明治34年の金融恐慌と、名草・田辺に始まる出張所網
日清戦争後の反動不況は1900年に再び深まり、翌1901年には金融恐慌へ発展した。1900年12月に熊本の第九銀行と熊本貯蓄銀行が支払を止めたことに始まり、1901年4月には大阪を中心に近畿一円へ広がった。和歌山県内でも各行が取付を受け、開業6年目の紀陽貯蓄銀行も影響を免れなかった。預金と貸出が減少したうえ保有有価証券の値下がりも重なり、同年の利益は大幅に減少した。頭取の谷井勘蔵氏と支配人の後藤栄蔵氏は預金者への払戻に支障を出さず、配当を年10%から7%に下げるだけで恐慌を越えた。配当の回復は1902年下期に8%、1905年下期に10%。ほぼ同時期に和歌山市内で生まれた銀行は痛手を負い、和歌山倉庫銀行のほかはのちに消滅した。この経験が、安全と確実を第一に置く資金運用を行風として固めたと推察される。
- 創立五十五年史(1950)「第二章 第一節 創業後の十ケ年」
- [14]明治33年に第二次反動を経て翌34年に金融恐慌、銀行設立熱で生まれた弱小銀行に破綻が生じる。当行は営業に支障を来さず堅実第一の行是を確立
- 紀陽銀行史(1975)「日清戦争以後の経済変動」
- [15]1900年12月25日の熊本第九銀行・熊本貯蓄銀行の取付・支払停止に端を発し、1901年4月に大阪中心に近畿一円へ波及、和歌山の各行も取付に見舞われ当行も影響を受けた
- [16]1900年12月25日の熊本第九銀行・熊本貯蓄銀行の取付・支払停止に端を発し、1901年4月に大阪中心に近畿一円へ波及、和歌山の各行も取付に見舞われ当行も影響を受けた
- [17]当行は預金・貸出の減少と有価証券の値下りで1901年の収益が大きく低下。谷井頭取と後藤支配人の措置で預金者に迷惑をかけず、配当を10%から7%に下げて乗り切る
- [18]当行は預金・貸出の減少と有価証券の値下りで1901年の収益が大きく低下。谷井頭取と後藤支配人の措置で預金者に迷惑をかけず、配当を10%から7%に下げて乗り切る
- [20]当行とほぼ同時期に設立された和歌山市内の銀行は恐慌で打撃を受け、和歌山倉庫銀行を除き消滅へ
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」
- [19]1901年上期に7%へ減配、1902年下期に8%へ復配、1905年下期に10%配当に戻す
開業2カ月後の1895年7月11日、紀陽貯蓄銀行は第1期の定時総会に続く臨時株主総会で、名草と田辺に出張所を置くことを決めた。総会の記録には日方と田辺について『田辺、日方の地方は人家稠密にして商工業共に盛況を呈し、貯蓄預り金の必要を感ぜり』とある。そのうえで単独で店を構えれば収支が合わない恐れがあるとして、第四十三国立銀行の支店の一部を借りる方針を示した。名草出張所は10月1日、田辺出張所は12月10日に同行の支店内で開き、事務も同行の行員に委ねた。出張所は1903年8月の粉河までで延べ14カ所に及ぶ。1899年5月からは、信用のある個人に預金の受付を任せる代弁店を和歌山市周辺の川辺・和歌浦・箕島などに置いた。1950年刊の社史は、創業後の10年を小口預金の奨励に専念した時期と位置づけている。親銀行の店舗と人手を借りる方式は、固定費を抑えて県の南北に窓口を広げる手段だったのだろう。
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」
- [21]1895年7月11日、第1期定時総会後の臨時株主総会で名草(名草郡日方村)・田辺(西牟婁郡田辺町)出張所の設置を可決。単独設置は収支が合わない恐れがあり第四十三国立銀行支店内を借りる
- [22]1895年7月11日、第1期定時総会後の臨時株主総会で名草(名草郡日方村)・田辺(西牟婁郡田辺町)出張所の設置を可決。単独設置は収支が合わない恐れがあり第四十三国立銀行支店内を借りる
- [23]1895年7月11日、第1期定時総会後の臨時株主総会で名草(名草郡日方村)・田辺(西牟婁郡田辺町)出張所の設置を可決。単独設置は収支が合わない恐れがあり第四十三国立銀行支店内を借りる
- [24]名草出張所1895年10月1日、田辺出張所同年12月10日に第四十三国立銀行支店内に開設。事務は同行行員に委嘱。1903年8月の粉河まで延べ14カ所
- [25]名草出張所1895年10月1日、田辺出張所同年12月10日に第四十三国立銀行支店内に開設。事務は同行行員に委嘱。1903年8月の粉河まで延べ14カ所
- [26]代弁店は信用の厚い個人に預金業務を委託した営業所。最初は1899年5月1日の川辺、続いて和歌浦・箕島・山口
- 創立五十五年史(1950)「第二章 第一節 創業後の十ケ年」
- [27]創立10年の間に日方・田辺・橋向など出張所を設置し、小口預金の奨励に専念して貯蓄銀行として堅実に歩んだ
創業時の定款が定めた営業科目は、貯蓄預金の受入、貸付、証券の割引、国債と地方債の買入の4つである。預金の種類は貯蓄預金1つで、普通銀行の業務には踏み出していなかった。1897年4月22日の臨時株主総会は、定期預金・当座預金・当座貸越を営業科目に加える定款変更を可決した。本店に定期や当座の取引を求める客が相次いだことが理由で、新業務は同年5月24日に本店だけで始めた。1899年7月には為替・代金取立・有価証券の買入・公金の取扱いも定款に加えた。1901年4月1日からは、毎月の掛金を積み立てて満期に受け取る月掛定期貯金を扱った。貯蓄預金が預金全体に占める比率は1897年6月末の96.4%から1912年末の48.9%まで下がり、当座預金が38.9%を占めた。
- 創立五十五年史(1950)「第一章 第二節 創立」
- [28]設立当時の定款第21条の営業科目は貯蓄預り金・貸付・証券の割引・国債証券及地方債証券買入
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」
- [29]創業当初の預金種目は貯蓄預り金のみ。貯蓄預金だけでは業容拡大に限度があり、各貯蓄銀行は普通銀行業務を取り入れていった
- [30]1897年4月22日臨時株主総会で定期預金・当座預金・当座貸越を営業科目に加える定款変更を可決。理由は本店に請求者が続々あったため。同年5月24日開始、本店のみ
- [31]1897年4月22日臨時株主総会で定期預金・当座預金・当座貸越を営業科目に加える定款変更を可決。理由は本店に請求者が続々あったため。同年5月24日開始、本店のみ
- [32]1899年7月18日臨時総会で定款変更、諸預り金・為替及代金取立・有価証券買入・公金及諸会社金銭取扱事務を追加
- [33]1901年4月1日から月掛定期貯金(現在の定期積金に相当)の取り扱いを開始
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」「大正時代の紀陽貯蓄銀行」
- [34]貯蓄預金の構成比は1897年6月末96.4%。1912年12月末の預金構成は貯蓄預金48.9%・当座預金38.9%・定期預金11.8%
参考文献[14]-[34]
- 創立五十五年史(1950)「第二章 第一節 創業後の十ケ年」
- [14]明治33年に第二次反動を経て翌34年に金融恐慌、銀行設立熱で生まれた弱小銀行に破綻が生じる。当行は営業に支障を来さず堅実第一の行是を確立
- [27]創立10年の間に日方・田辺・橋向など出張所を設置し、小口預金の奨励に専念して貯蓄銀行として堅実に歩んだ
- 紀陽銀行史(1975)「日清戦争以後の経済変動」
- [15]1900年12月25日の熊本第九銀行・熊本貯蓄銀行の取付・支払停止に端を発し、1901年4月に大阪中心に近畿一円へ波及、和歌山の各行も取付に見舞われ当行も影響を受けた
- [16]1900年12月25日の熊本第九銀行・熊本貯蓄銀行の取付・支払停止に端を発し、1901年4月に大阪中心に近畿一円へ波及、和歌山の各行も取付に見舞われ当行も影響を受けた
- [17]当行は預金・貸出の減少と有価証券の値下りで1901年の収益が大きく低下。谷井頭取と後藤支配人の措置で預金者に迷惑をかけず、配当を10%から7%に下げて乗り切る
- [18]当行は預金・貸出の減少と有価証券の値下りで1901年の収益が大きく低下。谷井頭取と後藤支配人の措置で預金者に迷惑をかけず、配当を10%から7%に下げて乗り切る
- [20]当行とほぼ同時期に設立された和歌山市内の銀行は恐慌で打撃を受け、和歌山倉庫銀行を除き消滅へ
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」
- [19]1901年上期に7%へ減配、1902年下期に8%へ復配、1905年下期に10%配当に戻す
- [21]1895年7月11日、第1期定時総会後の臨時株主総会で名草(名草郡日方村)・田辺(西牟婁郡田辺町)出張所の設置を可決。単独設置は収支が合わない恐れがあり第四十三国立銀行支店内を借りる
- [22]1895年7月11日、第1期定時総会後の臨時株主総会で名草(名草郡日方村)・田辺(西牟婁郡田辺町)出張所の設置を可決。単独設置は収支が合わない恐れがあり第四十三国立銀行支店内を借りる
- [23]1895年7月11日、第1期定時総会後の臨時株主総会で名草(名草郡日方村)・田辺(西牟婁郡田辺町)出張所の設置を可決。単独設置は収支が合わない恐れがあり第四十三国立銀行支店内を借りる
- [24]名草出張所1895年10月1日、田辺出張所同年12月10日に第四十三国立銀行支店内に開設。事務は同行行員に委嘱。1903年8月の粉河まで延べ14カ所
- [25]名草出張所1895年10月1日、田辺出張所同年12月10日に第四十三国立銀行支店内に開設。事務は同行行員に委嘱。1903年8月の粉河まで延べ14カ所
- [26]代弁店は信用の厚い個人に預金業務を委託した営業所。最初は1899年5月1日の川辺、続いて和歌浦・箕島・山口
- [29]創業当初の預金種目は貯蓄預り金のみ。貯蓄預金だけでは業容拡大に限度があり、各貯蓄銀行は普通銀行業務を取り入れていった
- [30]1897年4月22日臨時株主総会で定期預金・当座預金・当座貸越を営業科目に加える定款変更を可決。理由は本店に請求者が続々あったため。同年5月24日開始、本店のみ
- [31]1897年4月22日臨時株主総会で定期預金・当座預金・当座貸越を営業科目に加える定款変更を可決。理由は本店に請求者が続々あったため。同年5月24日開始、本店のみ
- [32]1899年7月18日臨時総会で定款変更、諸預り金・為替及代金取立・有価証券買入・公金及諸会社金銭取扱事務を追加
- [33]1901年4月1日から月掛定期貯金(現在の定期積金に相当)の取り扱いを開始
- 創立五十五年史(1950)「第一章 第二節 創立」
- [28]設立当時の定款第21条の営業科目は貯蓄預り金・貸付・証券の割引・国債証券及地方債証券買入
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」「大正時代の紀陽貯蓄銀行」
- [34]貯蓄預金の構成比は1897年6月末96.4%。1912年12月末の預金構成は貯蓄預金48.9%・当座預金38.9%・定期預金11.8%
1913年〜出張所5店の支店化と、大戦景気で3倍に伸びた預金
1912年末の紀陽貯蓄銀行の規模は、預金191万5168円、貸出金92万5243円、営業所19カ所、行員46名。1913年2月24日には、営業成績のよい橋向・湊・中之島・和歌浦・加太の独立出張所5カ所を支店に改めた。大戦景気が和歌山に及ぶ前の1912〜1915年、預金の年間増加率は低い水準にとどまった。1916年以降は増加率が毎年30%を超え、1915年末から1919年末の4年間で預金残高は3.2倍強になった。資本金も1918年に50万円、1920年に100万円へ増やした。手狭になった本店は1918年1月に建て替えに着手し、総工費8万4686円で1919年8月18日に新店舗での営業を始めた。創業25周年を前にした新築は、貯蓄銀行時代で預金が最も伸びた時期の成果を示すものと思われる。
- 紀陽銀行史(1975)「大正時代の紀陽貯蓄銀行」
- [35]1912年12月末の業容:資本金10万円、預金1,915,168円、貸出金925,243円、営業所19(本店・独立出張所5・四十三銀行支店内出張所12・代弁店1)、行員46名
- [36]1912年10月の重役会で独立出張所5店の支店化を決定、1913年2月24日に橋向・湊・中之島・和歌浦・加太が支店に。店舗に支店の名が付いた最初
- [37]1912〜1915年の預金増加率は低調、1916年以降急上昇し1916〜1919年は毎年30%超、1915〜1919年で預金残高3.2倍強
- [38]1912〜1915年の預金増加率は低調、1916年以降急上昇し1916〜1919年は毎年30%超、1915〜1919年で預金残高3.2倍強
- [40]本店新築は1916年から計画、1918年1月4日仮営業所へ移り着工、総工費8万4686円、1919年7月末竣工・8月18日から新本店で営業。大戦の好況と創業25周年(1920年)が背景
- 創立五十五年史(1950)「第二章 第二節 大正末頃迄の狀況」
- [39]資本金は1907年10万円、1913年20万円、1918年50万円、1920年100万円
1920年の戦後恐慌で各地の貯蓄銀行が相次いで休業し、貯蓄銀行条例の不備が問われた。政府は1921年4月14日に貯蓄銀行法を公布し、貯蓄銀行の業務の範囲と資金の運用方法に制限を設けた。紀陽貯蓄銀行は公布と同じ4月に対応の検討を始め、5月には普通銀行へ転換する方向を固めた。5月26日の支店長会では支配人の山田虎次郎氏が転換を明言し、顧客の貯蓄預金を小口の当座預金へ振り替えるよう勧めることを申し合わせた。頭取の加藤杲氏のもとで開いた1921年9月11日の臨時総会は、貯蓄銀行事業を1921年12月31日で廃止する案を可決した。提案理由には、兼営してきた普通銀行業務が伸びるなか、貯蓄銀行のままでは取引上の不便が大きいとある。転換は1922年1月に実現し、商号は紀陽銀行に改まった。
- 紀陽銀行史(1975)「貯蓄銀行法の制定と当行の転換」
- [41]1920年の戦後恐慌で貯蓄銀行の休業が続出し条例の不備が問われる。貯蓄銀行法は1921年4月14日公布・1922年1月1日施行、業務範囲の限定と資金運用の制限
- [42]1920年の戦後恐慌で貯蓄銀行の休業が続出し条例の不備が問われる。貯蓄銀行法は1921年4月14日公布・1922年1月1日施行、業務範囲の限定と資金運用の制限
- [43]1921年4月に普通銀行転換の検討開始、5月に方向決定。5月26日の支店長会で山田虎次郎支配人が転換を明示し、貯蓄預金を小口当座預金へ振替えるよう顧客に働きかけることを申し合わせ
- [44]1921年4月に普通銀行転換の検討開始、5月に方向決定。5月26日の支店長会で山田虎次郎支配人が転換を明示し、貯蓄預金を小口当座預金へ振替えるよう顧客に働きかけることを申し合わせ
- [45]1921年9月11日臨時株主総会で貯蓄銀行事業を同年12月31日で廃止し1922年1月1日から普通銀行事業を営むことを可決。提案理由は兼営の普通銀行業務が発展するなか貯蓄銀行事業では取引上不便
- [47]1921年9月11日臨時株主総会で貯蓄銀行事業を同年12月31日で廃止し1922年1月1日から普通銀行事業を営むことを可決。提案理由は兼営の普通銀行業務が発展するなか貯蓄銀行事業では取引上不便
- 紀陽銀行史(1975)「大正時代の紀陽貯蓄銀行」
- [46]1920年7月5日に後藤栄蔵が頭取を加藤杲に譲り、加藤杲が第3代頭取。1921年末の頭取は加藤杲
- 紀陽銀行 有価証券報告書【沿革】
- [48]1922年1月、普通銀行に転換し商号を株式会社紀陽銀行に改称
紀陽貯蓄銀行が転換を決める同じ1921年の1月、和歌山無尽株式会社が設立された。無尽を会社として営む営業無尽は明治30年代に生まれ、1913年末には全国で1151社を数えた。1915年には無尽業法が制定され、無尽は法に基づく庶民金融の制度となった。和歌山無尽は1951年10月に相互銀行法のもとで和歌山相互銀行へ改組された。1989年2月には普通銀行へ転換し、商号を和歌山銀行に改めた。2006年2月に両行は共同で持株会社の紀陽ホールディングスを設立し、同年10月に紀陽銀行が和歌山銀行を合併した。普通銀行へ移る紀陽貯蓄銀行と入れ替わるように、県内の小口の資金需要を別の制度で受ける担い手が生まれたと考えられる。
- 紀陽銀行 有価証券報告書【沿革】
- [49]1921年1月、和歌山無尽株式会社設立
- [53]1951年10月和歌山相互銀行に商号変更、1989年2月普通銀行に転換し和歌山銀行に改称、
- [54]2006年2月に共同株式移転で持株会社紀陽ホールディングス設立、同年10月に紀陽銀行を存続会社として和歌山銀行と合併
- 紀陽銀行史(1975)「和歌山県における銀行の成立」
- [50]営業無尽は明治30年代に会社組織で経営され始め、1913年末に1151社。1915年に無尽業法が制定され法制化
- [51]営業無尽は明治30年代に会社組織で経営され始め、1913年末に1151社。1915年に無尽業法が制定され法制化
- 紀陽銀行史(1975)
- [52]和歌山無尽株式会社(1921年設立)は1951年10月に和歌山相互銀行に転換
参考文献[35]-[54]
- 紀陽銀行史(1975)「大正時代の紀陽貯蓄銀行」
- [35]1912年12月末の業容:資本金10万円、預金1,915,168円、貸出金925,243円、営業所19(本店・独立出張所5・四十三銀行支店内出張所12・代弁店1)、行員46名
- [36]1912年10月の重役会で独立出張所5店の支店化を決定、1913年2月24日に橋向・湊・中之島・和歌浦・加太が支店に。店舗に支店の名が付いた最初
- [37]1912〜1915年の預金増加率は低調、1916年以降急上昇し1916〜1919年は毎年30%超、1915〜1919年で預金残高3.2倍強
- [38]1912〜1915年の預金増加率は低調、1916年以降急上昇し1916〜1919年は毎年30%超、1915〜1919年で預金残高3.2倍強
- [40]本店新築は1916年から計画、1918年1月4日仮営業所へ移り着工、総工費8万4686円、1919年7月末竣工・8月18日から新本店で営業。大戦の好況と創業25周年(1920年)が背景
- [46]1920年7月5日に後藤栄蔵が頭取を加藤杲に譲り、加藤杲が第3代頭取。1921年末の頭取は加藤杲
- 創立五十五年史(1950)「第二章 第二節 大正末頃迄の狀況」
- [39]資本金は1907年10万円、1913年20万円、1918年50万円、1920年100万円
- 紀陽銀行史(1975)「貯蓄銀行法の制定と当行の転換」
- [41]1920年の戦後恐慌で貯蓄銀行の休業が続出し条例の不備が問われる。貯蓄銀行法は1921年4月14日公布・1922年1月1日施行、業務範囲の限定と資金運用の制限
- [42]1920年の戦後恐慌で貯蓄銀行の休業が続出し条例の不備が問われる。貯蓄銀行法は1921年4月14日公布・1922年1月1日施行、業務範囲の限定と資金運用の制限
- [43]1921年4月に普通銀行転換の検討開始、5月に方向決定。5月26日の支店長会で山田虎次郎支配人が転換を明示し、貯蓄預金を小口当座預金へ振替えるよう顧客に働きかけることを申し合わせ
- [44]1921年4月に普通銀行転換の検討開始、5月に方向決定。5月26日の支店長会で山田虎次郎支配人が転換を明示し、貯蓄預金を小口当座預金へ振替えるよう顧客に働きかけることを申し合わせ
- [45]1921年9月11日臨時株主総会で貯蓄銀行事業を同年12月31日で廃止し1922年1月1日から普通銀行事業を営むことを可決。提案理由は兼営の普通銀行業務が発展するなか貯蓄銀行事業では取引上不便
- [47]1921年9月11日臨時株主総会で貯蓄銀行事業を同年12月31日で廃止し1922年1月1日から普通銀行事業を営むことを可決。提案理由は兼営の普通銀行業務が発展するなか貯蓄銀行事業では取引上不便
- 紀陽銀行 有価証券報告書【沿革】
- [48]1922年1月、普通銀行に転換し商号を株式会社紀陽銀行に改称
- [49]1921年1月、和歌山無尽株式会社設立
- [53]1951年10月和歌山相互銀行に商号変更、1989年2月普通銀行に転換し和歌山銀行に改称、
- [54]2006年2月に共同株式移転で持株会社紀陽ホールディングス設立、同年10月に紀陽銀行を存続会社として和歌山銀行と合併
- 紀陽銀行史(1975)「和歌山県における銀行の成立」
- [50]営業無尽は明治30年代に会社組織で経営され始め、1913年末に1151社。1915年に無尽業法が制定され法制化
- [51]営業無尽は明治30年代に会社組織で経営され始め、1913年末に1151社。1915年に無尽業法が制定され法制化
- 紀陽銀行史(1975)
- [52]和歌山無尽株式会社(1921年設立)は1951年10月に和歌山相互銀行に転換
出典・参考
13件
- 紀陽銀行 有価証券報告書【沿革】
- 創立五十五年史(1950)「第一章 創業當時 第一節 發起」
- 創立五十五年史(1950)「第一章 第二節 創立」
- 創立五十五年史(1950)「第二章 第一節 創業後の十ケ年」
- 創立五十五年史(1950)「第二章 第二節 大正末頃迄の狀況」
- 紀陽銀行史(1975)「紀陽貯蓄銀行の誕生」
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」
- 紀陽銀行史(1975)「日清戦争以後の経済変動」
- 紀陽銀行史(1975)「明治時代の紀陽貯蓄銀行」「大正時代の紀陽貯蓄銀行」
- 紀陽銀行史(1975)「大正時代の紀陽貯蓄銀行」
- 紀陽銀行史(1975)「貯蓄銀行法の制定と当行の転換」
- 紀陽銀行史(1975)「和歌山県における銀行の成立」
- 紀陽銀行史(1975)