第1章 年〜年

松坂屋:伊藤祐道の呉服小間物商開業と上野松坂屋の買収

1611年〜名古屋本町の呉服小間物商伊藤屋と、呉服太物の店舗小売への転換

伊藤源左衛門祐道氏が名古屋本町に呉服と小間物を扱う小売の店「伊藤屋」を開業したのは、1611年(慶長16年)である。伊藤祐道氏の父の蘭丸祐広氏は織田家の旗下に属し、伊藤祐道氏は主家を襲った変事に遭って武士として身を立てる志を捨てた。伊藤祐道氏はその後に清洲から名古屋へ移り住み、本町に自らの店を構えた。明治百年を期して1968年に編まれた企業史は、この本町の店を松坂屋の起点と位置づけた。1955年時点で社長を務めた伊藤次郎左衞門氏の家系は、伊藤祐道氏を始祖としてさかのぼる。城下の建設が進む名古屋は、武家を離れた者が商いを興すうえで衣料の需要を見込める土地だったとみられる。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
    • [1]伊藤祐道は信長旗下の蘭丸祐広の子で、主家の変事後に退身し、慶長16年に名古屋本町で呉服小間物の小売商伊藤屋を開業。1955年の社長伊藤次郎左衞門の始祖
    • [2]伊藤祐道は信長旗下の蘭丸祐広の子で、主家の変事後に退身し、慶長16年に名古屋本町で呉服小間物の小売商伊藤屋を開業。1955年の社長伊藤次郎左衞門の始祖
    • [5]伊藤祐道は信長旗下の蘭丸祐広の子で、主家の変事後に退身し、慶長16年に名古屋本町で呉服小間物の小売商伊藤屋を開業。1955年の社長伊藤次郎左衞門の始祖
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」
    • [3]織田信長の家臣だった伊藤源左衛門祐道が清洲から名古屋へ移り、本町に呉服小間物商の店を構えたのが松坂屋の起こり
    • [4]織田信長の家臣だった伊藤源左衛門祐道が清洲から名古屋へ移り、本町に呉服小間物商の店を構えたのが松坂屋の起こり

2代の伊藤祐基氏は1659年(万治2年)に店を名古屋の茶屋町へ移し、小売に加えて呉服小間物の問屋の商いを始めた。新店舗は開業直後に万治の大火で類焼し、伊藤祐基氏は仮店舗で京都仕入れの呉服や古着を原価に近い値で被災者に販売した。伊藤家は薄利多売と現金掛け値なしの商法をこの経験から営業方針に据えた。1667年(寛文7年)には3代の伊藤祐蔵氏が、類焼した店舗を間口12mへ広げて新築。4代の伊藤祐政氏の代の1698年(元禄11年)には店が250坪となり、茶屋町通りで最大の呉服店に育った。問屋の兼業で城下の取引を広く取り込み資産を厚くしたことが、のちの小売転換の元手になったと推察される。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
    • [6]2代祐基の代に店舗を名古屋茶屋町へ移転し、呉服小間物問屋を始めた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」
    • [7]2代祐基は元服して次郎左衛門を名乗り万治2年(1659)茶屋町で問屋を開業、以後当主は次郎左衛門を襲名。万治の大火で類焼し、仮店舗で京都仕入れの呉服・古着を原価近くで被災者に提供、薄利多売・現金掛け値なしを営業方針とした
    • [8]2代祐基は元服して次郎左衛門を名乗り万治2年(1659)茶屋町で問屋を開業、以後当主は次郎左衛門を襲名。万治の大火で類焼し、仮店舗で京都仕入れの呉服・古着を原価近くで被災者に提供、薄利多売・現金掛け値なしを営業方針とした
    • [9]2代祐基は元服して次郎左衛門を名乗り万治2年(1659)茶屋町で問屋を開業、以後当主は次郎左衛門を襲名。万治の大火で類焼し、仮店舗で京都仕入れの呉服・古着を原価近くで被災者に提供、薄利多売・現金掛け値なしを営業方針とした
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 2章「呉服小売商に転業・江戸上野に進出」
    • [10]3代祐蔵が1667年1月に店舗を間口12mに拡張新築、4代祐政の代の1698年5月に間口23m奥行36m・250坪の茶屋町通り第一の大店に成長
    • [11]3代祐蔵が1667年1月に店舗を間口12mに拡張新築、4代祐政の代の1698年5月に間口23m奥行36m・250坪の茶屋町通り第一の大店に成長

5代の伊藤祐寿氏は1736年(元文元年)11月18日、家業を呉服問屋から呉服太物の小売へ切り替えた。当時の呉服商は卸売が本業で小売も個人の外売りが多く、伊藤祐寿氏は問屋で築いた資産をもとに初めから店舗で販売した。都市が発展して庶民の衣服の需要が変わり、客層の広い小売に商機が開けたことが転換の理由である。伊藤祐寿氏は同時に6か条の掟書を定め、顧客への奉仕と顧客の平等を商いの根本に置いた。伊藤祐寿氏は掟書の理念を正札販売で具体化し、盆暮れの2回払いが通例の時代に現金売りを掲げた。代金回収の遅れと貸倒れの備えを売価から外し、値引き交渉に頼らない廉価販売を成り立たせる狙いだったと考えられる。

  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 2章「呉服小売商に転業・江戸上野に進出」
    • [12]5代祐寿は1736年(元文元年)11月18日に呉服問屋から呉服太物小売商へ転業し、外売りでなく当初から店舗営業。都市の発展・庶民の衣服需要の変化に応じた転換。正札付き掛値なしと現金売りを採用(当時は盆暮れ2回の回収が通例)
    • [14]5代祐寿は1736年(元文元年)11月18日に呉服問屋から呉服太物小売商へ転業し、外売りでなく当初から店舗営業。都市の発展・庶民の衣服需要の変化に応じた転換。正札付き掛値なしと現金売りを採用(当時は盆暮れ2回の回収が通例)
    • [15]5代祐寿は1736年(元文元年)11月18日に呉服問屋から呉服太物小売商へ転業し、外売りでなく当初から店舗営業。都市の発展・庶民の衣服需要の変化に応じた転換。正札付き掛値なしと現金売りを採用(当時は盆暮れ2回の回収が通例)
    • [17]5代祐寿は1736年(元文元年)11月18日に呉服問屋から呉服太物小売商へ転業し、外売りでなく当初から店舗営業。都市の発展・庶民の衣服需要の変化に応じた転換。正札付き掛値なしと現金売りを採用(当時は盆暮れ2回の回収が通例)
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
    • [13]問屋業を廃して呉服太物の小売商に転換(同書は時期を享保年間とする)
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 4章「銀行創設と明治中期の営業」
    • [16]掟書は1736年(元文元年)に5代祐寿が小売商へ転業する際に経営の真髄として定めたもの
参考文献[1]-[17]
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
    • [1]伊藤祐道は信長旗下の蘭丸祐広の子で、主家の変事後に退身し、慶長16年に名古屋本町で呉服小間物の小売商伊藤屋を開業。1955年の社長伊藤次郎左衞門の始祖
    • [2]伊藤祐道は信長旗下の蘭丸祐広の子で、主家の変事後に退身し、慶長16年に名古屋本町で呉服小間物の小売商伊藤屋を開業。1955年の社長伊藤次郎左衞門の始祖
    • [5]伊藤祐道は信長旗下の蘭丸祐広の子で、主家の変事後に退身し、慶長16年に名古屋本町で呉服小間物の小売商伊藤屋を開業。1955年の社長伊藤次郎左衞門の始祖
    • [6]2代祐基の代に店舗を名古屋茶屋町へ移転し、呉服小間物問屋を始めた
    • [13]問屋業を廃して呉服太物の小売商に転換(同書は時期を享保年間とする)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」
    • [3]織田信長の家臣だった伊藤源左衛門祐道が清洲から名古屋へ移り、本町に呉服小間物商の店を構えたのが松坂屋の起こり
    • [4]織田信長の家臣だった伊藤源左衛門祐道が清洲から名古屋へ移り、本町に呉服小間物商の店を構えたのが松坂屋の起こり
    • [7]2代祐基は元服して次郎左衛門を名乗り万治2年(1659)茶屋町で問屋を開業、以後当主は次郎左衛門を襲名。万治の大火で類焼し、仮店舗で京都仕入れの呉服・古着を原価近くで被災者に提供、薄利多売・現金掛け値なしを営業方針とした
    • [8]2代祐基は元服して次郎左衛門を名乗り万治2年(1659)茶屋町で問屋を開業、以後当主は次郎左衛門を襲名。万治の大火で類焼し、仮店舗で京都仕入れの呉服・古着を原価近くで被災者に提供、薄利多売・現金掛け値なしを営業方針とした
    • [9]2代祐基は元服して次郎左衛門を名乗り万治2年(1659)茶屋町で問屋を開業、以後当主は次郎左衛門を襲名。万治の大火で類焼し、仮店舗で京都仕入れの呉服・古着を原価近くで被災者に提供、薄利多売・現金掛け値なしを営業方針とした
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 2章「呉服小売商に転業・江戸上野に進出」
    • [10]3代祐蔵が1667年1月に店舗を間口12mに拡張新築、4代祐政の代の1698年5月に間口23m奥行36m・250坪の茶屋町通り第一の大店に成長
    • [11]3代祐蔵が1667年1月に店舗を間口12mに拡張新築、4代祐政の代の1698年5月に間口23m奥行36m・250坪の茶屋町通り第一の大店に成長
    • [12]5代祐寿は1736年(元文元年)11月18日に呉服問屋から呉服太物小売商へ転業し、外売りでなく当初から店舗営業。都市の発展・庶民の衣服需要の変化に応じた転換。正札付き掛値なしと現金売りを採用(当時は盆暮れ2回の回収が通例)
    • [14]5代祐寿は1736年(元文元年)11月18日に呉服問屋から呉服太物小売商へ転業し、外売りでなく当初から店舗営業。都市の発展・庶民の衣服需要の変化に応じた転換。正札付き掛値なしと現金売りを採用(当時は盆暮れ2回の回収が通例)
    • [15]5代祐寿は1736年(元文元年)11月18日に呉服問屋から呉服太物小売商へ転業し、外売りでなく当初から店舗営業。都市の発展・庶民の衣服需要の変化に応じた転換。正札付き掛値なしと現金売りを採用(当時は盆暮れ2回の回収が通例)
    • [17]5代祐寿は1736年(元文元年)11月18日に呉服問屋から呉服太物小売商へ転業し、外売りでなく当初から店舗営業。都市の発展・庶民の衣服需要の変化に応じた転換。正札付き掛値なしと現金売りを採用(当時は盆暮れ2回の回収が通例)
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 4章「銀行創設と明治中期の営業」
    • [16]掟書は1736年(元文元年)に5代祐寿が小売商へ転業する際に経営の真髄として定めたもの

1768年〜江戸上野の松坂屋の買収と、尾張藩の御用金が残した藩債

5代の伊藤祐寿氏は1745年(延享2年)に家督を譲り、江戸の越後屋や白木屋が先に拠点を構えていた京都の姉小路に仕入店を開設。11代の伊藤祐恵氏は1768年(明和5年)4月、上野広小路の呉服店松坂屋を4,517両で買収した。買収は店舗・店員・店名・商品の一切を含み、伊藤祐恵氏は屋号を残して商標をいとう丸に改めた。伊藤家は国内最大の消費地である江戸の拠点として上野の店を関東支店とし、松坂屋いとう呉服店の名で営業した。上野は寛永寺の門前町で市街から離れており、庶民向けの商いでは日本橋の越後屋や白木屋に及ばなかった。京都で仕入れの拠点を得たことで、江戸でも品揃えで競える見通しが立ったと思われる。

  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 2章「呉服小売商に転業・江戸上野に進出」
    • [18]祐寿は1745年に家督を譲り京都姉小路に仕入店を開設(越後屋・白木屋は既に京都仕入店あり)。11代祐恵が1768年4月に上野松坂屋を4,517両で買収(店舗・店員・店名・商品を含む)、屋号を存続し商標をいとう丸に変更。上野は寛永寺の門前町で市街から遠く、一般庶民への商いは日本橋の越後屋・白木屋に及ばなかった
    • [19]祐寿は1745年に家督を譲り京都姉小路に仕入店を開設(越後屋・白木屋は既に京都仕入店あり)。11代祐恵が1768年4月に上野松坂屋を4,517両で買収(店舗・店員・店名・商品を含む)、屋号を存続し商標をいとう丸に変更。上野は寛永寺の門前町で市街から遠く、一般庶民への商いは日本橋の越後屋・白木屋に及ばなかった
    • [20]祐寿は1745年に家督を譲り京都姉小路に仕入店を開設(越後屋・白木屋は既に京都仕入店あり)。11代祐恵が1768年4月に上野松坂屋を4,517両で買収(店舗・店員・店名・商品を含む)、屋号を存続し商標をいとう丸に変更。上野は寛永寺の門前町で市街から遠く、一般庶民への商いは日本橋の越後屋・白木屋に及ばなかった
    • [23]祐寿は1745年に家督を譲り京都姉小路に仕入店を開設(越後屋・白木屋は既に京都仕入店あり)。11代祐恵が1768年4月に上野松坂屋を4,517両で買収(店舗・店員・店名・商品を含む)、屋号を存続し商標をいとう丸に変更。上野は寛永寺の門前町で市街から遠く、一般庶民への商いは日本橋の越後屋・白木屋に及ばなかった
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
    • [21]延享2年に京都へ仕入店を設置し、江戸進出を企図して明和5年に上野松坂屋を買収、関東支店として松坂屋いとう呉服店と称した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」
    • [22]明和5年(1768)、国内第一の消費地である江戸への進出を狙い、上野の松坂屋利兵衛の呉服店を店員・商品ごと譲り受けた

上野の店は買収から4年後の1772年(明和9年)2月に全焼し、同年11月に再建して営業を再開した。1841年(天保12年)に始まった天保の改革は奢侈を禁じ、呉服商に絹物の販売を一切認めなかった。幕府は多額の御用金も課して越後屋や白木屋まで閉店の寸前に追い込み、上野松坂屋は名古屋本店の支援で打撃を切り抜けた。1855年(安政2年)10月2日の江戸地震では、上野の店が倒壊し土蔵10戸とともに焼失。13代の伊藤祐良氏は同年12月に仮店舗で営業を再開させ、名古屋で切り組んだ建材を船で江戸へ送った。1856年(安政3年)9月の新築開店では引札5万5千枚を配り、開店から3日間の売上は3,150両となった。

  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 2章「呉服小売商に転業・江戸上野に進出」
    • [24]1772年(明和9年)2月29日に上野松坂屋全焼、同年11月1日再建開店
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 3章「幕末時代と明治維新」
    • [25]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両
    • [26]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両
    • [27]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両
    • [28]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両
    • [29]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両

伊藤家は尾張藩の呉服御用を務める御用商人の筆頭格で、幕末の藩財政の窮迫に伴い御用金を重ねて負担した。負担額は1842年(天保13年)が4万両、1856年(安政3年)が1万8千両である。御用金は返されないまま廃藩置県を迎え、新政府は明治6年に1843年以前の藩債を失効とし、以後の分を50か年賦の無利息公債とした。伊藤家は民間からの調達金に自家名義の預り証を出していたため、債権者から即時の返還を求められた。14代の伊藤祐昌氏は債務を引き受けて私財で弁済すると決め、番頭の初代鬼頭幸七氏とともに債権者に分割返済を頼んで回った。返済の原資となる呉服店の信用を保つことが、家名を守る最も確かな手段だったのだろう。

  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 3章「幕末時代と明治維新」
    • [30]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願
    • [32]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願
    • [33]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願
    • [34]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願
    • [36]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
    • [31]藩公の呉服御用を命ぜられ、金銭入帳役を承るなど藩との関係を持った
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」
    • [35]明治維新期は御用金の調達や世情騒然で困難な時代だった
参考文献[18]-[36]
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 2章「呉服小売商に転業・江戸上野に進出」
    • [18]祐寿は1745年に家督を譲り京都姉小路に仕入店を開設(越後屋・白木屋は既に京都仕入店あり)。11代祐恵が1768年4月に上野松坂屋を4,517両で買収(店舗・店員・店名・商品を含む)、屋号を存続し商標をいとう丸に変更。上野は寛永寺の門前町で市街から遠く、一般庶民への商いは日本橋の越後屋・白木屋に及ばなかった
    • [19]祐寿は1745年に家督を譲り京都姉小路に仕入店を開設(越後屋・白木屋は既に京都仕入店あり)。11代祐恵が1768年4月に上野松坂屋を4,517両で買収(店舗・店員・店名・商品を含む)、屋号を存続し商標をいとう丸に変更。上野は寛永寺の門前町で市街から遠く、一般庶民への商いは日本橋の越後屋・白木屋に及ばなかった
    • [20]祐寿は1745年に家督を譲り京都姉小路に仕入店を開設(越後屋・白木屋は既に京都仕入店あり)。11代祐恵が1768年4月に上野松坂屋を4,517両で買収(店舗・店員・店名・商品を含む)、屋号を存続し商標をいとう丸に変更。上野は寛永寺の門前町で市街から遠く、一般庶民への商いは日本橋の越後屋・白木屋に及ばなかった
    • [23]祐寿は1745年に家督を譲り京都姉小路に仕入店を開設(越後屋・白木屋は既に京都仕入店あり)。11代祐恵が1768年4月に上野松坂屋を4,517両で買収(店舗・店員・店名・商品を含む)、屋号を存続し商標をいとう丸に変更。上野は寛永寺の門前町で市街から遠く、一般庶民への商いは日本橋の越後屋・白木屋に及ばなかった
    • [24]1772年(明和9年)2月29日に上野松坂屋全焼、同年11月1日再建開店
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
    • [21]延享2年に京都へ仕入店を設置し、江戸進出を企図して明和5年に上野松坂屋を買収、関東支店として松坂屋いとう呉服店と称した
    • [31]藩公の呉服御用を命ぜられ、金銭入帳役を承るなど藩との関係を持った
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」
    • [22]明和5年(1768)、国内第一の消費地である江戸への進出を狙い、上野の松坂屋利兵衛の呉服店を店員・商品ごと譲り受けた
    • [35]明治維新期は御用金の調達や世情騒然で困難な時代だった
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 3章「幕末時代と明治維新」
    • [25]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両
    • [26]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両
    • [27]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両
    • [28]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両
    • [29]1841年の天保の改革で呉服商は絹物販売を禁じられ、御用金で大呉服店も閉店寸前に。松坂屋は名古屋本店の支援で切り抜けた。1855年10月2日の江戸地震で上野店は倒壊・土蔵10戸とも全焼。祐良は同年12月に仮店舗で営業、翌年名古屋で切組みした建材を船で送り、1856年9月28日開店、引札5万5千枚、開店3日で3,150両
    • [30]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願
    • [32]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願
    • [33]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願
    • [34]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願
    • [36]尾張藩の御用金負担は1842年4万両・1856年1万8千両など。御用金は本来償還されるものだが未返済のまま廃藩置県。明治6年の布告で天保14年以前の藩債は失効、以後は50か年賦無利息償還。伊藤家は自己名義の預り証を出していたため即時返還を迫られ、祐昌は私財での弁済を決め、番頭初代鬼頭幸七とともに債権者を回り長期分割を懇願

1875年〜大阪高麗橋のゑびす屋買収と、資本金10万円の伊藤銀行

14代の伊藤祐昌氏は明治8年(1875年)、大阪高麗橋筋東横堀角のゑびす屋呉服店を買収した。大阪は維新後も官営工場を誘致して産業振興を進めており、伊藤祐昌氏は売却の話が来た好機にその将来性を見込んだ。買収は上野の店と同じく店員と商品を全て引き継ぐもので、同年2月に新町通3丁目へ移してゑびす屋いとう呉服店の名で開業した。ゑびす屋は享保のころ紀州出身の島田善右衛門氏が創業し、江戸尾張町に支店を持つ店だった。伊藤家は明治4年に尾張犬山へ出張店を置き、明治8年には岐阜にも支店を開設した。藩債の弁済を抱えながら出店を重ねたのは、不況の続く名古屋だけに依存しない販路を求めたためと推測される。

  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 3章「幕末時代と明治維新」
    • [37]明治8年、大阪高麗橋筋東横堀角のゑびす屋呉服店の売却話を受け、産業振興に意欲的な大阪の将来性に着目した祐昌が買収(店員・商品すべて)、同年2月新町通3丁目へ移しゑびす屋いとう呉服店として開店。明治23年9月に類焼し2階建てで新築。ゑびす屋は享保ごろ紀州の島田善右衛門が創業、江戸尾張町に支店
    • [39]明治8年、大阪高麗橋筋東横堀角のゑびす屋呉服店の売却話を受け、産業振興に意欲的な大阪の将来性に着目した祐昌が買収(店員・商品すべて)、同年2月新町通3丁目へ移しゑびす屋いとう呉服店として開店。明治23年9月に類焼し2階建てで新築。ゑびす屋は享保ごろ紀州の島田善右衛門が創業、江戸尾張町に支店
    • [40]明治8年、大阪高麗橋筋東横堀角のゑびす屋呉服店の売却話を受け、産業振興に意欲的な大阪の将来性に着目した祐昌が買収(店員・商品すべて)、同年2月新町通3丁目へ移しゑびす屋いとう呉服店として開店。明治23年9月に類焼し2階建てで新築。ゑびす屋は享保ごろ紀州の島田善右衛門が創業、江戸尾張町に支店
    • [41]明治8年、大阪高麗橋筋東横堀角のゑびす屋呉服店の売却話を受け、産業振興に意欲的な大阪の将来性に着目した祐昌が買収(店員・商品すべて)、同年2月新町通3丁目へ移しゑびす屋いとう呉服店として開店。明治23年9月に類焼し2階建てで新築。ゑびす屋は享保ごろ紀州の島田善右衛門が創業、江戸尾張町に支店
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」
    • [38]明治4年に犬山出張店、同8年に岐阜支店を開業し、同年大阪高麗橋筋の蛭子屋呉服店を買収、新町通に移してゑびす屋いとう呉服店として開店
    • [42]明治4年に犬山出張店、同8年に岐阜支店を開業し、同年大阪高麗橋筋の蛭子屋呉服店を買収、新町通に移してゑびす屋いとう呉服店として開店

伊藤家は明治8年5月に県税取扱いの一部を委ねられ、翌年1月に愛知県為替方として本町角で業務を始めた。為替方を足場に、伊藤祐昌氏ら9名の発起で明治10年5月、資本金10万円の第十一国立銀行が名古屋で初めて生まれた。政府が日本銀行の創設と兌換券の統一へ進むと国立銀行は紙幣の発行権を失い、私立銀行を設ける動きが強まった。伊藤祐昌氏は明治14年6月30日に免許を受け、名古屋初の私立銀行として資本金10万円の伊藤銀行を設けた。伊藤銀行の開業は同年9月1日で、設立を急いだ理由の1つは藩債の未済分を株式に置き換えて完済することである。伊藤銀行は明治16年9月に東京支店を開設し、明治26年3月には姉妹行の伊藤貯蓄銀行を独立させた。

  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 4章「銀行創設と明治中期の営業」
    • [43]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [45]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [46]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [47]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [48]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [49]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
    • [44]明治維新直後に府県為替方を担当し世上の信用を高めた

14代の伊藤祐昌氏が明治34年11月に制定した明治の掟書は、元文の掟書を接客から店員の教育まで43か条に広げたものである。日露戦争の後、伊藤祐昌氏の4男で28歳の伊藤守松氏(のちの伊藤祐民氏)は、堅実経営を続けた父を説いて新しい施策を実行に移した。伊藤守松氏は名古屋本店に意匠係を設けて元禄衣裳を製作し、国内初とされるファッションショーを開いた。伊藤守松氏は売出しを立売り式に改め、店内を洋風にしてガラスウインドーに等身大の人形を飾った。明治39年9月には菊判100ページのPR誌「衣道楽」を創刊し、のちに百貨店開業とともに「モーラ」と改題した。伊藤祐民氏は明治42年に渡米して百貨店を視察し、翌年の株式会社いとう呉服店の設立へ進んだ。

  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 4章「銀行創設と明治中期の営業」
    • [50]明治34年11月、祐昌が元文の掟書を改正し43か条の「明治の掟書」を制定(接客・品揃え・仕入・引合・出納帳簿・店員心得・教育・雇用職責)
    • [51]次代の盟主と目された守松(祐民)28歳が堅実経営の父祐昌を動かし、名古屋本店に意匠係を設け元禄衣裳を製作、本邦初演とされるファッションショーを開催。売出しを立売り式に、店内を洋風化しガラスウインドーに等身大人形を陳列。明治39年9月にPR誌「衣道楽」(菊判100ページ)創刊、百貨店開業時に「モーラ」と改題
    • [52]次代の盟主と目された守松(祐民)28歳が堅実経営の父祐昌を動かし、名古屋本店に意匠係を設け元禄衣裳を製作、本邦初演とされるファッションショーを開催。売出しを立売り式に、店内を洋風化しガラスウインドーに等身大人形を陳列。明治39年9月にPR誌「衣道楽」(菊判100ページ)創刊、百貨店開業時に「モーラ」と改題
    • [53]次代の盟主と目された守松(祐民)28歳が堅実経営の父祐昌を動かし、名古屋本店に意匠係を設け元禄衣裳を製作、本邦初演とされるファッションショーを開催。売出しを立売り式に、店内を洋風化しガラスウインドーに等身大人形を陳列。明治39年9月にPR誌「衣道楽」(菊判100ページ)創刊、百貨店開業時に「モーラ」と改題
    • [54]次代の盟主と目された守松(祐民)28歳が堅実経営の父祐昌を動かし、名古屋本店に意匠係を設け元禄衣裳を製作、本邦初演とされるファッションショーを開催。売出しを立売り式に、店内を洋風化しガラスウインドーに等身大人形を陳列。明治39年9月にPR誌「衣道楽」(菊判100ページ)創刊、百貨店開業時に「モーラ」と改題
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」
    • [55]15代祐民は明治42年に渡米して先進国のデパートを見学し、同43年に資本金50万円の株式会社いとう呉服店を設立
参考文献[37]-[55]
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 3章「幕末時代と明治維新」
    • [37]明治8年、大阪高麗橋筋東横堀角のゑびす屋呉服店の売却話を受け、産業振興に意欲的な大阪の将来性に着目した祐昌が買収(店員・商品すべて)、同年2月新町通3丁目へ移しゑびす屋いとう呉服店として開店。明治23年9月に類焼し2階建てで新築。ゑびす屋は享保ごろ紀州の島田善右衛門が創業、江戸尾張町に支店
    • [39]明治8年、大阪高麗橋筋東横堀角のゑびす屋呉服店の売却話を受け、産業振興に意欲的な大阪の将来性に着目した祐昌が買収(店員・商品すべて)、同年2月新町通3丁目へ移しゑびす屋いとう呉服店として開店。明治23年9月に類焼し2階建てで新築。ゑびす屋は享保ごろ紀州の島田善右衛門が創業、江戸尾張町に支店
    • [40]明治8年、大阪高麗橋筋東横堀角のゑびす屋呉服店の売却話を受け、産業振興に意欲的な大阪の将来性に着目した祐昌が買収(店員・商品すべて)、同年2月新町通3丁目へ移しゑびす屋いとう呉服店として開店。明治23年9月に類焼し2階建てで新築。ゑびす屋は享保ごろ紀州の島田善右衛門が創業、江戸尾張町に支店
    • [41]明治8年、大阪高麗橋筋東横堀角のゑびす屋呉服店の売却話を受け、産業振興に意欲的な大阪の将来性に着目した祐昌が買収(店員・商品すべて)、同年2月新町通3丁目へ移しゑびす屋いとう呉服店として開店。明治23年9月に類焼し2階建てで新築。ゑびす屋は享保ごろ紀州の島田善右衛門が創業、江戸尾張町に支店
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」
    • [38]明治4年に犬山出張店、同8年に岐阜支店を開業し、同年大阪高麗橋筋の蛭子屋呉服店を買収、新町通に移してゑびす屋いとう呉服店として開店
    • [42]明治4年に犬山出張店、同8年に岐阜支店を開業し、同年大阪高麗橋筋の蛭子屋呉服店を買収、新町通に移してゑびす屋いとう呉服店として開店
    • [55]15代祐民は明治42年に渡米して先進国のデパートを見学し、同43年に資本金50万円の株式会社いとう呉服店を設立
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 4章「銀行創設と明治中期の営業」
    • [43]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [45]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [46]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [47]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [48]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [49]明治8年5月に県の税取扱いの一部を委嘱、翌9年1月に愛知県為替方として本町角で開業。明治10年5月、祐昌ほか8名の発起で名古屋初の第十一国立銀行(資本金10万円)。日銀創設で国立銀行が紙幣発行権を失い私立銀行の機運。明治14年6月30日免許・9月1日開業で名古屋初の私立銀行伊藤銀行(資本金10万円)、藩債の未済分を株式に代えて完済する狙い。明治16年9月東京支店、明治26年3月伊藤貯蓄銀行を独立
    • [50]明治34年11月、祐昌が元文の掟書を改正し43か条の「明治の掟書」を制定(接客・品揃え・仕入・引合・出納帳簿・店員心得・教育・雇用職責)
    • [51]次代の盟主と目された守松(祐民)28歳が堅実経営の父祐昌を動かし、名古屋本店に意匠係を設け元禄衣裳を製作、本邦初演とされるファッションショーを開催。売出しを立売り式に、店内を洋風化しガラスウインドーに等身大人形を陳列。明治39年9月にPR誌「衣道楽」(菊判100ページ)創刊、百貨店開業時に「モーラ」と改題
    • [52]次代の盟主と目された守松(祐民)28歳が堅実経営の父祐昌を動かし、名古屋本店に意匠係を設け元禄衣裳を製作、本邦初演とされるファッションショーを開催。売出しを立売り式に、店内を洋風化しガラスウインドーに等身大人形を陳列。明治39年9月にPR誌「衣道楽」(菊判100ページ)創刊、百貨店開業時に「モーラ」と改題
    • [53]次代の盟主と目された守松(祐民)28歳が堅実経営の父祐昌を動かし、名古屋本店に意匠係を設け元禄衣裳を製作、本邦初演とされるファッションショーを開催。売出しを立売り式に、店内を洋風化しガラスウインドーに等身大人形を陳列。明治39年9月にPR誌「衣道楽」(菊判100ページ)創刊、百貨店開業時に「モーラ」と改題
    • [54]次代の盟主と目された守松(祐民)28歳が堅実経営の父祐昌を動かし、名古屋本店に意匠係を設け元禄衣裳を製作、本邦初演とされるファッションショーを開催。売出しを立売り式に、店内を洋風化しガラスウインドーに等身大人形を陳列。明治39年9月にPR誌「衣道楽」(菊判100ページ)創刊、百貨店開業時に「モーラ」と改題
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
    • [44]明治維新直後に府県為替方を担当し世上の信用を高めた

出典・参考

5件
出典・参考
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 2章「呉服小売商に転業・江戸上野に進出」
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 4章「銀行創設と明治中期の営業」
  • 松坂屋70年史(1981年)第1編 3章「幕末時代と明治維新」
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「松坂屋」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編「松坂屋」

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