木曽路:まつば喫茶と東郊松葉の設立
1952年〜資本金45万円で法人にした喫茶マツバと、銀行を口説いて出した2号店
木曽路の起点は、1952年9月に名古屋市中区裏門前町で設立された株式会社まつば喫茶である。資本金45万円で、それまで営業していた「喫茶マツバ」の事業を引き継いでの法人化。店を始めたのは、のちに社長となる松原正行氏の夫人で、結婚前に名古屋で営んでいた喫茶店が木曽路の母体になった。松原正行氏自身も、夫人がすでに営んでいた小さな喫茶店を経営の出発点に挙げた。個人の店を会社に改めた動機は伝わっておらず、店を続けるための法人を整えたものとみられる。
- 木曽路 有価証券報告書【沿革】
- [1]1952年9月、名古屋市中区裏門前町に資本金45万円で株式会社まつば喫茶を設立し、「喫茶マツバ」の事業を承継
- [2]1952年9月、名古屋市中区裏門前町に資本金45万円で株式会社まつば喫茶を設立し、「喫茶マツバ」の事業を承継
- 日経ビジネス 556 1990年5月21日号
- [3]木曽路の母体は松原正行社長の夫人が独身時代に名古屋市内で開業した喫茶店
- 近代企業リサーチ 509 1985年11月10日号「ザ・経営者〈松原正行氏〉」p75
- [4]松原正行氏は夫人が始めていた小さな喫茶店の経営から出発
松原正行氏は高校を卒業したあと、兄が経営するミシン部品の組立工場を手伝っていた。本人の回想では、1953年に24歳で幼なじみと養子縁組によって結婚し、夫人の喫茶店の経営を引き受けた。この結婚の年は、1952年9月のまつば喫茶の設立より1年後にあたる。店を何軒にも増やしたのは、結婚後の松原正行氏である。2号店を構えるころ、喫茶店の経営に対する金融機関の姿勢は冷淡だった。それでも松原正行氏は銀行の支店長を説得して融資を受けて店を拡張し、1956年に2号店を出店した。製造業の現場から来た経営者が最初に直面した課題は、出店資金の調達だったと思われる。
- 近代企業リサーチ 509 1985年11月10日号「ザ・経営者〈松原正行氏〉」p75
- [5]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
- [6]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
- [7]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
- [10]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
- [11]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
- 木曽路 有価証券報告書【沿革】
- [8]1952年9月、株式会社まつば喫茶を設立
- 日経ビジネス 556 1990年5月21日号
- [9]結婚後、松原正行氏が喫茶店を多店舗化
参考文献[1]-[11]
- 木曽路 有価証券報告書【沿革】
- [1]1952年9月、名古屋市中区裏門前町に資本金45万円で株式会社まつば喫茶を設立し、「喫茶マツバ」の事業を承継
- [2]1952年9月、名古屋市中区裏門前町に資本金45万円で株式会社まつば喫茶を設立し、「喫茶マツバ」の事業を承継
- [8]1952年9月、株式会社まつば喫茶を設立
- 日経ビジネス 556 1990年5月21日号
- [3]木曽路の母体は松原正行社長の夫人が独身時代に名古屋市内で開業した喫茶店
- [9]結婚後、松原正行氏が喫茶店を多店舗化
- 近代企業リサーチ 509 1985年11月10日号「ザ・経営者〈松原正行氏〉」p75
- [4]松原正行氏は夫人が始めていた小さな喫茶店の経営から出発
- [5]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
- [6]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
- [7]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
- [10]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
- [11]松原正行氏は兄のミシン部品組立工場を手伝ったのち、1953年に24歳で養子縁組により幼なじみと結婚し夫人の喫茶店を経営。金融機関が冷淡ななか銀行の支店長を口説いて融資を受け、1956年に2号店を出店
1957年〜店ごとに起こした松葉・東郊松葉・松葉金山店と、最盛期14店に達した喫茶店
松原正行氏は1957年7月、名古屋市中村区広小路西通に資本金330万円の株式会社松葉を設立し、喫茶事業を始めた。1960年12月には昭和区東郊通に資本金350万円の株式会社東郊松葉を設け、ここでも喫茶店を開業した。出店地ごとに法人を分け、名古屋市内の別々の区へ店を広げた。その間の1959年ごろ、店は4店ほどに増えた一方で、働き手が大きく不足した。松原正行氏は身重の夫人とともに人を探して回った経験を、創業期の苦労に挙げている。店ごとに会社を設けた理由は資料に無く、出店地ごとに資金と責任を区切る狙いがあったと推察される。
- 木曽路 有価証券報告書【沿革】
- [12]1957年7月に名古屋市中村区広小路西通で資本金330万円の株式会社松葉、1960年12月に昭和区東郊通で資本金350万円の株式会社東郊松葉を設立し、それぞれ喫茶事業を開始
- [13]1957年7月に名古屋市中村区広小路西通で資本金330万円の株式会社松葉、1960年12月に昭和区東郊通で資本金350万円の株式会社東郊松葉を設立し、それぞれ喫茶事業を開始
- [14]1957年7月に名古屋市中村区広小路西通で資本金330万円の株式会社松葉、1960年12月に昭和区東郊通で資本金350万円の株式会社東郊松葉を設立し、それぞれ喫茶事業を開始
- 近代企業リサーチ 509 1985年11月10日号「ザ・経営者〈松原正行氏〉」p75
- [15]1959年ごろ喫茶店は4店ほどに増えたが深刻な人手不足となり、松原正行氏は身重の夫人と人集めに奔走
- [16]1959年ごろ喫茶店は4店ほどに増えたが深刻な人手不足となり、松原正行氏は身重の夫人と人集めに奔走
1963年12月、熱田区金山町に出資金600万円で有限会社松葉金山店を設け、喫茶に加えて洋菓子の製造と販売に着手した。松原正行氏によれば、洋菓子の販売は2号店の開業より後に始めたものだった。松原正行氏は1985年、出店が続いた理由を『常に新しいことを取入れ話題性を考えたこと、大型店化を目指したことが好業績を生んだ』と説明した。店は1年に1店の速さで増え、喫茶店から割烹レストランへと業態も広がった。洋菓子の製造まで抱えた金山の店は、大型店化の方針を具体化した店だったのだろう。
- 木曽路 有価証券報告書【沿革】
- [17]1963年12月、名古屋市熱田区金山町に出資金600万円で有限会社松葉金山店を設立し、喫茶事業と洋菓子の製造販売を開始
- 近代企業リサーチ 509 1985年11月10日号「ザ・経営者〈松原正行氏〉」p75
- [18]2号店の後に洋菓子販売を開始。話題性と大型店化の方針で年1店のペースで出店し、喫茶店から割烹レストランへ展開
- [19]2号店の後に洋菓子販売を開始。話題性と大型店化の方針で年1店のペースで出店し、喫茶店から割烹レストランへ展開
- [20]2号店の後に洋菓子販売を開始。話題性と大型店化の方針で年1店のペースで出店し、喫茶店から割烹レストランへ展開
喫茶店の経営は順調に進んだが、同業との競争が厳しくなり、従業員の確保も難しさを増した。不動産価格も上がり、一等地に新しい店を構えることが困難になった。こうした3つの事情から、松原正行氏は業種を大きく切り替える検討に入った。転換先はしゃぶしゃぶと日本料理の「木曽路」で、開業は本人の回想では1966年6月とされる。会社の沿革では、東郊松葉による第1号店の出店は1966年9月である。喫茶店はその後、1966年から順に木曽路へ切り替えられた。最盛期に14店あった喫茶店は、すべて木曽路に転じるか店を閉じた。
- 近代企業リサーチ 509 1985年11月10日号「ザ・経営者〈松原正行氏〉」p75
- [21]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- [22]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- [23]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- [24]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- [27]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- 木曽路 有価証券報告書【沿革】
- [25]1966年9月、株式会社東郊松葉が「民芸風しゃぶしゃぶ 木曽路」第1号店を名古屋市中区南瓦町に出店
- 日経ビジネス 556 1990年5月21日号
- [26]1966年から順次、喫茶店をしゃぶしゃぶレストランの木曽路へ転換
参考文献[12]-[27]
- 木曽路 有価証券報告書【沿革】
- [12]1957年7月に名古屋市中村区広小路西通で資本金330万円の株式会社松葉、1960年12月に昭和区東郊通で資本金350万円の株式会社東郊松葉を設立し、それぞれ喫茶事業を開始
- [13]1957年7月に名古屋市中村区広小路西通で資本金330万円の株式会社松葉、1960年12月に昭和区東郊通で資本金350万円の株式会社東郊松葉を設立し、それぞれ喫茶事業を開始
- [14]1957年7月に名古屋市中村区広小路西通で資本金330万円の株式会社松葉、1960年12月に昭和区東郊通で資本金350万円の株式会社東郊松葉を設立し、それぞれ喫茶事業を開始
- [17]1963年12月、名古屋市熱田区金山町に出資金600万円で有限会社松葉金山店を設立し、喫茶事業と洋菓子の製造販売を開始
- [25]1966年9月、株式会社東郊松葉が「民芸風しゃぶしゃぶ 木曽路」第1号店を名古屋市中区南瓦町に出店
- 近代企業リサーチ 509 1985年11月10日号「ザ・経営者〈松原正行氏〉」p75
- [15]1959年ごろ喫茶店は4店ほどに増えたが深刻な人手不足となり、松原正行氏は身重の夫人と人集めに奔走
- [16]1959年ごろ喫茶店は4店ほどに増えたが深刻な人手不足となり、松原正行氏は身重の夫人と人集めに奔走
- [18]2号店の後に洋菓子販売を開始。話題性と大型店化の方針で年1店のペースで出店し、喫茶店から割烹レストランへ展開
- [19]2号店の後に洋菓子販売を開始。話題性と大型店化の方針で年1店のペースで出店し、喫茶店から割烹レストランへ展開
- [20]2号店の後に洋菓子販売を開始。話題性と大型店化の方針で年1店のペースで出店し、喫茶店から割烹レストランへ展開
- [21]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- [22]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- [23]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- [24]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- [27]喫茶店は最盛期14店。競争激化・労働力低下・地価高騰による一等地確保難から業種転換を考え、1966年6月にしゃぶしゃぶと日本料理の木曽路を開始
- 日経ビジネス 556 1990年5月21日号
- [26]1966年から順次、喫茶店をしゃぶしゃぶレストランの木曽路へ転換
出典・参考
3件
- 木曽路 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 556 1990年5月21日号
- 近代企業リサーチ 509 1985年11月10日号「ザ・経営者〈松原正行氏〉」p75