岩谷産業:岩谷直治商店の創業と岩谷産業の設立
1930年〜神戸の運送店で知った酸素と、大阪市岡浜通に開いた岩谷直治商店
岩谷直治氏は1918年3月に大田農学校を卒業し、父の友人が営む神戸の楫野海陸運送店へ入店した。楫野海陸運送店は帝国酸素の荷を専属で運んでおり、岩谷直治氏は自ら望んで運送部門で働いた。帝国酸素は1909年に発足し、第一次世界大戦を機に溶接工業が広がると酸素の販売先を全国の工業都市へ拡大した。酸素を積んだ貨車は佐世保・呉・舞鶴・横須賀の海軍工廠にも向かい、岩谷直治氏が最初に扱った酸素は商品ではなく運ぶ荷である。岩谷直治氏はのちに、15歳から帝国酸素の運送業務に従事するうちに酸素・カーバイド・溶接材料の商いを身につけたと振り返った。納入先で酸素がどう使われるかを運送の現場で見続けたことが、溶接工業の将来に期待をかける下地になったとみられる。
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [1]1918年3月大田農学校卒、神戸の楫野海陸運送店に入店。同店は帝国酸素の専属運送店。帝国酸素は1909年発足、大戦後の溶接工業発達で酸素需要が激増し販売先は全国の工業都市、仕向地は海軍工廠にも及ぶ
- [2]1918年3月大田農学校卒、神戸の楫野海陸運送店に入店。同店は帝国酸素の専属運送店。帝国酸素は1909年発足、大戦後の溶接工業発達で酸素需要が激増し販売先は全国の工業都市、仕向地は海軍工廠にも及ぶ
- [3]1918年3月大田農学校卒、神戸の楫野海陸運送店に入店。同店は帝国酸素の専属運送店。帝国酸素は1909年発足、大戦後の溶接工業発達で酸素需要が激増し販売先は全国の工業都市、仕向地は海軍工廠にも及ぶ
- [4]1918年3月大田農学校卒、神戸の楫野海陸運送店に入店。同店は帝国酸素の専属運送店。帝国酸素は1909年発足、大戦後の溶接工業発達で酸素需要が激増し販売先は全国の工業都市、仕向地は海軍工廠にも及ぶ
- 証券アナリストジャーナル 6(8) 1968年 岩谷直治
- [5]15歳から帝国酸素の運送業務に従事し、酸素・カーバイド・溶接材料の商売を覚えたと本人が述べる
1930年5月、岩谷直治氏は大阪市港区市岡浜通で岩谷直治商店を創業した。主力商品は酸素・カーバイド・溶接材料の3品。開業までに岩谷直治氏は、運送店の先輩だった村井宇三郎氏のもとで1923年5月から横浜で酸素の販売を手がけた。村井宇三郎氏は地方の取引先へ資金を融通し、その名義で酸素を売る商法をとり、各地の店を岩谷直治氏に支配人として任せた。岩谷直治氏は九州でも小倉・熊本・水俣・鹿児島に岩谷酸素商会を設け、その働きが帝国酸素の極東支配人の目に留まった。代理店の志望者には保証金5万円を申し出る者もいたなか、帝国酸素は貯金5000円の岩谷直治氏に保証金500円で大阪での販売を許した。
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [6]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- [8]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- [9]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- [10]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- [11]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [7]1930年5月に個人経営の岩谷直治商店として開業、主力商品は酸素・カーバイド・溶接材料
岩谷直治商店は1936年に、酸素・カーバイド・溶接材料のいずれでも大阪の同業者を上回る最大のディーラーになった。開業した1930年は世界恐慌の年で、酸素の需要は急減し、カーバイドは1罐2円から95銭まで値下がり。岩谷直治氏は、消耗品のガスやカーバイドは同じ得意先へ繰り返し納められるので薄利多売に向くと考え、利幅の厚い機械より優先した。1931年9月の満洲事変を境に景気が回復し、軍需の下請けとして中小工場が増えたことで溶材の市場は大きく広がった。先行した帝国酸素代理店の林真一商店・岩本金太郎商店を抜いたうえ、運転資金とは別に100万円以上の内部留保を積んだ。重工業化に合った品ぞろえで需要が増え、業績が上向くとともに事業基盤も固まった。
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [12]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- [13]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- [14]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- [15]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- [16]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [17]創業時の主力商品は産業の重工業化に合致し需要が増大、業績が向上し事業基盤が固まる
参考文献[1]-[17]
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [1]1918年3月大田農学校卒、神戸の楫野海陸運送店に入店。同店は帝国酸素の専属運送店。帝国酸素は1909年発足、大戦後の溶接工業発達で酸素需要が激増し販売先は全国の工業都市、仕向地は海軍工廠にも及ぶ
- [2]1918年3月大田農学校卒、神戸の楫野海陸運送店に入店。同店は帝国酸素の専属運送店。帝国酸素は1909年発足、大戦後の溶接工業発達で酸素需要が激増し販売先は全国の工業都市、仕向地は海軍工廠にも及ぶ
- [3]1918年3月大田農学校卒、神戸の楫野海陸運送店に入店。同店は帝国酸素の専属運送店。帝国酸素は1909年発足、大戦後の溶接工業発達で酸素需要が激増し販売先は全国の工業都市、仕向地は海軍工廠にも及ぶ
- [4]1918年3月大田農学校卒、神戸の楫野海陸運送店に入店。同店は帝国酸素の専属運送店。帝国酸素は1909年発足、大戦後の溶接工業発達で酸素需要が激増し販売先は全国の工業都市、仕向地は海軍工廠にも及ぶ
- [6]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- [8]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- [9]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- [10]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- [11]1923年5月から村井宇三郎の回漕店横浜店に勤め酸素を販売。村井は取引先の名義で酸素を販売し岩谷を支配人に任用。九州に岩谷酸素商会。帝国酸素極東支配人が保証金500円で大阪での販売を許可し、市岡浜通に開業
- [12]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- [13]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- [14]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- [15]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- [16]1930年は恐慌でカーバイドが1罐2円から95銭に下落。消耗品の薄利多売を方針とする。満洲事変後に中小工場が激増し溶材市場拡大。1936年には林真一・岩本金太郎両商店を含む同業者を引き離す最大のディーラー、内部留保100万円以上
- 証券アナリストジャーナル 6(8) 1968年 岩谷直治
- [5]15歳から帝国酸素の運送業務に従事し、酸素・カーバイド・溶接材料の商売を覚えたと本人が述べる
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [7]1930年5月に個人経営の岩谷直治商店として開業、主力商品は酸素・カーバイド・溶接材料
- [17]創業時の主力商品は産業の重工業化に合致し需要が増大、業績が向上し事業基盤が固まる
1937年〜日華事変後の配給統制と、資本金19万8000円で改めた岩谷産業
1937年7月の日華事変で経済が戦時体制へ移ると、岩谷直治商店は取扱商品を相次いで統制された。カーバイドは1938年、溶接棒は1939年、酸素は1941年に統制下に入り、販売には軍の証明が必要になった。商店は割り当てられた物資を需要家へ届ける配給所の役割に限られ、若い店員も次々に召集された。国内の拠点は1939年開設の尼崎営業所、酸水素油脂との取引に合わせて1941年に設けた京都連絡所、境川倉庫の3か所にとどまった。岩谷直治氏は国内の配給業務を守る一方で、海外貿易の拠点の金生洋行と海運事業の金生海運を設立した。1939年設立の金生海運商会は500トンの機帆船2隻を建造したが、1941年12月の太平洋戦争開戦で2隻とも陸軍に徴用された。
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [18]1937年日華事変で戦時体制へ。1938年カーバイド、1939年溶接棒、1941年酸素が統制下に。販売に軍の証明が必要で配給所化、店員も召集。1939年金生海運商会設立、機帆船2隻は開戦で陸軍に徴用
- [19]1937年日華事変で戦時体制へ。1938年カーバイド、1939年溶接棒、1941年酸素が統制下に。販売に軍の証明が必要で配給所化、店員も召集。1939年金生海運商会設立、機帆船2隻は開戦で陸軍に徴用
- [20]1937年日華事変で戦時体制へ。1938年カーバイド、1939年溶接棒、1941年酸素が統制下に。販売に軍の証明が必要で配給所化、店員も召集。1939年金生海運商会設立、機帆船2隻は開戦で陸軍に徴用
- [21]戦前の事業所は本社のほか尼崎営業所(1939年)、酸水素油脂との取引で1941年に設けた京都連絡所、境川倉庫の3か所
- [23]1937年日華事変で戦時体制へ。1938年カーバイド、1939年溶接棒、1941年酸素が統制下に。販売に軍の証明が必要で配給所化、店員も召集。1939年金生海運商会設立、機帆船2隻は開戦で陸軍に徴用
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [22]戦時体制下で事業を守りつつ、海外貿易拠点の金生洋行と海運事業の金生海運を設立
1945年2月、岩谷直治氏は個人経営の岩谷直治商店を株式組織に改め、岩谷産業株式会社を設立した。資本金は19万8000円で、戦前からの事業を新会社が引き継いだ。会社組織に改める前の1943年には、レール・リキード社と合弁で興亜酸素を設け、上海・天津・広東の工場で酸素を製造した。上海の金生洋行は溶接機・アセチレン発生器・溶接棒の製造へ進み、興亜酸素の酸素の一部の販売も担った。改組から終戦までは戦災で業務が進まず、岩谷産業の実質的な出発は戦後にあたる。統制下で企業整備が進むなか、国内外に広がった事業を個人商店のまま抱えるより、法人として引き継ぐ会社組織を整えたと推察される。
- 証券 15(1) 1963年
- [24]昭和20年2月、株式組織に改め岩谷産業株式会社を設立(現社長が昭和5年5月に個人経営で創業)
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [25]昭和20年、岩谷直治が資本金19万8000円で岩谷産業株式会社を設立し、戦前からの事業を引き継ぐ
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [26]1943年にレール・リキード社と合弁で興亜酸素を設立(上海・天津・広東に工場)。金生洋行は溶接機などを製造し興亜酸素の酸素を販売。改組後終戦まで業務はかどらず実質的な出発は戦後
- [27]1943年にレール・リキード社と合弁で興亜酸素を設立(上海・天津・広東に工場)。金生洋行は溶接機などを製造し興亜酸素の酸素を販売。改組後終戦まで業務はかどらず実質的な出発は戦後
- [28]1943年にレール・リキード社と合弁で興亜酸素を設立(上海・天津・広東に工場)。金生洋行は溶接機などを製造し興亜酸素の酸素を販売。改組後終戦まで業務はかどらず実質的な出発は戦後
1945年2月13日の大阪大空襲で、市岡浜通の岩谷直治商店は倉庫もろとも焼失した。店は境川倉庫の一角へ移り、まもなく高麗橋詰にあった長谷川商店の空き倉庫を借りて商いを続けた。大阪の酸素工場の多くが焼けたため、酸素は京都伏見の酸水素油脂の工場から輸送した。6月7日の空襲で再び焼け出され、廃業を勧める声に対して岩谷直治氏は『私がやらなくてだれがやるのか。お客は品物の届くのを頼りにして待っているのだ。』と答えた。店は東区平野町2丁目の生駒ビルの一室へ移り、終戦の日まで店を1日も休まなかった。相次ぐ戦火で岩谷直治商店の事業はほとんど灰になった。かつて30軒を超えた大阪の溶材商も、ほとんど残らなかった。得意先への供給を絶やさなかった実績が、戦後に取引先の信用を引き継ぐ元手になったのだろう。
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [29]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [30]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [31]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [32]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [33]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [35]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [34]戦時中から戦後にかけて相次ぐ戦火で事業はほとんど灰と化す
参考文献[18]-[35]
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [18]1937年日華事変で戦時体制へ。1938年カーバイド、1939年溶接棒、1941年酸素が統制下に。販売に軍の証明が必要で配給所化、店員も召集。1939年金生海運商会設立、機帆船2隻は開戦で陸軍に徴用
- [19]1937年日華事変で戦時体制へ。1938年カーバイド、1939年溶接棒、1941年酸素が統制下に。販売に軍の証明が必要で配給所化、店員も召集。1939年金生海運商会設立、機帆船2隻は開戦で陸軍に徴用
- [20]1937年日華事変で戦時体制へ。1938年カーバイド、1939年溶接棒、1941年酸素が統制下に。販売に軍の証明が必要で配給所化、店員も召集。1939年金生海運商会設立、機帆船2隻は開戦で陸軍に徴用
- [21]戦前の事業所は本社のほか尼崎営業所(1939年)、酸水素油脂との取引で1941年に設けた京都連絡所、境川倉庫の3か所
- [23]1937年日華事変で戦時体制へ。1938年カーバイド、1939年溶接棒、1941年酸素が統制下に。販売に軍の証明が必要で配給所化、店員も召集。1939年金生海運商会設立、機帆船2隻は開戦で陸軍に徴用
- [26]1943年にレール・リキード社と合弁で興亜酸素を設立(上海・天津・広東に工場)。金生洋行は溶接機などを製造し興亜酸素の酸素を販売。改組後終戦まで業務はかどらず実質的な出発は戦後
- [27]1943年にレール・リキード社と合弁で興亜酸素を設立(上海・天津・広東に工場)。金生洋行は溶接機などを製造し興亜酸素の酸素を販売。改組後終戦まで業務はかどらず実質的な出発は戦後
- [28]1943年にレール・リキード社と合弁で興亜酸素を設立(上海・天津・広東に工場)。金生洋行は溶接機などを製造し興亜酸素の酸素を販売。改組後終戦まで業務はかどらず実質的な出発は戦後
- [29]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [30]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [31]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [32]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [33]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- [35]1945年2月13日の空襲で市岡浜通の店が焼失、境川倉庫から高麗橋詰の空倉へ移転。酸素は酸水素油脂から輸送。6月7日に再罹災、生駒ビルに移り終戦まで休業せず。大阪の溶材商はほぼ消滅
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [22]戦時体制下で事業を守りつつ、海外貿易拠点の金生洋行と海運事業の金生海運を設立
- [25]昭和20年、岩谷直治が資本金19万8000円で岩谷産業株式会社を設立し、戦前からの事業を引き継ぐ
- [34]戦時中から戦後にかけて相次ぐ戦火で事業はほとんど灰と化す
- 証券 15(1) 1963年
- [24]昭和20年2月、株式組織に改め岩谷産業株式会社を設立(現社長が昭和5年5月に個人経営で創業)
1946年〜本町への本社移転と、売手市場のうちに開いた東京営業所
1947年4月、岩谷産業は本社を大阪市東区本町3丁目の新築社屋へ移し、扱う商品を高圧ガスの周辺へ広げた。終戦から1948年ごろまでは、品物を抱えて値上がりを待つ売り惜しみが横行した。岩谷産業は売り惜しみをせず、帝国酸素桜島工場に社員を常駐させて仕入れを確保し、1946年末には常時130本の酸素を手元に置いた。容器を十分に持てば販売は広がるという岩谷直治氏の考えから、1946年に容器課を設けて住友金属の指定を受けて容器の問屋になった。1948年ごろからは炭酸ガスをラムネ業者へ販売し、川崎航空機製の炭酸ガス消火器や安全帽・安全靴も扱い始めた。創業以来の商品に特殊ガス・高圧容器などの部門を加え、多角化を急いだ。品不足の時期に容器と保安用品を押さえたことが、ガス販売の取引先を増やす手段になったと考えられる。
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [36]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- [37]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- [38]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- [39]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- [40]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [41]創業以来の商品に特殊ガス・高圧容器・機械・合成樹脂・貿易の部門を加えて多角化を推進
1948年8月、岩谷産業は東京営業所を開設し、関東の販路開拓の足がかりを得た。岩谷直治氏は、品不足の売手市場は長く続かず、復興が進めば買手市場へ移ると見通した。岩谷産業は戦前の事業の承継会社である。買手市場では流通網の優劣が競争の焦点になり、全国の流通組織は売手市場のうちに整える必要があると判断した。ところが戦前の拠点は、本社のほか尼崎・京都・境川の3か所にすぎない。1946年5月に京都の連絡事務所を営業所に改め、1947年に大阪東営業所と堺営業所を開設して関西を固めた。東京営業所は北品川の渡辺孝治商店の一室を借り、西尾毅氏1人で始まり、続いて1949年12月には小倉営業所も開設した。
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [42]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [43]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [45]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [46]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [47]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [48]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [44]1945年設立の岩谷産業は戦前からの事業を引き継ぐ
1952年、岩谷産業は合成樹脂の原料と製品、産業機械・工作機械の取扱いを始め、貿易部門を新設した。1949年4月のドッジ・ラインで金融が引き締まり、1950年にかけて倒産する中小企業が相次いだ。1950年6月の朝鮮戦争の特需で景気が戻り、岩谷産業は1951年9月に資本金を375万円に増やした。化成部は、積水化学の塩ビパイプと日本カーバイドの塩化ビニールを販売する部門にあたる。機械部は上滝圧力機への資本参加を機に設け、油圧ポンプ・油圧プレスを扱った。溶接機械に限っていた貿易は、1952年暮に部門を設けて扱う品目を広げた。1963年時点の岩谷産業の事業は、高圧ガス・溶接材料と産業機械・樹脂化成品の販売、輸出入である。工場向けの生産財で得意先を増やしたことが、翌年に始めるLPガスの販売で使える取引先と拠点になったと考えられる。
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [49]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- [50]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- [51]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- [52]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- [53]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- 証券アナリストジャーナル 6(8) 1968年 岩谷直治
- [54]貿易は溶接機械に限っていたが27年暮に貿易部門を設置、とくに中共貿易に注力
- 証券 15(1) 1963年
- [55]創業以来、高圧ガス・溶接材料のほか産業機械・樹脂化成品の国内販売と輸出入貿易を営む
参考文献[36]-[55]
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- [36]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- [37]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- [38]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- [39]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- [40]1947年3月資本金100万円、4月本社を東区本町3丁目へ移転し多角化。売り惜しみの横行下で正攻法。1946年末に酸素130本を確保。1946年容器課新設・住友金属容器指定問屋。1948年頃から炭酸ガスをラムネ業者へ。川崎航空機の消火器、安全帽・安全靴
- [42]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [43]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [45]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [46]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [47]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [48]売手市場は長く続かず買手市場になると予測、全国的流通組織を売手市場のうちに作ると判断。1946年5月京都営業所、1947年大阪東・堺営業所、1948年8月東京営業所(北品川で西尾毅1人で開始)、1949年12月小倉営業所
- [49]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- [50]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- [51]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- [52]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- [53]1949年ドッジ・プランで金詰まり、1950年6月朝鮮動乱の特需で回復。1951年9月資本金375万円。1951-52年に広島・名古屋・札幌・東京大島営業所。1952年化成部(積水化学の塩ビパイプ、日本カーバイドの塩化ビニール)、上滝圧力機への資本参加で機械部、貿易部門新設
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- [41]創業以来の商品に特殊ガス・高圧容器・機械・合成樹脂・貿易の部門を加えて多角化を推進
- [44]1945年設立の岩谷産業は戦前からの事業を引き継ぐ
- 証券アナリストジャーナル 6(8) 1968年 岩谷直治
- [54]貿易は溶接機械に限っていたが27年暮に貿易部門を設置、とくに中共貿易に注力
- 証券 15(1) 1963年
- [55]創業以来、高圧ガス・溶接材料のほか産業機械・樹脂化成品の国内販売と輸出入貿易を営む
出典・参考
4件
- 企業の歴史 明治百年 1968「岩谷産業」
- ポケット社史 1970「未来を指向する新流通企業(岩谷産業)」
- 証券アナリストジャーナル 6(8) 1968年 岩谷直治
- 証券 15(1) 1963年