トピー工業:宮製鋼所の設立と帝国発条製作所のホイール試作
1921年〜江東の宮製鋼所と、国産化に挑んだスチールサッシバー
トピー工業の源流で最も古いのは、高妻俊秀氏が1921年10月に個人経営で創業した圧延工場の宮製鋼所である。高妻俊秀氏は、東京鋼鉄で技師長を務めていた浜野長松氏に勧められて創業を決め、浜野長松氏はのちに宮製鋼所の常務取締役となった。社名の宮は、宮崎県宮崎郡生目村で神官を代々務めた高妻家を地元の人々が宮さんと呼んだことに由来すると伝わる。車輪の流れの創業者である野長瀬忠男氏は、1915年に東京市向島で帝国発条製作所を設け、ばねの製造から事業を始めた。帝国発条製作所が自動車用車輪の試作を始めたのは1931年で、車輪の流れは圧延より10年遅れて動き出した。鋼材の圧延が起点にあったことが、のちの形鋼やリム材の技術の出どころになったと思われる。
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [1]1921年(大正10年)高妻俊秀が宮製鋼所(個人経営)を創業(年表)
- [2]宮製鋼所は1921年10月、高妻俊秀が東京鋼鉄技師長の浜野長松(のち宮製鋼所常務取締役)の勧めで創業。社名は高妻家が生目村で代々神官で「宮さん」と呼ばれたことに由来
- [3]宮製鋼所は1921年10月、高妻俊秀が東京鋼鉄技師長の浜野長松(のち宮製鋼所常務取締役)の勧めで創業。社名は高妻家が生目村で代々神官で「宮さん」と呼ばれたことに由来
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [4]野長瀬忠男は大正4年(1915年)東京市向島に帝国発条製作所を創設してばねを製造、昭和6年(1931年)自動車用車輪の試作を開始
- [5]野長瀬忠男は大正4年(1915年)東京市向島に帝国発条製作所を創設してばねを製造、昭和6年(1931年)自動車用車輪の試作を開始
宮製鋼所は創業の翌年の1922年、スチールサッシに使うサッシバーの圧延に成功した。きっかけは、大阪の鉄鋼ブローカーが紹介もなく高妻俊秀氏を訪ね、英国のサッシ会社のカタログを示して同じ品を圧延できないかと持ちかけたことだった。当時の日本にスチールサッシの本格的な国産品はなく、国内の需要は輸入品でまかなわれていた。宮製鋼所はロールの径を大きくすれば圧延できると見立て、手がかりがカタログしかない状態で製品化に踏み切った。最初の納入先は1923年2月完成の丸ビルで、3階までをドイツ製の輸入品が占め、4階より上に宮製鋼所のサッシが入った。1923年の関東大震災で宮製鋼所は打撃を受けたが、都市の復興でサッシの需要が増え、経営を立て直した。輸入品の代わりを国内で引き受けた経験が、未経験の断面を圧延する技術の足場になったとみられる。
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [6]1922年 宮製鋼所、サッシ圧延に成功/1923年 関東大震災(年表)
- [7]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [8]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [9]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [10]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [11]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [12]1922年 宮製鋼所、サッシ圧延に成功/1923年 関東大震災(年表)
東都製鋼のもう一つの前身は、1926年に設立された東京シヤリング株式会社である。トピー工業の源流は、宮製鋼所(1921年)、東京シヤリング(1926年)、東京車輪製作所(1934年)の3社にさかのぼる。東京車輪製作所は野長瀬忠男氏が1934年12月22日に東京市蒲田で創設した車輪の会社で、圧延の2社とは別の経営のもとで事業を営んだ。3つの流れのうち、宮製鋼所と東京シヤリングが合併して東都製鋼となったのは1943年10月。東京車輪製作所も1941年10月に大阪の阿部鉄工所を合併して車輪工業へ改称し、源流の統合はいずれも戦時期に起きた。東京シヤリングは鋼板の剪断を担い、圧延の宮製鋼所と補い合う関係にあったと推察される。
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [13]1926年 東京シヤリング(株)設立/1941年 東京車輪製作所が阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称/1943年 宮製鋼所・東京シヤリング合併し東都製鋼(年表)
- [14]源流は宮製鋼所(1921年)・東京シヤリング(1926年)・東京車輪製作所(1934年)。1943年10月に宮製鋼所と東京シヤリングが合併し東都製鋼
- [16]源流は宮製鋼所(1921年)・東京シヤリング(1926年)・東京車輪製作所(1934年)。1943年10月に宮製鋼所と東京シヤリングが合併し東都製鋼
- [17]1926年 東京シヤリング(株)設立/1941年 東京車輪製作所が阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称/1943年 宮製鋼所・東京シヤリング合併し東都製鋼(年表)
- [18]1926年 東京シヤリング(株)設立/1941年 東京車輪製作所が阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称/1943年 宮製鋼所・東京シヤリング合併し東都製鋼(年表)
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [15]昭和9年12月22日、東京市蒲田に株式会社東京車輪製作所を創設/昭和16年10月10日阿部鉄工所を吸収し車輪工業に改称
- [19]昭和9年12月22日、東京市蒲田に株式会社東京車輪製作所を創設/昭和16年10月10日阿部鉄工所を吸収し車輪工業に改称
参考文献[1]-[19]
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [1]1921年(大正10年)高妻俊秀が宮製鋼所(個人経営)を創業(年表)
- [2]宮製鋼所は1921年10月、高妻俊秀が東京鋼鉄技師長の浜野長松(のち宮製鋼所常務取締役)の勧めで創業。社名は高妻家が生目村で代々神官で「宮さん」と呼ばれたことに由来
- [3]宮製鋼所は1921年10月、高妻俊秀が東京鋼鉄技師長の浜野長松(のち宮製鋼所常務取締役)の勧めで創業。社名は高妻家が生目村で代々神官で「宮さん」と呼ばれたことに由来
- [6]1922年 宮製鋼所、サッシ圧延に成功/1923年 関東大震災(年表)
- [7]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [8]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [9]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [10]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [11]1922年、大阪の鉄鋼ブローカーが英国のスチールサッシ会社のカタログを持ち込み圧延を打診。国産品はなく輸入で賄われていた。ロール径を大きくして圧延に踏み切り、丸ビル(1923年2月完成)の4階以上に納入(3階まではドイツ製輸入品)。震災後の都市復興でサッシ需要が伸び基礎を固めた
- [12]1922年 宮製鋼所、サッシ圧延に成功/1923年 関東大震災(年表)
- [13]1926年 東京シヤリング(株)設立/1941年 東京車輪製作所が阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称/1943年 宮製鋼所・東京シヤリング合併し東都製鋼(年表)
- [14]源流は宮製鋼所(1921年)・東京シヤリング(1926年)・東京車輪製作所(1934年)。1943年10月に宮製鋼所と東京シヤリングが合併し東都製鋼
- [16]源流は宮製鋼所(1921年)・東京シヤリング(1926年)・東京車輪製作所(1934年)。1943年10月に宮製鋼所と東京シヤリングが合併し東都製鋼
- [17]1926年 東京シヤリング(株)設立/1941年 東京車輪製作所が阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称/1943年 宮製鋼所・東京シヤリング合併し東都製鋼(年表)
- [18]1926年 東京シヤリング(株)設立/1941年 東京車輪製作所が阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称/1943年 宮製鋼所・東京シヤリング合併し東都製鋼(年表)
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [4]野長瀬忠男は大正4年(1915年)東京市向島に帝国発条製作所を創設してばねを製造、昭和6年(1931年)自動車用車輪の試作を開始
- [5]野長瀬忠男は大正4年(1915年)東京市向島に帝国発条製作所を創設してばねを製造、昭和6年(1931年)自動車用車輪の試作を開始
- [15]昭和9年12月22日、東京市蒲田に株式会社東京車輪製作所を創設/昭和16年10月10日阿部鉄工所を吸収し車輪工業に改称
- [19]昭和9年12月22日、東京市蒲田に株式会社東京車輪製作所を創設/昭和16年10月10日阿部鉄工所を吸収し車輪工業に改称
1930年〜野長瀬忠男氏のホイール試作と、宮製鋼所が損を覚悟で引き受けたリムバー
帝国発条製作所の創業者である野長瀬忠男氏は、米国で鋼の焼入れと鋼製品の製法を研究して帰国した技術者だった。野長瀬忠男氏は1931年に自動車用車輪の試作を始め、1932年には鉄道省が試作した国産の乗合自動車に車輪を供給した。試作の開始を1930年とする記録もあり、開始年は資料によって1年ずれる。当時の国内の自動車は外国車が大半で、1925年にフォード、1927年にゼネラルモータースが日本に組立工場を設けていた。野長瀬忠男氏はいずれ国産品の需要が生まれると見通し、当初から4輪車用ホイールの製造を目標に置いた。トラック用のリム材に形鋼を初めて用いたのも野長瀬忠男氏。ばねの焼入れで培った鋼の知見が、車輪という別の製品への展開を可能にしたのだろう。
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [20]野長瀬忠男は米国で鋼の焼入・鋼製品の製法を研究して帰国。昭和6年に車輪試作、昭和7年に鉄道省の国産乗合自動車試作に車輪を供給。フォード大正14年・GM昭和2年に日本で組立工場
- [21]野長瀬忠男は米国で鋼の焼入・鋼製品の製法を研究して帰国。昭和6年に車輪試作、昭和7年に鉄道省の国産乗合自動車試作に車輪を供給。フォード大正14年・GM昭和2年に日本で組立工場
- [24]野長瀬忠男は米国で鋼の焼入・鋼製品の製法を研究して帰国。昭和6年に車輪試作、昭和7年に鉄道省の国産乗合自動車試作に車輪を供給。フォード大正14年・GM昭和2年に日本で組立工場
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [22]野長瀬忠男は1930年にホイールの試作を開始。外国車がほとんどの中で国産品の需要を見通し4輪車用ホイールを目指した。トラック用リム材に形鋼を使った最初の人物
- [23]野長瀬忠男は1930年にホイールの試作を開始。外国車がほとんどの中で国産品の需要を見通し4輪車用ホイールを目指した。トラック用リム材に形鋼を使った最初の人物
- [25]野長瀬忠男は1930年にホイールの試作を開始。外国車がほとんどの中で国産品の需要を見通し4輪車用ホイールを目指した。トラック用リム材に形鋼を使った最初の人物
- [26]野長瀬忠男は1930年にホイールの試作を開始。外国車がほとんどの中で国産品の需要を見通し4輪車用ホイールを目指した。トラック用リム材に形鋼を使った最初の人物
野長瀬忠男氏はホイールのリムに使うリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所しかないと考え、1930年に高妻俊秀氏へ協力を求めた。依頼は『初めの2年間ぐらいは、損を覚悟で協力してもらえないか』という言葉だった。高妻俊秀氏はこの依頼を引き受け、宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材の供給を始めた。リム・リングバーは、サッシバーに次ぐ宮製鋼所の2つ目の開発品となった。宮製鋼所のリム材の供給が始まった1931年は、帝国発条製作所が自動車用車輪の試作を始めた年と重なる。野長瀬忠男氏はのちに車輪工業の社長となり、圧延と車輪の2つの源流は損失を見込んだ取引の約束から結び付いた。採算より先に国産の部材を確保する判断が、両社の長い取引関係の起点になったと考えられる。
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [27]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
- [28]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
- [29]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
- [30]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
- [32]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [31]昭和6年に自動車用車輪の試作を開始
参考文献[20]-[32]
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [20]野長瀬忠男は米国で鋼の焼入・鋼製品の製法を研究して帰国。昭和6年に車輪試作、昭和7年に鉄道省の国産乗合自動車試作に車輪を供給。フォード大正14年・GM昭和2年に日本で組立工場
- [21]野長瀬忠男は米国で鋼の焼入・鋼製品の製法を研究して帰国。昭和6年に車輪試作、昭和7年に鉄道省の国産乗合自動車試作に車輪を供給。フォード大正14年・GM昭和2年に日本で組立工場
- [24]野長瀬忠男は米国で鋼の焼入・鋼製品の製法を研究して帰国。昭和6年に車輪試作、昭和7年に鉄道省の国産乗合自動車試作に車輪を供給。フォード大正14年・GM昭和2年に日本で組立工場
- [31]昭和6年に自動車用車輪の試作を開始
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [22]野長瀬忠男は1930年にホイールの試作を開始。外国車がほとんどの中で国産品の需要を見通し4輪車用ホイールを目指した。トラック用リム材に形鋼を使った最初の人物
- [23]野長瀬忠男は1930年にホイールの試作を開始。外国車がほとんどの中で国産品の需要を見通し4輪車用ホイールを目指した。トラック用リム材に形鋼を使った最初の人物
- [25]野長瀬忠男は1930年にホイールの試作を開始。外国車がほとんどの中で国産品の需要を見通し4輪車用ホイールを目指した。トラック用リム材に形鋼を使った最初の人物
- [26]野長瀬忠男は1930年にホイールの試作を開始。外国車がほとんどの中で国産品の需要を見通し4輪車用ホイールを目指した。トラック用リム材に形鋼を使った最初の人物
- [27]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
- [28]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
- [29]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
- [30]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
- [32]1930年、野長瀬忠男(のち車輪工業社長)はリム・リングバーを圧延できるのは宮製鋼所だけと考え高妻俊秀に損を覚悟の協力を依頼。宮製鋼所は1931年から形鋼によるリム材を供給。サッシバーに次ぐ第2号の開発
1934年〜帝国発条の合併で独立した東京車輪製作所と、9種類のリム・リングバー
1934年5月、帝国発条製作所が大同電気製鋼所に合併されることになり、野長瀬忠男氏は車輪部門を分離して引き継いだ。野長瀬忠男氏は東京市蒲田に1,300坪の土地を定めて工場の建設に着手し、同年12月22日に株式会社東京車輪製作所を創設した。創立時の資本金は35万円で、野長瀬忠男氏が取締役社長を務め、工場長に河原正貴氏を置いた。米国のA.K.ワーレン氏を顧問に迎え、米国に発注した機械を設備の中心に据えて生産を始めた。東京車輪製作所の創業によって、ホイールの生産は試作から本格的な量産の段階へ移った。親会社の合併で車輪部門の帰属が定まらなくなったことが、専業の車輪会社を生む契機になったと読める。
- 車輪工業『創立20周年を迎えて』(1954)
- [33]昭和9年5月帝国発条が大同電気製鋼所に合併されるに当たり車輪部門を分離、野長瀬が継承。資本金35万円、社長野長瀬忠男、工場長河原正貴
- [36]昭和9年5月帝国発条が大同電気製鋼所に合併されるに当たり車輪部門を分離、野長瀬が継承。資本金35万円、社長野長瀬忠男、工場長河原正貴
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [34]東京市蒲田に1,300坪を選定し昭和9年12月22日東京車輪製作所創設。資本金35万円、顧問A.K.ワーレン、米国に注文した機械で創業
- [35]東京市蒲田に1,300坪を選定し昭和9年12月22日東京車輪製作所創設。資本金35万円、顧問A.K.ワーレン、米国に注文した機械で創業
- [37]東京市蒲田に1,300坪を選定し昭和9年12月22日東京車輪製作所創設。資本金35万円、顧問A.K.ワーレン、米国に注文した機械で創業
- [38]東京市蒲田に1,300坪を選定し昭和9年12月22日東京車輪製作所創設。資本金35万円、顧問A.K.ワーレン、米国に注文した機械で創業
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [39]1934年、帝国発条が大同電気製鋼所に合併された際、野長瀬は車輪部門を切り離して東京車輪製作所を創業し本格的なホイール生産を開始
宮製鋼所は1931年に供給を始めたリム材の品目を広げ、1940年までに9種類のリム・リングバーを納めた。納入先の東京車輪製作所では、1939年に両社が組立を中止するまでフォードとゼネラルモータースの日本工場が主要な取引先だった。国産車の組立台数は1936年に5,800台、1938年に15,000台、1941年に4万台へ増えた。東京車輪製作所の資本金は創立時の35万円から、5年後に300万円、7年後に500万円。1939年には南六郷3丁目に6,000坪の土地を取得し、新設分を本社工場、従来の工場を分工場とした。ホイールの需要の拡大が、宮製鋼所にとってサッシに次ぐ安定した販路をもたらしたのではないか。
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [40]宮製鋼所は1931年からリム材を供給し、1940年までに9種類のリム・リングバーを供給
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [41]フォード・GMの日本組立工場が昭和14年の組立中止まで主要納入先。国産車組立は昭和11年5,800台・13年15,000台・16年4万台。資本金35万円→5年後300万円→7年後500万円。昭和14年南六郷3丁目に6,000坪を取得し本社工場
- [42]フォード・GMの日本組立工場が昭和14年の組立中止まで主要納入先。国産車組立は昭和11年5,800台・13年15,000台・16年4万台。資本金35万円→5年後300万円→7年後500万円。昭和14年南六郷3丁目に6,000坪を取得し本社工場
- [43]フォード・GMの日本組立工場が昭和14年の組立中止まで主要納入先。国産車組立は昭和11年5,800台・13年15,000台・16年4万台。資本金35万円→5年後300万円→7年後500万円。昭和14年南六郷3丁目に6,000坪を取得し本社工場
- [44]フォード・GMの日本組立工場が昭和14年の組立中止まで主要納入先。国産車組立は昭和11年5,800台・13年15,000台・16年4万台。資本金35万円→5年後300万円→7年後500万円。昭和14年南六郷3丁目に6,000坪を取得し本社工場
1939年の宮製鋼所は中形圧延工場を持ち、形鋼の圧延を続けていた。同じ時期の自動車業界では、1936年に自動車製造事業法が公布され、フォードとゼネラルモータースの組立は年間1万台前後に限られた。両社は1939年に組立を中止し、東京車輪製作所の車輪の需要は外国車から国産車へ移った。準戦時の体制で資材と電力が統制下に置かれ、自動車の生産は民需中心から軍用車中心に変わった。統合は全国の産業に及び、東京車輪製作所は1941年10月10日に大阪の阿部鉄工所を合併して車輪工業へ改称した。合併相手の阿部鉄工所は車輪とサッシバーの両方を製造していた。車輪と圧延の2つの源流は、戦時の統制を通じて事業の重なりを深めながら次の時代に入った可能性がある。
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [45]1939年(昭和14年)当時の宮製鋼所中形圧延工場(写真説明)
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [46]昭和11年自動車製造事業法でフォード・GMの組立は年1万台前後に限定、昭和14年組立中止。阿部鉄工所は車輪とサッシバーを製造。昭和16年10月10日に合併し車輪工業へ改称
- [48]昭和11年自動車製造事業法でフォード・GMの組立は年1万台前後に限定、昭和14年組立中止。阿部鉄工所は車輪とサッシバーを製造。昭和16年10月10日に合併し車輪工業へ改称
- [51]昭和11年自動車製造事業法でフォード・GMの組立は年1万台前後に限定、昭和14年組立中止。阿部鉄工所は車輪とサッシバーを製造。昭和16年10月10日に合併し車輪工業へ改称
- [52]昭和11年自動車製造事業法でフォード・GMの組立は年1万台前後に限定、昭和14年組立中止。阿部鉄工所は車輪とサッシバーを製造。昭和16年10月10日に合併し車輪工業へ改称
- 車輪工業『創立20周年を迎えて』(1954)
- [47]準戦時体制で資材・電力の統制、民需向自動車の制限と軍用車の増産。企業統合が進み昭和16年10月10日阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称。需要は外国車から国産車へ移行
- [49]準戦時体制で資材・電力の統制、民需向自動車の制限と軍用車の増産。企業統合が進み昭和16年10月10日阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称。需要は外国車から国産車へ移行
- [50]準戦時体制で資材・電力の統制、民需向自動車の制限と軍用車の増産。企業統合が進み昭和16年10月10日阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称。需要は外国車から国産車へ移行
参考文献[33]-[52]
- 車輪工業『創立20周年を迎えて』(1954)
- [33]昭和9年5月帝国発条が大同電気製鋼所に合併されるに当たり車輪部門を分離、野長瀬が継承。資本金35万円、社長野長瀬忠男、工場長河原正貴
- [36]昭和9年5月帝国発条が大同電気製鋼所に合併されるに当たり車輪部門を分離、野長瀬が継承。資本金35万円、社長野長瀬忠男、工場長河原正貴
- [47]準戦時体制で資材・電力の統制、民需向自動車の制限と軍用車の増産。企業統合が進み昭和16年10月10日阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称。需要は外国車から国産車へ移行
- [49]準戦時体制で資材・電力の統制、民需向自動車の制限と軍用車の増産。企業統合が進み昭和16年10月10日阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称。需要は外国車から国産車へ移行
- [50]準戦時体制で資材・電力の統制、民需向自動車の制限と軍用車の増産。企業統合が進み昭和16年10月10日阿部鉄工所を合併し車輪工業に改称。需要は外国車から国産車へ移行
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- [34]東京市蒲田に1,300坪を選定し昭和9年12月22日東京車輪製作所創設。資本金35万円、顧問A.K.ワーレン、米国に注文した機械で創業
- [35]東京市蒲田に1,300坪を選定し昭和9年12月22日東京車輪製作所創設。資本金35万円、顧問A.K.ワーレン、米国に注文した機械で創業
- [37]東京市蒲田に1,300坪を選定し昭和9年12月22日東京車輪製作所創設。資本金35万円、顧問A.K.ワーレン、米国に注文した機械で創業
- [38]東京市蒲田に1,300坪を選定し昭和9年12月22日東京車輪製作所創設。資本金35万円、顧問A.K.ワーレン、米国に注文した機械で創業
- [41]フォード・GMの日本組立工場が昭和14年の組立中止まで主要納入先。国産車組立は昭和11年5,800台・13年15,000台・16年4万台。資本金35万円→5年後300万円→7年後500万円。昭和14年南六郷3丁目に6,000坪を取得し本社工場
- [42]フォード・GMの日本組立工場が昭和14年の組立中止まで主要納入先。国産車組立は昭和11年5,800台・13年15,000台・16年4万台。資本金35万円→5年後300万円→7年後500万円。昭和14年南六郷3丁目に6,000坪を取得し本社工場
- [43]フォード・GMの日本組立工場が昭和14年の組立中止まで主要納入先。国産車組立は昭和11年5,800台・13年15,000台・16年4万台。資本金35万円→5年後300万円→7年後500万円。昭和14年南六郷3丁目に6,000坪を取得し本社工場
- [44]フォード・GMの日本組立工場が昭和14年の組立中止まで主要納入先。国産車組立は昭和11年5,800台・13年15,000台・16年4万台。資本金35万円→5年後300万円→7年後500万円。昭和14年南六郷3丁目に6,000坪を取得し本社工場
- [46]昭和11年自動車製造事業法でフォード・GMの組立は年1万台前後に限定、昭和14年組立中止。阿部鉄工所は車輪とサッシバーを製造。昭和16年10月10日に合併し車輪工業へ改称
- [48]昭和11年自動車製造事業法でフォード・GMの組立は年1万台前後に限定、昭和14年組立中止。阿部鉄工所は車輪とサッシバーを製造。昭和16年10月10日に合併し車輪工業へ改称
- [51]昭和11年自動車製造事業法でフォード・GMの組立は年1万台前後に限定、昭和14年組立中止。阿部鉄工所は車輪とサッシバーを製造。昭和16年10月10日に合併し車輪工業へ改称
- [52]昭和11年自動車製造事業法でフォード・GMの組立は年1万台前後に限定、昭和14年組立中止。阿部鉄工所は車輪とサッシバーを製造。昭和16年10月10日に合併し車輪工業へ改称
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)
- [39]1934年、帝国発条が大同電気製鋼所に合併された際、野長瀬は車輪部門を切り離して東京車輪製作所を創業し本格的なホイール生産を開始
- [40]宮製鋼所は1931年からリム材を供給し、1940年までに9種類のリム・リングバーを供給
- [45]1939年(昭和14年)当時の宮製鋼所中形圧延工場(写真説明)
出典・参考
3件
- 車輪工業『創立20周年を迎えて』(1954)
- 車輪工業『車輪とともに30年』(1964)
- トピー工業『新機会製造会社TOPY 石ノ森章太郎のタイムトリップ トピー工業創立70周年記念誌』(1991)