キーエンス:大阪証券取引所第2部上場と低採算事業を切る高付加価値路線
大証2部上場から東証1部の株価日本一へ
1987年〜株式公開の決断とブラックマンデー直後の大証2部上場
滝崎武光社長が株式公開を構想し始めたのは、創業から10年を経て社員200〜300人・売上高100億円という到達点が視野に入った時期である。それまでの経営目標は会社を潰さずに続けることだったが、上場に目処が立った段階で次の水準を1000億円へ置き替え、経営者としての気の持ち方もそこで変わった。滝崎武光氏は後年、『うちの会社から業績を取り除いたら、何も残らないかもしれません』と語った。上場も新本社も社員の士気も、業績が先にあって初めて得られたものだという順序である。1987年3月期の売上高は73億2100万円、前期からの伸びは1.2倍にとどまり、100億円の線はなお先にあった。公開は資金の調達よりも、社内で積んできた数字を外部の物差しに載せる手続きだった。
- 日経ビジネス(1995年1月16日)
- [1]創業から10年たって社員200〜300人・売上高100億円という線が見えて上場を考えた
- [2]創業当時はまず会社を潰さずに続けていくことが第一だった
- [3]上場に目処がついて次は1000億円と考えたとき経営者としての気の持ち方が変わった
- [4]滝崎武光氏の発言(業績と会社の関係)
- [5]業績が良かったからこそ上場も新本社の建設もでき、社員の士気と生産性ももたらされたという認識
- 証券 1990年2月号
- [6]1987年3月期(昭62.3期)売上高 7,321百万円
- 証券アナリストジャーナル(1987年12月)
- [7]1987年3月期の売上は前年比1.2倍の伸びにとどまり経常利益も微増
1987年10月29日、キーエンスは大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。世界の株式市場が暴落したブラックマンデーの直後という相場環境での公開だった。上場に伴う諸費用8億5000万円は初年度の損益を直撃し、1988年3月期の経常利益は同費用を差し引いて31億5000万円の見込みとなったが、費用を除けば40億円・売上高経常利益率42%の水準にあった。中間期にあたる1987年9月20日現在の売上高は44億6000万円で前年同期比30%増、経常利益は16億4000万円で同36.2%増。月次の伸び率も同年4〜6月の前年比1.2倍から11月には1.5倍まで戻した。公開から数日間は株価が任天堂を上回った。
- キーエンス 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [8]1987年10月 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
- 証券アナリストジャーナル(1988年7月)
- [9]1987年10月29日の上場はブラックマンデー直後の厳しい相場のなかでのデビューだった
- 証券アナリストジャーナル(1987年12月)
- [10]上場諸費用 8億5,000万円
- [11]1988年3月期の通期予想は売上高95億2,000万円・経常利益31億5,000万円
- [12]上場費用を除けば経常利益40億円・売上高対経常利益率42%
- [13]1987年9月20日現在の中間期売上高 44億6,000万円(前年同期比30%増)・経常利益 16億4,000万円(同36.2%増)
- [14]月次の売上高伸び率は4〜6月が前年比1.2倍、7・8月が1.3倍、9・10月が1.4倍、11月が1.5倍
- 日経ビジネス(1991年6月24日)
- [15]大証2部への上場直後、数日間だけ任天堂より株価が高かった
上場前年の1987年3月期は、設立以来おおむね1.5倍から1.8倍で推移してきた伸び率が1.2倍へ落ち、経常利益も微増にとどまった。電機・自動車・精密といった輸出関連の顧客が円高を受けて設備投資を一時的に抑えたことが原因で、不況期には省力化投資としてセンサー需要がむしろ増えるという従来の型が、長期化した円高の前では働かなかった。設備投資と人員を1.5倍に増やしたため経費も同程度に膨らんだ。それでも赤字には遠く、損益分岐点は売上高の約50%、売上高経常利益率は8期連続で35〜40%を保っていた。売上が半分になっても損失を出さない構造が、公開の直前に一度試された形である。
- 証券アナリストジャーナル(1987年12月)
- [16]会社設立後13年間の伸び率はおおむね1.5〜1.8倍だったが1987年3月期は1.2倍
- [17]1987年3月期の経常利益は微増にとどまった
- [18]電機・自動車・精密など輸出関連業界の顧客が円高のため設備投資を一時的に抑えた
- [19]通常は不景気や円高になると省力化投資として自動化用センサーの需要が増えるが、長期化した円高では市場の冷え込みが影響した
- [20]設備投資と人員を1.5倍に増やしたため経費も同程度の増となった
- 証券アナリストジャーナル(1988年7月)
- [21]損益分岐点は売上高の約50%
- [22]売上高対経常利益率は8期連続で35〜40%で推移
- [23]売上が半分になっても赤字にならない体質
参考文献[1]-[23]
- 日経ビジネス(1995年1月16日)
- [1]創業から10年たって社員200〜300人・売上高100億円という線が見えて上場を考えた
- [2]創業当時はまず会社を潰さずに続けていくことが第一だった
- [3]上場に目処がついて次は1000億円と考えたとき経営者としての気の持ち方が変わった
- [4]滝崎武光氏の発言(業績と会社の関係)
- [5]業績が良かったからこそ上場も新本社の建設もでき、社員の士気と生産性ももたらされたという認識
- [6]1987年3月期(昭62.3期)売上高 7,321百万円
- [7]1987年3月期の売上は前年比1.2倍の伸びにとどまり経常利益も微増
- [10]上場諸費用 8億5,000万円
- [11]1988年3月期の通期予想は売上高95億2,000万円・経常利益31億5,000万円
- [12]上場費用を除けば経常利益40億円・売上高対経常利益率42%
- [13]1987年9月20日現在の中間期売上高 44億6,000万円(前年同期比30%増)・経常利益 16億4,000万円(同36.2%増)
- [14]月次の売上高伸び率は4〜6月が前年比1.2倍、7・8月が1.3倍、9・10月が1.4倍、11月が1.5倍
- [16]会社設立後13年間の伸び率はおおむね1.5〜1.8倍だったが1987年3月期は1.2倍
- [17]1987年3月期の経常利益は微増にとどまった
- [18]電機・自動車・精密など輸出関連業界の顧客が円高のため設備投資を一時的に抑えた
- [19]通常は不景気や円高になると省力化投資として自動化用センサーの需要が増えるが、長期化した円高では市場の冷え込みが影響した
- [20]設備投資と人員を1.5倍に増やしたため経費も同程度の増となった
- キーエンス 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [8]1987年10月 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
- [9]1987年10月29日の上場はブラックマンデー直後の厳しい相場のなかでのデビューだった
- [21]損益分岐点は売上高の約50%
- [22]売上高対経常利益率は8期連続で35〜40%で推移
- [23]売上が半分になっても赤字にならない体質
- 日経ビジネス(1991年6月24日)
- [15]大証2部への上場直後、数日間だけ任天堂より株価が高かった
1988年〜見込み生産の標準品と直販が支えた原価率20%の損益構造
営業担当は顧客から得た情報を開発部門に渡すものの、何を求めているかという要望の中身までは渡さない。顧客の声から開発を始めない、という方針があるためである。要望が出てから着手すると1、2年のうちに他社からも似た製品が並び、値段は競り合いで決まる。こうして1988年時点で持っていた製品は大分類で30数アイテムあり、うち90%が業界初のオリジナルで、そのまた70%が独占市場だった。狙うのは顧客自身がまだ気づいていない潜在需要であり、他社に無い製品を最初に出せばプライスリーダーとして価格を一方的に設定できる。クリーンルームで使えるもの、超小型のものというように特徴を絞った品揃えは、オムロン、アンリツ、松下電工といった同業と正面から競合しない位置を作った。
- 日経ビジネス(1991年6月24日)
- [24]営業は開発陣に顧客の情報を伝えるが「こんなものが欲しい」という要望は伝えない
- [28]開発陣は顧客自身が気づいていない潜在需要を掘り起こす
- [30]クリーンルーム用や超小型など特徴のはっきりした製品に絞ったためオムロン・アンリツ・松下電工と正面からぶつからない
- 証券アナリストジャーナル(1988年7月)
- [25]開発ポリシーとして顧客の要望は聞かないというマーケティング戦略を採った
- [26]顧客の要望を受けて開発に入ると1〜2年先に同種の製品が各社から出て価格が競争のなかで決まる
- [27]1988年時点の製品は大きく分類して30数アイテム、うち90%がオリジナル(業界初)でその70%が独占市場
- [29]他社にない製品はプライスリーダーとなり一方的に価格設定を行える
1989年3月期の売上構成は、光学・磁気センサーを中心とする検出制御機器が54.2%、検査・監視センサーなどの計測制御機器が33.5%、レーザ変位計や外径測定器などの自動化用測定機器が12.3%だった。計測制御機器はほとんど競合がなくシェアは98〜99%に達していた。三つの製品群を貫いていたのが、原価率20%・売上総利益80%という損益の形である。受注生産を一切行わず、自社の危険負担で生産計画を立てて標準品だけを売るため、個別の設計費と生産管理費が発生しない。加えて商社を通さない直販が流通の取り分を抑えた。粗利80%から経費40%弱を引いた残りが営業利益40%という構成は、値付けと原価と販路の三つが同じ方向を向いたときにだけ成り立つ。
- 証券アナリストジャーナル(1990年2月)
- [31]1989年3月期の品目別売上構成比は検出制御機器54.2%・計測制御機器33.5%・自動化用測定機器12.3%
- [33]原価率は約20%、売上総利益は80%
- [34]受注生産をやらず、すべて自社のリスクで生産計画を立てて標準品を販売する
- [35]顧客の要望を受けて生産すれば設計費や生産管理費がかかるが、標準品ではそれを節減できる
- [36]先端技術商品は流通業者を通した販売が難しいため直接コンサルティング販売を行い、結果として流通マージンが低く抑えられた
- [37]粗利益80%に対し経費が40%足らずで営業利益が約40%
- 証券アナリストジャーナル(1987年12月)
- [32]計測制御機器はほとんど独占市場でシェアは98〜99%
生産の内訳は、ノウハウ性の高い約25%を100%出資子会社のクレポが担い、残る75%を協力会社へ委託する体制であり、キーエンス本体にはブルーカラー社員が一人もいなかった。生産工程は同じ作業の繰り返しであるため付加価値が低く、他社との差異化も利きにくい。そこで、どこでも作れる商品と価格競争の厳しい商品は外へ出し、技術の独自性が高い2〜3割だけを自社系列に残した。本体が抱えたのは生産管理と生産技術と品質管理で、労務管理は協力会社が引き受けた。物流も同じ考えで、商品センターは本社近くの1か所のみとし、全国への配送は宅配便を使って受注の翌日に届けた。伝票の発行も請求も集金も本社で一括し、営業所には顧客と関わる伝票を置かなかった。
- 証券アナリストジャーナル(1990年2月)
- [38]全生産量の約25%のノウハウ性の高い製品を100%出資子会社クレポで生産し、残る約75%を協力会社に委託
- [39]当社にはブルーカラー社員が一人もいない(付加価値の低い仕事をやらない体制)
- 日経ビジネス(1991年6月24日)
- [40]生産工程は同じことの繰り返しで付加価値が低く、他社との差異化がしにくい
- [41]どこでも生産できる商品・価格競争が厳しく利益率が低い商品はほとんど外注し、技術の独自性が高い2〜3割だけを100%子会社で生産
- 証券アナリストジャーナル(1987年12月)
- [42]生産管理・生産技術・品質管理を中心に力を注ぎ、労務管理は協力会社が中心に運営
- [45]伝票・請求書の発行や集金業務は本社で一括し、営業所では社内伝票以外の顧客に関わる伝票類を使わない
- 証券アナリストジャーナル(1988年7月)
- [43]商品センターは本社近くの1か所のみ
- [44]配送は全国にわたって宅配便を利用し、当日受注したものを翌日届ける
参考文献[24]-[45]
- 日経ビジネス(1991年6月24日)
- [24]営業は開発陣に顧客の情報を伝えるが「こんなものが欲しい」という要望は伝えない
- [28]開発陣は顧客自身が気づいていない潜在需要を掘り起こす
- [30]クリーンルーム用や超小型など特徴のはっきりした製品に絞ったためオムロン・アンリツ・松下電工と正面からぶつからない
- [40]生産工程は同じことの繰り返しで付加価値が低く、他社との差異化がしにくい
- [41]どこでも生産できる商品・価格競争が厳しく利益率が低い商品はほとんど外注し、技術の独自性が高い2〜3割だけを100%子会社で生産
- [25]開発ポリシーとして顧客の要望は聞かないというマーケティング戦略を採った
- [26]顧客の要望を受けて開発に入ると1〜2年先に同種の製品が各社から出て価格が競争のなかで決まる
- [27]1988年時点の製品は大きく分類して30数アイテム、うち90%がオリジナル(業界初)でその70%が独占市場
- [29]他社にない製品はプライスリーダーとなり一方的に価格設定を行える
- [43]商品センターは本社近くの1か所のみ
- [44]配送は全国にわたって宅配便を利用し、当日受注したものを翌日届ける
- [31]1989年3月期の品目別売上構成比は検出制御機器54.2%・計測制御機器33.5%・自動化用測定機器12.3%
- [33]原価率は約20%、売上総利益は80%
- [34]受注生産をやらず、すべて自社のリスクで生産計画を立てて標準品を販売する
- [35]顧客の要望を受けて生産すれば設計費や生産管理費がかかるが、標準品ではそれを節減できる
- [36]先端技術商品は流通業者を通した販売が難しいため直接コンサルティング販売を行い、結果として流通マージンが低く抑えられた
- [37]粗利益80%に対し経費が40%足らずで営業利益が約40%
- [38]全生産量の約25%のノウハウ性の高い製品を100%出資子会社クレポで生産し、残る約75%を協力会社に委託
- [39]当社にはブルーカラー社員が一人もいない(付加価値の低い仕事をやらない体制)
- [32]計測制御機器はほとんど独占市場でシェアは98〜99%
- [42]生産管理・生産技術・品質管理を中心に力を注ぎ、労務管理は協力会社が中心に運営
- [45]伝票・請求書の発行や集金業務は本社で一括し、営業所では社内伝票以外の顧客に関わる伝票類を使わない
1990年〜東証1部上場と株価日本一、給与日本一を掲げた社員への分配
1989年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、翌1990年9月には東証と大証の市場第一部へ移った。大証2部での公開から3年足らずである。1991年3月期の売上高は262億6700万円、経常利益は129億2800万円に達し、売上高経常利益率は49%となった。同年4月下旬には株価が任天堂を抜き、以後しばらく日本一の水準が続いた。滝崎武光氏は『株価は発行済み株式数に左右されますから、あまり意味がない』と語った。経営が見るべき指標は株主資本利益率と従業員1人当たり利益だという立場である。公募増資で得た資金は一時的に手元へ滞留し、大阪・東京・名古屋の研究所と営業所の建設に充てる計画が置かれていた。
- キーエンス 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [46]1989年12月 東京証券取引所市場第二部に上場、1990年9月 東京証券取引所及び大阪証券取引所市場第一部に上場
- [47]1987年10月の大証2部上場から1990年9月の1部上場まで3年足らず
- 日経ビジネス(1991年6月24日)
- [48]1991年3月期 売上高 262億6700万円・経常利益 129億2800万円
- [49]1991年4月下旬に任天堂を追い抜いて以来、株価日本一が続いた
- [50]滝崎武光氏の発言(株価の首位について)
- [51]経営にとって大事なのは株主資本利益率と従業員1人当たり利益だという考え
- 証券アナリストジャーナル(1990年2月)
- [52]公募増資による調達資金が一時的に滞留しており、大阪・東京・名古屋などの研究所・営業所の建設資金に充てる計画
1991年時点の社員は760人で、うち約100人が研究開発に携わった。平均年齢は28歳と若く、給与はメーカーのなかでも上位にあり、30歳を過ぎれば年収1000万円に達する水準だった。特別な給与体系を敷いたわけではないと断りつつ、滝崎武光氏は『将来は株価だけではなく、給与も日本一にしたい』と語った。役職の配り方も年齢構成に合わせ、課長の職位は30歳を超えてから与えた。30歳で部長に就けば、役員へ上がらない限り退職まで同じ職位にとどまる者が出るという理由である。直販の営業要員は1988年の約180人から1990年には250人へ増え、さらに1000人規模まで広げる方針が置かれた。人を増やすほど1人当たりの利益は薄まるはずで、待遇を上げ続けられたのは値付けの自由が手元にあったからである。
- 日経ビジネス(1991年6月24日)
- [53]1991年時点の社員760人のうち約100人が研究開発に従事
- [54]従業員の平均年齢 28歳
- [55]メーカーではトップクラスの給与を支払い、30歳過ぎで年収1000万円に手が届く
- [56]滝崎武光氏の発言(給与の水準について)
- [57]課長のポストは30歳を超えてから与える
- [58]30歳で部長になれば役員にならない限り退職まで同じポストにとどまる者が出る
- 証券アナリストジャーナル(1990年2月)
- [59]営業マンは1988年に約180名、1990年時点で直販営業マン250人を1000人程度まで増員する方針
新本社と研究所の建物は、淀川のほとりに建つ21階建てのビルだった。完成は1994年8月で、場所は大阪市、本社の機能もここへ移った。滝崎武光氏は植栽の一本に至るまで自分で監修し、そこに創業21年目で一から出直すという意図を込めた。建設と並行して、社内では経営理念を改めるかどうかも話し合われた。議論は重ねられたものの、理念の中身は手つかずのまま残された。理念が創業時から動いていないことを示すしるしとして、館内には化石が置かれた。化石に託した意味は『適者生存、環境に合わせて生きていくということです』で、三葉虫や恐竜のような滅びる側には回らないという戒めでもある。センサーを主力とする今の形は、会社の規模に合わせた当座のものにとどまり、専業のメーカーを目指す考えは最初からなかった。社内には3000億円という目標があり、1000億円まではFA用センサーを主力とする構造のまま到達できると見ていた。
- 日経ビジネス(1995年1月16日)
- [60]新本社ビルは21階建てで、最上階から淀川を隔てて大阪の高層ビル群を望む
- [62]21年目にまたゼロからスタートする思いを込め、滝崎武光氏が植木1本からすべてを監修して建てた
- [63]ビル建設に合わせて経営理念も変えようと議論したが結局変わらなかった
- [64]創業当時から変わらない理念を象徴するものとしてビルに化石を置いた
- [65]滝崎武光氏の発言(化石に込めた意味)
- [66]化石には三葉虫や恐竜のように滅びたものもあれば環境に合わせて進化し生き延びたものもある、という対比
- [67]センサー事業が中心なのは現在の姿にすぎず、センサーの専業メーカーになろうという気持ちは初めから無かった
- [68]社内目標は3000億円で、1000億円まではFA用センサーを主力にした今の形で到達できると見ていた
- キーエンス 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [61]1994年8月 大阪市に新本社・研究所を竣工し本社を移転
参考文献[46]-[68]
- キーエンス 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [46]1989年12月 東京証券取引所市場第二部に上場、1990年9月 東京証券取引所及び大阪証券取引所市場第一部に上場
- [47]1987年10月の大証2部上場から1990年9月の1部上場まで3年足らず
- [61]1994年8月 大阪市に新本社・研究所を竣工し本社を移転
- 日経ビジネス(1991年6月24日)
- [48]1991年3月期 売上高 262億6700万円・経常利益 129億2800万円
- [49]1991年4月下旬に任天堂を追い抜いて以来、株価日本一が続いた
- [50]滝崎武光氏の発言(株価の首位について)
- [51]経営にとって大事なのは株主資本利益率と従業員1人当たり利益だという考え
- [53]1991年時点の社員760人のうち約100人が研究開発に従事
- [54]従業員の平均年齢 28歳
- [55]メーカーではトップクラスの給与を支払い、30歳過ぎで年収1000万円に手が届く
- [56]滝崎武光氏の発言(給与の水準について)
- [57]課長のポストは30歳を超えてから与える
- [58]30歳で部長になれば役員にならない限り退職まで同じポストにとどまる者が出る
- [52]公募増資による調達資金が一時的に滞留しており、大阪・東京・名古屋などの研究所・営業所の建設資金に充てる計画
- [59]営業マンは1988年に約180名、1990年時点で直販営業マン250人を1000人程度まで増員する方針
- 日経ビジネス(1995年1月16日)
- [60]新本社ビルは21階建てで、最上階から淀川を隔てて大阪の高層ビル群を望む
- [62]21年目にまたゼロからスタートする思いを込め、滝崎武光氏が植木1本からすべてを監修して建てた
- [63]ビル建設に合わせて経営理念も変えようと議論したが結局変わらなかった
- [64]創業当時から変わらない理念を象徴するものとしてビルに化石を置いた
- [65]滝崎武光氏の発言(化石に込めた意味)
- [66]化石には三葉虫や恐竜のように滅びたものもあれば環境に合わせて進化し生き延びたものもある、という対比
- [67]センサー事業が中心なのは現在の姿にすぎず、センサーの専業メーカーになろうという気持ちは初めから無かった
- [68]社内目標は3000億円で、1000億円まではFA用センサーを主力にした今の形で到達できると見ていた
筆者考察
株式公開は、この会社にとって資金を取りに行く行事ではなかった。1987年10月の大証2部上場は上場諸費用8億5000万円を伴ったが、それを差し引いてもなお1988年3月期の経常利益は31億5000万円を見込めた。費用を除けば売上高経常利益率42%である。上場は既に出来上がっていた損益の形を外へ示す手続きであり、資金はその副産物だった。滝崎武光氏が公開の条件として挙げたのは社員200〜300人と売上高100億円という自社の到達度であって、相場の環境ではない。ブラックマンデーの直後に公開できたのも、外の相場が良くなるのを待つ理由が無かったからだと見るほうが筋が通る。
1991年4月に株価が任天堂を抜いたとき、滝崎武光氏はそれを発行済株式数次第の数字として退け、株主資本利益率と従業員1人当たり利益へ話を移した。この言い換えは高収益の使い道を示している。原価率20%が生む粗利は、30歳で年収1000万円という待遇と、760人のうち100人を研究開発に置く配置へ回った。値段を高く付けられる構造を、人を高く買う原資に変えたのである。1994年に建てた21階建ての本社へ化石を置き、センサー専業を仮の姿と呼んだのも同じ線上にある。1000億円までは今の製品で届くが、その先の3000億円は別の事業を要するという読みが、専業を否定する言葉の中身だった。守るべきは製品ではなく、値付けの自由を生む仕組みのほうである。
- 1987年10月 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場(有価証券報告書【沿革】)
- 1989年12月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場(有価証券報告書【沿革】)
- 1990年9月 東京証券取引所及び大阪証券取引所市場第一部に上場(有価証券報告書【沿革】)
- 棒はすべて単体。連結の開示は無い。
- 1987年3月期から1989年3月期は証券 1990年2月号「新規上場会社紹介 株式会社キーエンス」の最近5年間の業績(7,321百万円・10,140百万円・14,663百万円)。1991年3月期は日経ビジネス 1991年6月24日号の会社概要欄。
- 1990年3月期の売上は分からない。
1987年〜1994年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1987年03月期 | 単体 | 73 | n/a | 12 | 16.5% | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | 101 | +38.5% | 15 | 15.6% | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | 146 | +44.6% | 27 | 19.0% | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | 262 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1993年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1994年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:証券42(2)
出典・参考
7件
- キーエンス 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- 証券アナリストジャーナル(1987年12月)
- 証券アナリストジャーナル(1988年7月)
- 証券 1990年2月号
- 証券アナリストジャーナル(1990年2月)
- 日経ビジネス(1991年6月24日)
- 日経ビジネス(1995年1月16日)