第1章 年〜年

ホソカワミクロン:細川鉄工所への改組と「スーパーミクロンミル」の発売

1949年〜水車の町工場から改組した細川鉄工所と、武田薬品工業を辞めて専務に就任した細川益男氏

細川鉄工所は1949年8月に株式会社へ改組し、粉砕機の製造と販売を事業の中心に置いた。起点は1916年4月、細川益男氏の父による大阪市での鉄工所の創業。創業当初の仕事は水車やポンプの製作で、規模は町工場にとどまった。1930年には微粉砕機「ミクロンミル」を発明し、以後は粉体機器の開発に経営資源を集中した。創業以来ほぼ一貫して粉体技術を専門にしてきたというのが、細川益男氏の1989年の講演での説明である。改組後の社名は、1980年8月にホソカワミクロンへ商号を変更するまで31年間使われた。戦後の再出発にあたり、ミクロンミル以来の粉砕機を事業の中心に据え直すための改組だったとみられる。

  • 証券 43(10) 1991年(新規上場会社紹介)
    • [1]1949年8月、大阪で株式会社細川鉄工所として設立され、粉砕機の製造販売を事業とした
  • 証券アナリストジャーナル 30(6) 1992年 細川益男
    • [2]1916年4月に細川鉄工所として大阪市で創業し、1949年8月に株式会社細川鉄工所に改組、1980年8月にホソカワミクロンへ商号変更
    • [6]1916年4月に細川鉄工所として大阪市で創業し、1949年8月に株式会社細川鉄工所に改組、1980年8月にホソカワミクロンへ商号変更
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [3]1916年に細川益男社長の父が大阪に細川鉄工所を設立。当初は水車・ポンプの町工場で、1930年に微粉砕機「ミクロンミル」を発明して以来、粉体機器の分野を深耕
    • [4]1916年に細川益男社長の父が大阪に細川鉄工所を設立。当初は水車・ポンプの町工場で、1930年に微粉砕機「ミクロンミル」を発明して以来、粉体機器の分野を深耕
  • 証券アナリストジャーナル 27(8) 1989年 細川益男
    • [5]1989年の講演で、1916年の創業以来ほぼ一貫して粉体技術を専門に業務を展開してきたと説明

細川益男氏は1951年に武田薬品工業を退社し、細川鉄工所の専務兼技術部長に就任した。細川益男氏は1924年生まれで、1946年に京都大学工学部化学機械科を卒業して武田薬品工業に入社した人物である。在職中の仕事は、手作業が中心だった製薬工程の自動化の指揮。同じ時期に父の会社を外から観察し、父は技術者として優れていても近代的な経営には向かないと判断した。細川益男氏は経営の行き詰まりを懸念し、父の強い要請を受けて入社を決めた。なお別の経歴では、1949年7月に入社し、同年8月に取締役に就任したとされる。移籍の際に技術部長の職を自ら設けた経緯からみて、技術による立て直しを入社の目的に置いていたのだろう。

  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊・1993年)「M&A戦略の始まりは三十五年前の香港展示会」細川益男
    • [7]1924年生まれ、1946年京都大学工学部化学機械科卒業後に武田薬品工業入社。薬品製造のオートメーション化を指揮。父は技術者として尊敬できるが近代的な経営者として優秀でないと気付き、1951年に細川鉄工所へ移って技術部長の職を設け、専務兼技術部長に就任
    • [8]1924年生まれ、1946年京都大学工学部化学機械科卒業後に武田薬品工業入社。薬品製造のオートメーション化を指揮。父は技術者として尊敬できるが近代的な経営者として優秀でないと気付き、1951年に細川鉄工所へ移って技術部長の職を設け、専務兼技術部長に就任
    • [9]1924年生まれ、1946年京都大学工学部化学機械科卒業後に武田薬品工業入社。薬品製造のオートメーション化を指揮。父は技術者として尊敬できるが近代的な経営者として優秀でないと気付き、1951年に細川鉄工所へ移って技術部長の職を設け、専務兼技術部長に就任
    • [10]1924年生まれ、1946年京都大学工学部化学機械科卒業後に武田薬品工業入社。薬品製造のオートメーション化を指揮。父は技術者として尊敬できるが近代的な経営者として優秀でないと気付き、1951年に細川鉄工所へ移って技術部長の職を設け、専務兼技術部長に就任
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [11]武田薬品工業に勤めていた細川益男氏は父親の強い要請を受けて1951年に入社
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号 編集長インタビュー 細川益男氏
    • [12]経歴欄:1949年7月細川鉄工所入社、同年8月取締役、1961年3月代表取締役社長

細川鉄工所は1951年3月に微粉砕機「スーパーミクロンミル」の製造販売を始め、粉砕機の守備範囲を微粉の領域へ広げた。土台は、1930年に父の代で発明した微粉砕機「ミクロンミル」の技術である。細川益男氏は1953年に五カ年計画を策定し、技術力の充実と国際化を計画の軸に据えた。当時の国内では、技術は海外から輸入するものという見方が一般的だった。1958年までには高速度微粉砕機「ミクロンパルベライザー」も開発した。のちにスイスの技術者が来社した際、評価の対象になった製品の1つが「スーパーミクロンミル」だった。微粉砕機の系列は、技術を国外へ問う際に細川鉄工所が示せる中核商品になったと推察される。

  • ホソカワミクロン 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1951年3月 微粉砕機(スーパーミクロンミル)の製造・販売を開始
  • 証券 43(10) 1991年(新規上場会社紹介)
    • [14]1951年3月に微粉砕機の製造販売を開始
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [15]水車・ポンプの町工場だった細川鉄工所は、細川益男社長の父の代の1930年に微粉砕機「ミクロンミル」を発明し、以来粉体機器の分野を深耕
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊・1993年)「M&A戦略の始まりは三十五年前の香港展示会」細川益男
    • [16]1953年に五カ年計画を打ち出し「技術力の充実」と「国際化」を柱とした。1958年の香港展示会で当時開発したばかりの高速度微粉砕機「ミクロンパルベライザー」を展示。スイスの技術者が「スーパーミクロンミル」などの粉砕機を見て感激した。当時の日本では技術は輸入するものという固定観念があった
    • [17]1953年に五カ年計画を打ち出し「技術力の充実」と「国際化」を柱とした。1958年の香港展示会で当時開発したばかりの高速度微粉砕機「ミクロンパルベライザー」を展示。スイスの技術者が「スーパーミクロンミル」などの粉砕機を見て感激した。当時の日本では技術は輸入するものという固定観念があった
    • [18]1953年に五カ年計画を打ち出し「技術力の充実」と「国際化」を柱とした。1958年の香港展示会で当時開発したばかりの高速度微粉砕機「ミクロンパルベライザー」を展示。スイスの技術者が「スーパーミクロンミル」などの粉砕機を見て感激した。当時の日本では技術は輸入するものという固定観念があった
    • [19]1953年に五カ年計画を打ち出し「技術力の充実」と「国際化」を柱とした。1958年の香港展示会で当時開発したばかりの高速度微粉砕機「ミクロンパルベライザー」を展示。スイスの技術者が「スーパーミクロンミル」などの粉砕機を見て感激した。当時の日本では技術は輸入するものという固定観念があった
参考文献[1]-[19]
  • 証券 43(10) 1991年(新規上場会社紹介)
    • [1]1949年8月、大阪で株式会社細川鉄工所として設立され、粉砕機の製造販売を事業とした
    • [14]1951年3月に微粉砕機の製造販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 30(6) 1992年 細川益男
    • [2]1916年4月に細川鉄工所として大阪市で創業し、1949年8月に株式会社細川鉄工所に改組、1980年8月にホソカワミクロンへ商号変更
    • [6]1916年4月に細川鉄工所として大阪市で創業し、1949年8月に株式会社細川鉄工所に改組、1980年8月にホソカワミクロンへ商号変更
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [3]1916年に細川益男社長の父が大阪に細川鉄工所を設立。当初は水車・ポンプの町工場で、1930年に微粉砕機「ミクロンミル」を発明して以来、粉体機器の分野を深耕
    • [4]1916年に細川益男社長の父が大阪に細川鉄工所を設立。当初は水車・ポンプの町工場で、1930年に微粉砕機「ミクロンミル」を発明して以来、粉体機器の分野を深耕
    • [11]武田薬品工業に勤めていた細川益男氏は父親の強い要請を受けて1951年に入社
    • [15]水車・ポンプの町工場だった細川鉄工所は、細川益男社長の父の代の1930年に微粉砕機「ミクロンミル」を発明し、以来粉体機器の分野を深耕
  • 証券アナリストジャーナル 27(8) 1989年 細川益男
    • [5]1989年の講演で、1916年の創業以来ほぼ一貫して粉体技術を専門に業務を展開してきたと説明
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊・1993年)「M&A戦略の始まりは三十五年前の香港展示会」細川益男
    • [7]1924年生まれ、1946年京都大学工学部化学機械科卒業後に武田薬品工業入社。薬品製造のオートメーション化を指揮。父は技術者として尊敬できるが近代的な経営者として優秀でないと気付き、1951年に細川鉄工所へ移って技術部長の職を設け、専務兼技術部長に就任
    • [8]1924年生まれ、1946年京都大学工学部化学機械科卒業後に武田薬品工業入社。薬品製造のオートメーション化を指揮。父は技術者として尊敬できるが近代的な経営者として優秀でないと気付き、1951年に細川鉄工所へ移って技術部長の職を設け、専務兼技術部長に就任
    • [9]1924年生まれ、1946年京都大学工学部化学機械科卒業後に武田薬品工業入社。薬品製造のオートメーション化を指揮。父は技術者として尊敬できるが近代的な経営者として優秀でないと気付き、1951年に細川鉄工所へ移って技術部長の職を設け、専務兼技術部長に就任
    • [10]1924年生まれ、1946年京都大学工学部化学機械科卒業後に武田薬品工業入社。薬品製造のオートメーション化を指揮。父は技術者として尊敬できるが近代的な経営者として優秀でないと気付き、1951年に細川鉄工所へ移って技術部長の職を設け、専務兼技術部長に就任
    • [16]1953年に五カ年計画を打ち出し「技術力の充実」と「国際化」を柱とした。1958年の香港展示会で当時開発したばかりの高速度微粉砕機「ミクロンパルベライザー」を展示。スイスの技術者が「スーパーミクロンミル」などの粉砕機を見て感激した。当時の日本では技術は輸入するものという固定観念があった
    • [17]1953年に五カ年計画を打ち出し「技術力の充実」と「国際化」を柱とした。1958年の香港展示会で当時開発したばかりの高速度微粉砕機「ミクロンパルベライザー」を展示。スイスの技術者が「スーパーミクロンミル」などの粉砕機を見て感激した。当時の日本では技術は輸入するものという固定観念があった
    • [18]1953年に五カ年計画を打ち出し「技術力の充実」と「国際化」を柱とした。1958年の香港展示会で当時開発したばかりの高速度微粉砕機「ミクロンパルベライザー」を展示。スイスの技術者が「スーパーミクロンミル」などの粉砕機を見て感激した。当時の日本では技術は輸入するものという固定観念があった
    • [19]1953年に五カ年計画を打ち出し「技術力の充実」と「国際化」を柱とした。1958年の香港展示会で当時開発したばかりの高速度微粉砕機「ミクロンパルベライザー」を展示。スイスの技術者が「スーパーミクロンミル」などの粉砕機を見て感激した。当時の日本では技術は輸入するものという固定観念があった
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号 編集長インタビュー 細川益男氏
    • [12]経歴欄:1949年7月細川鉄工所入社、同年8月取締役、1961年3月代表取締役社長
  • ホソカワミクロン 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1951年3月 微粉砕機(スーパーミクロンミル)の製造・販売を開始

1955年〜従業員80人の町工場が掲げた「世界のホソカワ」と、香港のナイトクラブで開いた粉砕機の展示会

細川鉄工所は1955年9月に分級機、1959年8月に乾燥機の製造販売を始め、粉砕機の周辺工程へ品目を広げた。細川益男氏は、粉砕した後に粒子を大きさで選り分ける分級技術が欠かせないと説明した。異なる材料を混ぜ合わせる混合の技術も必要になると、細川益男氏は付け加えた。細川益男氏はのちに、粉砕機を主峰、分級機などを峰とみなす「粉体技術連峰」の構想を示した。峰と峰をつなぐ尾根の位置には、機械同士を組み合わせるソフトの技術。昭和30年代の初めには枚方市に粉体工学研究所を置き、粉体の基礎研究にも着手した。単体の機械を納めるだけでなく、粉体を仕上げる工程の一式を引き受ける体制をこの時期に組み始めたと考えられる。

  • 証券 43(10) 1991年(新規上場会社紹介)
    • [20]1955年9月に分級機、1959年8月に乾燥機の製造販売を開始し、粉砕機の周辺業務に進出
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号 編集長インタビュー 細川益男氏
    • [21]粉砕後に粒子を大きさで分ける分級技術、異なる材料を混ぜる混合技術が必要と細川益男社長が説明
    • [22]粉砕後に粒子を大きさで分ける分級技術、異なる材料を混ぜる混合技術が必要と細川益男社長が説明
  • 証券アナリストジャーナル 27(8) 1989年 細川益男
    • [23]粉砕機を高い山、分級機を峰、それをつなぐ山麓・尾根をソフトとする「粉体技術連峰」を細川益男社長が説明
    • [24]粉砕機を高い山、分級機を峰、それをつなぐ山麓・尾根をソフトとする「粉体技術連峰」を細川益男社長が説明
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [25]昭和30年代初めに粉体工学研究所を枚方市に設置し、粉体の基礎研究体制を整備

細川益男氏は1958年5月、専務として単身で香港に渡り、ナイトクラブを会場に粉砕機の展示会を開催した。契機は大阪の商工会議所の講演会で、税のかからない自由貿易について話を聞いたことである。当時の従業員は80人ほどで、社内には費用の無駄だとする反対があった。外貨の持ち出しが制限された時期で、滞在費はカメラや時計を現地で売却して賄った。招待状2,000通には『どんな物でも粉々に砕いてみせます』と記し、当日は500人を超える来場者を集めた。狙いは東南アジア市場の開拓で、1957年開始の第2次長期計画には「世界のホソカワ」を掲げていた。従業員80人の会社にとって、展示会は海外で売れるかを確かめる実地の試験だったと思われる。

  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊・1993年)「M&A戦略の始まりは三十五年前の香港展示会」細川益男
    • [26]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
    • [27]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
    • [28]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
    • [29]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
    • [30]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [31]東南アジア市場を開拓するため単身香港に渡り粉砕機のデモンストレーションを実施
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号 編集長インタビュー 細川益男氏
    • [32]1957年からスタートした第2次長期計画で「世界のホソカワ」を掲げて国際化を図った

細川鉄工所は1958年に粉体技術の論文誌「粉砕」を創刊し、学者や業界の専門家へ無料で配布した。香港の展示会を知った東京の商社は、スイスの粉砕機メーカーとの技術提携を持ち込んだ。細川益男氏は現地で技術を確かめて期待外れと判断し、契約金の値引きを示されても導入を断った。銀行も導入資金の融資を申し出ていたものの、細川益男氏は判断を変えなかった。断られたスイス側は技術者を送り、「スーパーミクロンミル」などを見て欧州での販売許可を求めた。これが細川鉄工所の最初の技術提携となり、米国パルベライジング・マシナリー社などへの技術輸出も決まった。細川益男氏は1961年3月に代表取締役社長に就任した。技術の輸入を断って輸出へ転じた経験が、次の米国企業との相互の技術供与へつながったのだろう。

  • 証券アナリストジャーナル 30(6) 1992年 細川益男
    • [33]1958年から粉体技術に関する論文を集めた「粉砕」誌を出版し、学者や業界の専門家に約5,000部を無料配布
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊・1993年)「M&A戦略の始まりは三十五年前の香港展示会」細川益男
    • [34]香港展示会を聞きつけた東京の商社がスイスの粉砕機メーカーとの技術提携を仲介。期待外れとして断り、値引きにも応じず。スイスから技術者が来て「スーパーミクロンミル」などを見て欧州での販売許可を求め、最初の技術提携となった
    • [35]香港展示会を聞きつけた東京の商社がスイスの粉砕機メーカーとの技術提携を仲介。期待外れとして断り、値引きにも応じず。スイスから技術者が来て「スーパーミクロンミル」などを見て欧州での販売許可を求め、最初の技術提携となった
    • [37]香港展示会を聞きつけた東京の商社がスイスの粉砕機メーカーとの技術提携を仲介。期待外れとして断り、値引きにも応じず。スイスから技術者が来て「スーパーミクロンミル」などを見て欧州での販売許可を求め、最初の技術提携となった
    • [38]香港展示会を聞きつけた東京の商社がスイスの粉砕機メーカーとの技術提携を仲介。期待外れとして断り、値引きにも応じず。スイスから技術者が来て「スーパーミクロンミル」などを見て欧州での販売許可を求め、最初の技術提携となった
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号 編集長インタビュー 細川益男氏
    • [36]スイスの技術購入には銀行が資金を出すと申し出たが断った。スイス側が技術を見に来て、米国パルベライジングマシナリー社などへの技術輸出が決まった。1961年に社長就任
    • [39]スイスの技術購入には銀行が資金を出すと申し出たが断った。スイス側が技術を見に来て、米国パルベライジングマシナリー社などへの技術輸出が決まった。1961年に社長就任
    • [40]スイスの技術購入には銀行が資金を出すと申し出たが断った。スイス側が技術を見に来て、米国パルベライジングマシナリー社などへの技術輸出が決まった。1961年に社長就任
参考文献[20]-[40]
  • 証券 43(10) 1991年(新規上場会社紹介)
    • [20]1955年9月に分級機、1959年8月に乾燥機の製造販売を開始し、粉砕機の周辺業務に進出
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号 編集長インタビュー 細川益男氏
    • [21]粉砕後に粒子を大きさで分ける分級技術、異なる材料を混ぜる混合技術が必要と細川益男社長が説明
    • [22]粉砕後に粒子を大きさで分ける分級技術、異なる材料を混ぜる混合技術が必要と細川益男社長が説明
    • [32]1957年からスタートした第2次長期計画で「世界のホソカワ」を掲げて国際化を図った
    • [36]スイスの技術購入には銀行が資金を出すと申し出たが断った。スイス側が技術を見に来て、米国パルベライジングマシナリー社などへの技術輸出が決まった。1961年に社長就任
    • [39]スイスの技術購入には銀行が資金を出すと申し出たが断った。スイス側が技術を見に来て、米国パルベライジングマシナリー社などへの技術輸出が決まった。1961年に社長就任
    • [40]スイスの技術購入には銀行が資金を出すと申し出たが断った。スイス側が技術を見に来て、米国パルベライジングマシナリー社などへの技術輸出が決まった。1961年に社長就任
  • 証券アナリストジャーナル 27(8) 1989年 細川益男
    • [23]粉砕機を高い山、分級機を峰、それをつなぐ山麓・尾根をソフトとする「粉体技術連峰」を細川益男社長が説明
    • [24]粉砕機を高い山、分級機を峰、それをつなぐ山麓・尾根をソフトとする「粉体技術連峰」を細川益男社長が説明
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [25]昭和30年代初めに粉体工学研究所を枚方市に設置し、粉体の基礎研究体制を整備
    • [31]東南アジア市場を開拓するため単身香港に渡り粉砕機のデモンストレーションを実施
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊・1993年)「M&A戦略の始まりは三十五年前の香港展示会」細川益男
    • [26]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
    • [27]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
    • [28]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
    • [29]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
    • [30]1958年5月、専務の細川益男氏が単身香港に渡りナイトクラブで粉砕機展示会を開催。大阪の商工会議所の講演で自由貿易の話を聞いたのが契機。従業員80人ほど、社内に反対、外貨持ち出し制限下でカメラや時計を売って滞在費を捻出。招待状2,000通、来場500人超
    • [34]香港展示会を聞きつけた東京の商社がスイスの粉砕機メーカーとの技術提携を仲介。期待外れとして断り、値引きにも応じず。スイスから技術者が来て「スーパーミクロンミル」などを見て欧州での販売許可を求め、最初の技術提携となった
    • [35]香港展示会を聞きつけた東京の商社がスイスの粉砕機メーカーとの技術提携を仲介。期待外れとして断り、値引きにも応じず。スイスから技術者が来て「スーパーミクロンミル」などを見て欧州での販売許可を求め、最初の技術提携となった
    • [37]香港展示会を聞きつけた東京の商社がスイスの粉砕機メーカーとの技術提携を仲介。期待外れとして断り、値引きにも応じず。スイスから技術者が来て「スーパーミクロンミル」などを見て欧州での販売許可を求め、最初の技術提携となった
    • [38]香港展示会を聞きつけた東京の商社がスイスの粉砕機メーカーとの技術提携を仲介。期待外れとして断り、値引きにも応じず。スイスから技術者が来て「スーパーミクロンミル」などを見て欧州での販売許可を求め、最初の技術提携となった
  • 証券アナリストジャーナル 30(6) 1992年 細川益男
    • [33]1958年から粉体技術に関する論文を集めた「粉砕」誌を出版し、学者や業界の専門家に約5,000部を無料配布

出典・参考

7件
出典・参考
  • ホソカワミクロン 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
  • 証券アナリストジャーナル 27(8) 1989年 細川益男
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号 編集長インタビュー 細川益男氏
  • 証券アナリストジャーナル 30(6) 1992年 細川益男
  • 証券 43(10) 1991年(新規上場会社紹介)
  • 創業者精神(日経ベンチャー別冊・1993年)「M&A戦略の始まりは三十五年前の香港展示会」細川益男

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