第1章 年〜年

マルゼン:渡辺商事の設立と中華料理店用ガスレンジの製造販売

1961年〜資本金100万円の渡辺商事と、3カ月月賦の石油バーナー

渡邉昌彦氏は1961年3月、業務用の石油ガスバーナーを製造販売する目的で、資本金100万円の渡辺商事株式会社を東京都荒川区で設立した。1986年の取材で渡邉昌彦氏は、従兄弟が重役を務めていた小規模な石油バーナーの製造会社に入り、その会社が1年後に倒産したと語った。社長が再建を断念したため、2人は再建に備えて確保していた部品類を取得し、それを元手に商売を続けることにした。1995年の説明では、渡邉昌彦氏は主な燃料が固形燃料から石油へ移る流れを感じ取り、灯油を気化させる石油バーナーに着目したとされる。設立時の渡邉昌彦氏は30歳、従業員は5名。創業の経緯は語られた年によって力点が異なり、残った部品と燃料転換の見通しのどちらが決め手だったかは定まらない。

  • マルゼン 有価証券報告書(第40期・2001年2月期)【沿革】
    • [1]1961年3月 業務用石油ガスバーナーの製造販売を目的に渡辺商事株式会社(資本金1,000千円)を東京都荒川区に設立
  • 商工ジャーナル 12(5)(134) 1986年5月 渡辺昌彦氏
    • [2]従兄弟が重役の小さな石油バーナーメーカーに入社、1年後に倒産。社長が再建を断念し、再建用に確保した部品類を2人で買い取って商売を始めた
    • [3]従兄弟が重役の小さな石油バーナーメーカーに入社、1年後に倒産。社長が再建を断念し、再建用に確保した部品類を2人で買い取って商売を始めた
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [4]燃料の主流が固形燃料から石油へ変わる流れを感じ、灯油の気化装置である石油バーナーに着目。設立時30歳・従業員5名
    • [5]燃料の主流が固形燃料から石油へ変わる流れを感じ、灯油の気化装置である石油バーナーに着目。設立時30歳・従業員5名

渡邉昌彦氏は、競合メーカーがいる家庭用を避け、石炭やコークスで大きな火力を得ていた中華料理店に販路を定めた。中華料理店が求めていたのは、扱いが簡単で強い火力をすぐに得られる燃焼器具である。渡辺商事はこの要望を設計に取り入れ、中華料理店向けに業務用の石油ガスバーナーを開発した。渡邉昌彦氏は1995年の取材で、創業時について『中華料理用という隙間から、この業界に入っていった』と振り返った。1998年の取材では、大企業のすき間を狙うこと、価格を自ら決められること、1社に依存しないことの3点を、小資本で事業を選ぶ基準に挙げた。同じ取材で渡邉昌彦氏は、上京後に渡辺商店を興して料理店に石炭やコークスを販売しながら、会社として拡大できる商品と市場を探していたと語った。

  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [6]家庭用には競合メーカーがあるため、石炭・コークスで大量の火力を使う中華料理店に的を絞り、業務用石油ガスバーナーを開発
    • [7]家庭用には競合メーカーがあるため、石炭・コークスで大量の火力を使う中華料理店に的を絞り、業務用石油ガスバーナーを開発
    • [8]家庭用には競合メーカーがあるため、石炭・コークスで大量の火力を使う中華料理店に的を絞り、業務用石油ガスバーナーを開発
    • [9]家庭用には競合メーカーがあるため、石炭・コークスで大量の火力を使う中華料理店に的を絞り、業務用石油ガスバーナーを開発
  • 戦略経営者 13(3)(137) 1998年3月 河内真弘「マルゼン――着眼がすべてを決めた!」
    • [10]上京後に渡辺商店を興し固形燃料を料理店に販売。大企業のすき間・価格主導権・一社依存回避の3ポリシーで商品と市場を選んだ
    • [11]上京後に渡辺商店を興し固形燃料を料理店に販売。大企業のすき間・価格主導権・一社依存回避の3ポリシーで商品と市場を選んだ

渡邉昌彦氏は、1台1万円の石油バーナーを3カ月の月賦で販売した。当時の外食店ではガスコンロと並んで石油バーナーも用いられており、石油バーナーは燃費が安い反面、価格はガスコンロの3倍にあたる。渡邉昌彦氏は1986年の取材で、月賦の採用によって石油バーナーの売上が大きく増えたと語った。1995年の説明では、中華料理用の製品だったことから、渡辺商事は当初、横浜中華街にある本格的な料理店を市場と見込んでいた。実際に買い手となったのは、街なかのラーメン店や、中華料理を出す食堂である。高い単価を分割して払える条件は、資金の乏しい小さな店まで買い手を広げる効果を持ったと推察される。

  • 商工ジャーナル 12(5)(134) 1986年5月 渡辺昌彦氏
    • [12]石油バーナーは燃費が安いが1台1万円とガスコンロの3倍で売りにくく、3カ月の月賦にして売上が相当増えた
    • [13]石油バーナーは燃費が安いが1台1万円とガスコンロの3倍で売りにくく、3カ月の月賦にして売上が相当増えた
    • [14]石油バーナーは燃費が安いが1台1万円とガスコンロの3倍で売りにくく、3カ月の月賦にして売上が相当増えた
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [15]当初は横浜中華街の料理店を市場としたが、実際のユーザーは街のラーメン店や中華料理を扱う食堂だった
    • [16]当初は横浜中華街の料理店を市場としたが、実際のユーザーは街のラーメン店や中華料理を扱う食堂だった
参考文献[1]-[16]
  • マルゼン 有価証券報告書(第40期・2001年2月期)【沿革】
    • [1]1961年3月 業務用石油ガスバーナーの製造販売を目的に渡辺商事株式会社(資本金1,000千円)を東京都荒川区に設立
  • 商工ジャーナル 12(5)(134) 1986年5月 渡辺昌彦氏
    • [2]従兄弟が重役の小さな石油バーナーメーカーに入社、1年後に倒産。社長が再建を断念し、再建用に確保した部品類を2人で買い取って商売を始めた
    • [3]従兄弟が重役の小さな石油バーナーメーカーに入社、1年後に倒産。社長が再建を断念し、再建用に確保した部品類を2人で買い取って商売を始めた
    • [12]石油バーナーは燃費が安いが1台1万円とガスコンロの3倍で売りにくく、3カ月の月賦にして売上が相当増えた
    • [13]石油バーナーは燃費が安いが1台1万円とガスコンロの3倍で売りにくく、3カ月の月賦にして売上が相当増えた
    • [14]石油バーナーは燃費が安いが1台1万円とガスコンロの3倍で売りにくく、3カ月の月賦にして売上が相当増えた
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [4]燃料の主流が固形燃料から石油へ変わる流れを感じ、灯油の気化装置である石油バーナーに着目。設立時30歳・従業員5名
    • [5]燃料の主流が固形燃料から石油へ変わる流れを感じ、灯油の気化装置である石油バーナーに着目。設立時30歳・従業員5名
    • [6]家庭用には競合メーカーがあるため、石炭・コークスで大量の火力を使う中華料理店に的を絞り、業務用石油ガスバーナーを開発
    • [7]家庭用には競合メーカーがあるため、石炭・コークスで大量の火力を使う中華料理店に的を絞り、業務用石油ガスバーナーを開発
    • [8]家庭用には競合メーカーがあるため、石炭・コークスで大量の火力を使う中華料理店に的を絞り、業務用石油ガスバーナーを開発
    • [9]家庭用には競合メーカーがあるため、石炭・コークスで大量の火力を使う中華料理店に的を絞り、業務用石油ガスバーナーを開発
    • [15]当初は横浜中華街の料理店を市場としたが、実際のユーザーは街のラーメン店や中華料理を扱う食堂だった
    • [16]当初は横浜中華街の料理店を市場としたが、実際のユーザーは街のラーメン店や中華料理を扱う食堂だった
  • 戦略経営者 13(3)(137) 1998年3月 河内真弘「マルゼン――着眼がすべてを決めた!」
    • [10]上京後に渡辺商店を興し固形燃料を料理店に販売。大企業のすき間・価格主導権・一社依存回避の3ポリシーで商品と市場を選んだ
    • [11]上京後に渡辺商店を興し固形燃料を料理店に販売。大企業のすき間・価格主導権・一社依存回避の3ポリシーで商品と市場を選んだ

1963年〜中華料理用ステンレス製レンジと、越谷の自社工場で外注から切り替えた内製

渡辺商事は1963年10月、中華料理店用にステンレス製のガスレンジを考案し、その製造販売を始めた。きっかけは、ラーメン店や食堂と取引を重ねるなかで寄せられたレンジへの要望である。それまでの中華料理用のレンジはレンガや簡単な鉄枠で組まれており、店側は清潔で見栄えのよいステンレス製を求めた。渡辺商事は、扱いに慣れないステンレスの加工に苦心しながらレンジを開発した。レンジの開発によって、渡辺商事の主力商品はバーナーとレンジの2品に定まった。1964年4月には、横浜市神奈川区に横浜営業所を開設。燃焼部品の単体販売から厨房設備の完成品へ広げたことで、店の厨房づくりに関わる取引の入口ができたと思われる。

  • マルゼン 有価証券報告書(第40期・2001年2月期)【沿革】
    • [17]1963年10月 中華料理店用ステンレス製ガスレンジを考案し製造販売を開始。1964年4月 横浜市神奈川区に横浜営業所を設置
    • [22]1963年10月 中華料理店用ステンレス製ガスレンジを考案し製造販売を開始。1964年4月 横浜市神奈川区に横浜営業所を設置
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [18]ユーザーからレンガや鉄枠製に代わるステンレス製レンジの要望が出て、素材の扱いに苦労しつつ開発。バーナーとレンジが主力商品に
    • [19]ユーザーからレンガや鉄枠製に代わるステンレス製レンジの要望が出て、素材の扱いに苦労しつつ開発。バーナーとレンジが主力商品に
    • [20]ユーザーからレンガや鉄枠製に代わるステンレス製レンジの要望が出て、素材の扱いに苦労しつつ開発。バーナーとレンジが主力商品に
    • [21]ユーザーからレンガや鉄枠製に代わるステンレス製レンジの要望が出て、素材の扱いに苦労しつつ開発。バーナーとレンジが主力商品に

渡辺商事は1964年9月、埼玉第一工場を埼玉県越谷市に新設した。バーナーとレンジの販売量が増えたため、外注していた製造を自社に移す内製化に踏み切った。この自社工場は、渡邉昌彦氏がかねて望んでいた、製造と販売を自ら担う体制の実現にあたる。渡邉昌彦氏は、製造業者であることを利益確保の前提に置いていた。直接販売すれば販売店の意向に縛られずに経営が安定し、顧客の要望も自社で直接つかめるという考えである。同じ1964年の7月には、本社を荒川区内で移転した。渡邉昌彦氏は、つかんだ要望に応える努力を重ねれば、その成果を着実に自社のものにできるとも述べた。

  • マルゼン 有価証券報告書(第40期・2001年2月期)【沿革】
    • [23]1964年7月 本社を荒川区内で移転。1964年9月 埼玉県越谷市に埼玉第一工場を新設
    • [28]1964年7月 本社を荒川区内で移転。1964年9月 埼玉県越谷市に埼玉第一工場を新設
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [24]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明
    • [25]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明
    • [26]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明
    • [27]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明
    • [29]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明

渡辺商事は内製化を機に、1965年4月、マルゼン燃器製造株式会社へ商号を改めた。生産の面では、職人の手作業に依存していた板金を、機械で作る体制に切り換えた。渡邉昌彦氏は1986年の取材で、当時はステンレス板をはさみで手で切っており、職人が一人前になるまで10年かかったと語った。そのため職人が集まらず、増産しようにも人手を確保できなかったという。渡邉昌彦氏は機械生産への切り換えについて『これが当社発展の基礎となった』と述べた。あわせて渡辺商事は創業当初から、在庫を極力抑える独自の生産方法を採った。育成に10年を要する職人の数に生産量が縛られなくなったことが、次の需要拡大に応える前提になったと考えられる。

  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [30]内製化を機に1965年4月、商号をマルゼン燃器製造(株)に変更
  • 商工ジャーナル 12(5)(134) 1986年5月 渡辺昌彦氏
    • [31]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法
    • [32]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法
    • [33]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法
    • [34]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法
    • [35]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法
参考文献[17]-[35]
  • マルゼン 有価証券報告書(第40期・2001年2月期)【沿革】
    • [17]1963年10月 中華料理店用ステンレス製ガスレンジを考案し製造販売を開始。1964年4月 横浜市神奈川区に横浜営業所を設置
    • [22]1963年10月 中華料理店用ステンレス製ガスレンジを考案し製造販売を開始。1964年4月 横浜市神奈川区に横浜営業所を設置
    • [23]1964年7月 本社を荒川区内で移転。1964年9月 埼玉県越谷市に埼玉第一工場を新設
    • [28]1964年7月 本社を荒川区内で移転。1964年9月 埼玉県越谷市に埼玉第一工場を新設
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [18]ユーザーからレンガや鉄枠製に代わるステンレス製レンジの要望が出て、素材の扱いに苦労しつつ開発。バーナーとレンジが主力商品に
    • [19]ユーザーからレンガや鉄枠製に代わるステンレス製レンジの要望が出て、素材の扱いに苦労しつつ開発。バーナーとレンジが主力商品に
    • [20]ユーザーからレンガや鉄枠製に代わるステンレス製レンジの要望が出て、素材の扱いに苦労しつつ開発。バーナーとレンジが主力商品に
    • [21]ユーザーからレンガや鉄枠製に代わるステンレス製レンジの要望が出て、素材の扱いに苦労しつつ開発。バーナーとレンジが主力商品に
    • [24]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明
    • [25]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明
    • [26]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明
    • [27]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明
    • [29]販売量の増加に伴い外注製造から内製化するため越谷市に自社工場を建設。利益確保はメーカーであることが条件で、直販は販売店の意向に左右されず顧客ニーズを直接得られると社長が説明
    • [30]内製化を機に1965年4月、商号をマルゼン燃器製造(株)に変更
  • 商工ジャーナル 12(5)(134) 1986年5月 渡辺昌彦氏
    • [31]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法
    • [32]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法
    • [33]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法
    • [34]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法
    • [35]ステンレス板を手作業で切る生産で職人育成に10年かかり増産できず、機械生産の体制に切り換えた(年の記載なし)。創業当初から在庫を極力持たない生産方法

1967年〜札幌ラーメンの全国展開で年率50%を超えた売上と、独立混合管方式のガスバーナー

マルゼン燃器製造の売上高は、1967年ごろから1972年までの5年間に年率50%以上で増加した。渡邉昌彦氏は1995年の寄稿で、その主因として札幌ラーメンのチェーンが全国へ広がったことを挙げた。1964年の東京オリンピックを機に、飲食店はチェーン展開を通じて外食産業と呼ばれる産業へ変わった。飲食店の数は1964年の約27万店から、1968年に37万店、1974年に54万店へ増えた。同じ時期には、フライドチキンなど外資系のファストフード店が日本に上陸し、国内資本のファミリーレストランの出店も相次いだ。渡邉昌彦氏は、この外食産業の進展を業績への追い風と表現した。ラーメン店の厨房機器から入ったマルゼン燃器製造は、店舗数が急増した業態の需要を正面から受けたのだろう。

  • 証券アナリストジャーナル 33(12) 1995年11月 別冊付録
    • [36]1967年ごろから活発化した札幌ラーメンの全国展開を主因に、1972年までの5年間の売上高が年率50%以上で伸びた
    • [37]1967年ごろから活発化した札幌ラーメンの全国展開を主因に、1972年までの5年間の売上高が年率50%以上で伸びた
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [38]1964年の東京五輪を機に飲食店が産業化。飲食店数は1964年約27万店→1968年37万店→1974年54万店。札幌ラーメンのチェーン展開・外資系FF上陸・ファミレス出店が相次ぎ、社長は業績の追い風と表現
    • [39]1964年の東京五輪を機に飲食店が産業化。飲食店数は1964年約27万店→1968年37万店→1974年54万店。札幌ラーメンのチェーン展開・外資系FF上陸・ファミレス出店が相次ぎ、社長は業績の追い風と表現
    • [40]1964年の東京五輪を機に飲食店が産業化。飲食店数は1964年約27万店→1968年37万店→1974年54万店。札幌ラーメンのチェーン展開・外資系FF上陸・ファミレス出店が相次ぎ、社長は業績の追い風と表現
    • [41]1964年の東京五輪を機に飲食店が産業化。飲食店数は1964年約27万店→1968年37万店→1974年54万店。札幌ラーメンのチェーン展開・外資系FF上陸・ファミレス出店が相次ぎ、社長は業績の追い風と表現

マルゼン燃器製造は1970年4月、独立混合管方式によるガスバーナーを開発して、その製造販売を始めた。中華料理は料理ごとに求める火加減が異なり、店からは料理に応じて火力を調節できるコンロが求められていた。新製品は、ガスと空気の混合を供給元の1カ所ではなく、バーナーごとに独立して調節する仕組みを採った。その結果、バーナー単位で火力を変えられる小型で強火力のコンロになった。このコンロは中華料理店に加え、ほかの業態の外食店からも評価を得た。1995年時点でもロングヒットを続け、1983年開発のファイヤースクリーンバーナーと合わせた1995年2月期の2製品の販売額は約5億円である。

  • マルゼン 有価証券報告書(第40期・2001年2月期)【沿革】
    • [42]1970年4月 独立混合管方式のガスバーナーを開発し製造販売を開始
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [43]料理ごとに火力調節ができるコンロという要望を受け、ガスと空気の混合をバーナーごとに独立して調節する方式を開発。小型強火力で他の外食産業にも好評
    • [44]料理ごとに火力調節ができるコンロという要望を受け、ガスと空気の混合をバーナーごとに独立して調節する方式を開発。小型強火力で他の外食産業にも好評
    • [45]料理ごとに火力調節ができるコンロという要望を受け、ガスと空気の混合をバーナーごとに独立して調節する方式を開発。小型強火力で他の外食産業にも好評
    • [46]料理ごとに火力調節ができるコンロという要望を受け、ガスと空気の混合をバーナーごとに独立して調節する方式を開発。小型強火力で他の外食産業にも好評
  • 証券アナリストジャーナル 33(12) 1995年11月 別冊付録
    • [47]独立混合管方式ガスバーナー(1970年)とファイヤースクリーンバーナー(1983年)はロングヒットで、1995年2月期の販売実績約5億円

マルゼン燃器製造は1971年7月、大阪営業所を大阪市都島区に設け、その場所にショールームも設けた。大阪営業所の設置で、マルゼン燃器製造は東京と横浜に続き、関西にも販売の拠点を持った。1973年5月にはゆで麺機を開発して製造販売を始め、1975年10月には越谷市に埼玉第二工場を新設。この間の需要の中心は、1967年ごろから全国に広がった札幌ラーメンの店舗である。一方で1973年の第一次オイル・ショックの前後には、その混乱も経験した。マルゼン燃器製造は1976年9月、株式会社マルゼンへ商号を改めた。ラーメン店の全国展開に合わせて麺をゆでる機器と関西の拠点を加え、工場を増やして供給の体制を厚くしたのだろう。

  • マルゼン 有価証券報告書(第40期・2001年2月期)【沿革】
    • [48]1964年4月 横浜営業所を設置。1971年7月 大阪市都島区に大阪営業所とショールームを開設。1973年5月 ゆで麺機を開発し製造販売開始。1975年10月 越谷市に埼玉第二工場を設置。1976年9月 商号を株式会社マルゼンに変更
    • [49]1964年4月 横浜営業所を設置。1971年7月 大阪市都島区に大阪営業所とショールームを開設。1973年5月 ゆで麺機を開発し製造販売開始。1975年10月 越谷市に埼玉第二工場を設置。1976年9月 商号を株式会社マルゼンに変更
    • [50]1964年4月 横浜営業所を設置。1971年7月 大阪市都島区に大阪営業所とショールームを開設。1973年5月 ゆで麺機を開発し製造販売開始。1975年10月 越谷市に埼玉第二工場を設置。1976年9月 商号を株式会社マルゼンに変更
    • [53]1964年4月 横浜営業所を設置。1971年7月 大阪市都島区に大阪営業所とショールームを開設。1973年5月 ゆで麺機を開発し製造販売開始。1975年10月 越谷市に埼玉第二工場を設置。1976年9月 商号を株式会社マルゼンに変更
  • 証券アナリストジャーナル 33(12) 1995年11月 別冊付録
    • [51]1967年ごろから札幌ラーメンの全国展開が活発化。第一次・第二次オイル・ショックで混乱した時期もあった
    • [52]1967年ごろから札幌ラーメンの全国展開が活発化。第一次・第二次オイル・ショックで混乱した時期もあった
参考文献[36]-[53]
  • 証券アナリストジャーナル 33(12) 1995年11月 別冊付録
    • [36]1967年ごろから活発化した札幌ラーメンの全国展開を主因に、1972年までの5年間の売上高が年率50%以上で伸びた
    • [37]1967年ごろから活発化した札幌ラーメンの全国展開を主因に、1972年までの5年間の売上高が年率50%以上で伸びた
    • [47]独立混合管方式ガスバーナー(1970年)とファイヤースクリーンバーナー(1983年)はロングヒットで、1995年2月期の販売実績約5億円
    • [51]1967年ごろから札幌ラーメンの全国展開が活発化。第一次・第二次オイル・ショックで混乱した時期もあった
    • [52]1967年ごろから札幌ラーメンの全国展開が活発化。第一次・第二次オイル・ショックで混乱した時期もあった
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
    • [38]1964年の東京五輪を機に飲食店が産業化。飲食店数は1964年約27万店→1968年37万店→1974年54万店。札幌ラーメンのチェーン展開・外資系FF上陸・ファミレス出店が相次ぎ、社長は業績の追い風と表現
    • [39]1964年の東京五輪を機に飲食店が産業化。飲食店数は1964年約27万店→1968年37万店→1974年54万店。札幌ラーメンのチェーン展開・外資系FF上陸・ファミレス出店が相次ぎ、社長は業績の追い風と表現
    • [40]1964年の東京五輪を機に飲食店が産業化。飲食店数は1964年約27万店→1968年37万店→1974年54万店。札幌ラーメンのチェーン展開・外資系FF上陸・ファミレス出店が相次ぎ、社長は業績の追い風と表現
    • [41]1964年の東京五輪を機に飲食店が産業化。飲食店数は1964年約27万店→1968年37万店→1974年54万店。札幌ラーメンのチェーン展開・外資系FF上陸・ファミレス出店が相次ぎ、社長は業績の追い風と表現
    • [43]料理ごとに火力調節ができるコンロという要望を受け、ガスと空気の混合をバーナーごとに独立して調節する方式を開発。小型強火力で他の外食産業にも好評
    • [44]料理ごとに火力調節ができるコンロという要望を受け、ガスと空気の混合をバーナーごとに独立して調節する方式を開発。小型強火力で他の外食産業にも好評
    • [45]料理ごとに火力調節ができるコンロという要望を受け、ガスと空気の混合をバーナーごとに独立して調節する方式を開発。小型強火力で他の外食産業にも好評
    • [46]料理ごとに火力調節ができるコンロという要望を受け、ガスと空気の混合をバーナーごとに独立して調節する方式を開発。小型強火力で他の外食産業にも好評
  • マルゼン 有価証券報告書(第40期・2001年2月期)【沿革】
    • [42]1970年4月 独立混合管方式のガスバーナーを開発し製造販売を開始
    • [48]1964年4月 横浜営業所を設置。1971年7月 大阪市都島区に大阪営業所とショールームを開設。1973年5月 ゆで麺機を開発し製造販売開始。1975年10月 越谷市に埼玉第二工場を設置。1976年9月 商号を株式会社マルゼンに変更
    • [49]1964年4月 横浜営業所を設置。1971年7月 大阪市都島区に大阪営業所とショールームを開設。1973年5月 ゆで麺機を開発し製造販売開始。1975年10月 越谷市に埼玉第二工場を設置。1976年9月 商号を株式会社マルゼンに変更
    • [50]1964年4月 横浜営業所を設置。1971年7月 大阪市都島区に大阪営業所とショールームを開設。1973年5月 ゆで麺機を開発し製造販売開始。1975年10月 越谷市に埼玉第二工場を設置。1976年9月 商号を株式会社マルゼンに変更
    • [53]1964年4月 横浜営業所を設置。1971年7月 大阪市都島区に大阪営業所とショールームを開設。1973年5月 ゆで麺機を開発し製造販売開始。1975年10月 越谷市に埼玉第二工場を設置。1976年9月 商号を株式会社マルゼンに変更

出典・参考

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出典・参考
  • マルゼン 有価証券報告書(第40期・2001年2月期)【沿革】
  • 商工ジャーナル 12(5)(134) 1986年5月 渡辺昌彦氏
  • 商工ジャーナル 21(4)(241) 1995年4月 冨田耕二
  • 証券アナリストジャーナル 33(12) 1995年11月 別冊付録
  • 戦略経営者 13(3)(137) 1998年3月 河内真弘「マルゼン――着眼がすべてを決めた!」

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