第1章 年〜年

日本カーボン:日本カーボンの設立と横浜山手工場の新設

1915年〜大戦で立ち消えた石川等氏の計画と、中村房次郎氏が横浜で決めた資本金10万円の創立

石川等氏は技師長として東京カーボンの製造を立ち上げたが、増資後に入った技術重役と技術方針で対立して退社した。石川等氏は恩師で東京高等工業学校教授の鈴木達治氏に進路を相談し、炭素製品の研究を続けるよう助言を受けた。当時の国内には移れる炭素工業の会社がほかになく、事業を続けるには新会社を興すしかなかった。1914年(大正3年)、横浜財界人の近藤賢二氏と代議士の池内寅次郎氏が、小資本で始められる事業を鈴木達治氏に尋ねた。鈴木達治氏の紹介で石川等氏と近藤賢二氏は会見を重ね、設立計画を立てた。計画は第一次世界大戦の勃発で立ち消えとなり、石川等氏は郷里の長野へ戻った。石川等氏の構想は、のちに中村房次郎氏ら横浜財界人の協力を得て資本金10万円の会社として実を結んだ。一度立ち消えた計画が翌年に動いたのは、大戦景気で横浜財界が持ち直したためとみられる。

  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [1]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [2]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [3]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [4]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [5]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [6]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
  • 会社銀行八十年史(1955)日本カーボン
    • [7]1915年12月、前社長石川等が中村房次郎・茂木惣兵衛ら横浜財界人の協力を得て資本金10万円で設立した

日本カーボンは1915年(大正4年)12月20日の創立総会で、資本金10万円・1株50円・4分の1払込みの株式会社として設立された。設立を決めたのは横浜財界の中村房次郎氏で、大戦景気で財界が持ち直すと、茂木惣兵衛氏らを横浜銀行集会所に招いて石川等氏の計画を聞いた。当時の国内のカーボン需要は年30万円余で、国内製造は6万円内外にとどまり、残りを欧米からの輸入に依存していた。創立趣意書は販路について『目論見書ニ表ハレタル製産額ノ半バ以上ハ既ニ需要者トノ間ニ供給ノ黙契アリテ』と記し、創業の月から利益を見込んだ。本社と工場は横浜市神奈川町新浦島丘1460に置き、株主22名で発足して大谷金蔵氏が代表取締役、石川等氏が常務取締役に就任した。輸入品の代替と需要家の内諾の2点が、小資本での創業を支えた根拠だったのだろう。

  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [8]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
    • [9]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
    • [11]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
    • [12]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
    • [13]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
  • 企業の歴史 明治百年(1968)日本カーボン
    • [10]1915年12月、工学博士石川等と中村房次郎・茂木惣兵衛ら横浜財界有力者が資本金10万円で横浜市に創立した
参考文献[1]-[13]
  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [1]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [2]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [3]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [4]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [5]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [6]石川等は東京カーボンの技術重役と方針が合わず勇退し、恩師鈴木達治に相談。1914年に近藤賢二・池内寅次郎の照会を受けた鈴木の紹介で近藤と石川が設立計画を立案したが、第一次大戦で計画は解消し石川は長野へ帰郷した
    • [8]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
    • [9]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
    • [11]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
    • [12]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
    • [13]1915年12月20日の創立総会で資本金10万円・1株50円・4分の1払込み、本社工場を新浦島丘1460に置き株主22名。中村房次郎が横浜銀行集会所に財界人を集め設立を決定。趣意書は需要約30万円余・内地製造6万円内外と記す。代表取締役大谷金蔵・常務石川等
  • 会社銀行八十年史(1955)日本カーボン
    • [7]1915年12月、前社長石川等が中村房次郎・茂木惣兵衛ら横浜財界人の協力を得て資本金10万円で設立した
  • 企業の歴史 明治百年(1968)日本カーボン
    • [10]1915年12月、工学博士石川等と中村房次郎・茂木惣兵衛ら横浜財界有力者が資本金10万円で横浜市に創立した

1916年〜能力の3倍に積み上がった電極の注文と、2,373坪の第3工場(のちの山手工場)

日本カーボンの横浜工場は1916年(大正5年)2月20日に試運転を終え、電気炉用の天然黒鉛電極の生産に入った。設備は800t水圧機2台と倒焔式焼成炉4基で、国内で最初の電極工場だった。開業前から注文が集中したため当初から昼夜で操業し、3月初めに八幡製鉄所・藤田組鉱業・富士電化工業・南満州鉄道へ初めて出荷した。各使用先の実用試験で良好な成績を得て注文が増え、受注は生産能力の3倍にのぼった。日本カーボンは浦島丘618・628に354坪の工場を建てて大型の焼成炉4基を据え、それまで製造できなかった直径12inの電極も造れるようになった。操業から3か月後の1916年5月の決算では、2割5分の配当を実施した。

  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [14]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [15]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [17]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [18]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [19]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [20]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
  • 会社銀行八十年史(1955)日本カーボン
    • [16]横浜に800屯水圧機2基・焼成炉4基の工場を建設し、国内最初の電極工場として天然黒鉛電極の製造を開始した

1917年(大正6年)7月、日本カーボンは横浜市神奈川町浦島町588ほかの2,373坪に第3工場(のちの山手工場)を建設した。浦島丘に増設した工場でも、増え続ける電極の需要に応じきれなかったためである。第3工場には1,800t水圧機1台と焼成炉6基を設け、翌1918年5月には隣接地210坪を取得して焼成炉6基を増設した。欧州大戦の勃発による太物電極の需要増も、工場増設の一因。1919年(大正8年)には、直径20インチの大型電極の製造を始めた。大型電極を量産する設備として、第3工場が以後の横浜の生産の中心になったと考えられる。

  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [21]1917年7月、浦島町588など2,373坪に第3工場(のちの山手工場)を建設し1,800t水圧機1台・焼成炉6基を設置。1918年5月に隣接地210坪へ焼成炉6基を増設
    • [22]1917年7月、浦島町588など2,373坪に第3工場(のちの山手工場)を建設し1,800t水圧機1台・焼成炉6基を設置。1918年5月に隣接地210坪へ焼成炉6基を増設
    • [23]1917年7月、浦島町588など2,373坪に第3工場(のちの山手工場)を建設し1,800t水圧機1台・焼成炉6基を設置。1918年5月に隣接地210坪へ焼成炉6基を増設
  • 会社銀行八十年史(1955)日本カーボン
    • [24]欧州大戦の勃発で太物電極の需要が増大したため第二・第三工場を建設し、直径20吋の太物の製造を開始した
  • 企業の歴史 明治百年(1968)日本カーボン
    • [25]1919年に直径20インチの大型品の製造を開始した

日本カーボンは天然黒鉛電極の次に、黒鉛化した人造黒鉛電極の国産化を目指した。1917年(大正6年)6月、日本カーボンはアチソン方式の黒鉛化を試みる工場を会津に設けた。会津若松市外の藤田組鉱業広田工場の余剰電力に着目し、同工場の一部を会津電化工場とした。工場長の田窪彦一郎氏の助力で直径8inと12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが、黒鉛化の成績が振るわず1918年末に中止。同じ1917年5月、日本カーボンは50万円への増資を決め、創設者の死後に経営が行き詰まった小沢電炭製造所を買収した。小沢電炭製造所は1884年(明治17年)に電池用炭素棒の工場として創設された国内最初の炭素工場で、買収によって小物製品の製造体制が整った。会津での中止は、人造黒鉛電極の量産に電力と炉の技術の両方が要ることを示したと思われる。

  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [26]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
    • [27]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
    • [28]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
    • [29]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
    • [30]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
  • 会社銀行八十年史(1955)日本カーボン
    • [31]小沢電炭製造所(1884年に電池用炭素棒工場として創設、国内カーボン工場の嚆矢)を買収合併し小物製造の態勢を整えた
参考文献[14]-[31]
  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [14]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [15]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [17]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [18]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [19]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [20]1916年2月20日試運転完了、800t水圧機2台・倒焔式焼成炉4基で天然黒鉛電極を製造。3月に八幡製鉄所等へ初出荷、実用試験良好で注文が能力の3倍に。浦島丘618・628に354坪の工場を建設し12in電極を生産。5月決算で2割5分配当
    • [21]1917年7月、浦島町588など2,373坪に第3工場(のちの山手工場)を建設し1,800t水圧機1台・焼成炉6基を設置。1918年5月に隣接地210坪へ焼成炉6基を増設
    • [22]1917年7月、浦島町588など2,373坪に第3工場(のちの山手工場)を建設し1,800t水圧機1台・焼成炉6基を設置。1918年5月に隣接地210坪へ焼成炉6基を増設
    • [23]1917年7月、浦島町588など2,373坪に第3工場(のちの山手工場)を建設し1,800t水圧機1台・焼成炉6基を設置。1918年5月に隣接地210坪へ焼成炉6基を増設
    • [26]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
    • [27]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
    • [28]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
    • [29]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
    • [30]1917年6月、アチソン方式の黒鉛化を図り藤田組鉱業広田工場の余剰電力を使って会津電化工場を設置、8in・12inの人造黒鉛電極の試作を進めたが成績不良で1918年末に中止。1917年5月に50万円へ増資し小沢電炭製造所を買収
  • 会社銀行八十年史(1955)日本カーボン
    • [16]横浜に800屯水圧機2基・焼成炉4基の工場を建設し、国内最初の電極工場として天然黒鉛電極の製造を開始した
    • [24]欧州大戦の勃発で太物電極の需要が増大したため第二・第三工場を建設し、直径20吋の太物の製造を開始した
    • [31]小沢電炭製造所(1884年に電池用炭素棒工場として創設、国内カーボン工場の嚆矢)を買収合併し小物製造の態勢を整えた
  • 企業の歴史 明治百年(1968)日本カーボン
    • [25]1919年に直径20インチの大型品の製造を開始した

1920年〜反動恐慌で60万円に減資した近藤賢二氏の再建と、関東大震災で倒れた焼成炉

1920年(大正9年)、鈴木達治氏の仲介で、同志社で鈴木達治氏と同窓の近藤賢二氏が日本カーボンの初代社長に就任した。当時は戦後不況に加え、海外から入る電刷子と、大戦中に増えた同業との販売競争で経営が苦しかった。近藤賢二氏はまず鶴見分工場の工事を延期し、1921年3月に60万円への減資を実施した。さらに工場財団を設定し、地元横浜の銀行と保険会社に支援を求めて経営の安定を図った。営業面では東京出張所を販売所に改組し、麹町区内幸町に移し、小倉市に九州出張所を開設した。1914年に一度途切れた近藤賢二氏と石川等氏の協働は、再建の局面で経営と技術の分担として結び直されたと推察される。

  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [32]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
    • [34]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
    • [35]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
    • [36]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
    • [37]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
  • 会社銀行八十年史(1955)日本カーボン
    • [33]1920年4月、近藤賢二が初代社長に就任した

日本カーボンの電極販売は、フェロアロイの減産と輸入電極の圧迫で苦戦した。各地で余剰電力を使う小型のカーバイド工場が相次いで建ち、電極の不況はやや和らいだ。1921年ごろからは鉄鋼と合金鉄の伸びに合わせ、直径24インチの特大型電極も手がけた。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で、横浜工場は焼成炉と煙突の大部分が倒壊した。製品と原料の倉庫も倒れるか焼け、操業の回復まで2か月かかった。関東の需要が一時途絶える一方で関西からの注文が増え、日本カーボンは神戸行き客船の乗客に在庫品を手荷物として託し、関西へ送った。社長の近藤賢二氏は東京にとどまって復旧を指揮し、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して関西の需要に応じて営業成績を確保した。

  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [38]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [39]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [41]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [42]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [43]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [44]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
  • 企業の歴史 明治百年(1968)日本カーボン
    • [40]1921年ごろより鉄鋼・合金鉄の発展に伴い直径24インチの特大型電極を製造した

日本カーボンの業容を不況と震災のなかで支えたのは、電力と通信の拡大に伴う小型炭素製品の需要だった。電力開発や電気鉄道、動力の電化が進み、電刷子、一次電池用の炭素電極、通信機部品の需要は順調に増えた。電話加入者は第一次世界大戦直後の約23万人から大正末期には50万人に達し、電話機用のダイヤフラムやデルビル粒の需要が拡大した。1924年(大正13年)3月には軍需工業研究工場に指定され、アルミニウム電解用の電極の開発を始めた。1925年の日本軽銀製造大町工場の電解試験では日本カーボン製の電極が使われ、国内で造られた初のアルミニウム用電極となった。会津で中断したコークスの黒鉛化研究も、常務取締役技師長の石川等氏を中心に続けた。小型品の安定した需要が、人造黒鉛電極の研究を続ける時間を日本カーボンにもたらしたのではないか。

  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [45]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
    • [46]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
    • [47]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
    • [49]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
    • [50]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
  • 企業の歴史 明治百年(1968)日本カーボン
    • [48]1924年3月、軍需工業研究工場の指定を受けてアルミニウム電解用電極の製造に着手した
参考文献[32]-[50]
  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
    • [32]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
    • [34]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
    • [35]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
    • [36]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
    • [37]1920年5月、鈴木達治の仲介で同志社同窓の近藤賢二が初代社長に就任。不況・外国製電刷子の輸入・販売競争で経営困難。鶴見分工場の工事延期、1921年3月に60万円へ減資、工場財団を設定し横浜の銀行・保険会社に助力を要請。東京販売所への改組と九州出張所開設
    • [38]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [39]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [41]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [42]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [43]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [44]フェロアロイ減産と電極輸入で販売困難、カーバイド工場の建設で不況はやや緩和。1923年9月1日の震災で横浜工場の焼成炉・煙突の大部分と倉庫が倒壊・焼失し復旧に2か月。関西の注文に客船乗客の手荷物で在庫品を届け、東京の小沢工場と大阪分工場が連携して営業成績を上げた。近藤社長は東京に踏みとどまった
    • [45]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
    • [46]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
    • [47]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
    • [49]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
    • [50]電力開発・電化の進展で電刷子・一次電池用炭素電極・通信機部品の需要は順調。電話加入者は大戦直後約23万人から大正末期50万人に達しダイヤフラム・デルビル粒の需要が活発化。1925年、日本軽銀製造大町工場の電解試験に当社電極が使われ国産アルミ電極第1号に。コークス黒鉛化研究は常務技師長石川等が中心
  • 会社銀行八十年史(1955)日本カーボン
    • [33]1920年4月、近藤賢二が初代社長に就任した
  • 企業の歴史 明治百年(1968)日本カーボン
    • [40]1921年ごろより鉄鋼・合金鉄の発展に伴い直径24インチの特大型電極を製造した
    • [48]1924年3月、軍需工業研究工場の指定を受けてアルミニウム電解用電極の製造に着手した

出典・参考

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出典・参考
  • 日本カーボン50年史(1967)コマ1-50
  • 会社銀行八十年史(1955)日本カーボン
  • 企業の歴史 明治百年(1968)日本カーボン

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