第1章 年〜年

三ツ星ベルト:三ツ星商会の創業と木綿ベルトからゴムベルトへの転換

1919年〜神戸で木綿ベルトから始めた三ツ星商会と、輸入品に代わるゴムベルトへの転換

1919年10月10日、小田源蔵氏は神戸で三ツ星商会を起こし、木綿製の伝動ベルトの製造に着手。木綿ベルトの製造経験を持つ潮地好太郎氏が、出資者がいれば技術を出すと申し出たことが発端であった。出資は匿名組合の形をとり、小田源蔵氏・中村真次郎氏・小島楠吉氏が各1,000円、潮地好太郎氏が100円を出した。当時のベルト業界には阪東調帯護謨や横浜ゴムなどの先発が並び、三ツ星商会は最後発の参入者である。革ベルトは性能に優れる一方で高価なため敬遠され、価格を優先する需要には木綿ベルトで足りた。事業の場所は現在の本社の所在地で、名義は小田源蔵氏の個人経営であった。技術者の経験と手持ちの資金で始められる製品として、木綿ベルトが選ばれたとみられる。

  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [1]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
    • [2]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
    • [3]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
    • [4]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
    • [5]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
  • 証券 1962年
    • [6]上場時の沿革:大正8年10月、現本社所在地で小田源蔵の個人経営により事業を創立

三ツ星商会は創業翌年の1920年に木綿ベルトをやめ、ゴムベルトの製造に切り替えた。製品は当初、機械工具商の八木機械店に一手販売を任せたものの、売れ行きが伸びず在庫が増えた。小田源蔵氏は自ら神戸周辺の工具店を回り、木綿ベルトの需要がゴムベルトへ移りつつあると確かめた。木綿ベルトは晴天時に伸び、雨天時に縮み、継ぎ目も弱い。第1次大戦でゴムベルトの輸入が難しくなると国産化が進み、1919年から1920年にかけて国産品の品質は年ごとに上がった。小田源蔵氏は中村真次郎氏・小島楠吉氏と協議して転換を決め、ゴムベルトを作った経験のある職人を雇い入れた。1962年の上場時に示した沿革も、創業時の事業を『ゴムベルトを主製品とする事業を創立』と記した。

  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [7]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [8]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [9]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [10]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [11]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [12]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
  • 証券 1962年
    • [13]上場時の沿革:創業時の事業はゴムベルトを主製品とする
参考文献[1]-[13]
  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [1]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
    • [2]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
    • [3]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
    • [4]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
    • [5]1919年10月10日に小田源蔵が神戸で三ツ星商会を創業し木綿ベルト製造を開始。潮地好太郎の技術提供、匿名組合で小田・中村・小島各1,000円、潮地100円。先発は阪東調帯護謨・横浜ゴム等。革ベルトは高価、値段本位なら木綿で足りた
    • [7]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [8]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [9]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [10]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [11]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
    • [12]木綿ベルトは八木機械店の一手販売で売れず、源蔵の直販でゴムベルトへの需要移行が判明。木綿は晴天で伸び雨天で縮み継手が弱い。大戦で輸入困難となり国産化、大正8〜9年に国産ゴムベルトの品質向上。中村・小島と相談しゴムベルトへ切替、経験者を雇用
  • 証券 1962年
    • [6]上場時の沿革:大正8年10月、現本社所在地で小田源蔵の個人経営により事業を創立
    • [13]上場時の沿革:創業時の事業はゴムベルトを主製品とする

1921年〜苅野信雄氏と尾本他家造氏の技術で届いた月産30万プライと、資本金3万円の株式会社三ツ星商会

1929年、三ツ星商会は尾本他家造氏を、その約半年後に苅野信雄氏を迎え、ゴムベルトの製法を改めた。1927年から1928年の恐慌で受注が激減し、価格競争も激しくなった。小田源蔵氏はこの恐慌から、現場の熟練者だけに依存せず品質で上回る必要があると判断し、学卒者の採用を決めた。苅野信雄氏は大阪高等工業学校の横内教授の推薦で入社し、兵庫県護謨工業組合の設備を借りて材料と製品の試験に取り組んだ。苅野信雄氏は加硫に有機促進剤を加え、25分かかった加硫を15分で終えられるようにした。当初は現場を離れた研究に不満を漏らした小田源蔵氏も、品質と生産能率の向上を見て苅野信雄氏を信頼するようになった。苅野信雄氏は1962年の上場時に常務取締役を務めた。

  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [14]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [15]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [16]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [17]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [18]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [19]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
  • 証券 1962年
    • [20]1962年の役員に常務取締役 苅野信雄

技術者を迎えた1929年は、三ツ星商会が波線ベルトを発売した年でもあった。同じ年、横浜ゴムは米グッドリッチの技術を用い、カレンダーで帆布にゴムを摩擦塗布するフリクション製法を導入した。フリクション製法で作ったベルトは帆布とゴムの密着が強く柔らかく仕上がり、糊付けにガソリンを使わないため原価も下がった。各社が製法の開発を競い、三ツ星商会でも苅野信雄氏と尾本他家造氏がゴムの配合や精練時間の組み合わせを試し続けた。三ツ星商会は1934年初めに帆布へのフリクション加工を実現し、同年末には薄物でも成功して先進メーカーの技術水準に達した。練りゴムを繊維に塗布して加硫する工程は、1962年時点でも同社製品の基本工程であった。波線ベルトは製品の形で差をつける試みであり、先発との差を縮めたのは製法の改良であったと推察される。

  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [21]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
    • [22]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
    • [23]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
    • [24]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
    • [25]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
  • 証券 1962年
    • [26]1962年の事業概要:配合練りゴムを各種繊維に塗布し、裁断・成型のうえ加硫して製品とする

1932年10月、三ツ星商会は株式会社三ツ星商会(資本金3万円)を新設し、それまでの合資会社三ツ星商会はこの新会社が吸収合併した。1931年初めにベルトの月産は30万プライに達し、製造能力に余裕がなくなった。小田源蔵氏は物価の安い不況期こそ増設の好機と考え、1931年4月に工場の拡張工事に着手した。約4万円の工事費は創業以来の社内留保でまかない、銀行からの借入はしなかった。工事は1932年4月に完了し、生産能力は4倍に拡大。新会社の役員は専務取締役の小田源蔵氏と常務取締役の小田春治氏らで、社長は置かなかった。新会社の設立日は1932年10月10日で、創業から13年後の同じ日付にあたる。

  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [27]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [28]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [29]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [30]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [31]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [32]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
  • 証券 1962年
    • [33]上場時:設立昭和7年10月10日、設立時資本金30千円
参考文献[14]-[33]
  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [14]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [15]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [16]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [17]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [18]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [19]昭和2〜3年の恐慌で受注激減・価格競争。品質向上のため学卒者採用、大阪高工横内教授推薦の苅野信雄が入社、約半年前の昭和4年に尾本他家造が入社。有機促進剤で加硫25分→15分。源蔵の不満は品質・能率向上で信頼に変化
    • [21]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
    • [22]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
    • [23]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
    • [24]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
    • [25]昭和4年に波線ベルトを発売。同年横浜ゴムが米グッドリッチのフリクション・カレンダー技術を導入、密着力・柔軟性に優れガソリン不要で低コスト。各社開発競争、苅野・尾本が実用化に貢献。昭和9年初めに帆布、同年末に薄物のフリクションに成功し先進メーカー水準に
    • [27]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [28]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [29]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [30]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [31]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
    • [32]昭和6年初めに月産30万プライ、能力限界。昭和6年4月拡張工事着手、工事費約4万円を社内留保でまかない銀行借入なし、7年4月完了で能力4倍。7年10月資本金3万円の株式会社三ツ星商会を設立し合資会社を吸収合併。専務小田源蔵・常務小田春治、社長不在
  • 証券 1962年
    • [20]1962年の役員に常務取締役 苅野信雄
    • [26]1962年の事業概要:配合練りゴムを各種繊維に塗布し、裁断・成型のうえ加硫して製品とする
    • [33]上場時:設立昭和7年10月10日、設立時資本金30千円

1935年〜製造会社と名乗り直した三ツ星調帯と、阪東調帯・横浜ゴムを追ったコンベヤベルト

1935年6月、株式会社三ツ星商会は資本金を7万5千円に増やすのにあわせ、商号を三ツ星調帯株式会社に改めた。商会の名では商事会社と受け取られやすく、ベルト製造という事業の実体を社名で示す必要があった。前年の1934年1月には、代理店の大沢商会大阪支店でベルト部長を務めた西河貞男氏が入社し、営業を担った。西河貞男氏は資材の購入を現金払いから手形払いに改め、受取手形を割引に出して運転資金に余裕を生んだ。小田源蔵氏は後継者の小田春治氏を内部経営に専念させた。この増資の額は4万5千円で、設立時の資本金3万円の1.5倍にあたる。製造会社としての名と営業の担い手を同じ時期に整え、販路の拡大に備えたのだろう。

  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [34]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
    • [35]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
    • [36]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
    • [37]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
    • [38]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
  • 証券 1962年
    • [39]上場時の資本金の変遷:昭和10年6月に45千円増資し資本金75千円

1936年、三ツ星調帯はコンベヤベルトの生産を開始。コンベヤベルトの市場は横浜ゴム・阪東調帯・新田ゴムが主導権を握り、小規模メーカーが入る余地はほとんどなかった。受注しても少量で継続しないため採算が合わず、小規模メーカーは手がけるのを避けがちであった。三ツ星調帯はベルトの総合生産を目指し、小さな受注機会も生かす方針で、習作を兼ねて生産に着手した。大口の需要家は炭鉱・鉱山と製鉄所で、零細メーカーの三ツ星調帯には受注の機会が乏しかった。コンベヤベルトは平ベルトと同一の設備で製造できる。1962年の上場時には、鉄鋼業や鉱山業向けのコンベヤベルトが主製品の一つとなっていた。平ベルトの設備を転用できたことが、主導権のない分野へ早く参入できた理由と考えられる。

  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [40]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [41]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [42]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [43]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [44]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [45]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
  • 証券 1962年
    • [46]1962年の主製品にコンベヤベルト、鉄鋼業・鉱山業などで使用

1938年6月の綿布統制の発効直前、西河貞男氏は大阪本町の糸商から22番手までの綿糸を大量に購入した。日中戦争の翌年に綿布は統制品となり、ベルトの基布に使う綿糸は割当を受けて入手する仕組みに移った。確保した綿糸は数カ月の生産に足りる量で、統制下では回転在庫として使われた。同業他社は割当を受けてから綿布を手にするまで約3カ月を要し、三ツ星調帯は自前の在庫から即座に納品できた。1938年7月には資本金を35万円に増資し、生産力拡充という国の政策に応じてプレスと付帯設備を増設した。増設は1939年6月に完了して生産能力は倍増し、月産は300万プライ、従業員は70名となった。35万円の資本金は、1935年6月の7万5千円の約4.7倍にあたる。原料の備蓄と設備の倍増が、1940年のVベルト製造に向かう余力になったと思われる。

  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [47]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [48]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [49]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [50]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [51]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [52]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
  • 証券 1962年
    • [53]上場時の資本金の変遷:昭和13年に資本金350千円
参考文献[34]-[53]
  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
    • [34]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
    • [35]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
    • [36]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
    • [37]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
    • [38]昭和10年6月、資本金7万5千円への増資を機に「三ツ星商会」は商事会社的な印象が強いとして三ツ星調帯株式会社に社名変更。昭和9年1月に大沢商会大阪支店ベルト部長の西河貞男が入社、手形払い・手形割引に改め運転資金に余裕。春治を内部経営に専念
    • [40]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [41]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [42]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [43]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [44]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [45]昭和11年にコンベヤベルトの生産を開始。業界は阪東調帯・横浜ゴム・新田ゴム等が主導権、小規模メーカーは少量・非継続で採算薄く敬遠。三ツ星はベルトの総合生産を心がけ手習いかたがた開始。大口需要家は炭砿・鉱山・製鉄所。平ベルトとコンベヤベルトは同一設備で製造可
    • [47]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [48]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [49]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [50]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [51]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
    • [52]昭和13年6月に綿布が統制品に。西河が発効直前に大阪本町の糸商を通じ22番手までの綿糸を数カ月分買い集めランニング在庫に。他社は割当から綿布入手まで約3カ月、三ツ星は即納可。13年7月資本金35万円に増資し設備増強、14年6月完了で能力倍増、月産300万プライ・従業員70名
  • 証券 1962年
    • [39]上場時の資本金の変遷:昭和10年6月に45千円増資し資本金75千円
    • [46]1962年の主製品にコンベヤベルト、鉄鋼業・鉱山業などで使用
    • [53]上場時の資本金の変遷:昭和13年に資本金350千円

出典・参考

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出典・参考
  • 三ツ星ベルト50年史(1969)コマ1-50
  • 証券 1962年

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