クミアイ化学工業:柑橘同業組合の開設とイハラ農薬の東証二部上場
1928年〜羽衣石鹸工場を借りた機械油乳剤の共同調製と、静岡県農業会の庵原支部
庵原郡柑橘同業組合は1928年(昭和3年)、別途会計を設けて機械油乳剤の共同調製に着手した。背景には、県内の柑橘園で多発したカメノコカイガラなどのカイガラムシ類と、併発する煤病による果実の品質の低下がある。米国のマシン油乳剤は1924年頃に紹介され、ミカンの害虫に効くことから各地の農家による個別の調製が広がった。組合は廃水や悪臭への配慮から、清水市小芝町で休業中の羽衣石鹸工場を借りて工場とし、責任者には花沢政雄氏を起用。組合は石灰硫黄合剤も製造し、組合員のミカン栽培に要る薬剤を自前で供給した。品質にばらつきのある個別調製を、組合の共同生産へ置き換える狙いがあったとみられる。
- 庵原農薬史 創業30年の歩み(1961年・社史)
- [1]1928年に庵原郡柑橘同業組合が別途会計で機械油乳剤の共同調製を開始。カイガラムシ類の害と煤病で柑橘の質が低下していたため。1924年頃に米国のマシン油乳剤が紹介され個人調製が始まっていた。清水市小芝町の休業中の羽衣石鹸工場を借用、責任者は花沢政雄
- [2]1928年に庵原郡柑橘同業組合が別途会計で機械油乳剤の共同調製を開始。カイガラムシ類の害と煤病で柑橘の質が低下していたため。1924年頃に米国のマシン油乳剤が紹介され個人調製が始まっていた。清水市小芝町の休業中の羽衣石鹸工場を借用、責任者は花沢政雄
- [3]1928年に庵原郡柑橘同業組合が別途会計で機械油乳剤の共同調製を開始。カイガラムシ類の害と煤病で柑橘の質が低下していたため。1924年頃に米国のマシン油乳剤が紹介され個人調製が始まっていた。清水市小芝町の休業中の羽衣石鹸工場を借用、責任者は花沢政雄
- [4]1928年に庵原郡柑橘同業組合が別途会計で機械油乳剤の共同調製を開始。カイガラムシ類の害と煤病で柑橘の質が低下していたため。1924年頃に米国のマシン油乳剤が紹介され個人調製が始まっていた。清水市小芝町の休業中の羽衣石鹸工場を借用、責任者は花沢政雄
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「クミアイ化学工業」
- [5]1928年、組合員にミカン栽培用の石灰硫黄合剤・機械油乳剤などを提供するため製造を開始
組合は調製の機械化を進め、1933年には花沢政雄氏が考案した石灰硫黄合剤の製造装置を清水市内の中田鉄工所に発注した。人力噴霧器による乳剤の調製は乳化も不完全になりがちで、静岡県農事試験場の1929年7月の臨時報告も『多大の熟練と労力を要し』と記していた。組合は県農試の技師が考案した攪拌機2台を据え、日本石油のマシン油から60%乳剤の製造を始めた。冬に固まる乳剤の欠点は、柑橘病害虫研究所長の野口徳三氏が考案した練混式の採用で解消し、凍らない機械油乳剤を完成させた。花沢政雄氏の装置は缶内に蒸気を直接入れない構造で作業の危険を減らすもので、実用新案も取得している。各メーカーが特許で押さえる製法に対し、組合は自前の装置で製造の自由度を確保したと考えられる。
- 庵原農薬史 創業30年の歩み(1961年・社史)
- [6]1929年の県農試報告で人力噴霧器による調製は熟練と労力を要し乳化不完全と指摘。組合は県農試技師考案の攪拌機2台を設置し日本石油のマシン油で60%乳剤を製造。石灰硫黄合剤は各社が特許を保有、花沢政雄が改良装置で実用新案を取り1933年に中田鉄工所へ発注
- [7]1929年の県農試報告で人力噴霧器による調製は熟練と労力を要し乳化不完全と指摘。組合は県農試技師考案の攪拌機2台を設置し日本石油のマシン油で60%乳剤を製造。石灰硫黄合剤は各社が特許を保有、花沢政雄が改良装置で実用新案を取り1933年に中田鉄工所へ発注
- [8]1929年の県農試報告で人力噴霧器による調製は熟練と労力を要し乳化不完全と指摘。組合は県農試技師考案の攪拌機2台を設置し日本石油のマシン油で60%乳剤を製造。石灰硫黄合剤は各社が特許を保有、花沢政雄が改良装置で実用新案を取り1933年に中田鉄工所へ発注
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [9]野口徳三(柑橘病害虫研究所長)考案の練混式を採用し不凍機械油乳剤を完成。花沢の石灰硫黄合剤装置は実用新案、1933年中田鉄工所に発注、蒸気を缶内に入れず危険を防止
- [10]野口徳三(柑橘病害虫研究所長)考案の練混式を採用し不凍機械油乳剤を完成。花沢の石灰硫黄合剤装置は実用新案、1933年中田鉄工所に発注、蒸気を缶内に入れず危険を防止
戦時中に農林省が1県1農薬工場の方針を取ると、組合の工場も存廃を問われた。組合員の共同工場で営利事業ではないと当局が認め、工場は整理の対象から除かれた。1943年3月10日に農業団体法が施行され、組合は同年12月に静岡県農業会へ統合された。工場は庵原支部長の望月喜多司氏の管理下に入り、のちに社長となる望月喜多司氏が工場の経営に関わり始めた。工場は戦中も食糧増産に向けた農薬の供給を続けたものの、1945年の空襲で焼失した。組合員の需要を先に置く運営が、営利企業と異なる工場として整理を免れた理由になったのだろう。
- 庵原農薬史 創業30年の歩み(1961年・社史)
- [11]戦時中の農林省の一県一農薬工場主義で存廃が問題化したが、組合員の共同工場で営利事業でないと認められ整備除外。農業団体法(1943年3月10日施行)により同年12月組合は静岡県農業会となり、工場は庵原支部長望月喜多司(1961年時点の社長)の管理下に入った
- [12]戦時中の農林省の一県一農薬工場主義で存廃が問題化したが、組合員の共同工場で営利事業でないと認められ整備除外。農業団体法(1943年3月10日施行)により同年12月組合は静岡県農業会となり、工場は庵原支部長望月喜多司(1961年時点の社長)の管理下に入った
- [13]戦時中の農林省の一県一農薬工場主義で存廃が問題化したが、組合員の共同工場で営利事業でないと認められ整備除外。農業団体法(1943年3月10日施行)により同年12月組合は静岡県農業会となり、工場は庵原支部長望月喜多司(1961年時点の社長)の管理下に入った
- [14]戦時中の農林省の一県一農薬工場主義で存廃が問題化したが、組合員の共同工場で営利事業でないと認められ整備除外。農業団体法(1943年3月10日施行)により同年12月組合は静岡県農業会となり、工場は庵原支部長望月喜多司(1961年時点の社長)の管理下に入った
- [16]永楽町の発祥地の工場は静岡県農業会に提供され経営されたが、1945年の空襲で焼失(記念灯の碑文)
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「クミアイ化学工業」
- [15]食糧増産に率先して農薬供給を行い、戦中戦後も事業を継続
参考文献[1]-[16]
- 庵原農薬史 創業30年の歩み(1961年・社史)
- [1]1928年に庵原郡柑橘同業組合が別途会計で機械油乳剤の共同調製を開始。カイガラムシ類の害と煤病で柑橘の質が低下していたため。1924年頃に米国のマシン油乳剤が紹介され個人調製が始まっていた。清水市小芝町の休業中の羽衣石鹸工場を借用、責任者は花沢政雄
- [2]1928年に庵原郡柑橘同業組合が別途会計で機械油乳剤の共同調製を開始。カイガラムシ類の害と煤病で柑橘の質が低下していたため。1924年頃に米国のマシン油乳剤が紹介され個人調製が始まっていた。清水市小芝町の休業中の羽衣石鹸工場を借用、責任者は花沢政雄
- [3]1928年に庵原郡柑橘同業組合が別途会計で機械油乳剤の共同調製を開始。カイガラムシ類の害と煤病で柑橘の質が低下していたため。1924年頃に米国のマシン油乳剤が紹介され個人調製が始まっていた。清水市小芝町の休業中の羽衣石鹸工場を借用、責任者は花沢政雄
- [4]1928年に庵原郡柑橘同業組合が別途会計で機械油乳剤の共同調製を開始。カイガラムシ類の害と煤病で柑橘の質が低下していたため。1924年頃に米国のマシン油乳剤が紹介され個人調製が始まっていた。清水市小芝町の休業中の羽衣石鹸工場を借用、責任者は花沢政雄
- [6]1929年の県農試報告で人力噴霧器による調製は熟練と労力を要し乳化不完全と指摘。組合は県農試技師考案の攪拌機2台を設置し日本石油のマシン油で60%乳剤を製造。石灰硫黄合剤は各社が特許を保有、花沢政雄が改良装置で実用新案を取り1933年に中田鉄工所へ発注
- [7]1929年の県農試報告で人力噴霧器による調製は熟練と労力を要し乳化不完全と指摘。組合は県農試技師考案の攪拌機2台を設置し日本石油のマシン油で60%乳剤を製造。石灰硫黄合剤は各社が特許を保有、花沢政雄が改良装置で実用新案を取り1933年に中田鉄工所へ発注
- [8]1929年の県農試報告で人力噴霧器による調製は熟練と労力を要し乳化不完全と指摘。組合は県農試技師考案の攪拌機2台を設置し日本石油のマシン油で60%乳剤を製造。石灰硫黄合剤は各社が特許を保有、花沢政雄が改良装置で実用新案を取り1933年に中田鉄工所へ発注
- [11]戦時中の農林省の一県一農薬工場主義で存廃が問題化したが、組合員の共同工場で営利事業でないと認められ整備除外。農業団体法(1943年3月10日施行)により同年12月組合は静岡県農業会となり、工場は庵原支部長望月喜多司(1961年時点の社長)の管理下に入った
- [12]戦時中の農林省の一県一農薬工場主義で存廃が問題化したが、組合員の共同工場で営利事業でないと認められ整備除外。農業団体法(1943年3月10日施行)により同年12月組合は静岡県農業会となり、工場は庵原支部長望月喜多司(1961年時点の社長)の管理下に入った
- [13]戦時中の農林省の一県一農薬工場主義で存廃が問題化したが、組合員の共同工場で営利事業でないと認められ整備除外。農業団体法(1943年3月10日施行)により同年12月組合は静岡県農業会となり、工場は庵原支部長望月喜多司(1961年時点の社長)の管理下に入った
- [14]戦時中の農林省の一県一農薬工場主義で存廃が問題化したが、組合員の共同工場で営利事業でないと認められ整備除外。農業団体法(1943年3月10日施行)により同年12月組合は静岡県農業会となり、工場は庵原支部長望月喜多司(1961年時点の社長)の管理下に入った
- [16]永楽町の発祥地の工場は静岡県農業会に提供され経営されたが、1945年の空襲で焼失(記念灯の碑文)
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「クミアイ化学工業」
- [5]1928年、組合員にミカン栽培用の石灰硫黄合剤・機械油乳剤などを提供するため製造を開始
- [15]食糧増産に率先して農薬供給を行い、戦中戦後も事業を継続
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [9]野口徳三(柑橘病害虫研究所長)考案の練混式を採用し不凍機械油乳剤を完成。花沢の石灰硫黄合剤装置は実用新案、1933年中田鉄工所に発注、蒸気を缶内に入れず危険を防止
- [10]野口徳三(柑橘病害虫研究所長)考案の練混式を採用し不凍機械油乳剤を完成。花沢の石灰硫黄合剤装置は実用新案、1933年中田鉄工所に発注、蒸気を缶内に入れず危険を防止
1946年〜GHQに申請した機械油500キロリットルと、資本金450万円の庵原農薬
農業会の解体後に工場を引き継いだ農村工業協会は、農薬工場に加えて製茶・木工・鉄工の各部を新たに設けた。協会は会員1人1円の拠金1万2千円と戦災保険金18万円を元手に、焼跡へ162坪の工場を建てて1946年3月に操業の再開にこぎつけた。協会は1946年4月に改組して庵原郡農村工業購買販売利用組合となり、組合長理事には望月喜多司氏が就任。原料油の配給が止まっていたため、組合は農林省と全国農業会の協力を得て、GHQへの機械油の配給の申請に踏み切った。申請の根拠は、柑橘の品質を戻すには機械油乳剤が欠かせないという関係者の進言である。申請は500キロリットルの配給につながり、組合は1947年から製造を大規模に再開した。
- 庵原農薬史 創業30年の歩み(1961年・社史)
- [17]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- [19]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- [20]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- [21]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- [22]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [18]農村工業協会が拠金1万2千円(会員1名1円)と戦災保険金18万円で焼跡に162坪の工場を建設し1946年3月再操業。同年4月に庵原郡農村工業購買販売利用組合へ改組、組合長に望月喜多司
1949年の産業組合法の廃止で、庵原郡農村工業購買販売利用組合は解散を迫られた。販路も全国に広がり、地域の制限を持つ組合組織では運営が難しかった。組合は1月28日の役員会で、農薬部門を中心とする事業を株式会社へ改組し、総務と運輸の各部を付け、木工部は当面組合に残すと決めた。望月喜多司氏を代表とする11人の発起人は、資本金を当初案の800万円から450万円に改め、6月16日に創立総会を開催した。新会社の庵原農薬株式会社は6月20日に設立され、本店を清水市寿町に置いた。資本金を4割強減らした改訂は、発起人が調達できる資金の制約を映したと推察される。
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [23]1949年の産業組合法廃止で組合は解散。販路が全国化し地域制限のある組合組織では不便と判断。1949年1月28日役員会で農薬部門中心の事業を株式組織に改組と議決。発起人11人、代表望月喜多司、本店清水市寿町。資本金は当初800万円から450万円に改訂、創立総会は6月16日
- [24]1949年の産業組合法廃止で組合は解散。販路が全国化し地域制限のある組合組織では不便と判断。1949年1月28日役員会で農薬部門中心の事業を株式組織に改組と議決。発起人11人、代表望月喜多司、本店清水市寿町。資本金は当初800万円から450万円に改訂、創立総会は6月16日
- [25]1949年の産業組合法廃止で組合は解散。販路が全国化し地域制限のある組合組織では不便と判断。1949年1月28日役員会で農薬部門中心の事業を株式組織に改組と議決。発起人11人、代表望月喜多司、本店清水市寿町。資本金は当初800万円から450万円に改訂、創立総会は6月16日
- [26]1949年の産業組合法廃止で組合は解散。販路が全国化し地域制限のある組合組織では不便と判断。1949年1月28日役員会で農薬部門中心の事業を株式組織に改組と議決。発起人11人、代表望月喜多司、本店清水市寿町。資本金は当初800万円から450万円に改訂、創立総会は6月16日
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「クミアイ化学工業」
- [27]1949年6月20日設立。産業組合法廃止に伴い組合を解散し、資本金450万円で庵原農薬を設立、本社を清水市寿町に置く
庵原農薬は1953年から1954年にかけ、本社と工場を清水市渋川へ移して1か所に集約した。それまで本社は寿町、乳液剤は永楽町の第1工場、粉剤と水和剤は袖師町西久保の第2工場に分かれ、生産に不便を抱えた。渋川には技術研究所も移り、1954年に農薬の総合工場として稼働した。1952年には米国のACC社からパラチオンとマラソンの技術を導入し、独自の製剤を生み出していた。同じ1954年10月には全購連大阪支所と愛媛県経済連の要請に応じ、閉鎖中の経済連農薬工場を買収して今治工場とした。今治工場は他県へ生産を広げる第一歩となり、渋川への集約は創業期を脱する基盤になった。
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [28]1953-54年に本社・清水工場を清水市渋川に移転集結。それまで本社は寿町、乳液剤は永楽町第1工場、粉剤・水和剤は袖師町西久保第2工場の3か所に分散し生産に不便。移転完了を創業期の区切りとする
- [29]1953-54年に本社・清水工場を清水市渋川に移転集結。それまで本社は寿町、乳液剤は永楽町第1工場、粉剤・水和剤は袖師町西久保第2工場の3か所に分散し生産に不便。移転完了を創業期の区切りとする
- [32]1954年3月全購連大阪支所と愛媛県経済連から閉鎖中の経済連農薬工場の運営協力を要請され、同年10月に買収(他県進出の第一歩)
- [33]1954年3月全購連大阪支所と愛媛県経済連から閉鎖中の経済連農薬工場の運営協力を要請され、同年10月に買収(他県進出の第一歩)
- [34]1953-54年に本社・清水工場を清水市渋川に移転集結。それまで本社は寿町、乳液剤は永楽町第1工場、粉剤・水和剤は袖師町西久保第2工場の3か所に分散し生産に不便。移転完了を創業期の区切りとする
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「クミアイ化学工業」
- [30]1952年米ACC社からパラチオン・マラソンの技術導入、独自製剤を開発。1954年本社・工場・技術研究所を清水市渋川に移設し総合工場が稼働、同時に愛媛県に今治工場を開設
- [31]1952年米ACC社からパラチオン・マラソンの技術導入、独自製剤を開発。1954年本社・工場・技術研究所を清水市渋川に移設し総合工場が稼働、同時に愛媛県に今治工場を開設
参考文献[17]-[34]
- 庵原農薬史 創業30年の歩み(1961年・社史)
- [17]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- [19]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- [20]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- [21]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- [22]1946年4月に組合を設立(組合長理事望月喜多司)。柑橘の質の向上に機械油乳剤が必要との話を受け、農林省・全国農業会の協力でGHQに原料油の配給を申請し500kl(原文「500粁」)の配給を得て1947年から本格的に製造再開。農村工業協会は農薬工場を引き継ぎ製茶・木工・鉄工の各部を新設
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [18]農村工業協会が拠金1万2千円(会員1名1円)と戦災保険金18万円で焼跡に162坪の工場を建設し1946年3月再操業。同年4月に庵原郡農村工業購買販売利用組合へ改組、組合長に望月喜多司
- [23]1949年の産業組合法廃止で組合は解散。販路が全国化し地域制限のある組合組織では不便と判断。1949年1月28日役員会で農薬部門中心の事業を株式組織に改組と議決。発起人11人、代表望月喜多司、本店清水市寿町。資本金は当初800万円から450万円に改訂、創立総会は6月16日
- [24]1949年の産業組合法廃止で組合は解散。販路が全国化し地域制限のある組合組織では不便と判断。1949年1月28日役員会で農薬部門中心の事業を株式組織に改組と議決。発起人11人、代表望月喜多司、本店清水市寿町。資本金は当初800万円から450万円に改訂、創立総会は6月16日
- [25]1949年の産業組合法廃止で組合は解散。販路が全国化し地域制限のある組合組織では不便と判断。1949年1月28日役員会で農薬部門中心の事業を株式組織に改組と議決。発起人11人、代表望月喜多司、本店清水市寿町。資本金は当初800万円から450万円に改訂、創立総会は6月16日
- [26]1949年の産業組合法廃止で組合は解散。販路が全国化し地域制限のある組合組織では不便と判断。1949年1月28日役員会で農薬部門中心の事業を株式組織に改組と議決。発起人11人、代表望月喜多司、本店清水市寿町。資本金は当初800万円から450万円に改訂、創立総会は6月16日
- [28]1953-54年に本社・清水工場を清水市渋川に移転集結。それまで本社は寿町、乳液剤は永楽町第1工場、粉剤・水和剤は袖師町西久保第2工場の3か所に分散し生産に不便。移転完了を創業期の区切りとする
- [29]1953-54年に本社・清水工場を清水市渋川に移転集結。それまで本社は寿町、乳液剤は永楽町第1工場、粉剤・水和剤は袖師町西久保第2工場の3か所に分散し生産に不便。移転完了を創業期の区切りとする
- [32]1954年3月全購連大阪支所と愛媛県経済連から閉鎖中の経済連農薬工場の運営協力を要請され、同年10月に買収(他県進出の第一歩)
- [33]1954年3月全購連大阪支所と愛媛県経済連から閉鎖中の経済連農薬工場の運営協力を要請され、同年10月に買収(他県進出の第一歩)
- [34]1953-54年に本社・清水工場を清水市渋川に移転集結。それまで本社は寿町、乳液剤は永楽町第1工場、粉剤・水和剤は袖師町西久保第2工場の3か所に分散し生産に不便。移転完了を創業期の区切りとする
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「クミアイ化学工業」
- [27]1949年6月20日設立。産業組合法廃止に伴い組合を解散し、資本金450万円で庵原農薬を設立、本社を清水市寿町に置く
- [30]1952年米ACC社からパラチオン・マラソンの技術導入、独自製剤を開発。1954年本社・工場・技術研究所を清水市渋川に移設し総合工場が稼働、同時に愛媛県に今治工場を開設
- [31]1952年米ACC社からパラチオン・マラソンの技術導入、独自製剤を開発。1954年本社・工場・技術研究所を清水市渋川に移設し総合工場が稼働、同時に愛媛県に今治工場を開設
1956年〜全購連との連携強化と、売上20億円の後に改めたイハラ農薬の東証二部上場
庵原農薬は1956年2月、全購連から専務取締役・販売部長・経理部長の3人の出向を受け入れた。出向者は西頭静男氏、大竹為三氏、加藤武氏で、このうち販売部長を引き継いだのが大竹為三氏である。庵原農薬は創業時から地元の農協を販売先とし、県外でも農協向けが大半だったため、全購連との人的な結合を強めた。同じ年に全購連は農薬の全利用共同計算運動を始め、庵原農薬も全面的に参加して生産と出荷を計画化した。1956年度の売上高は9億3,500万円で、1957年から1958年にかけて12億円から16億円へ伸びた。系統メーカーの地位を得て、販路の開拓を自社の営業網だけに依存しない体制ができたと思われる。
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [35]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- [36]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- [37]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- [38]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- [40]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- 庵原農薬史 創業30年の歩み(1961年・社史)
- [39]1956年、全利用共同計算方式が軌道に乗り生産と出荷が計画化。全購連との提携を強化し重役以下数名の出向を受ける
1962年1月11日、庵原農薬は商号をイハラ農薬株式会社へ変更。売上高は20億円を越えたばかりで全国有数の規模になり、資本金も設立時の450万円から増資を重ねて1億9千万円になっていた。改称の直接の動機は、株式の上場に備えて分かりやすい名称にする必要があったことである。「イハラ」の名はすでに社標と製品のマークに使われ、広く通用していた。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触を避けるため、富士山の図案から楕円で囲んだイハラの文字に変わった。改称で社名と社標が一致し、海外向けの呼称はIHARA CHEMICALS CO. LTD.に定めた。
- 株式会社年鑑 1964年版「イハラ農薬」
- [41]1962年1月に社名をイハラ農薬(株)と改称
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [42]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
- [43]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
- [44]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
- [45]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
- [46]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
イハラ農薬は1962年5月に宮城県小牛田町の小牛田工場を完成させ、11月1日に東京証券取引所第二部へ上場した。東北では粉剤の販売実績が1,500トンに達し、1960年から東北共同化学の船岡工場を借りて委託生産を続けていた。上場の狙いは、株式に市場性を持たせて資金の調達を容易にすることにある。準備として4月6日の臨時株主総会で額面を100円から50円に改め、上場時には60万株を1株165円で公募した。上場の認可は10月17日に下り、幹事会社は野村証券が務めた。上場時の資本金は2億2,000万円に達し、1968年11月1日付では同じ全購連系の東亜農薬との対等合併が予定された。
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [47]東北で粉剤1,500屯の実績、1960年から東北共同化学船岡工場を借用し粉剤を委託生産(東北工場)。宮城県小牛田町に工場を建設し1962年5月に落成式
- [48]資本金は改名時1億9千万円。株式の市場性・株主への奉仕・資金調達の容易化を目的に東証二部上場を計画。1962年4月6日臨時株主総会で額面100円を50円に変更、幹事は野村証券(大商証券と2社)、上場時3,000万円(60万株)を1株165円で公募、上場日は11月1日
- [49]東北で粉剤1,500屯の実績、1960年から東北共同化学船岡工場を借用し粉剤を委託生産(東北工場)。宮城県小牛田町に工場を建設し1962年5月に落成式
- [50]資本金は改名時1億9千万円。株式の市場性・株主への奉仕・資金調達の容易化を目的に東証二部上場を計画。1962年4月6日臨時株主総会で額面100円を50円に変更、幹事は野村証券(大商証券と2社)、上場時3,000万円(60万株)を1株165円で公募、上場日は11月1日
- [52]資本金は改名時1億9千万円。株式の市場性・株主への奉仕・資金調達の容易化を目的に東証二部上場を計画。1962年4月6日臨時株主総会で額面100円を50円に変更、幹事は野村証券(大商証券と2社)、上場時3,000万円(60万株)を1株165円で公募、上場日は11月1日
- [53]資本金は改名時1億9千万円。株式の市場性・株主への奉仕・資金調達の容易化を目的に東証二部上場を計画。1962年4月6日臨時株主総会で額面100円を50円に変更、幹事は野村証券(大商証券と2社)、上場時3,000万円(60万株)を1株165円で公募、上場日は11月1日
- 株式会社年鑑 1964年版「イハラ農薬」
- [51]1962年4月に株式額面を100円から50円に変更。小牛田工場(宮城県遠田郡小牛田町南小牛田)を保有
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「クミアイ化学工業」
- [54]1962年11月、資本金2億2,000万円に達し東証に上場。1968年11月1日付で同じ全購連系の東亜農薬と対等合併予定
参考文献[35]-[54]
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- [35]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- [36]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- [37]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- [38]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- [40]人的結合強化のため全購連に専務・販売部長・経理部長の出向を求め、西頭静男・大竹為三・加藤武が1956年2月に出向。地元農協から出発し県外も大半が農協向け。1956年は全購連が農薬全利用共同計算運動を開始し全面参画。1956年度売上高9億3,500万円、1957-58年に12億から16億円
- [42]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
- [43]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
- [44]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
- [45]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
- [46]1962年1月11日に商号をイハラ農薬株式会社に変更。売上高20億円を越えた直後で全国有数の農薬会社。動機は上場への布石としての分かりやすい名称と、社標・製品マークとしてのイハラの普遍性。社標は1959年8月13日、藤沢薬品の商標との抵触で富士山図案から楕円のイハラへ変更。海外呼称IHARA CHEMICALS CO. LTD.
- [47]東北で粉剤1,500屯の実績、1960年から東北共同化学船岡工場を借用し粉剤を委託生産(東北工場)。宮城県小牛田町に工場を建設し1962年5月に落成式
- [48]資本金は改名時1億9千万円。株式の市場性・株主への奉仕・資金調達の容易化を目的に東証二部上場を計画。1962年4月6日臨時株主総会で額面100円を50円に変更、幹事は野村証券(大商証券と2社)、上場時3,000万円(60万株)を1株165円で公募、上場日は11月1日
- [49]東北で粉剤1,500屯の実績、1960年から東北共同化学船岡工場を借用し粉剤を委託生産(東北工場)。宮城県小牛田町に工場を建設し1962年5月に落成式
- [50]資本金は改名時1億9千万円。株式の市場性・株主への奉仕・資金調達の容易化を目的に東証二部上場を計画。1962年4月6日臨時株主総会で額面100円を50円に変更、幹事は野村証券(大商証券と2社)、上場時3,000万円(60万株)を1株165円で公募、上場日は11月1日
- [52]資本金は改名時1億9千万円。株式の市場性・株主への奉仕・資金調達の容易化を目的に東証二部上場を計画。1962年4月6日臨時株主総会で額面100円を50円に変更、幹事は野村証券(大商証券と2社)、上場時3,000万円(60万株)を1株165円で公募、上場日は11月1日
- [53]資本金は改名時1億9千万円。株式の市場性・株主への奉仕・資金調達の容易化を目的に東証二部上場を計画。1962年4月6日臨時株主総会で額面100円を50円に変更、幹事は野村証券(大商証券と2社)、上場時3,000万円(60万株)を1株165円で公募、上場日は11月1日
- 庵原農薬史 創業30年の歩み(1961年・社史)
- [39]1956年、全利用共同計算方式が軌道に乗り生産と出荷が計画化。全購連との提携を強化し重役以下数名の出向を受ける
- 株式会社年鑑 1964年版「イハラ農薬」
- [41]1962年1月に社名をイハラ農薬(株)と改称
- [51]1962年4月に株式額面を100円から50円に変更。小牛田工場(宮城県遠田郡小牛田町南小牛田)を保有
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「クミアイ化学工業」
- [54]1962年11月、資本金2億2,000万円に達し東証に上場。1968年11月1日付で同じ全購連系の東亜農薬と対等合併予定
出典・参考
4件
- 庵原農薬史 創業30年の歩み(1961年・社史)
- イハラ農薬史 庵原農薬よりクミアイ化学工業への20年の歩み(1969年・社史)
- 株式会社年鑑 1964年版「イハラ農薬」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「クミアイ化学工業」