エステー:防虫剤のエステー化学工業所創立と手袋の製造開始
1946年〜ポマードの傍らで始めた防虫剤と、鈴木千蔵氏の不動産を担保にした法人化
鈴木誠一氏は1946年8月にエステー化学工業所を個人で創業し、整髪料のポマードの製造から事業を始めた。鈴木誠一氏は1922年東京生まれ、1943年9月に東京薬学専門学校を卒業して海軍へ入隊。復員後は二男で家業の家庭用品店を継げず、失業者があふれる時期で勤め先も見つからなかった。鈴木誠一氏は日本橋の工業薬品問屋でひまし油の缶を見つけ、ポマードの原料になると判断して現金で購入している。問屋は無名の品を扱わず、鈴木誠一氏は雑貨店や薬局へ直接売り込んで即金の取引先を増やした。社名のエステーは、奉仕を表すSERVICEと責任を表すTRUSTの頭文字から採った。学校で得た薬学の知識で作れ、代金がすぐ手元に入る品を選んだことが、復員直後の生計と事業の元手を同時に満たしたとみられる。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊、1993年)「「人一倍の読書」で掴んだトップシェア」鈴木誠一
- [1]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- [2]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- [3]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- [4]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- [5]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- 証券アナリストジャーナル 24(6) 1986年 鈴木誠一(講演要旨)
- [6]社名は基本方針のSERVICEとTRUSTの頭文字「ST」から採った
鈴木誠一氏は創業からまもなく防虫剤の製造に転じ、やがてポマードをやめて防虫剤の専業メーカーとなった。ポマードの売れ行きは順調だったものの、単品のままでは先行きに不安があった。転機は、母親が疎開先から送り返させた荷物の中で、衣類がすべて虫に食われていたことである。鈴木誠一氏は全国の家庭が同じ被害に遭っていると考え、すぐに防虫剤を作ってなじみの小売店へ持ち込んだ。防虫剤には有力な大手ブランドが無く、新参の製品でも店頭で売れた。効き目が1年後まで分からない商品として大問屋には扱われず、鈴木誠一氏は自転車で町の薬局を回って売り込んだ。競合の大手が不在だった市場を選んだことが、無名の個人商店に販路を開く条件になったと推察される。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊、1993年)「「人一倍の読書」で掴んだトップシェア」鈴木誠一
- [7]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- [8]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- [9]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- [10]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- [11]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- 証券アナリストジャーナル 24(6) 1986年 鈴木誠一(講演要旨)
- [12]創業当時、防虫剤は効果が1年先まで分からず大問屋が扱わず、鈴木誠一氏が自転車で薬局を回り販売
1948年8月、鈴木誠一氏が父の鈴木千蔵氏を社長に据えた、エステー化学工業株式会社の設立。防虫剤の製造開始から1年ほどで従業員は約30人に増え、バラックの工場では生産が追いつかなかった。鈴木誠一氏は約50坪の土地に工場を新築するため銀行へ融資を申し込み、担保の不足を理由に断られた。鈴木誠一氏は父の遊休地を担保に借りようとし、父を社長とする会社組織への移行を条件に承諾を得た。こうして社長は鈴木千蔵氏、経営の実務は鈴木誠一氏が担う体制となり、父の不動産を担保に銀行融資を受けた。新会社は東京都渋谷区に置かれ、エステー化学工業所の業務を継承した。個人の信用では得られない資金を家の資産で補い、その対価として名目上の社長職を父に委ねた取り決めと思われる。
- 証券アナリストジャーナル 24(6) 1986年 鈴木誠一(講演要旨)
- [13]事業拡大の融資を銀行に求めたが担保がないと断られ、会社組織にして父・鈴木千蔵氏を社長とし父の不動産を担保に融資を受け、1948年8月エステー化学工業株式会社を設立
- [15]事業拡大の融資を銀行に求めたが担保がないと断られ、会社組織にして父・鈴木千蔵氏を社長とし父の不動産を担保に融資を受け、1948年8月エステー化学工業株式会社を設立
- [17]事業拡大の融資を銀行に求めたが担保がないと断られ、会社組織にして父・鈴木千蔵氏を社長とし父の不動産を担保に融資を受け、1948年8月エステー化学工業株式会社を設立
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊、1993年)「「人一倍の読書」で掴んだトップシェア」鈴木誠一
- [14]防虫剤製造開始から約1年で従業員30人ほど。約50坪の工場新築の融資に担保を求められ、父の土地を借りる条件として父を社長に据え法人化。実際の指揮は鈴木誠一氏
- [16]防虫剤製造開始から約1年で従業員30人ほど。約50坪の工場新築の融資に担保を求められ、父の土地を借りる条件として父を社長に据え法人化。実際の指揮は鈴木誠一氏
- エステー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [18]1948年8月エステー化学工業株式会社を東京都渋谷区に設立し、エステー化学工業所の業務を継承
参考文献[1]-[18]
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊、1993年)「「人一倍の読書」で掴んだトップシェア」鈴木誠一
- [1]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- [2]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- [3]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- [4]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- [5]1922年東京生まれ。1943年9月東京薬学専門学校卒業後海軍入隊。1946年8月復員しエステー化学工業所を個人創業、ひまし油からポマードを製造し小売店へ直販
- [7]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- [8]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- [9]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- [10]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- [11]ポマードだけでは先行き不安。疎開先から戻った衣類の虫食いを見て防虫剤を製造し小売店で販売。大手ブランド不在で伸び、ポマードをやめ防虫剤専業に
- [14]防虫剤製造開始から約1年で従業員30人ほど。約50坪の工場新築の融資に担保を求められ、父の土地を借りる条件として父を社長に据え法人化。実際の指揮は鈴木誠一氏
- [16]防虫剤製造開始から約1年で従業員30人ほど。約50坪の工場新築の融資に担保を求められ、父の土地を借りる条件として父を社長に据え法人化。実際の指揮は鈴木誠一氏
- 証券アナリストジャーナル 24(6) 1986年 鈴木誠一(講演要旨)
- [6]社名は基本方針のSERVICEとTRUSTの頭文字「ST」から採った
- [12]創業当時、防虫剤は効果が1年先まで分からず大問屋が扱わず、鈴木誠一氏が自転車で薬局を回り販売
- [13]事業拡大の融資を銀行に求めたが担保がないと断られ、会社組織にして父・鈴木千蔵氏を社長とし父の不動産を担保に融資を受け、1948年8月エステー化学工業株式会社を設立
- [15]事業拡大の融資を銀行に求めたが担保がないと断られ、会社組織にして父・鈴木千蔵氏を社長とし父の不動産を担保に融資を受け、1948年8月エステー化学工業株式会社を設立
- [17]事業拡大の融資を銀行に求めたが担保がないと断られ、会社組織にして父・鈴木千蔵氏を社長とし父の不動産を担保に融資を受け、1948年8月エステー化学工業株式会社を設立
- エステー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [18]1948年8月エステー化学工業株式会社を東京都渋谷区に設立し、エステー化学工業所の業務を継承
1964年〜可塑剤で軟らかくしたビニール手袋と、鈴木誠一氏の社長就任
エステー化学工業は1964年7月に埼玉工場を設け、手袋などの製造を始めた。発端は、鈴木誠一氏が自由渡航の認められていない1959年に単身で欧米を視察し、手袋の売れ行きを目にしたことである。鈴木誠一氏は握手の習慣を持つ欧米の人々が手を大切にすると受け止め、日本にも同じ需要が生まれると判断した。製品面の成果は、可塑剤の研究から生まれた、ゴム製と見分けがつかないほど軟らかいビニール手袋。長く使える作業用は作らず、消耗の早い家庭用に絞って売り場での回転を優先した。1981年時点でも家庭用ゴム手袋は防虫剤と並ぶ主要製品群で、滑り止めや花柄で他社製品との差別化を進めた。季節商品の防虫剤に年間を通じて売れる消耗品を加え、工場の稼働と取引先への納品を平準化する狙いがあったのだろう。
- エステー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [19]1964年7月埼玉工場を設置し手袋等の製造を開始
- 証券アナリストジャーナル 24(6) 1986年 鈴木誠一(講演要旨)
- [20]1959年に単身で欧米を回り手袋がよく売れるのを見て手袋製造を決心。可塑剤研究でゴムと区別がつかないビニール手袋を開発。長持ちする作業用は作らず回転第一
- [21]1959年に単身で欧米を回り手袋がよく売れるのを見て手袋製造を決心。可塑剤研究でゴムと区別がつかないビニール手袋を開発。長持ちする作業用は作らず回転第一
- [22]1959年に単身で欧米を回り手袋がよく売れるのを見て手袋製造を決心。可塑剤研究でゴムと区別がつかないビニール手袋を開発。長持ちする作業用は作らず回転第一
- [23]1959年に単身で欧米を回り手袋がよく売れるのを見て手袋製造を決心。可塑剤研究でゴムと区別がつかないビニール手袋を開発。長持ちする作業用は作らず回転第一
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [24]1981年時点で防虫・防臭剤、芳香剤、家庭用ゴム手袋が主要製品群。長手袋に滑り止めや花柄を入れて差別化
1973年、鈴木誠一氏は父の鈴木千蔵氏に引退を求め、名実ともに経営の頂点に立った。高齢の父から社長職を引き継ぐにあたり、社長65歳・役員62歳の定年制を定め、同時に非同族経営を宣言した。鈴木誠一氏は、良品を安く作ることだけを重んじた先代の方針に無駄が多かったとみて、顧客への訴求を軸とする経営へ切り替えた。同じ1973年に起きた石油ショックで利益が増え、鈴木誠一氏はその中から1年間に約1億円を宣伝に投じた。広告宣伝費は1973年6月期から金額・伸び率とも急増した。本格的な宣伝に着手する際、役員は資金が不足すれば2年間の昇給停止で原資を捻出すると決めていた。石油ショックで得た一時の利益を広告へ振り向けたことが、次の芳香剤事業で宣伝を集中する下地になったと推測される。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊、1993年)「「人一倍の読書」で掴んだトップシェア」鈴木誠一
- [25]1973年に父に引退してもらい名実ともにトップ経営者となった
- 証券アナリストジャーナル 24(6) 1986年 鈴木誠一(講演要旨)
- [26]1973年に高齢の父から社長職を引継ぎ、社長65歳・役員62歳の定年制と非同族宣言。1973年の石油ショックでもうかり1年間に約1億円を宣伝に投入
- [28]1973年に高齢の父から社長職を引継ぎ、社長65歳・役員62歳の定年制と非同族宣言。1973年の石油ショックでもうかり1年間に約1億円を宣伝に投入
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [27]1973年に実父の前社長から経営を継承。先代の「良い品を安く」方針を改め顧客にアピールする経営へ。広告宣伝費は1973年6月期から急増。本格宣伝時に役員が昇給2年停止で原資を捻出と決定
- [29]1973年に実父の前社長から経営を継承。先代の「良い品を安く」方針を改め顧客にアピールする経営へ。広告宣伝費は1973年6月期から急増。本格宣伝時に役員が昇給2年停止で原資を捻出と決定
- [30]1973年に実父の前社長から経営を継承。先代の「良い品を安く」方針を改め顧客にアピールする経営へ。広告宣伝費は1973年6月期から急増。本格宣伝時に役員が昇給2年停止で原資を捻出と決定
参考文献[19]-[30]
- エステー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [19]1964年7月埼玉工場を設置し手袋等の製造を開始
- 証券アナリストジャーナル 24(6) 1986年 鈴木誠一(講演要旨)
- [20]1959年に単身で欧米を回り手袋がよく売れるのを見て手袋製造を決心。可塑剤研究でゴムと区別がつかないビニール手袋を開発。長持ちする作業用は作らず回転第一
- [21]1959年に単身で欧米を回り手袋がよく売れるのを見て手袋製造を決心。可塑剤研究でゴムと区別がつかないビニール手袋を開発。長持ちする作業用は作らず回転第一
- [22]1959年に単身で欧米を回り手袋がよく売れるのを見て手袋製造を決心。可塑剤研究でゴムと区別がつかないビニール手袋を開発。長持ちする作業用は作らず回転第一
- [23]1959年に単身で欧米を回り手袋がよく売れるのを見て手袋製造を決心。可塑剤研究でゴムと区別がつかないビニール手袋を開発。長持ちする作業用は作らず回転第一
- [26]1973年に高齢の父から社長職を引継ぎ、社長65歳・役員62歳の定年制と非同族宣言。1973年の石油ショックでもうかり1年間に約1億円を宣伝に投入
- [28]1973年に高齢の父から社長職を引継ぎ、社長65歳・役員62歳の定年制と非同族宣言。1973年の石油ショックでもうかり1年間に約1億円を宣伝に投入
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [24]1981年時点で防虫・防臭剤、芳香剤、家庭用ゴム手袋が主要製品群。長手袋に滑り止めや花柄を入れて差別化
- [27]1973年に実父の前社長から経営を継承。先代の「良い品を安く」方針を改め顧客にアピールする経営へ。広告宣伝費は1973年6月期から急増。本格宣伝時に役員が昇給2年停止で原資を捻出と決定
- [29]1973年に実父の前社長から経営を継承。先代の「良い品を安く」方針を改め顧客にアピールする経営へ。広告宣伝費は1973年6月期から急増。本格宣伝時に役員が昇給2年停止で原資を捻出と決定
- [30]1973年に実父の前社長から経営を継承。先代の「良い品を安く」方針を改め顧客にアピールする経営へ。広告宣伝費は1973年6月期から急増。本格宣伝時に役員が昇給2年停止で原資を捻出と決定
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊、1993年)「「人一倍の読書」で掴んだトップシェア」鈴木誠一
- [25]1973年に父に引退してもらい名実ともにトップ経営者となった
出典・参考
4件
- エステー 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- 証券アナリストジャーナル 24(6) 1986年 鈴木誠一(講演要旨)
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊、1993年)「「人一倍の読書」で掴んだトップシェア」鈴木誠一