大阪ソーダ:関西財界有志の大阪曹達設立と小倉・尼崎工場の建設
1915年〜関東州の塩を電解する資本金75万円の大阪曹達と、水銀法の小倉工場
1915年11月9日、資本金75万円で大阪曹達の設立登記が完了。発端は、関東州の長官だった白仁武氏が、屋外に積まれて雨にさらされた関東州の塩を日本で生かす方法を中橋徳五郎氏に相談したことにある。関東都督府はこの塩を原料に水銀法で苛性ソーダを製造する研究を終え、事業を民間の経営へ移す段階にあった。許可を受けた宗像祐太郎氏・長尾藤三氏・尼崎伊三郎氏らは、中橋徳五郎氏を委員長に据えて関西の有力者で会社を創立した。原料の塩と製造技術を官から一括して引き継げる条件が、大阪の財界人の出資を後押ししたとみられる。
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [1]1915年11月、関西財界の有力者を発起人に資本金750千円で設立(設立登記1915年11月9日)
- 人生問答 立花大亀対談集 第3集「田村太郎(大阪曹達社長)」
- [2]関東州長官の白仁武が関東州の雨ざらしの塩の利用法を中橋徳五郎に持ち込み、ドイツの電解法で苛性ソーダと塩素を作る案で、中橋を委員長に大阪財界の有力者を集めて創立
- 企業の歴史(明治百年)1968年「大阪曹達」
- [3]大正初期までソーダ類は輸入品頼み。関東都督府が関東州塩を原料に水銀法苛性ソーダ製造の研究を完成し、民間経営へ移譲
- 会社銀行八十年史 1955年「大阪曹達」
- [4]宗像祐太郎・長尾藤三・松本杢蔵・高崎親章・尼崎伊三郎が許可を受け、中橋徳五郎を委員長に資本金75万円で創立
大阪曹達は関東州から運ぶ塩の輸送の便を考え、工場を小倉市に新設した。この工場は、日本で水銀法の電解ソーダ工業が始まった地点となった。水銀法は食塩水を電気分解する際に陰極へ水銀、陽極へ黒鉛を用い、陰極に鉄を使う隔膜法とは方式を異にする。1953年時点の説明では、得られる苛性ソーダは純度99%で、濃度45%以上の電解液を濃縮せず化学繊維の製造に使えた。ただし創業当初の製品は苛性ソーダと晒粉の2品目にとどまり、国内の需要家も水銀法の高純度品をまだ求めていなかった。小倉の立地は需要地よりも原料塩の搬入を優先した選択であり、高純度という特長が生きるまでには時間を要したと推察される。
- 会社銀行八十年史 1955年「大阪曹達」
- [5]関東州塩輸送の便宜上、小倉市に工場を新設。当初は苛性ソーダと晒粉のみ製造
- [9]関東州塩輸送の便宜上、小倉市に工場を新設。当初は苛性ソーダと晒粉のみ製造
- 企業の歴史(明治百年)1968年「大阪曹達」
- [6]小倉工場がわが国の水銀法電解曹達工業の始まり。当初は水銀法の優良な苛性ソーダを必要としなかった
- [10]小倉工場がわが国の水銀法電解曹達工業の始まり。当初は水銀法の優良な苛性ソーダを必要としなかった
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [7]水銀電解法は陰極に水銀・陽極に黒鉛(隔膜法の陰極は鉄)。苛性曹達は純度99%、電解流出液45%以上で濃縮不要のまま化繊製造に使用可(1953年時点)
- [8]水銀電解法は陰極に水銀・陽極に黒鉛(隔膜法の陰極は鉄)。苛性曹達は純度99%、電解流出液45%以上で濃縮不要のまま化繊製造に使用可(1953年時点)
大正の初めまで、ソーダ類の国内供給は大半が輸入品。第一次世界大戦が始まると、海外からのソーダ類の輸入が途絶えた。国内ではソーダを基礎原料とする化学工業が相次いで興り、国産品への需要が生まれた。大阪曹達は1918年10月に資本金を75万円から200万円へ増資し、設立から3年で資本を約2.7倍に拡大した。1923〜24年に人絹工業が台頭すると、大阪曹達は苛性ソーダと晒粉に加え、漂白用の次亜塩素酸ソーダと合成塩酸の製造を始めた。輸入の途絶が水銀法の国産ソーダに最初の需要をもたらし、増資の資金は小倉工場の設備拡張に充当されたと思われる。
- 企業の歴史(明治百年)1968年「大阪曹達」
- [11]大正の初期までソーダ類は輸入品に依存
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [12]第一次大戦で海外ソーダ類の輸入が途絶、国内でソーダを基幹とする化学工業が勃興し、1918年10月資本金を2,000千円に増資
- [13]第一次大戦で海外ソーダ類の輸入が途絶、国内でソーダを基幹とする化学工業が勃興し、1918年10月資本金を2,000千円に増資
- [14]第一次大戦で海外ソーダ類の輸入が途絶、国内でソーダを基幹とする化学工業が勃興し、1918年10月資本金を2,000千円に増資
- 会社銀行八十年史 1955年「大阪曹達」
- [15]当初は苛性ソーダと晒粉のみ製造。1923〜24年に人絹工業の台頭を受け、漂白用の次亜塩素酸ソーダと合成塩酸の製造を開始
参考文献[1]-[15]
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [1]1915年11月、関西財界の有力者を発起人に資本金750千円で設立(設立登記1915年11月9日)
- [7]水銀電解法は陰極に水銀・陽極に黒鉛(隔膜法の陰極は鉄)。苛性曹達は純度99%、電解流出液45%以上で濃縮不要のまま化繊製造に使用可(1953年時点)
- [8]水銀電解法は陰極に水銀・陽極に黒鉛(隔膜法の陰極は鉄)。苛性曹達は純度99%、電解流出液45%以上で濃縮不要のまま化繊製造に使用可(1953年時点)
- [12]第一次大戦で海外ソーダ類の輸入が途絶、国内でソーダを基幹とする化学工業が勃興し、1918年10月資本金を2,000千円に増資
- [13]第一次大戦で海外ソーダ類の輸入が途絶、国内でソーダを基幹とする化学工業が勃興し、1918年10月資本金を2,000千円に増資
- [14]第一次大戦で海外ソーダ類の輸入が途絶、国内でソーダを基幹とする化学工業が勃興し、1918年10月資本金を2,000千円に増資
- 人生問答 立花大亀対談集 第3集「田村太郎(大阪曹達社長)」
- [2]関東州長官の白仁武が関東州の雨ざらしの塩の利用法を中橋徳五郎に持ち込み、ドイツの電解法で苛性ソーダと塩素を作る案で、中橋を委員長に大阪財界の有力者を集めて創立
- 企業の歴史(明治百年)1968年「大阪曹達」
- [3]大正初期までソーダ類は輸入品頼み。関東都督府が関東州塩を原料に水銀法苛性ソーダ製造の研究を完成し、民間経営へ移譲
- [6]小倉工場がわが国の水銀法電解曹達工業の始まり。当初は水銀法の優良な苛性ソーダを必要としなかった
- [10]小倉工場がわが国の水銀法電解曹達工業の始まり。当初は水銀法の優良な苛性ソーダを必要としなかった
- [11]大正の初期までソーダ類は輸入品に依存
- 会社銀行八十年史 1955年「大阪曹達」
- [4]宗像祐太郎・長尾藤三・松本杢蔵・高崎親章・尼崎伊三郎が許可を受け、中橋徳五郎を委員長に資本金75万円で創立
- [5]関東州塩輸送の便宜上、小倉市に工場を新設。当初は苛性ソーダと晒粉のみ製造
- [9]関東州塩輸送の便宜上、小倉市に工場を新設。当初は苛性ソーダと晒粉のみ製造
- [15]当初は苛性ソーダと晒粉のみ製造。1923〜24年に人絹工業の台頭を受け、漂白用の次亜塩素酸ソーダと合成塩酸の製造を開始
1920年〜大正9年の恐慌を越えて人絹向けに建てた尼崎工場と、戦後の水害
大阪曹達は1931年11月、兵庫県尼崎市に2つ目の工場を新設した。それ以前の1920年には恐慌と欧米品の流入で市価が暴落し、大阪曹達は苦しい時期を経た。1923〜24年の人絹工業の台頭に続き、1927〜28年以降は人絹の生産が急増し、品質の優れた水銀法の苛性ソーダに需要が向かった。尼崎工場の建設資金の出どころは、それまで社内に積み上げてきた資本である。1935年ころからはスフ工業も伸び、大阪曹達は小倉工場の能力拡大と尼崎の新設で供給力を高めた。創業時に国内で求められなかった高純度品が、人絹とスフの普及で競争優位に転じたと考えられる。
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [16]1920年の経済恐慌と欧米品輸入による市価暴落の苦境を経て、1931年11月、人絹工業の好況に伴う増産のため従来蓄積した資本で尼崎工場を建設
- [17]1920年の経済恐慌と欧米品輸入による市価暴落の苦境を経て、1931年11月、人絹工業の好況に伴う増産のため従来蓄積した資本で尼崎工場を建設
- [19]1920年の経済恐慌と欧米品輸入による市価暴落の苦境を経て、1931年11月、人絹工業の好況に伴う増産のため従来蓄積した資本で尼崎工場を建設
- 会社銀行八十年史 1955年「大阪曹達」
- [18]1923〜24年に人絹工業台頭で次亜塩素酸ソーダ・合成塩酸の製造開始。1927〜28年以降人絹生産急増で水銀法苛性ソーダの需要増、1931年尼崎市に工場新設
- 企業の歴史(明治百年)1968年「大阪曹達」
- [20]大正末〜昭和初期に人絹、1935年頃からスフ工業が発達し苛性ソーダ需要が著増。小倉工場の能力を拡大し1931年尼崎工場を新設
大阪曹達は電解槽の水銀循環装置、解汞板、黒鉛電極の配置に独自の改良を重ね、大曹式水銀法を築いた。1931年からの約10年間には、この製法の実施権を同業数社へ供与。小倉と尼崎の両工場は第二次世界大戦の戦災を受けずに残ったものの、尼崎工場は1945年9月の風水害で浸水した。尼崎工場の高潮の被害は通算4回に及び、水害の懸念が消えたのは大防潮堤が完成した1953年8月だった。資本金は1949年2月に700万円、同年10月に3,000万円、1950年8月に7,500万円へと段階的に増えた。戦災を免れた設備と同業へ供与できる製法の蓄積が、水害の復旧を抱えながらも次の上場と工場新設を支える土台になったのだろう。
- 会社銀行八十年史 1955年「大阪曹達」
- [21]水銀循環装置・解汞板・黒鉛電極の排列を改良した大曹式水銀法を完成し、1931年から約10年間に実施権を同業数社に分譲。尼崎工場は前後4回高潮の被害
- [22]水銀循環装置・解汞板・黒鉛電極の排列を改良した大曹式水銀法を完成し、1931年から約10年間に実施権を同業数社に分譲。尼崎工場は前後4回高潮の被害
- [24]水銀循環装置・解汞板・黒鉛電極の排列を改良した大曹式水銀法を完成し、1931年から約10年間に実施権を同業数社に分譲。尼崎工場は前後4回高潮の被害
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [23]小倉・尼崎両工場は戦災を免れたが、尼崎工場は1945年9月の風水害で浸水、その後も再三被害を受け1953年8月の大防潮堤完成で水害の懸念解消。資本金は1949年2月7,000千円、同年10月30,000千円、1950年8月75,000千円
- [25]小倉・尼崎両工場は戦災を免れたが、尼崎工場は1945年9月の風水害で浸水、その後も再三被害を受け1953年8月の大防潮堤完成で水害の懸念解消。資本金は1949年2月7,000千円、同年10月30,000千円、1950年8月75,000千円
- [26]小倉・尼崎両工場は戦災を免れたが、尼崎工場は1945年9月の風水害で浸水、その後も再三被害を受け1953年8月の大防潮堤完成で水害の懸念解消。資本金は1949年2月7,000千円、同年10月30,000千円、1950年8月75,000千円
参考文献[16]-[26]
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [16]1920年の経済恐慌と欧米品輸入による市価暴落の苦境を経て、1931年11月、人絹工業の好況に伴う増産のため従来蓄積した資本で尼崎工場を建設
- [17]1920年の経済恐慌と欧米品輸入による市価暴落の苦境を経て、1931年11月、人絹工業の好況に伴う増産のため従来蓄積した資本で尼崎工場を建設
- [19]1920年の経済恐慌と欧米品輸入による市価暴落の苦境を経て、1931年11月、人絹工業の好況に伴う増産のため従来蓄積した資本で尼崎工場を建設
- [23]小倉・尼崎両工場は戦災を免れたが、尼崎工場は1945年9月の風水害で浸水、その後も再三被害を受け1953年8月の大防潮堤完成で水害の懸念解消。資本金は1949年2月7,000千円、同年10月30,000千円、1950年8月75,000千円
- [25]小倉・尼崎両工場は戦災を免れたが、尼崎工場は1945年9月の風水害で浸水、その後も再三被害を受け1953年8月の大防潮堤完成で水害の懸念解消。資本金は1949年2月7,000千円、同年10月30,000千円、1950年8月75,000千円
- [26]小倉・尼崎両工場は戦災を免れたが、尼崎工場は1945年9月の風水害で浸水、その後も再三被害を受け1953年8月の大防潮堤完成で水害の懸念解消。資本金は1949年2月7,000千円、同年10月30,000千円、1950年8月75,000千円
- 会社銀行八十年史 1955年「大阪曹達」
- [18]1923〜24年に人絹工業台頭で次亜塩素酸ソーダ・合成塩酸の製造開始。1927〜28年以降人絹生産急増で水銀法苛性ソーダの需要増、1931年尼崎市に工場新設
- [21]水銀循環装置・解汞板・黒鉛電極の排列を改良した大曹式水銀法を完成し、1931年から約10年間に実施権を同業数社に分譲。尼崎工場は前後4回高潮の被害
- [22]水銀循環装置・解汞板・黒鉛電極の排列を改良した大曹式水銀法を完成し、1931年から約10年間に実施権を同業数社に分譲。尼崎工場は前後4回高潮の被害
- [24]水銀循環装置・解汞板・黒鉛電極の排列を改良した大曹式水銀法を完成し、1931年から約10年間に実施権を同業数社に分譲。尼崎工場は前後4回高潮の被害
- 企業の歴史(明治百年)1968年「大阪曹達」
- [20]大正末〜昭和初期に人絹、1935年頃からスフ工業が発達し苛性ソーダ需要が著増。小倉工場の能力を拡大し1931年尼崎工場を新設
出典・参考
4件
- 会社銀行八十年史 1955年「大阪曹達」
- 企業の歴史(明治百年)1968年「大阪曹達」
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- 人生問答 立花大亀対談集 第3集「田村太郎(大阪曹達社長)」