第1章 年〜年

東ソー:東洋曹達工業の設立と石油化学事業への参入

1935年〜富田町に建てた日産千トン目標のアンモニア法ソーダ工場と、海水から採った国産初の臭素

東洋曹達工業は1935年2月11日の創立総会を経て、資本金300万円で発足した。発起人の岩瀬徳三郎氏は、日本曹達工業(のちの徳山曹達)で専務取締役を務めた技術者である。1934年末に岩瀬徳三郎氏が退社すると、翌1月には工場長ら33名も後に続いた。新会社の設計の土台は、アンモニア法ソーダに電解法ソーダとセメントを併設し、副産物と蒸気を工場内で使い切る構想。候補地を瀬戸内海沿岸の山口県内4か所に絞るなか、富田町は町を挙げて誘致を働きかけている。水量の多い富田川と干潮時で水深約10メートルの海域を評価し、発起人は富田町を用地に選んだ。金輸出再禁止後の為替安でソーダ製品の輸入が難しくなる一方、人絹とスフの需要が急増しており、設立はその機運に応えたものだった。

  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第1節「創立」
    • [1]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
    • [3]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
    • [4]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
    • [5]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
    • [6]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
  • ポケット社史『新しい化学の創造に興味しんしん(東ソー)』(1989年)
    • [2]岩瀬徳三郎は日本曹達工業(現・徳山曹達)の専務取締役として経営にあたっていた
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [7]金輸出再禁止に伴う為替安で輸入が困難化し、人絹・スフなどの需要急増を受けて設立された

富田工場は1936年5月に試運転に入り、同年6月2日から本運転に移る。7月の生産は苛性ソーダ1,480トン、ソーダ灰125トンに達した一方、既存各社の増設とICIの廉売でソーダ価格は低迷した。東洋曹達工業は1935年8月に安宅商会へ一手販売を委ね、品質が認められると人絹やパルプの大手需要家へ納入先を広げた。1937年に需要が急増すると、同年4月にソーダ灰日産400トン設備を完成させ、日産1,000トンの工場を目標に拡張を続けた。1938年12月末には全灰日産560トン設備が稼働し、資本金は1937年に1,000万円へ増やしていた。日華事変後に遠海塩の輸入が途絶えると、東洋曹達工業はソーダ廃液から食塩を回収する計画を立てた。回収した食塩を使う電解法工場は、1943年2月に苛性ソーダ月産200トンで完成した。

  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第1節4「市況の推移と設備の拡充」
    • [8]1936年5月試運転・6月2日本運転。7月に苛性ソーダ1,480トン、ソーダ灰125トン。市況低調の要因は各社増設とICIの廉売。1935年8月安宅商会と一手販売契約。1937年4月日産400トン設備完成、日産1,000トンを目指し拡張
    • [9]1936年5月試運転・6月2日本運転。7月に苛性ソーダ1,480トン、ソーダ灰125トン。市況低調の要因は各社増設とICIの廉売。1935年8月安宅商会と一手販売契約。1937年4月日産400トン設備完成、日産1,000トンを目指し拡張
    • [10]1936年5月試運転・6月2日本運転。7月に苛性ソーダ1,480トン、ソーダ灰125トン。市況低調の要因は各社増設とICIの廉売。1935年8月安宅商会と一手販売契約。1937年4月日産400トン設備完成、日産1,000トンを目指し拡張
    • [11]1936年5月試運転・6月2日本運転。7月に苛性ソーダ1,480トン、ソーダ灰125トン。市況低調の要因は各社増設とICIの廉売。1935年8月安宅商会と一手販売契約。1937年4月日産400トン設備完成、日産1,000トンを目指し拡張
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [12]1937年に資本金を1,000万円に増加し、全灰日産560トンの設備を整備した
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第2節「戦争勃発と経済統制」
    • [13]遠海塩の輸入難で近海塩の割当に依存。1939年12月に食塩回収装置の許可、回収食塩を用いる電解法ソーダ工場を1943年2月に苛性ソーダ月産200トンで完成
    • [14]遠海塩の輸入難で近海塩の割当に依存。1939年12月に食塩回収装置の許可、回収食塩を用いる電解法ソーダ工場を1943年2月に苛性ソーダ月産200トンで完成

1941年4月、海軍省は航空燃料の耐爆剤の原料となる臭素の研究を社長の岩瀬徳三郎氏に持ち込んだ。国内の臭素は製塩の苦汁から採っており、量を確保するには海水から直接取り出す必要がある。岩瀬徳三郎氏は試験設備を省いて工場建設に進み、1942年2月に臭素塔の運転を始めた。海水直接法による臭素製造は国内で唯一の方式である。国内初の臭素製造装置を完成させた功績で、1943年3月には海軍大臣から賞状を受けた。1944年2月には軍需省の命令でソーダ設備の一部をアルミナ製造に転用している。同年4〜6月の実績は命令量9,600トンに対し95トンにとどまり、岩瀬徳三郎氏は8月に社長と取締役を辞任した。12月の後任社長は海軍中将の別府良三氏。創業者の合理的な工場構想とは相いれない軍需転換が、経営陣の交代まで招いたとみられる。

  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第3節「軍需産業への移行と戦争終結」
    • [15]1941年4月海軍省から臭素研究の話。苦汁法では量が足りず海水直接採取が必要だった
    • [16]1941年4月海軍省から臭素研究の話。苦汁法では量が足りず海水直接採取が必要だった
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第3節2「アルミナ工業へ転換」
    • [17]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長
    • [19]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長
    • [20]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長
    • [21]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長
    • [22]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [18]海軍の慫慂により、わが国唯一の海水直接法による臭素製造に成功
参考文献[1]-[22]
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第1節「創立」
    • [1]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
    • [3]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
    • [4]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
    • [5]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
    • [6]1935年2月11日に創立総会、資本金300万円。アンモニア法に電解法・セメントを兼営する構想。候補地は三田尻など4か所、富田町の誘致運動と用水・港湾条件で富田町に決定
  • ポケット社史『新しい化学の創造に興味しんしん(東ソー)』(1989年)
    • [2]岩瀬徳三郎は日本曹達工業(現・徳山曹達)の専務取締役として経営にあたっていた
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [7]金輸出再禁止に伴う為替安で輸入が困難化し、人絹・スフなどの需要急増を受けて設立された
    • [12]1937年に資本金を1,000万円に増加し、全灰日産560トンの設備を整備した
    • [18]海軍の慫慂により、わが国唯一の海水直接法による臭素製造に成功
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第1節4「市況の推移と設備の拡充」
    • [8]1936年5月試運転・6月2日本運転。7月に苛性ソーダ1,480トン、ソーダ灰125トン。市況低調の要因は各社増設とICIの廉売。1935年8月安宅商会と一手販売契約。1937年4月日産400トン設備完成、日産1,000トンを目指し拡張
    • [9]1936年5月試運転・6月2日本運転。7月に苛性ソーダ1,480トン、ソーダ灰125トン。市況低調の要因は各社増設とICIの廉売。1935年8月安宅商会と一手販売契約。1937年4月日産400トン設備完成、日産1,000トンを目指し拡張
    • [10]1936年5月試運転・6月2日本運転。7月に苛性ソーダ1,480トン、ソーダ灰125トン。市況低調の要因は各社増設とICIの廉売。1935年8月安宅商会と一手販売契約。1937年4月日産400トン設備完成、日産1,000トンを目指し拡張
    • [11]1936年5月試運転・6月2日本運転。7月に苛性ソーダ1,480トン、ソーダ灰125トン。市況低調の要因は各社増設とICIの廉売。1935年8月安宅商会と一手販売契約。1937年4月日産400トン設備完成、日産1,000トンを目指し拡張
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第2節「戦争勃発と経済統制」
    • [13]遠海塩の輸入難で近海塩の割当に依存。1939年12月に食塩回収装置の許可、回収食塩を用いる電解法ソーダ工場を1943年2月に苛性ソーダ月産200トンで完成
    • [14]遠海塩の輸入難で近海塩の割当に依存。1939年12月に食塩回収装置の許可、回収食塩を用いる電解法ソーダ工場を1943年2月に苛性ソーダ月産200トンで完成
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第3節「軍需産業への移行と戦争終結」
    • [15]1941年4月海軍省から臭素研究の話。苦汁法では量が足りず海水直接採取が必要だった
    • [16]1941年4月海軍省から臭素研究の話。苦汁法では量が足りず海水直接採取が必要だった
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第3節2「アルミナ工業へ転換」
    • [17]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長
    • [19]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長
    • [20]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長
    • [21]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長
    • [22]臭素塔は1942年2月運転開始、1943年3月海軍大臣から賞状。1944年2月軍需省からアルミナ製造命令。1944年4〜6月の実績95トン対命令量9,600トン。1944年8月1日岩瀬徳三郎が社長・取締役を辞任、12月26日別府良三が社長

1945年〜賠償指定を越えて再開した富田のアンモニア法工場と、小野田セメントとの提携

東洋曹達工業は1946年8月にアンモニア法と電解法の両ソーダ工場を賠償指定され、主力のアンモニア法部門は12月から操業を止めた。残った電解法の苛性ソーダと塩素、臭素を基に化学薬品へ進出し、手持ちの資材で事業をつないだ。1948年には元社長の岩瀬徳三郎氏が、業務報告書に不審があるとして検査役選任のための臨時株主総会を請求した。同年4月22日の総会では、従業員と地元へ放出された株式も支えとなり、会社提案が多数で可決された。その直後の5月26日、日本興業銀行出身で戦前に常務取締役を務めた貞永敬甫氏が社長に就任した。経営権をめぐる争いを退けた株主構成の変化が、外部から経営者を迎える条件を整えたと考えられる。

  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [23]1946年8月賠償指定、12月から主力ア法部門が操業停止、電解法は操業継続を許可
  • ポケット社史『新しい化学の創造に興味しんしん(東ソー)』(1989年)
    • [24]賠償指定後、臭素工場・電解法ソーダ工場を稼働させ手持ち資材を活かして危機を脱した
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第1節「経営者の交代と賠償指定」
    • [25]岩瀬徳三郎が検査役選任を求め臨時株主総会を請求。1948年4月22日の総会で会社提案が可決、放出株が従業員15万株・地元17万株。1948年5月26日貞永敬甫(1938年に興銀から常務取締役)が社長就任
    • [26]岩瀬徳三郎が検査役選任を求め臨時株主総会を請求。1948年4月22日の総会で会社提案が可決、放出株が従業員15万株・地元17万株。1948年5月26日貞永敬甫(1938年に興銀から常務取締役)が社長就任
    • [27]岩瀬徳三郎が検査役選任を求め臨時株主総会を請求。1948年4月22日の総会で会社提案が可決、放出株が従業員15万株・地元17万株。1948年5月26日貞永敬甫(1938年に興銀から常務取締役)が社長就任

アンモニア法ソーダ工場の操業許可は1950年1月3日に下り、4月1日に火入式を挙げた。1949年3月の調査団の意見は、東洋曹達工業の体制が整うまで他の3社に生産を任せ、設備の復旧工事を1950年度まで止める内容である。東洋曹達工業は1949年6月に人員整理によらない再建案を定め、既存品目の増産と経費の節約を進めた。来日した化学技術者のニル氏は設備の規模と技術水準を評価し、再開をGHQに働きかけた。資金は12銀行の協調融資団と日本興業銀行から借り入れ、約500人を新たに採用して従業員を約1,500人とした。1952年4月28日には講和条約の発効に伴い賠償指定が全面的に解除される。続く3回の資産再評価で再評価積立金は11億円を上回り、自己資本が厚くなった。

  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第2節「アンモニア法ソーダ工場の操業再開」
    • [28]1949年6月人員整理によらない再建案。ニルが工場を評価しGHQに働きかけ。1950年1月3日操業許可、4月1日火入式。協調融資団12行と興銀から融資、約500人採用で約1,500人
    • [30]1949年6月人員整理によらない再建案。ニルが工場を評価しGHQに働きかけ。1950年1月3日操業許可、4月1日火入式。協調融資団12行と興銀から融資、約500人採用で約1,500人
    • [31]1949年6月人員整理によらない再建案。ニルが工場を評価しGHQに働きかけ。1950年1月3日操業許可、4月1日火入式。協調融資団12行と興銀から融資、約500人採用で約1,500人
    • [32]1949年6月人員整理によらない再建案。ニルが工場を評価しGHQに働きかけ。1950年1月3日操業許可、4月1日火入式。協調融資団12行と興銀から融資、約500人採用で約1,500人
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第2節2「操業許可までの障害」
    • [29]1949年3月アンモニア法ソーダ工業調査団の総括意見:東洋曹達の体制が整うまで他3社で操業、1950年度まで復旧工事停止
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [33]1952年4月講和条約発効とともに賠償指定が全面解除、同時に資産再評価を実施
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第2節「賠償指定の解除」
    • [34]1952年4月28日両ソーダ設備の賠償指定解除。3回の資産再評価で再評価積立金は11億円超

東洋曹達工業は1953年6月に小野田セメントと基本契約を結び、同年10月にセメント1号キルンの火入れを迎えた。アンモニア法の工程で出る細粒の石灰石や廃泥はセメント原料になり、セメント工場の排熱蒸気はソーダ工場で使える。セメント1万トンに要る石灰石は約1万3,000トンで、その大半をソーダ工場の排出分で賄えた。提携は社長の貞永敬甫氏と小野田セメント社長の安藤豊禄氏の親交から始まり、技術の全面提供と小野田の商標による全量販売を骨子とする。東洋曹達工業は販売網への投資を負わずに最新技術を導入でき、小野田セメントは設備投資なしで販売量を増やせた。1954年5月の3号キルン完成で月産能力は4万トンとなり、アンモニア法ソーダの合理化も兼ねた。

  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第3節「セメントへ進出」
    • [35]セメント兼営の利点はジャミ・廃泥の原料化と排熱蒸気の利用。セメント1万トンに石灰石約1万3,000トン。貞永敬甫と安藤豊禄の親交、技術提供・小野田商標で全量販売。1953年6月基本契約、10月1号キルン
    • [36]セメント兼営の利点はジャミ・廃泥の原料化と排熱蒸気の利用。セメント1万トンに石灰石約1万3,000トン。貞永敬甫と安藤豊禄の親交、技術提供・小野田商標で全量販売。1953年6月基本契約、10月1号キルン
    • [37]セメント兼営の利点はジャミ・廃泥の原料化と排熱蒸気の利用。セメント1万トンに石灰石約1万3,000トン。貞永敬甫と安藤豊禄の親交、技術提供・小野田商標で全量販売。1953年6月基本契約、10月1号キルン
    • [38]セメント兼営の利点はジャミ・廃泥の原料化と排熱蒸気の利用。セメント1万トンに石灰石約1万3,000トン。貞永敬甫と安藤豊禄の親交、技術提供・小野田商標で全量販売。1953年6月基本契約、10月1号キルン
  • ポケット社史『新しい化学の創造に興味しんしん(東ソー)』(1989年)
    • [39]小野田セメントの技術援助と小野田ブランドでの全量委託販売により、東ソーは販売網投資なし、小野田は設備投資なしでシェア拡大
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [40]1954年5月3号キルン火入れで月産能力4万トン。ア法ソーダの抜本的合理化を兼ねてセメントに進出
参考文献[23]-[40]
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [23]1946年8月賠償指定、12月から主力ア法部門が操業停止、電解法は操業継続を許可
    • [33]1952年4月講和条約発効とともに賠償指定が全面解除、同時に資産再評価を実施
    • [40]1954年5月3号キルン火入れで月産能力4万トン。ア法ソーダの抜本的合理化を兼ねてセメントに進出
  • ポケット社史『新しい化学の創造に興味しんしん(東ソー)』(1989年)
    • [24]賠償指定後、臭素工場・電解法ソーダ工場を稼働させ手持ち資材を活かして危機を脱した
    • [39]小野田セメントの技術援助と小野田ブランドでの全量委託販売により、東ソーは販売網投資なし、小野田は設備投資なしでシェア拡大
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第1節「経営者の交代と賠償指定」
    • [25]岩瀬徳三郎が検査役選任を求め臨時株主総会を請求。1948年4月22日の総会で会社提案が可決、放出株が従業員15万株・地元17万株。1948年5月26日貞永敬甫(1938年に興銀から常務取締役)が社長就任
    • [26]岩瀬徳三郎が検査役選任を求め臨時株主総会を請求。1948年4月22日の総会で会社提案が可決、放出株が従業員15万株・地元17万株。1948年5月26日貞永敬甫(1938年に興銀から常務取締役)が社長就任
    • [27]岩瀬徳三郎が検査役選任を求め臨時株主総会を請求。1948年4月22日の総会で会社提案が可決、放出株が従業員15万株・地元17万株。1948年5月26日貞永敬甫(1938年に興銀から常務取締役)が社長就任
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第2節「アンモニア法ソーダ工場の操業再開」
    • [28]1949年6月人員整理によらない再建案。ニルが工場を評価しGHQに働きかけ。1950年1月3日操業許可、4月1日火入式。協調融資団12行と興銀から融資、約500人採用で約1,500人
    • [30]1949年6月人員整理によらない再建案。ニルが工場を評価しGHQに働きかけ。1950年1月3日操業許可、4月1日火入式。協調融資団12行と興銀から融資、約500人採用で約1,500人
    • [31]1949年6月人員整理によらない再建案。ニルが工場を評価しGHQに働きかけ。1950年1月3日操業許可、4月1日火入式。協調融資団12行と興銀から融資、約500人採用で約1,500人
    • [32]1949年6月人員整理によらない再建案。ニルが工場を評価しGHQに働きかけ。1950年1月3日操業許可、4月1日火入式。協調融資団12行と興銀から融資、約500人採用で約1,500人
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第2節2「操業許可までの障害」
    • [29]1949年3月アンモニア法ソーダ工業調査団の総括意見:東洋曹達の体制が整うまで他3社で操業、1950年度まで復旧工事停止
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第2節「賠償指定の解除」
    • [34]1952年4月28日両ソーダ設備の賠償指定解除。3回の資産再評価で再評価積立金は11億円超
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第3節「セメントへ進出」
    • [35]セメント兼営の利点はジャミ・廃泥の原料化と排熱蒸気の利用。セメント1万トンに石灰石約1万3,000トン。貞永敬甫と安藤豊禄の親交、技術提供・小野田商標で全量販売。1953年6月基本契約、10月1号キルン
    • [36]セメント兼営の利点はジャミ・廃泥の原料化と排熱蒸気の利用。セメント1万トンに石灰石約1万3,000トン。貞永敬甫と安藤豊禄の親交、技術提供・小野田商標で全量販売。1953年6月基本契約、10月1号キルン
    • [37]セメント兼営の利点はジャミ・廃泥の原料化と排熱蒸気の利用。セメント1万トンに石灰石約1万3,000トン。貞永敬甫と安藤豊禄の親交、技術提供・小野田商標で全量販売。1953年6月基本契約、10月1号キルン
    • [38]セメント兼営の利点はジャミ・廃泥の原料化と排熱蒸気の利用。セメント1万トンに石灰石約1万3,000トン。貞永敬甫と安藤豊禄の親交、技術提供・小野田商標で全量販売。1953年6月基本契約、10月1号キルン

1954年〜二宮善基氏の水銀法電解・塩安併産と、自社技術のオキシ法で入った塩ビ・ポリエチレン

1953年11月21日、社長の貞永敬甫氏が在任中に急逝。1954年3月には日本興業銀行元副総裁の二宮善基氏が社長に就任した。二宮善基氏は1948年9月に副総裁を退いた後、貞永敬甫氏に招かれて顧問を務めた。社長の二宮善基氏の下で、1954年10月に標準原価計算、1957年4月に伝票会計、同年10月に予算制度の導入が進む。電解では繊維向けに品質の高い苛性ソーダを求める需要と塩素需要の増加を見込み、1956年4月に月産740トンの第一水銀電解工場を建てた。1961年には自社開発の電槽で第二水銀電解工場を建て、1964年8月までに電解法ソーダの能力を月産8,300トンとした。売上高は1954年度の約57億円から1963年度の約136億円へ増え、この間の設備投資は総額200億円に上った。

  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第1節「近代経営の展開」
    • [41]1953年11月21日貞永敬甫急逝、1954年3月二宮善基社長就任(1947年7月興銀副総裁、1948年9月退任後に顧問)。1954年10月原価管理制度、1957年4月伝票会計、10月予算制度。売上高1954年度約57億円→1963年度約136億円、設備投資総額200億円
    • [43]1953年11月21日貞永敬甫急逝、1954年3月二宮善基社長就任(1947年7月興銀副総裁、1948年9月退任後に顧問)。1954年10月原価管理制度、1957年4月伝票会計、10月予算制度。売上高1954年度約57億円→1963年度約136億円、設備投資総額200億円
    • [44]1953年11月21日貞永敬甫急逝、1954年3月二宮善基社長就任(1947年7月興銀副総裁、1948年9月退任後に顧問)。1954年10月原価管理制度、1957年4月伝票会計、10月予算制度。売上高1954年度約57億円→1963年度約136億円、設備投資総額200億円
    • [47]1953年11月21日貞永敬甫急逝、1954年3月二宮善基社長就任(1947年7月興銀副総裁、1948年9月退任後に顧問)。1954年10月原価管理制度、1957年4月伝票会計、10月予算制度。売上高1954年度約57億円→1963年度約136億円、設備投資総額200億円
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [42]現社長二宮善基は1954年3月就任
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第2節1「水銀法電解工場の建設」
    • [45]化学繊維・合成繊維向けの品質と塩素需要増を見込み1956年4月月産740トンの第一水銀電解工場。1961年9月TOSO型電槽で第二水銀電解工場、1964年8月までに月産8,300トン
    • [46]化学繊維・合成繊維向けの品質と塩素需要増を見込み1956年4月月産740トンの第一水銀電解工場。1961年9月TOSO型電槽で第二水銀電解工場、1964年8月までに月産8,300トン

アンモニア法は原料塩の塩素分を全て廃棄するので、輸入塩に依存する日本では原料の利用率の低さが原価を押し上げる。電解法苛性ソーダの伸長もアンモニア法の市場を脅かした。塩安を肥料として併産すれば、ソーダ灰1トン当たり15〜20%の原価引き下げが見込める。東洋曹達工業は1956年に塩安を粒状に結晶させる技術を確立し、1959年11月に月産6,000トンの塩安工場を完成させた。1962年1月には原油ガス化によるアンモニア合成工場を稼働させて原料を自給し、塩安の能力を月産1万2,000トンへ増強した。合成で出る高濃度の炭酸ガスもソーダの炭酸化工程へ供給でき、塩酸で燐鉱石を溶かす食品用燐酸も月産500トンの規模に育てた。

  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第2節2「塩安工場の建設」
    • [48]ア法は原料塩の塩素分を廃棄、輸入塩の日本で利用率向上が課題。1956年粒状塩安技術確立、1958年併産採用決定、1959年11月月産6,000トン。1962年1月アンモニア合成工場完成、塩安月産1万2,000トン。炭酸ガスをソーダ炭酸化工程へ供給
    • [51]ア法は原料塩の塩素分を廃棄、輸入塩の日本で利用率向上が課題。1956年粒状塩安技術確立、1958年併産採用決定、1959年11月月産6,000トン。1962年1月アンモニア合成工場完成、塩安月産1万2,000トン。炭酸ガスをソーダ炭酸化工程へ供給
    • [52]ア法は原料塩の塩素分を廃棄、輸入塩の日本で利用率向上が課題。1956年粒状塩安技術確立、1958年併産採用決定、1959年11月月産6,000トン。1962年1月アンモニア合成工場完成、塩安月産1万2,000トン。炭酸ガスをソーダ炭酸化工程へ供給
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章 序
    • [49]電解法苛性ソーダの伸長がアンモニア法苛性ソーダ市場を脅かした
  • 証券アナリストジャーナル 5(12) 1967年(青木周吉)
    • [50]塩安併産でソーダ灰1トンにつき15〜20%の原価引下げ可能。食品用リン酸は塩酸溶解法で月産500トン
    • [53]塩安併産でソーダ灰1トンにつき15〜20%の原価引下げ可能。食品用リン酸は塩酸溶解法で月産500トン

1960年ごろから貿易の自由化が進み、石油化学の興隆で塩素の需要が伸びる一方、同時にできる苛性ソーダは余る傾向にあった。のちに社長となる青木周吉氏は1967年、苛性ソーダの生産で出る塩素と水素を石油化学製品に結び付ける方針を示した。東洋曹達工業は副生塩酸とエチレンからEDCを合成するオキシクロリネーション法を自社で開発し、1964年までに触媒と反応器を確立している。1966年5月に国内初の同法による塩ビモノマー設備を年産5万トンで完成させ、1968年6月の第2プラントで能力は15万トンとなった。高圧法ポリエチレンは米国から技術を導入し、1966年8月に出光興産・徳山曹達と設立した日本ポリケミカルの工場で生産を始めた。1968年に二宮善基氏は会長に移り、青木周吉氏が社長に就任した。

  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第1節2「経営の方向」
    • [54]1960年ごろから貿易自由化。石油化学の興隆で塩素需要が伸び、併産される苛性ソーダは余剰傾向
  • 証券アナリストジャーナル 5(12) 1967年(青木周吉)
    • [55]青木周吉は苛性ソーダ生産に伴う塩素と水素を石油化学製品に結び付ける方針を示し、研究は10年前から開始
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第4章第2節「石油化学への進出」
    • [56]オキシクロリネーション法を独自開発し1964年までに総合技術確立・特許。1966年5月国内初の同法塩ビモノマー年産5万トン、1968年6月第2プラントで計15万トン。高圧法PEはナショナルディスティラーズから技術導入、1965年4月出光興産・徳山曹達と日本ポリケミカル設立、1966年8月年産3万4,000トン工場完成
    • [57]オキシクロリネーション法を独自開発し1964年までに総合技術確立・特許。1966年5月国内初の同法塩ビモノマー年産5万トン、1968年6月第2プラントで計15万トン。高圧法PEはナショナルディスティラーズから技術導入、1965年4月出光興産・徳山曹達と日本ポリケミカル設立、1966年8月年産3万4,000トン工場完成
    • [58]オキシクロリネーション法を独自開発し1964年までに総合技術確立・特許。1966年5月国内初の同法塩ビモノマー年産5万トン、1968年6月第2プラントで計15万トン。高圧法PEはナショナルディスティラーズから技術導入、1965年4月出光興産・徳山曹達と日本ポリケミカル設立、1966年8月年産3万4,000トン工場完成
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 年表 1968年
    • [59]1968年、二宮善基社長が取締役会長に、青木周吉副社長が取締役社長に就任
参考文献[41]-[59]
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第1節「近代経営の展開」
    • [41]1953年11月21日貞永敬甫急逝、1954年3月二宮善基社長就任(1947年7月興銀副総裁、1948年9月退任後に顧問)。1954年10月原価管理制度、1957年4月伝票会計、10月予算制度。売上高1954年度約57億円→1963年度約136億円、設備投資総額200億円
    • [43]1953年11月21日貞永敬甫急逝、1954年3月二宮善基社長就任(1947年7月興銀副総裁、1948年9月退任後に顧問)。1954年10月原価管理制度、1957年4月伝票会計、10月予算制度。売上高1954年度約57億円→1963年度約136億円、設備投資総額200億円
    • [44]1953年11月21日貞永敬甫急逝、1954年3月二宮善基社長就任(1947年7月興銀副総裁、1948年9月退任後に顧問)。1954年10月原価管理制度、1957年4月伝票会計、10月予算制度。売上高1954年度約57億円→1963年度約136億円、設備投資総額200億円
    • [47]1953年11月21日貞永敬甫急逝、1954年3月二宮善基社長就任(1947年7月興銀副総裁、1948年9月退任後に顧問)。1954年10月原価管理制度、1957年4月伝票会計、10月予算制度。売上高1954年度約57億円→1963年度約136億円、設備投資総額200億円
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
    • [42]現社長二宮善基は1954年3月就任
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第2節1「水銀法電解工場の建設」
    • [45]化学繊維・合成繊維向けの品質と塩素需要増を見込み1956年4月月産740トンの第一水銀電解工場。1961年9月TOSO型電槽で第二水銀電解工場、1964年8月までに月産8,300トン
    • [46]化学繊維・合成繊維向けの品質と塩素需要増を見込み1956年4月月産740トンの第一水銀電解工場。1961年9月TOSO型電槽で第二水銀電解工場、1964年8月までに月産8,300トン
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第2節2「塩安工場の建設」
    • [48]ア法は原料塩の塩素分を廃棄、輸入塩の日本で利用率向上が課題。1956年粒状塩安技術確立、1958年併産採用決定、1959年11月月産6,000トン。1962年1月アンモニア合成工場完成、塩安月産1万2,000トン。炭酸ガスをソーダ炭酸化工程へ供給
    • [51]ア法は原料塩の塩素分を廃棄、輸入塩の日本で利用率向上が課題。1956年粒状塩安技術確立、1958年併産採用決定、1959年11月月産6,000トン。1962年1月アンモニア合成工場完成、塩安月産1万2,000トン。炭酸ガスをソーダ炭酸化工程へ供給
    • [52]ア法は原料塩の塩素分を廃棄、輸入塩の日本で利用率向上が課題。1956年粒状塩安技術確立、1958年併産採用決定、1959年11月月産6,000トン。1962年1月アンモニア合成工場完成、塩安月産1万2,000トン。炭酸ガスをソーダ炭酸化工程へ供給
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章 序
    • [49]電解法苛性ソーダの伸長がアンモニア法苛性ソーダ市場を脅かした
  • 証券アナリストジャーナル 5(12) 1967年(青木周吉)
    • [50]塩安併産でソーダ灰1トンにつき15〜20%の原価引下げ可能。食品用リン酸は塩酸溶解法で月産500トン
    • [53]塩安併産でソーダ灰1トンにつき15〜20%の原価引下げ可能。食品用リン酸は塩酸溶解法で月産500トン
    • [55]青木周吉は苛性ソーダ生産に伴う塩素と水素を石油化学製品に結び付ける方針を示し、研究は10年前から開始
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第1節2「経営の方向」
    • [54]1960年ごろから貿易自由化。石油化学の興隆で塩素需要が伸び、併産される苛性ソーダは余剰傾向
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第4章第2節「石油化学への進出」
    • [56]オキシクロリネーション法を独自開発し1964年までに総合技術確立・特許。1966年5月国内初の同法塩ビモノマー年産5万トン、1968年6月第2プラントで計15万トン。高圧法PEはナショナルディスティラーズから技術導入、1965年4月出光興産・徳山曹達と日本ポリケミカル設立、1966年8月年産3万4,000トン工場完成
    • [57]オキシクロリネーション法を独自開発し1964年までに総合技術確立・特許。1966年5月国内初の同法塩ビモノマー年産5万トン、1968年6月第2プラントで計15万トン。高圧法PEはナショナルディスティラーズから技術導入、1965年4月出光興産・徳山曹達と日本ポリケミカル設立、1966年8月年産3万4,000トン工場完成
    • [58]オキシクロリネーション法を独自開発し1964年までに総合技術確立・特許。1966年5月国内初の同法塩ビモノマー年産5万トン、1968年6月第2プラントで計15万トン。高圧法PEはナショナルディスティラーズから技術導入、1965年4月出光興産・徳山曹達と日本ポリケミカル設立、1966年8月年産3万4,000トン工場完成
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 年表 1968年
    • [59]1968年、二宮善基社長が取締役会長に、青木周吉副社長が取締役社長に就任

1935年〜1968年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 17 n/a 2 1 5.9% n/a
1952年03月期 単体 42 +147.1% 5 3 7.1% n/a
1953年03月期 単体 37 ▲11.9% 4 3 8.1% n/a
1954年03月期 単体 49 +32.4% 7 5 10.2% n/a
1955年03月期 単体 58 +18.4% 8 4 6.9% n/a
1956年03月期 単体 66 +13.8% 9 n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 80 +21.2% 9 n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 83 +3.8% 8 n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 75 ▲9.6% 9 n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 89 +18.7% 11 n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 98 +10.1% n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 104 +6.1% n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 118 +13.5% n/a 3 2.5% n/a
1964年03月期 単体 137 +16.1% n/a 4 2.9% n/a
1965年03月期 単体 149 +8.8% n/a 6 4.0% n/a
1966年03月期 単体 153 +2.7% n/a 6 3.9% n/a
1967年03月期 単体 186 +21.6% n/a 11 5.9% n/a
1968年03月期 単体 222 +19.4% n/a 15 6.8% n/a

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、上場会社総覧(1961年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算

出典・参考

20件
出典・参考
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第1節「創立」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第1節4「市況の推移と設備の拡充」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第2節「戦争勃発と経済統制」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第3節「軍需産業への移行と戦争終結」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第1章第3節2「アルミナ工業へ転換」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第1節「経営者の交代と賠償指定」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第2節「アンモニア法ソーダ工場の操業再開」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第2節2「操業許可までの障害」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第2節「賠償指定の解除」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第2章第3節「セメントへ進出」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第1節「近代経営の展開」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第2節1「水銀法電解工場の建設」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第2節2「塩安工場の建設」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章 序
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第3章第1節2「経営の方向」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 第4章第2節「石油化学への進出」
  • 東洋曹達工業『社史四十年東洋曹達』(1978年) 年表 1968年
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「東洋曹達工業」
  • ポケット社史『新しい化学の創造に興味しんしん(東ソー)』(1989年)
  • 証券アナリストジャーナル 5(12) 1967年(青木周吉)

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