第1章 年〜年

石原産業:南洋鉱業公司の設立とマレー半島の鉱山買収

1920年〜ジョホール州スリメダンの鉄鉱と、資本金10万円の南洋鉱業公司

石原廣一郎氏は1919年8月、知人の田所久吾氏の話を手がかりにシンパンキリ川を丸木舟でさかのぼり、スリメダンの丘で鉄鉱床を見つけた。石原廣一郎氏はゴム園の経営のためマレー半島へ渡った人物で、シンガポールの道路の砂利が褐鉄鉱だと気づいて以来、各地の山を踏査した。当時の日本の製鉄は官営八幡製鉄所が主力で、鉄鉱石の使用量は年60〜70万トンにとどまり、その過半は中国産である。政府は鉱石の確保に向けて4,000万円の対中借款を起こしたものの、供給は政治問題に左右された。石原廣一郎氏は1919年末に八幡製鉄所長官の白仁武氏を訪ね、マレーの鉄鉱を内地へ送る構想を説いた。中国産に代わる鉱石の産地を南方に確保できれば、国の製鉄原料の不安を和らげる事業になると見たのだろう。

  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ1-50
    • [1]1919年8月、田所久吾の誘いで東粂次と3人でシンパンキリ川をさかのぼり鉄鉱山を見つけた(スリメダン鉄鉱山発見)
    • [3]当時の日本の原料鉄鉱石は年60数万トン、うち中国産40万トン。政府は4,000万円の対支借款を起こしたが政治問題が絶えなかった
    • [4]当時の日本の原料鉄鉱石は年60数万トン、うち中国産40万トン。政府は4,000万円の対支借款を起こしたが政治問題が絶えなかった
  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [2]ゴム園経営で渡南し、シンガポールの路上の砂利が褐鉄鉱と気づき踏査。1919年暮れに八幡製鉄所長官白仁武を訪ねた
    • [5]ゴム園経営で渡南し、シンガポールの路上の砂利が褐鉄鉱と気づき踏査。1919年暮れに八幡製鉄所長官白仁武を訪ねた

石原廣一郎氏は1920年1月、台湾銀行頭取の中川小十郎氏の紹介で林熊徴氏の保証を得て、台湾銀行から計100万円の融資を受ける話をまとめた。同じ1月末にはジョホール政府からスリメダン鉱区の試掘権が下り、2月14日に森林の伐採を始めた。ところが外務省は日本人の採掘が国際問題になりうると難色を示し、戦後恐慌のなかで林熊徴氏も5月に協力を断った。石原廣一郎氏は川崎造船所社長の松方幸次郎氏から同社株2万5,000株を担保として借り受け、台湾銀行から総額75万円の融資枠を得た。第2回分30万円の送金が決まった直後の1920年9月10日、資本金10万円の合資会社南洋鉱業公司を設立。出資者は石原廣一郎氏、松方幸次郎氏、その代理人の田中慎吉氏の3名で、本社は大阪市西区川口町の川口ビルに置いた。

  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [6]1920年1月林熊徴の保証で台銀融資100万円の話がまとまるが、外務省の難色と恐慌で途絶。松方幸次郎が川崎造船所株2万5千株を貸し、台銀75万円の融資了解
    • [7]1920年1月林熊徴の保証で台銀融資100万円の話がまとまるが、外務省の難色と恐慌で途絶。松方幸次郎が川崎造船所株2万5千株を貸し、台銀75万円の融資了解
    • [8]1920年1月林熊徴の保証で台銀融資100万円の話がまとまるが、外務省の難色と恐慌で途絶。松方幸次郎が川崎造船所株2万5千株を貸し、台銀75万円の融資了解
    • [9]1920年1月林熊徴の保証で台銀融資100万円の話がまとまるが、外務省の難色と恐慌で途絶。松方幸次郎が川崎造船所株2万5千株を貸し、台銀75万円の融資了解
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ1-50
    • [10]1920年9月10日、資本金10万円の合資会社南洋鉱業公司設立。出資者は石原・田中慎吉(松方の代理者)・松方の3名、本社は大阪市西区川口町川口ビル
    • [11]1920年9月10日、資本金10万円の合資会社南洋鉱業公司設立。出資者は石原・田中慎吉(松方の代理者)・松方の3名、本社は大阪市西区川口町川口ビル

売り先は、1920年2月に八幡製鉄所と結んだ長期の納入契約が支えた。契約量は1921年5万トン、1922年10万トン、1923年以降は10万トン以上と定めた。納入価格は1トン25円で、内地の鉄鉱石の相場30円前後を下回る水準である。艀でシンガポールまで運んで積み替えると費用がかさむため、石原廣一郎氏はジョホール政府にバトパハの開港を働きかけた。ジョホール政府は1920年12月に開港を決め、1921年1月5日に第1船の夕張丸がバトパハに入港した。雨期で搬出が滞り、夕張丸の積み取りは3,000トン。台湾銀行はこの実績を見て融資の残り40万円を貸し出し、出鉱は1921年14万トン、1922年20万トンへ増えた。

  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [12]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [13]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [14]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [15]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [16]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [17]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ51-100
    • [18]南洋鉱業公司の鉄鉱供給は1921年14万t、1922年20万t
参考文献[1]-[18]
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ1-50
    • [1]1919年8月、田所久吾の誘いで東粂次と3人でシンパンキリ川をさかのぼり鉄鉱山を見つけた(スリメダン鉄鉱山発見)
    • [3]当時の日本の原料鉄鉱石は年60数万トン、うち中国産40万トン。政府は4,000万円の対支借款を起こしたが政治問題が絶えなかった
    • [4]当時の日本の原料鉄鉱石は年60数万トン、うち中国産40万トン。政府は4,000万円の対支借款を起こしたが政治問題が絶えなかった
    • [10]1920年9月10日、資本金10万円の合資会社南洋鉱業公司設立。出資者は石原・田中慎吉(松方の代理者)・松方の3名、本社は大阪市西区川口町川口ビル
    • [11]1920年9月10日、資本金10万円の合資会社南洋鉱業公司設立。出資者は石原・田中慎吉(松方の代理者)・松方の3名、本社は大阪市西区川口町川口ビル
  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [2]ゴム園経営で渡南し、シンガポールの路上の砂利が褐鉄鉱と気づき踏査。1919年暮れに八幡製鉄所長官白仁武を訪ねた
    • [5]ゴム園経営で渡南し、シンガポールの路上の砂利が褐鉄鉱と気づき踏査。1919年暮れに八幡製鉄所長官白仁武を訪ねた
    • [6]1920年1月林熊徴の保証で台銀融資100万円の話がまとまるが、外務省の難色と恐慌で途絶。松方幸次郎が川崎造船所株2万5千株を貸し、台銀75万円の融資了解
    • [7]1920年1月林熊徴の保証で台銀融資100万円の話がまとまるが、外務省の難色と恐慌で途絶。松方幸次郎が川崎造船所株2万5千株を貸し、台銀75万円の融資了解
    • [8]1920年1月林熊徴の保証で台銀融資100万円の話がまとまるが、外務省の難色と恐慌で途絶。松方幸次郎が川崎造船所株2万5千株を貸し、台銀75万円の融資了解
    • [9]1920年1月林熊徴の保証で台銀融資100万円の話がまとまるが、外務省の難色と恐慌で途絶。松方幸次郎が川崎造船所株2万5千株を貸し、台銀75万円の融資了解
    • [12]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [13]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [14]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [15]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [16]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
    • [17]1920年2月に八幡製鉄所と長期納入契約(1921年5万t、1922年10万t、1923年以降10万t以上)。1920年12月バトパハ開港決定、1921年1月5日夕張丸入港、3千t積取。台銀が残り40万円を貸出。当時の内地相場トン30円見当、スリメダン鉱の納入価格25円
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ51-100
    • [18]南洋鉱業公司の鉄鉱供給は1921年14万t、1922年20万t

1923年〜売鉱価格の半減と震災で潰えた日蘭合弁、ケママン鉱山・自社船で開いたジャワ航路

スリメダン鉱の八幡製鉄所への納入価格は当初1トン25円だったものの、戦後不況で1922年に12円50銭へ引き下げられた。バトパハから八幡までの距離は2,800マイルにおよび、運賃市況の変動がそのまま鉱山の採算を揺らす構造である。1923年7月、石原廣一郎氏は郷誠之助氏や中川小十郎氏らと、スマトラのパレンバンに港湾と製鉄所を日蘭合弁で建設する計画を立てた。資金総額は2,000万円で、日本側が建設費を全額負担し、蘭印側が炭山と鉄道を現物出資する案である。石原廣一郎氏はバタビアに着いた直後の1923年9月、関東大震災の報を受けた。日本からの出資は見込めなくなり、石原廣一郎氏は目論見書を蘭印の経済局長官に渡しただけで帰国した。鉱石の値下がりと合弁計画の挫折が重なり、八幡製鉄所1社への売鉱に依存する収益構造の弱さが顕在化したとみられる。

  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [19]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
    • [20]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
    • [21]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
    • [23]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
    • [24]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ51-100
    • [22]パレンバン計画の目論見書:資金総額2,000万円、日本側が建設費全額負担、蘭印側は炭山・鉄道設備を現物出資

石原廣一郎氏は1924年1月、白仁武長官に、鉱石を自前の船で運べば1トン11円程度で供給し続けられると説いた。八幡製鉄所は官営で船の保有に議会の承認が要るため、白仁武長官は石原廣一郎氏自身が船を持つよう勧めた。石原廣一郎氏は1924年3月に政府の低利資金300万円を申請し、緊縮財政で一度延期されたのち250万円の貸し出しを認められた。この資金で金泉丸など3隻を購入し、台湾銀行の借入75万円を完済したうえで、トレンガヌのケママン鉱山の買収に50万円を充てた。ケママン鉱山はスリメダンの経験者が1年足らずで建設し、1925年6月に自社船の銀泉丸で鉱石を内地へ運んだ。その後スリメダンは年80万トンを超す出鉱を見込むまでになった。

  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [25]1924年1月白仁長官に自家輸送なら11円程度で供給可能と説明。3月低利資金300万円申請、延期後250万円認可。ケママン鉱山を1年足らずで建設し1925年6月銀泉丸で輸送。スリメダンは年80万t突破の勢い
    • [27]1924年1月白仁長官に自家輸送なら11円程度で供給可能と説明。3月低利資金300万円申請、延期後250万円認可。ケママン鉱山を1年足らずで建設し1925年6月銀泉丸で輸送。スリメダンは年80万t突破の勢い
    • [29]1924年1月白仁長官に自家輸送なら11円程度で供給可能と説明。3月低利資金300万円申請、延期後250万円認可。ケママン鉱山を1年足らずで建設し1925年6月銀泉丸で輸送。スリメダンは年80万t突破の勢い
    • [30]1924年1月白仁長官に自家輸送なら11円程度で供給可能と説明。3月低利資金300万円申請、延期後250万円認可。ケママン鉱山を1年足らずで建設し1925年6月銀泉丸で輸送。スリメダンは年80万t突破の勢い
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ1-50
    • [26]官営の製鉄所は船の保有に議会承認が要ると白仁長官が自社保有を勧めた。低利資金から台銀借入75万円完済、ケママン鉱山買収に50万円
    • [28]官営の製鉄所は船の保有に議会承認が要ると白仁長官が自社保有を勧めた。低利資金から台銀借入75万円完済、ケママン鉱山買収に50万円

自前の船で運んだ結果、八幡製鉄所渡し1トン9円の価格でも1トン1円の利益が出た。1929年8月には商号を石原産業海運合資会社に改めた。鉄鉱を運ぶ船は日本からの往路がほぼ空船だったため、石原廣一郎氏はその船腹で日本の商品を蘭印へ安く運ぶ計画を立てた。1931年3月21日、神戸港からびくとりあ丸を出帆させてのジャワ定期航路の開設。8隻を10日おきに配船して運賃を従来の2割引きとした結果、運賃競争で3年間に200万円の損失を計上している。日蘭の海運会商が1935年3月に決裂すると、日本側の4社は同年6月に南洋海運株式会社の設立を決め、ジャワ航路の業務は新会社へ移った。

  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [31]自家輸送で9円納入でもトン1円の利益。帰路空船の船腹で日本品を運ぶ構想。江りい丸以下8隻を10日おき・運賃2割引で配船、3年で損失200万円
    • [33]自家輸送で9円納入でもトン1円の利益。帰路空船の船腹で日本品を運ぶ構想。江りい丸以下8隻を10日おき・運賃2割引で配船、3年で損失200万円
    • [35]自家輸送で9円納入でもトン1円の利益。帰路空船の船腹で日本品を運ぶ構想。江りい丸以下8隻を10日おき・運賃2割引で配船、3年で損失200万円
  • 石原産業 有価証券報告書(2015年4月)【沿革】
    • [32]1929年8月 商号を石原産業海運合資会社と改称
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ51-100
    • [34]1931年3月21日神戸からびくとりあ丸でジャワ航路開設。1935年3月日蘭海運会商決裂、6月22日4社出資で南洋海運設立決定、ジャワ航路業務と社員が新会社へ
    • [36]1931年3月21日神戸からびくとりあ丸でジャワ航路開設。1935年3月日蘭海運会商決裂、6月22日4社出資で南洋海運設立決定、ジャワ航路業務と社員が新会社へ
参考文献[19]-[36]
  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [19]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
    • [20]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
    • [21]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
    • [23]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
    • [24]納入価格は25円から1922年に12円50銭へ。運賃変動で経営不安定。1923年7月パレンバン日蘭合弁計画をまとめ、9月バタビアで関東大震災の報、目論見書を渡して帰国し挫折
    • [25]1924年1月白仁長官に自家輸送なら11円程度で供給可能と説明。3月低利資金300万円申請、延期後250万円認可。ケママン鉱山を1年足らずで建設し1925年6月銀泉丸で輸送。スリメダンは年80万t突破の勢い
    • [27]1924年1月白仁長官に自家輸送なら11円程度で供給可能と説明。3月低利資金300万円申請、延期後250万円認可。ケママン鉱山を1年足らずで建設し1925年6月銀泉丸で輸送。スリメダンは年80万t突破の勢い
    • [29]1924年1月白仁長官に自家輸送なら11円程度で供給可能と説明。3月低利資金300万円申請、延期後250万円認可。ケママン鉱山を1年足らずで建設し1925年6月銀泉丸で輸送。スリメダンは年80万t突破の勢い
    • [30]1924年1月白仁長官に自家輸送なら11円程度で供給可能と説明。3月低利資金300万円申請、延期後250万円認可。ケママン鉱山を1年足らずで建設し1925年6月銀泉丸で輸送。スリメダンは年80万t突破の勢い
    • [31]自家輸送で9円納入でもトン1円の利益。帰路空船の船腹で日本品を運ぶ構想。江りい丸以下8隻を10日おき・運賃2割引で配船、3年で損失200万円
    • [33]自家輸送で9円納入でもトン1円の利益。帰路空船の船腹で日本品を運ぶ構想。江りい丸以下8隻を10日おき・運賃2割引で配船、3年で損失200万円
    • [35]自家輸送で9円納入でもトン1円の利益。帰路空船の船腹で日本品を運ぶ構想。江りい丸以下8隻を10日おき・運賃2割引で配船、3年で損失200万円
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ51-100
    • [22]パレンバン計画の目論見書:資金総額2,000万円、日本側が建設費全額負担、蘭印側は炭山・鉄道設備を現物出資
    • [34]1931年3月21日神戸からびくとりあ丸でジャワ航路開設。1935年3月日蘭海運会商決裂、6月22日4社出資で南洋海運設立決定、ジャワ航路業務と社員が新会社へ
    • [36]1931年3月21日神戸からびくとりあ丸でジャワ航路開設。1935年3月日蘭海運会商決裂、6月22日4社出資で南洋海運設立決定、ジャワ航路業務と社員が新会社へ
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ1-50
    • [26]官営の製鉄所は船の保有に議会承認が要ると白仁長官が自社保有を勧めた。低利資金から台銀借入75万円完済、ケママン鉱山買収に50万円
    • [28]官営の製鉄所は船の保有に議会承認が要ると白仁長官が自社保有を勧めた。低利資金から台銀借入75万円完済、ケママン鉱山買収に50万円
  • 石原産業 有価証券報告書(2015年4月)【沿革】
    • [32]1929年8月 商号を石原産業海運合資会社と改称

1934年〜熊野の紀州鉱山の銅と、四日市に建てた銅製錬所・硫酸工場

石原産業海運は1934年3月に株式会社へ組織を変え、三重県で紀州鉱山を開設した。内地事業の出発点は、南方で働く日本人従業員の心身の保養と子女の教育のため、内地にも事業地を持って人員を交流させる構想である。1931年に帰国した鉱山部長の石原新三郎氏が内地の資源調査を担い、1934年1月に兵庫県の神美金山を買収した。同年6月には熊野川流域の南牟婁郡で鉱区を取得し、秋の現地検分で石原廣一郎氏と石原新三郎氏は銅に主力を注ぐ方針を決めた。方針は、南方事業の利益を熊野の開発に投じ、金よりも広く使われる鉄と銅に重点を置く内容である。南方の鉄鉱一本の事業に、内地の銅という別の収益源を加える意図もあったと思われる。

  • 石原産業 有価証券報告書(2015年4月)【沿革】
    • [37]1934年3月 株式会社に組織変更し、三重県に紀州鉱山(銅、硫化鉱)を開設
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ51-100
    • [38]南方従業員の保養・子女教育のため内地に事業地を持ち交流を図る。1931年帰国の新三郎が調査、1934年1月神美金山買収、6月熊野の鉱区取得。秋の検分で銅に主力、南方の収益を投じる方針
    • [39]南方従業員の保養・子女教育のため内地に事業地を持ち交流を図る。1931年帰国の新三郎が調査、1934年1月神美金山買収、6月熊野の鉱区取得。秋の検分で銅に主力、南方の収益を投じる方針
    • [40]南方従業員の保養・子女教育のため内地に事業地を持ち交流を図る。1931年帰国の新三郎が調査、1934年1月神美金山買収、6月熊野の鉱区取得。秋の検分で銅に主力、南方の収益を投じる方針
    • [41]南方従業員の保養・子女教育のため内地に事業地を持ち交流を図る。1931年帰国の新三郎が調査、1934年1月神美金山買収、6月熊野の鉱区取得。秋の検分で銅に主力、南方の収益を投じる方針

石原廣一郎氏は二・二六事件に関わったとして拘置され、1937年1月18日に軍法会議で無罪の判決を受けた。獄中で石原廣一郎氏は、国内の銅資源はいずれ乏しくなると見て、紀州鉱山の銅鉱にフィリピンの銅鉱を合わせて製錬する構想を立てた。1937年2月に社長の石原新三郎氏と四日市港を検分し、工場誘致を進めていた四日市市長の吉田勝太郎氏の協力を得て立地を決めた。予定地の塩浜では小作争議が続いたものの、三重県知事の調停で1938年春に解決し、21万坪の工場用地が整った。市内での銅製錬には鉱害の懸念があり、許可の条件は薄い亜硫酸ガスまで硫酸に変える設備を備えることである。1938年10月に建設に着手し、1941年1月に銅製錬所と硫酸工場が完成した。製錬の排ガスから硫酸を作る設備が、次章で扱う化学への転換の足がかりになったと推察される。

  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [42]二・二六事件で拘置、1937年1月18日無罪判決。獄中で紀州鉱山の銅鉱とフィリピンの銅鉱を合わせ瀬戸内か四日市で製錬する構想
    • [43]二・二六事件で拘置、1937年1月18日無罪判決。獄中で紀州鉱山の銅鉱とフィリピンの銅鉱を合わせ瀬戸内か四日市で製錬する構想
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ51-100
    • [44]1937年2月新三郎社長と四日市港を検分、吉田勝太郎市長の協力。塩浜の小作争議が1938年春解決、敷地21万坪。鉱害対策として稀薄な亜硫酸ガスも硫酸化する設備が許可条件
    • [45]1937年2月新三郎社長と四日市港を検分、吉田勝太郎市長の協力。塩浜の小作争議が1938年春解決、敷地21万坪。鉱害対策として稀薄な亜硫酸ガスも硫酸化する設備が許可条件
    • [46]1937年2月新三郎社長と四日市港を検分、吉田勝太郎市長の協力。塩浜の小作争議が1938年春解決、敷地21万坪。鉱害対策として稀薄な亜硫酸ガスも硫酸化する設備が許可条件
  • 石原産業 有価証券報告書(2015年4月)【沿革】
    • [47]1938年10月 四日市工場建設に着手(1941年1月銅製錬所、硫酸工場完成)
参考文献[37]-[47]
  • 石原産業 有価証券報告書(2015年4月)【沿革】
    • [37]1934年3月 株式会社に組織変更し、三重県に紀州鉱山(銅、硫化鉱)を開設
    • [47]1938年10月 四日市工場建設に着手(1941年1月銅製錬所、硫酸工場完成)
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ51-100
    • [38]南方従業員の保養・子女教育のため内地に事業地を持ち交流を図る。1931年帰国の新三郎が調査、1934年1月神美金山買収、6月熊野の鉱区取得。秋の検分で銅に主力、南方の収益を投じる方針
    • [39]南方従業員の保養・子女教育のため内地に事業地を持ち交流を図る。1931年帰国の新三郎が調査、1934年1月神美金山買収、6月熊野の鉱区取得。秋の検分で銅に主力、南方の収益を投じる方針
    • [40]南方従業員の保養・子女教育のため内地に事業地を持ち交流を図る。1931年帰国の新三郎が調査、1934年1月神美金山買収、6月熊野の鉱区取得。秋の検分で銅に主力、南方の収益を投じる方針
    • [41]南方従業員の保養・子女教育のため内地に事業地を持ち交流を図る。1931年帰国の新三郎が調査、1934年1月神美金山買収、6月熊野の鉱区取得。秋の検分で銅に主力、南方の収益を投じる方針
    • [44]1937年2月新三郎社長と四日市港を検分、吉田勝太郎市長の協力。塩浜の小作争議が1938年春解決、敷地21万坪。鉱害対策として稀薄な亜硫酸ガスも硫酸化する設備が許可条件
    • [45]1937年2月新三郎社長と四日市港を検分、吉田勝太郎市長の協力。塩浜の小作争議が1938年春解決、敷地21万坪。鉱害対策として稀薄な亜硫酸ガスも硫酸化する設備が許可条件
    • [46]1937年2月新三郎社長と四日市港を検分、吉田勝太郎市長の協力。塩浜の小作争議が1938年春解決、敷地21万坪。鉱害対策として稀薄な亜硫酸ガスも硫酸化する設備が許可条件
  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」
    • [42]二・二六事件で拘置、1937年1月18日無罪判決。獄中で紀州鉱山の銅鉱とフィリピンの銅鉱を合わせ瀬戸内か四日市で製錬する構想
    • [43]二・二六事件で拘置、1937年1月18日無罪判決。獄中で紀州鉱山の銅鉱とフィリピンの銅鉱を合わせ瀬戸内か四日市で製錬する構想

出典・参考

4件
出典・参考
  • 石原産業 有価証券報告書(2015年4月)【沿革】
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ1-50
  • 刊行社史『創業三十五年を回顧して』(1956)コマ51-100
  • 私の履歴書 経済人8「石原廣一郎(石原産業・会長)」

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