石原廣一郎
石原産業・元合資会社南洋鉱業公司 設立・無限責任社員(社長職に当たる経営の責任者)
経歴1910〜1970年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1910年主要役職の状況(推定含む目安)1970年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間企業 | |||||
| 民間企業 | ゴム園(マレー半島ジョホール州パンチョル) | 1916 | 開業 | ||
| 石原産業(旧・南洋鉱業公司) | 1920 | 創業 社長 | |||
| 1929 | 石原産業海運合資会社に商号変更 | ||||
| 1934 | 社長 | ||||
| 1945 | 退任 | ||||
| 1951 | 会長 | ||||
| 1952 | 社長 | ||||
| 1961 | 退任 | ||||
| 1963 | 社長 | ||||
| 1970 | 退任 | ||||
| 官公庁 | |||||
| 官公庁 | 京都府庁 | 1910 | 入庁 | ||
社長就任までの出自
出自
1890年1月、京都府吉祥院村の自作農の家に三男三女の長男として生まれた。15歳で京都農林学校に入り、卒業後は父と田畑で働いたのち、20歳で京都府庁の農業技手となって耕地整理の測量を受け持った。昼は府庁に勤め、夜は立命館大学の法科専門部に通い、1913年3月に卒業した。ゴム栽培で南方に出ていた弟の石原新三郎氏の話を聞いて府庁を辞め、1916年2月に妻子を連れて神戸からマレー半島へ渡った。鉱山や貿易の経験は持たず、農業と測量の素地だけで南方の事業に参入した。
社長に選ばれた経緯
抜擢
マレー半島に着いた石原廣一郎氏は、シンガポールで見た褐鉄鉱の砂利を手がかりに山を歩き、1919年夏にジョホール州スリメダンの丘で鉄鉱床を見つけた。同年末には紹介状を持たずに八幡製鉄所を訪ね、長官の白仁武氏から1921年5万トンに始まる長期の納入契約を取り付けた。融資では台湾銀行頭取の中川小十郎氏が仲立ちし、保証人が離れたあとは川崎造船所社長の松方幸次郎氏が同社株2万5,000株を担保として貸した。1920年9月、松方幸次郎氏らと資本金10万円の合資会社南洋鉱業公司を設け、自ら無限責任社員として事業の責任を負った。
創業ストーリー
創業ストーリー
在任中の主な施策
石原廣一郎氏:在任中の施策
1924年に政府の低利資金250万円を得て金泉丸など3隻を購入し、鉱石を自前の船で内地へ運ぶ体制に移した。同じ資金でマレー東海岸のケママン鉱山を買収し、1925年6月に自社船の銀泉丸で最初の鉱石を送り出した。1929年8月に商号を石原産業海運へ改め、1934年3月の株式会社化で取締役社長に就任し、熊野の紀州鉱山で銅の採掘を始めた。1938年10月には四日市で銅製錬所と硫酸工場の建設に着手し、1941年1月に完成させた。
参考文献5件
事実根拠:出所(石原産業)