第1章 年〜年

キリンHD:麒麟麦酒の共同設立とキリンレモンによる清涼飲料参入

ドイツ流の醸造を継ぎ合同に加わらなかった麒麟麦酒

1869年〜横浜居留地の醸造所が二度替えた持ち主と、キリンビールの誕生

借金で建てた日本最初の醸造所が売却されるまで

日本のビール産業は1869年、横浜山手天沼に建てられた一つの醸造所から始まった。米国人コープランドが開いたスプリング・バレー・ブルワリーは日本最初のビール醸造所であり、横浜と長崎の居留地や外国艦船へビールを供給し、上海やサイゴンへも輸出して約15年操業した。コープランドは技術者肌の人物で、経営の腕は乏しかったとされる。製品の品質は良く販路にも困らなかったが、事業は長続きしなかった。資金の多くは借入に頼っていた。そこへ1881年以降のデフレが重なって行き詰まり、工場は合衆国総領事裁判の判決により売りに出された。醸造所は消えたものの、設備と土地は次の会社が引き継いだ。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [1]1869年 コープランドが横浜山手天沼にスプリング・バレー・ブルワリーを建設(日本最初のビール醸造所)
    • [2]横浜・長崎の居留地と外国艦船向けに供給し、シャンハイ・サイゴンなどへ輸出して約15年継続
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [3]コープランドは技術者気質の人で、経営上の手腕にはあまり恵まれていなかったと社史は記す
    • [4]スプリング・バレー・ブルワリーの営業成績は初期には好調だったが後に不況となり失敗した。製品の品質は優良で販路にも事欠かなかった
    • [5]資金は主として借金によっており、明治14年以降のデフレで打撃を受け、合衆国総領事裁判の判決により工場を売却された
    • [6]スプリング・バレー・ブルワリーの事業はジャパン・ブルワリーが承継した
輸入品の複製をつくって輸入を押し返す

1885年、横浜居留の有力外国人と日本財界の指導者たちがジャパン・ブルーワリー会社を設立し、スプリング・バレーの敷地を譲り受けて日本最初の近代工場を建てた。ここで醸造されたビールは"キリンビール"と名付けられ、1888年に発売された。当時の輸入ビールは内地ビールの二倍のコストでありながら盛んに輸入され、清酒の販路まで侵していた。関税自主権のない当時、関税の引上げは実行できず、残るのは輸入品に劣らない良品を供給することだけだった。ジャパン・ブルーワリーは資格あるドイツ人技師を置き、本場ドイツの麦芽とホップだけを使った。ドイツ本国のビールの複製というべきその製品は、1903年の第五回内国勧業博覧会で「輸入の防遏、輸出の魁け」として表彰された。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [7]1885年 ジャパン・ブルーワリー会社設立、スプリング・バレーの敷地に日本最初の近代工場を建設
    • [8]1888年 「キリンビール」発売
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [9]輸入ビールのコストは内地ビールの二倍の高価であったにもかかわらず盛んに輸入され、清酒の販路を侵食した
    • [10]関税引上げは関税自主権のない当時は実行不可能で、輸入を防ぐ途は輸入品に劣らぬ良品を供給することだった
    • [11]ゼ・ジャパン・ブルワリーは資格あるドイツ人技師と、本場ドイツの麦芽とホップのみを使った
    • [12]明治36年の第五回内国勧業博覧会で「輸入の防遏、輸出の魁け」として表彰された
麦酒税が小資本を退場させ、経営が日本人へ移る

1901年、ビール関税が石当たり18円76銭へ引き上げられる一方、石当たり7円の麦酒税が創設された。業者は一面で関税に守られ、他面で麦酒税に圧迫される位置へ置かれた。影響は小資本にてきめんで、1874年以来の歴史を持つ三ツ鱗ビールが市場から退出した。滞貨や貸倒れを抱えたまま税を前納する負担に、小資本は耐えられなかったのである。明治期に百を超えた銘柄は淘汰され、宿命的な競争を演じたのはゼ・ジャパン・ブルワリー、札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒の大手四社ほどとなった。1907年、三菱・明治屋・日本郵船の人々によって麒麟麦酒が創立され、ジャパン・ブルーワリーの財産や技師など事業一切を引き継いで経営権は日本人へ移り、同年7月には東京株式取引所へ株式を上場した。麦酒税は、この事業を続ける条件を近代的な会社組織へ切り替える装置でもあった。

  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [13]明治34年 ビール関税が石当たり18円76銭へ引き上げられ、同時に石当たり7円の麦酒税が創設された
    • [14]業者は一面で関税に保護され、反面で麦酒税に圧迫されることになった
    • [15]麦酒税創設を機に野口忠蔵がビール業を廃止し、明治7年以来の三ツ鱗ビールが市場から消えた
    • [16]小資本では滞貨や貸倒れによる税金前納の負担を負いきれず、近代的会社組織を持つことが経営の要件となった
    • [17]百余の銘柄のうち真に宿命的な競争を演じたのはゼ・ジャパン・ブルワリー、札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒の大手四社ほどだった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [18]1907年 三菱・明治屋・日本郵船により麒麟麦酒が創立
    • [19]ジャパン・ブルーワリーの財産・技師など事業一切を引き継ぎ、経営が日本人へ移行
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1907年7月 東京株式取引所に上場
参考文献[1]-[20]
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [1]1869年 コープランドが横浜山手天沼にスプリング・バレー・ブルワリーを建設(日本最初のビール醸造所)
    • [2]横浜・長崎の居留地と外国艦船向けに供給し、シャンハイ・サイゴンなどへ輸出して約15年継続
    • [7]1885年 ジャパン・ブルーワリー会社設立、スプリング・バレーの敷地に日本最初の近代工場を建設
    • [8]1888年 「キリンビール」発売
    • [18]1907年 三菱・明治屋・日本郵船により麒麟麦酒が創立
    • [19]ジャパン・ブルーワリーの財産・技師など事業一切を引き継ぎ、経営が日本人へ移行
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [3]コープランドは技術者気質の人で、経営上の手腕にはあまり恵まれていなかったと社史は記す
    • [4]スプリング・バレー・ブルワリーの営業成績は初期には好調だったが後に不況となり失敗した。製品の品質は優良で販路にも事欠かなかった
    • [5]資金は主として借金によっており、明治14年以降のデフレで打撃を受け、合衆国総領事裁判の判決により工場を売却された
    • [6]スプリング・バレー・ブルワリーの事業はジャパン・ブルワリーが承継した
    • [9]輸入ビールのコストは内地ビールの二倍の高価であったにもかかわらず盛んに輸入され、清酒の販路を侵食した
    • [10]関税引上げは関税自主権のない当時は実行不可能で、輸入を防ぐ途は輸入品に劣らぬ良品を供給することだった
    • [11]ゼ・ジャパン・ブルワリーは資格あるドイツ人技師と、本場ドイツの麦芽とホップのみを使った
    • [12]明治36年の第五回内国勧業博覧会で「輸入の防遏、輸出の魁け」として表彰された
    • [13]明治34年 ビール関税が石当たり18円76銭へ引き上げられ、同時に石当たり7円の麦酒税が創設された
    • [14]業者は一面で関税に保護され、反面で麦酒税に圧迫されることになった
    • [15]麦酒税創設を機に野口忠蔵がビール業を廃止し、明治7年以来の三ツ鱗ビールが市場から消えた
    • [16]小資本では滞貨や貸倒れによる税金前納の負担を負いきれず、近代的会社組織を持つことが経営の要件となった
    • [17]百余の銘柄のうち真に宿命的な競争を演じたのはゼ・ジャパン・ブルワリー、札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒の大手四社ほどだった
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1907年7月 東京株式取引所に上場

1908年〜高品質と高原価を同時に抱えた創業期と、震災が解いた立地の制約

高値で販売できても原価に食われた創業10年

創立当初の麒麟麦酒の業績は、他社に比べて低かった。理由は三つある。キリンビールは一本につき一銭から三銭、常に高く売れていた。ところがその上乗せ分は、割高な原価に食われていた。割高な原価には、それなりの理由があった。工場が横浜山手に一つしかなく運賃がかさんだこと、ジャパン・ブルーワリーの頃から抱えるドイツ人技師の給与が高かったこと、工場が丘陵の谷あいに建ち、原料も製品も山越えで運ぶほかなかったことである。ドイツ人技師らは米国や英国の特許に頼るのを嫌って最新式の壜詰機や王冠栓を入れることを拒み、米国産を大きく上回る値のドイツ産麦芽とホップを使うよう求めた。王冠栓付きの壜詰は、技師の同意が得られないまま、米井源治郎専務が責任はあとで自分が引き受けると言って使用を命じ、1912年6月の発売にこぎ着けた。品質の評判を守る仕組みは、裏返せば原価の不利を背負い込む仕組みでもあった。

  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [21]創立当初の麒麟麦酒の業績は他社に比べて低かった
    • [22]キリンビールは常に一本当り一銭ないし三銭高く売れたが、高値もコスト高に吸収された
    • [23]業績が低かった原因は、工場が横浜山手一つで運賃負担が重いこと、ドイツ人技師の人件費、工場が谷あいにあり原料・製品を山越えで運ぶ立地の三つ
    • [24]ドイツ人技師は米英の特許使用を嫌って最新式壜詰機や王冠栓の採用を拒み、米国品より高価なドイツ産の麦芽・ホップの使用を求めた
    • [25]明治45年6月 王冠栓使用の壜詰を発売。技師アイヘルベルヒが拒み続けたため、米井専務が「後の責任は自分が負うから使え」と命じた
大戦の輸出好況を元手に西と東に工場を設置する

1914年に始まった欧洲大戦は、東洋市場への欧洲ビールの供給を絶ち、日本のビールの輸出を伸ばした。麒麟麦酒は1914年下期の営業報告で、創立以来最も優良な成績を挙げたと記している。1916年には内需と輸出がともに盛んになり、製造に全力を注いでもなお供給が不足する状態となって、販売高は創業以来の新記録を示した。この需要を受け、1918年に神崎(現尼崎)工場を新設し、1923年には仙台の東洋醸造を吸収合併して仙台工場とした。横浜一工場という創立以来の制約は、ここで西と東の二拠点によって解かれた。大戦によるドイツ人技師の帰国と原料輸入の障害は、醸造技術の内製化と国内原料の調達体制を確立させる契機ともなった。

  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [26]第一次世界大戦により東洋市場における欧洲ビールの供給が絶え、日本のビール輸出が伸長した
    • [27]大正3年下期の営業報告で、創立以来最も優良な成績を挙げたと記載
    • [28]大正5年 内需・輸出ともに盛んで、製造に全力を注いでも供給不足をきたし、ビール販売高は創業以来の新記録
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [29]1918年 神崎(現尼崎)工場を新設
    • [30]1923年 仙台の東洋醸造を吸収合併して仙台工場とした
    • [31]ドイツ人技師の帰国と原料輸入の障害から独自の技術と国内原料供給体制を確立
主力工場の全損が、運搬と水の制約を解く

1923年9月1日午前11時58分、関東大震災が横浜山手工場を襲った。煉瓦造の事務所も工場も一斉に倒壊し、貯蔵室が崩れてビールが下水へ流れ、工場はその夜のうちに焼失して、職員2名と職工24名が殉職した。損失額は1923年下期と翌上期を合わせて141万188円4銭。得意先勘定の整理損は一手販売店の明治屋が負担し、明治屋の貸倒れは235万円に上って、店舗焼失分を加えると資本金とほぼ同額の損害となった。一方で京浜地区の得意先在庫も全滅したため復興需要が一気に立ち、西の神崎と東の仙台が全力稼働でこれに応じた。山手工場は復興されず、生麦の埋立地3万7,000坪へ移された。運搬の困難と湧水の枯渇という永年の悩みが、この移転で一挙に解けた。

  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [32]大正12年9月1日午前11時58分 関東大震災で横浜山手工場が壊滅
    • [33]事務所・工場が倒壊し貯蔵室が崩れ、工場はその夜のうちに焼失、職員2名・職工24名が殉職
    • [34]震災損失金は大正12年下期1,355,052円07銭と大正13年上期55,135円97銭の計1,410,188円04銭
    • [35]得意先勘定の整理損は一手販売店の明治屋が負担。明治屋の震災による貸倒れは235万円に上り、店舗焼失を加えると資本金250万円とほぼ同額の損失
    • [36]京浜間の得意先の在庫も全滅し復興需要が起こったため、西の神崎・東の仙台の両工場が全力稼働で出荷に応じた
    • [37]山手工場は復興せず、生麦町の面積3万7千坪の埋立地を買収して移転、大正15年4月竣工
    • [38]移転により永年の悩みであった運搬問題および水不足問題が一挙に解決した
参考文献[21]-[38]
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [21]創立当初の麒麟麦酒の業績は他社に比べて低かった
    • [22]キリンビールは常に一本当り一銭ないし三銭高く売れたが、高値もコスト高に吸収された
    • [23]業績が低かった原因は、工場が横浜山手一つで運賃負担が重いこと、ドイツ人技師の人件費、工場が谷あいにあり原料・製品を山越えで運ぶ立地の三つ
    • [24]ドイツ人技師は米英の特許使用を嫌って最新式壜詰機や王冠栓の採用を拒み、米国品より高価なドイツ産の麦芽・ホップの使用を求めた
    • [25]明治45年6月 王冠栓使用の壜詰を発売。技師アイヘルベルヒが拒み続けたため、米井専務が「後の責任は自分が負うから使え」と命じた
    • [26]第一次世界大戦により東洋市場における欧洲ビールの供給が絶え、日本のビール輸出が伸長した
    • [27]大正3年下期の営業報告で、創立以来最も優良な成績を挙げたと記載
    • [28]大正5年 内需・輸出ともに盛んで、製造に全力を注いでも供給不足をきたし、ビール販売高は創業以来の新記録
    • [32]大正12年9月1日午前11時58分 関東大震災で横浜山手工場が壊滅
    • [33]事務所・工場が倒壊し貯蔵室が崩れ、工場はその夜のうちに焼失、職員2名・職工24名が殉職
    • [34]震災損失金は大正12年下期1,355,052円07銭と大正13年上期55,135円97銭の計1,410,188円04銭
    • [35]得意先勘定の整理損は一手販売店の明治屋が負担。明治屋の震災による貸倒れは235万円に上り、店舗焼失を加えると資本金250万円とほぼ同額の損失
    • [36]京浜間の得意先の在庫も全滅し復興需要が起こったため、西の神崎・東の仙台の両工場が全力稼働で出荷に応じた
    • [37]山手工場は復興せず、生麦町の面積3万7千坪の埋立地を買収して移転、大正15年4月竣工
    • [38]移転により永年の悩みであった運搬問題および水不足問題が一挙に解決した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [29]1918年 神崎(現尼崎)工場を新設
    • [30]1923年 仙台の東洋醸造を吸収合併して仙台工場とした
    • [31]ドイツ人技師の帰国と原料輸入の障害から独自の技術と国内原料供給体制を確立

1927年〜販売の自前化から統制下の三社体制、そして分割の回避へ

一手販売を解いて販売チャネルを自前へ切り替える

1927年、麒麟麦酒は明治屋の一手販売を解いてそのビール販売部門を吸収し、営業部を新設した。震災で資本金とほぼ同額の損害を負った販売店に全国の需要を委ね続ける体制は、もはや維持できなかった。同年、東京・横浜・大阪・福岡・名古屋・仙台に支店を開設し、翌1928年には小樽支店を置いて、販売の経路を自前へ切り替えた。1928年3月には清涼飲料の製造を開始し、ジュース・レモン・レモンクレール・タンサンといったビール以外の商品にも、ビールと同じくキリンの名を冠した。商標を全国へ広げる経路を、販売店の手から自社の手へ握り直す作業だった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [39]1927年 明治屋の一手販売を解きビール販売部門を吸収、営業部を創設
    • [42]飲料はジュース・レモン・レモンクレール・タンサンでいずれもビール同様キリンの名を冠した
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [40]昭和2年に東京・横浜・大阪・福岡・名古屋・仙台の各支店を開設、昭和3年に小樽支店を開設
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1928年3月 清涼飲料の製造を開始
一社化を拒み、対等出資の共同販売へ持ち込む

明治期に数十社を数えたメーカーは集中淘汰を経て、大日本麦酒・日本麦酒鉱泉・麒麟麦酒の三社へ集約された。大不況下でビール需要が停滞するなか、競争は激化した。1933年、麒麟麦酒と大日本麦酒は対等出資で共同販売会社を立ち上げ、市場を落ち着かせようとした。その前段では、ひどく乱れた市場を収めるために三社を一社へ統合せよとの主張さえ出ていたが、麒麟麦酒は合併には応じなかった。代案として、まず日本麦酒鉱泉を大日本麦酒に吸収させ、そのうえで共販会社を置く形がとられた。両社が造るビールは以後、残らず共販会社経由で売られた。もっとも販売の実務は各社が担い、清涼飲料は統制の外にあったので、各支店は従来どおり残った。生産比率は各社が守り、生産と販売を自ら調整したうえで、1938年の第一次改訂では過去五カ年の販売実績に応じて麒麟麦酒の比率がやや上がった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [43]集中淘汰で明治期に数十社あったメーカーが大日本・日本麦酒鉱泉・キリンの三社に
    • [44]大不況下でビール需要が停滞し競争が激化
    • [45]1933年 大日本麦酒に日本麦酒鉱泉を吸収させ、対等出資の共同販売会社を設立して市場の安定を図った
    • [46]市場の大混乱収拾のため三社を一社にする主張が出たがキリンは譲らなかった
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [47]昭和8年8月の麦酒共販会社設立後も販売の実務は各社が担い、清涼飲料には統制がなかったため各支店は存続した
    • [48]共販契約下では各社が生産比率を守って生産と販売を調整し、昭和13年の第一次比率改訂では過去5カ年の販売実績に比例して麒麟麦酒の比率が若干増加した
商標を失った七年と、分割を免れた戦後の再出発

全国生産は、1939年の173万余石から1945年度には46万余石へ落ち込んだ。1943年に中央麦酒販売株式会社が共販会社に取って代わって配給制度が固まると、麒麟麦酒は自前で売る機能を完全になくした。同年5月31日をもって東京・大阪の二支店以外の支店はすべて廃止となった。営業の要員は配給機関へ出向し、業務が酒類配給公団に移ってからは会社を離れ、公務員の身分で働いた。登録商標も棚上げとなり、各社が商標に託して築いた信用は用をなさず、貼紙の代わりに「麦酒」とだけ刷った小さな紙片が使われた。統制が終わったのは1949年夏で、同年9月には集中排除法により、戦前市場の7割以上を握っていた大日本麦酒が日本麦酒と朝日麦酒の二社に分けられた。合同に加わらなかった麒麟麦酒はこの分割を免れ、1887年以来のキリン商標を復活させて二社との競争に臨んだ。同年5月には東京・大阪各証券取引所の再開と同時に株式を上場している。

  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [49]昭和14年度の全国ビール生産は173万余石、昭和20年度は46万余石
    • [50]昭和18年 中央麦酒販売株式会社が共販会社に代わり配給制度が確立、麒麟麦酒の自主販売機能は失われた
    • [51]昭和18年5月31日限りで東京・大阪の二支店を残し他の支店を全廃。営業要員は配給機関へ出向し、酒類配給公団へ移ると会社を離籍して公務員として勤務した
    • [52]各ビール会社が培った商標に結集した信用は無用に帰し、登録商標も棚上げされ「麦酒」と印刷した小紙片がレーベルに代わった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [53]1949年夏に統制が終わり、同年9月の集中排除法で大日本麦酒が二分され日本麦酒・朝日麦酒が発足。大日本麦酒は戦前市場の7割以上を占有していた
    • [54]1887年以来のキリン商標を復活して二社と競争
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1949年5月 東京・大阪各証券取引所の再開と同時に株式上場
参考文献[39]-[55]
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [39]1927年 明治屋の一手販売を解きビール販売部門を吸収、営業部を創設
    • [42]飲料はジュース・レモン・レモンクレール・タンサンでいずれもビール同様キリンの名を冠した
    • [43]集中淘汰で明治期に数十社あったメーカーが大日本・日本麦酒鉱泉・キリンの三社に
    • [44]大不況下でビール需要が停滞し競争が激化
    • [45]1933年 大日本麦酒に日本麦酒鉱泉を吸収させ、対等出資の共同販売会社を設立して市場の安定を図った
    • [46]市場の大混乱収拾のため三社を一社にする主張が出たがキリンは譲らなかった
    • [53]1949年夏に統制が終わり、同年9月の集中排除法で大日本麦酒が二分され日本麦酒・朝日麦酒が発足。大日本麦酒は戦前市場の7割以上を占有していた
    • [54]1887年以来のキリン商標を復活して二社と競争
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [40]昭和2年に東京・横浜・大阪・福岡・名古屋・仙台の各支店を開設、昭和3年に小樽支店を開設
    • [47]昭和8年8月の麦酒共販会社設立後も販売の実務は各社が担い、清涼飲料には統制がなかったため各支店は存続した
    • [48]共販契約下では各社が生産比率を守って生産と販売を調整し、昭和13年の第一次比率改訂では過去5カ年の販売実績に比例して麒麟麦酒の比率が若干増加した
    • [49]昭和14年度の全国ビール生産は173万余石、昭和20年度は46万余石
    • [50]昭和18年 中央麦酒販売株式会社が共販会社に代わり配給制度が確立、麒麟麦酒の自主販売機能は失われた
    • [51]昭和18年5月31日限りで東京・大阪の二支店を残し他の支店を全廃。営業要員は配給機関へ出向し、酒類配給公団へ移ると会社を離籍して公務員として勤務した
    • [52]各ビール会社が培った商標に結集した信用は無用に帰し、登録商標も棚上げされ「麦酒」と印刷した小紙片がレーベルに代わった
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1928年3月 清涼飲料の製造を開始
    • [55]1949年5月 東京・大阪各証券取引所の再開と同時に株式上場

出典・参考

3件
出典・参考
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)

免責事項およびポリシー