第2章 年〜年

キリンHD:ビール国内シェア首位の確保と自動販売サービスの設立

設備最小の三位から蔵出しシェア58.9%へ

1950年〜三社中最小の設備から始めた戦後の再建

設備ではなく販売の自主権を失っていた敗戦時

1945年度の全国ビール生産は46万余石で、最盛年である1939年の4分の1強にとどまり、そのうち麒麟麦酒は9万7,000余石にすぎなかった。1939年に全生産の2割六分強を占めていた比率は、このとき2割強へ低下している。燃料の輸送が困難ななか、炭坑地区である北海道と九州に工場を持たない麒麟麦酒が、生産制限を最も厳しく受けたためである。工場自体は爆撃圏外にあって横浜・尼崎・広島三工場の被害は軽微で、戦災損失は帳簿価格で94万3,484円にとどまった。失ったのは設備ではなく、統制による販売の自主権と、戦時中に更新できなかった設備の新しさだった。配給統制が解かれた1949年の時点で、麒麟麦酒はビール三社のうち最も生産設備が小さい会社だった。

  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [1]昭和20年度の全国ビール生産は46万余石、うち麒麟麦酒は9万7千余石。最盛年の昭和14年の4分の1強
    • [2]昭和14年に全生産の2割6分強を占めた麒麟麦酒の比率は、昭和20年に2割強へ低下
    • [3]燃料輸送の困難から、炭坑地区である北海道・九州に工場を持たない麒麟麦酒が生産制限を最も厳しく受けた
    • [4]横浜・尼崎・広島三工場の戦災被害は軽微で、損失金額は帳簿価格で943,484円
    • [5]戦争による有形の被害は少なかったが、統制により販売の自主権を喪失したことと設備の更新が不十分であったことの影響が重かった
    • [6]昭和24年7月の配給統制解除時、麒麟麦酒はビール三社中最も生産設備が小さかった
七年ぶりに戻った特約店網

1949年7月、酒類配給公団が解散して配給統制が解かれ、各社の商標による自主販売が復活した。公団の下では工場を中心に各社の受持地区が決められており、生産能力の低かった麒麟麦酒は東北地方・神奈川県・関西の一部・中国の一部を担当するにとどまって、永年培った東京市場を放棄し、九州と北海道からも全面的に撤退していた。公団の廃止とともにこの制限は解けた。横浜・名古屋・神戸・仙台・広島の五支店と京都・高松・福岡の三出張所を復活させて戦前の特約店制度に戻すと、従来の優良な特約店の大部分が復帰し、北海道と南九州を除く全国販売網が確立した。1951年には九州一円の販売網の完備を機に福岡出張所を支店へ改め、1955年5月には札幌出張所を復活して、戦後十年でようやく北海道へ進出した。七年続いた配給制度は、他面でビールを全国の一般家庭へ行き渡らせ、婦人層と青年層まで需要の対象に加えていた。

  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [7]昭和24年7月 酒類配給公団が解散し配給統制が解かれ、各社の商標による自主販売が復活
    • [8]酒類配給公団の下で工場を中心とした各社の受持地区が確立し、麒麟麦酒は東北・神奈川・関西の一部・中国の一部に限られ、東京市場を放棄し九州・北海道から手を引いた
    • [9]受持地区の制限は配給公団の廃止とともに解かれた
    • [10]横浜・名古屋・神戸・仙台・広島の五支店と京都・高松・福岡の三出張所を復活し特約店制度へ戻すと、優良特約店の大部分が復帰して北海道・南九州を除く全国販売網が確立
    • [11]昭和26年 九州一円の販売網完備を機に福岡出張所を福岡支店へ改称。昭和30年5月 札幌出張所を復活し戦後10年で北海道へ進出
    • [12]昭和18年以来7年の配給制度により、ビールは一般家庭に隈なく行きわたり、婦人層・青年層も需要の対象に加わった
内部蓄積をやめ、増資した資本を設備へ回す

戦前の麒麟麦酒は、1923年の東洋醸造合併に備えた増資を最後に、工場の設備更新も外地の経営資金もすべて内部の蓄積でまかない、資本金を増やさなかった。戦後はこれが一変する。1947年に24年ぶりの増資で資本金2,500万円全額払込とし、1949年に8,000万円、1950年に2億200万円と相次いで増資して、1956年には資本金18億4,500万円へ達した。創業当時の250万円の738倍である。資本は設備へ向かった。1949年以降は毎年の年次計画で機械の更新拡張を進め、欧米の新式機械の輸入に先鞭をつけて、ビールの生産能力は1949年の35万九千石から1955年の88万石へ増えた。横浜工場一つでは関東の需要を賄えず、1953年に東洋紡の休止していた王子工場の用地を買収し、1956年末に東京工場が竣工した。

  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [13]大正12年の東洋醸造合併に備えた増資以降、諸工場の設備更新や外地の経営資金はすべて内部蓄積でまかない、戦前は資本金を増加しなかった
    • [14]昭和22年に24年ぶりの増資で資本金2,500万円全額払込、24年に8,000万円、25年に2億200万円、31年に総額18億4,500万円
    • [15]昭和31年の資本金は創業当時の250万円の738倍に当たる
    • [16]昭和24年以来、毎年の年次計画で工場設備機械の更新拡張を行い、欧米新式機械の輸入に先鞭をつけた
    • [17]ビールの生産能力は昭和24年の35万9千石から昭和30年の88万石へ増加
    • [18]昭和28年 東洋紡王子工場跡地(北区堀船町)を買収、昭和31年末に東京工場竣工(年産能力10万石)
参考文献[1]-[18]
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
    • [1]昭和20年度の全国ビール生産は46万余石、うち麒麟麦酒は9万7千余石。最盛年の昭和14年の4分の1強
    • [2]昭和14年に全生産の2割6分強を占めた麒麟麦酒の比率は、昭和20年に2割強へ低下
    • [3]燃料輸送の困難から、炭坑地区である北海道・九州に工場を持たない麒麟麦酒が生産制限を最も厳しく受けた
    • [4]横浜・尼崎・広島三工場の戦災被害は軽微で、損失金額は帳簿価格で943,484円
    • [5]戦争による有形の被害は少なかったが、統制により販売の自主権を喪失したことと設備の更新が不十分であったことの影響が重かった
    • [6]昭和24年7月の配給統制解除時、麒麟麦酒はビール三社中最も生産設備が小さかった
    • [7]昭和24年7月 酒類配給公団が解散し配給統制が解かれ、各社の商標による自主販売が復活
    • [8]酒類配給公団の下で工場を中心とした各社の受持地区が確立し、麒麟麦酒は東北・神奈川・関西の一部・中国の一部に限られ、東京市場を放棄し九州・北海道から手を引いた
    • [9]受持地区の制限は配給公団の廃止とともに解かれた
    • [10]横浜・名古屋・神戸・仙台・広島の五支店と京都・高松・福岡の三出張所を復活し特約店制度へ戻すと、優良特約店の大部分が復帰して北海道・南九州を除く全国販売網が確立
    • [11]昭和26年 九州一円の販売網完備を機に福岡出張所を福岡支店へ改称。昭和30年5月 札幌出張所を復活し戦後10年で北海道へ進出
    • [12]昭和18年以来7年の配給制度により、ビールは一般家庭に隈なく行きわたり、婦人層・青年層も需要の対象に加わった
    • [13]大正12年の東洋醸造合併に備えた増資以降、諸工場の設備更新や外地の経営資金はすべて内部蓄積でまかない、戦前は資本金を増加しなかった
    • [14]昭和22年に24年ぶりの増資で資本金2,500万円全額払込、24年に8,000万円、25年に2億200万円、31年に総額18億4,500万円
    • [15]昭和31年の資本金は創業当時の250万円の738倍に当たる
    • [16]昭和24年以来、毎年の年次計画で工場設備機械の更新拡張を行い、欧米新式機械の輸入に先鞭をつけた
    • [17]ビールの生産能力は昭和24年の35万9千石から昭和30年の88万石へ増加
    • [18]昭和28年 東洋紡王子工場跡地(北区堀船町)を買収、昭和31年末に東京工場竣工(年産能力10万石)

1955年〜家庭向け需要への傾斜と、流通と回収の設計

二社が占める業務用を避け、家庭へ活路を求める

昭和20年代の麒麟麦酒は業界三位にとどまっていた。当時のビール需要は料飲店向けを中心とする業務用がほとんどで、朝日麦酒と日本麦酒はその業務用市場を地盤に強さを保っていた。二社に追いつこうとする麒麟麦酒には、業務用の外に売り先を見つけるしか道がなかった。もっとも会社自身は後になって、家庭向けに力を入れたのは料理屋などとの不健全な取引を避けるためであって、狙ってそうしたわけではないと述べている。動機がどうであれ、麒麟麦酒の選んだ市場は時代の流れと一致した。需要の構成はやがて大きく入れ替わり、1972年には家庭向けが7割、業務用が三割となって、キリンの商標が全国に広がる足場ができた。大日本麦酒が分割された1950年に29.5%だった蔵出し量ベースのシェアは、五年後の1955年に36.8%と首位へ立ち、以後格差は開いた。

  • 日経ビジネス 1972年7月24日号
    • [19]麒麟麦酒が3位だった昭和20年代はビール需要の大半を業務用(料飲店など)が占め、朝日・サッポロの強さは業務用需要に支えられていた
    • [20]朝日・サッポロを追い上げようとしていた当時の麒麟麦酒は、非業務用需要に活路を求めざるを得なかった
    • [21]戦後に家庭消費へ主力を注いだのは料理屋などに対する不健全な取引を避けたかったためで、意図したものではなかったと会社側は述べている
    • [22]1972年時点の需要の内訳は家庭向け70%・業務用30%
    • [23]蔵出し量ベースのシェアは昭和25年にサッポロ37.0%・朝日33.5%・麒麟29.5%、昭和30年に麒麟36.8%・朝日31.8%・サッポロ31.4%と逆転
リベート競争を止め、手形を30日で決済させる

ビールは特約店と小売店を経て、一般家庭や料飲店に届く。麒麟麦酒がこの経路で他社と違う取引の型をとった理由を、会社側は味で説明していた。ビールの味は造り手から飲み手に渡るまでの速さで大きく変わるので、特約店の倉庫に在庫をため込ませない指導を徹底する必要があるというのである。小売店相手のリベート合戦を特約店にさせないよう、リベートは仕入れた箱数をまとめて算定し、支払いも株式で行う形まで採った。手形の決済期間も30日と、他社に比べて際立って短く設定した。当初は特約店と酒販店の側にかなり潜在的な反発もあったが、長期的には逆に信頼感を高めたと流通側は評した。1972年時点の特約店網は約770店に達していた。

  • 日経ビジネス 1972年7月24日号
    • [24]ビールの流通ルートはメーカーから特約店、小売店へ流れ、小売店から一般家庭・料飲店へ流れる
    • [25]ビールの味はメーカーからいかに速く消費者へ届くかが影響するため、特約店の倉庫に長く在庫が滞らないよう徹底した指導が必要だったと会社側は説明
    • [26]特約店の小売店に対するリベート競争を少なくするため仕入れ箱数を一括してリベート計算する仕組みを採り、リベートを現金ではなく株式で支払う方式も取った
    • [27]手形決済のサイトを30日と定め、他社よりも異例に短くした
    • [28]当初は特約店・酒販店間にかなり潜在的な反発もあったが、長期的には逆に信頼感を高めたと流通業界は評した
    • [29]1972年時点で麒麟麦酒は約770店の特約店網を持つ
日歩で値を付けた代金の早期回収

新しい壜をそろえるには多額の資金が要り、終戦後の物資欠乏期に麒麟麦酒がいちばん手を焼いたのもこの壜の不足だった。銀行へは毎日のように通って資金繰表を定期的に出し、表と実際の資金繰りのずれが小さかったことで信用を得て、借入と壜の調達にこぎつけた。その資金繰りを支えたのが、全国の支店が早く確実に代金を回収することだった。支店長の常として、キリンビールが売れるからといって回収をおろそかにしてまで売り急ぐことのないよう、得意先を自制させた。小売価格の半分が税金であるビールでは、一本の貸倒れで30本から40本分の利益が消える。社内は独立採算制をとり、本社は工場から製品を買って一定のマージンを乗せて支店へ卸し、支店もマージンを乗せて代理店へ売った。送金が期日を一日でも過ぎれば支店が日歩を払い、期日より早ければ本社が奨励金として日歩を支店へ払った。早期回収は心構えではなく、日歩で値の付いた制度だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻5号
    • [30]終戦後の物資欠乏時代に最も困ったのはビンの不足だった
    • [31]新ビンの購入資金のため銀行へ日参し、提出した資金繰表と実際の資金繰りに狂いが少なかったことで信用を得て借入と調達ができた
    • [32]支店長は得意先に「キリンビールが売れるからといって代金回収を忘れて売り急がないように」と自制させるのが常だった
    • [33]ビールは小売価格の半分が税金であり、貸倒れが一本でも発生すれば30〜40本分の儲けが吹き飛ぶ
    • [34]社内は独立採算制で、本社は工場から製品を買って一定マージンを取り支店へ卸し、支店もマージンを取って代理店へ売る
    • [35]支店の本社への送金が期日を1日でも過ぎれば支店が日歩を支払い、期日前に支払えば本社が奨励金として日歩を支店へ支払った
参考文献[19]-[35]
  • 日経ビジネス 1972年7月24日号
    • [19]麒麟麦酒が3位だった昭和20年代はビール需要の大半を業務用(料飲店など)が占め、朝日・サッポロの強さは業務用需要に支えられていた
    • [20]朝日・サッポロを追い上げようとしていた当時の麒麟麦酒は、非業務用需要に活路を求めざるを得なかった
    • [21]戦後に家庭消費へ主力を注いだのは料理屋などに対する不健全な取引を避けたかったためで、意図したものではなかったと会社側は述べている
    • [22]1972年時点の需要の内訳は家庭向け70%・業務用30%
    • [23]蔵出し量ベースのシェアは昭和25年にサッポロ37.0%・朝日33.5%・麒麟29.5%、昭和30年に麒麟36.8%・朝日31.8%・サッポロ31.4%と逆転
    • [24]ビールの流通ルートはメーカーから特約店、小売店へ流れ、小売店から一般家庭・料飲店へ流れる
    • [25]ビールの味はメーカーからいかに速く消費者へ届くかが影響するため、特約店の倉庫に長く在庫が滞らないよう徹底した指導が必要だったと会社側は説明
    • [26]特約店の小売店に対するリベート競争を少なくするため仕入れ箱数を一括してリベート計算する仕組みを採り、リベートを現金ではなく株式で支払う方式も取った
    • [27]手形決済のサイトを30日と定め、他社よりも異例に短くした
    • [28]当初は特約店・酒販店間にかなり潜在的な反発もあったが、長期的には逆に信頼感を高めたと流通業界は評した
    • [29]1972年時点で麒麟麦酒は約770店の特約店網を持つ
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻5号
    • [30]終戦後の物資欠乏時代に最も困ったのはビンの不足だった
    • [31]新ビンの購入資金のため銀行へ日参し、提出した資金繰表と実際の資金繰りに狂いが少なかったことで信用を得て借入と調達ができた
    • [32]支店長は得意先に「キリンビールが売れるからといって代金回収を忘れて売り急がないように」と自制させるのが常だった
    • [33]ビールは小売価格の半分が税金であり、貸倒れが一本でも発生すれば30〜40本分の儲けが吹き飛ぶ
    • [34]社内は独立採算制で、本社は工場から製品を買って一定マージンを取り支店へ卸し、支店もマージンを取って代理店へ売る
    • [35]支店の本社への送金が期日を1日でも過ぎれば支店が日歩を支払い、期日前に支払えば本社が奨励金として日歩を支店へ支払った

1968年〜シェア58.9%が呼んだ寡占への風圧と、多角化の決定

需要予測に沿わせ、拡販を控える設備投資

1971年、麒麟麦酒はコンピューターを使ってビールの需要予測を行っていた。需要を決める最大の要因である天候は予測できないため過去十年の平均値を基礎とし、男女の成年人口と年齢分布、国民一人当たりの消費支出金額、ビールの相対価格を投入して予測した。この予測に基づく設備計画について、会社はシェアを広げるためではなく、品切れを起こして消費者を困らせないための最低限の供給能力を確保するものだと説明した。中心は翌1972年4月に操業予定の岡山工場で、取手工場の第三次拡張工事と京都・東京・広島各工場の合理化・拡充工事も並行して進めた。設備投資は当分、支払ベースで年々200億円程度を続けるとした。需要が見込みを上回っても販売の拡大は控え、増えた消費は他社へ回る、というのが当時の姿勢である。

  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻5号
    • [36]1971年時点でコンピューターを駆使してビールの需要予測を行っていた
    • [37]需要の最大要因である天候は予測できないため過去10年の平均値を基礎とし、男女の成年人口と年齢分布、国民1人当り消費支出金額、ビールの相対価格を投入して予測した
    • [38]設備投資はシェア拡大のためではなく、品切れで消費者に迷惑をかけないための最低限の供給能力の確保であると説明
    • [39]1972年4月操業予定の岡山工場を中心に、取手工場の第3次拡張工事と京都・東京・広島各工場の合理化・拡充工事を進め、当分は年々支払ベースで200億円程度の設備投資を続ける方針
  • 日経ビジネス 1972年7月24日号
    • [40]計画生産に沿って販売するため需要が予想以上に伸びても拡販は控え、消費が増えた分は他社へ回ると会社側は述べた
最後に動いた値上げが招いた管理価格の指摘

1970年10月、麒麟麦酒はビールの値上げを行い、世間から不評を買った。値上げは各社のうち最も遅く、同社が値上げするまでに相当の駆け込み需要が生じて、出荷を停止するほどになった。大壜一本140円は、メーカー建値121円80銭、卸手数料六円、小売マージン18円二十銭から成っていた。建値からビール税67円十銭を引いた残りで、原材料費・容器包装費・販売管理費を賄う。当時、ビール税は小売価格の48%に達していた。この大壜一本140円という価格が動かないことには、寡占のもとで管理された価格だとの批判が出た。市場の半分以上を握る麒麟麦酒には、とりわけ強い風当たりがあった。公正取引委員会もビール業界を監視対象とする姿勢を示した。これに対し会社側は、マージンが低くては競争の余地がないと反論した。

  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻5号
    • [41]昭和45年10月にビールの値上げを行い、世間から不評を買った
    • [44]ビール税は当時、小売価格の48%を占めた
    • [45]大ビン1本140円という価格の固定は寡占による管理価格ではないかと指摘され、市場の半分以上を占める麒麟麦酒への風当たりは特に強かった
    • [47]非常に低いマージンのため競争する余地がなく、無理に競争させれば混乱を起こすだけだと会社側は述べた
  • 日経ビジネス 1972年7月24日号
    • [42]昭和45年10月の値上げでは麒麟麦酒が各社で最後に値上げするまでに相当の駆け込み需要があり、出荷を停止した
    • [43]大びん1本の市販価格140円のうちメーカー建て値121円80銭、卸手数料6円、小売マージン18円20銭。建値にはビール税67円10銭が含まれる
    • [46]公正取引委員会はビール業界の管理価格面を「赤信号」と見て監視体制をとるとした
伸びしろを国内ビールの外へ探す

1971年、米国シーグラム社との間で覚書が交わされて提携が決まり、洋酒部門への進出が新聞や雑誌で報じられた。その下地には、1968年頃から十年後・15年後をにらんでビール以外へ事業を拡大し、多角化を積極的に進めるという麒麟麦酒の方針があった。何に手を出すかは慎重に吟味された。戦後入社の社員が力をつけた中堅に育ち、従来と異なる仕事へ振り向けられる体制が社内に整ったことが、その背中を押した。多角化は洋酒で終わる話ではなく、以前から縁のある食品・飲料の分野のほか、ビール粕や酵母などの副産物をどう生かすかも研究の対象となった。1971年の麒麟麦酒のシェアは58.9%に達し、翌年には60%の大台に届く公算が大きいと業界はみていた。国内ビールで積み上げた優位が、そのまま伸びしろの天井になっていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻5号
    • [48]1971年 米国シーグラム社と提携の覚書を取り交わし、洋酒部門への進出が新聞・雑誌に伝えられた
    • [49]3年ほど前(1968年頃)から10年・15年先を考え、ビール以外の分野へ進出して経営の多角化を積極的に推進することを決めた
    • [50]戦後入社した社員が中堅クラスへ成長し、それまでと違う仕事へ活用できる社内体制が整った
    • [51]多角化は洋酒だけで完了せず、食品・飲料分野やビール粕・酵母などの副産物の有効利用も研究中とした
  • 日経ビジネス 1972年7月24日号
    • [52]昭和46年のシェアは麒麟58.9%、サッポロ22.1%、朝日14.9%、サントリー4.2%。業界では翌年60%の大台に乗る可能性が強いと見られた
参考文献[36]-[52]
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻5号
    • [36]1971年時点でコンピューターを駆使してビールの需要予測を行っていた
    • [37]需要の最大要因である天候は予測できないため過去10年の平均値を基礎とし、男女の成年人口と年齢分布、国民1人当り消費支出金額、ビールの相対価格を投入して予測した
    • [38]設備投資はシェア拡大のためではなく、品切れで消費者に迷惑をかけないための最低限の供給能力の確保であると説明
    • [39]1972年4月操業予定の岡山工場を中心に、取手工場の第3次拡張工事と京都・東京・広島各工場の合理化・拡充工事を進め、当分は年々支払ベースで200億円程度の設備投資を続ける方針
    • [41]昭和45年10月にビールの値上げを行い、世間から不評を買った
    • [44]ビール税は当時、小売価格の48%を占めた
    • [45]大ビン1本140円という価格の固定は寡占による管理価格ではないかと指摘され、市場の半分以上を占める麒麟麦酒への風当たりは特に強かった
    • [47]非常に低いマージンのため競争する余地がなく、無理に競争させれば混乱を起こすだけだと会社側は述べた
    • [48]1971年 米国シーグラム社と提携の覚書を取り交わし、洋酒部門への進出が新聞・雑誌に伝えられた
    • [49]3年ほど前(1968年頃)から10年・15年先を考え、ビール以外の分野へ進出して経営の多角化を積極的に推進することを決めた
    • [50]戦後入社した社員が中堅クラスへ成長し、それまでと違う仕事へ活用できる社内体制が整った
    • [51]多角化は洋酒だけで完了せず、食品・飲料分野やビール粕・酵母などの副産物の有効利用も研究中とした
  • 日経ビジネス 1972年7月24日号
    • [40]計画生産に沿って販売するため需要が予想以上に伸びても拡販は控え、消費が増えた分は他社へ回ると会社側は述べた
    • [42]昭和45年10月の値上げでは麒麟麦酒が各社で最後に値上げするまでに相当の駆け込み需要があり、出荷を停止した
    • [43]大びん1本の市販価格140円のうちメーカー建て値121円80銭、卸手数料6円、小売マージン18円20銭。建値にはビール税67円10銭が含まれる
    • [46]公正取引委員会はビール業界の管理価格面を「赤信号」と見て監視体制をとるとした
    • [52]昭和46年のシェアは麒麟58.9%、サッポロ22.1%、朝日14.9%、サントリー4.2%。業界では翌年60%の大台に乗る可能性が強いと見られた

筆者考察

戦後の麒麟麦酒を首位へ押し上げたのは、売る力ではなく、売った代金を取り切る規律だった。1945年の生産は全国46万石のうち九万七千石にとどまり、三社で最も設備の小さい会社が、業務用の得意先を握る二社を正面から崩すことはできなかった。残されたのは家庭という、まだ誰の地盤でもない場所である。そこへ向けた販売は、特約店のリベート競争を止め、手形を30日で決済し、支店の送金が一日遅れれば日歩を課すという、伸びた売上が焦げ付かないための仕掛けで支えられた。小売価格の半分が税金で、一本の貸倒れが30本から40本分の利益を消す事業では、回収の速さがそのまま設備へ回せる資本の厚みになった。

同じ規律は、首位に立った後に別の顔を見せる。需要が伸びても拡販は控え、増えた分は他社へ回ると言い切る姿勢は、市場の6割近くを占める会社が取ると、競争を避ける構えとして読まれた。1970年の値上げで最後に動いたことはかえって駆け込み需要を呼び、寡占による管理価格ではないかという指摘と、公正取引委員会の監視を招いている。国内ビールで積める量には、需要より先に法と世論が天井を張ったのだろう。1971年にシーグラムと提携の覚書を交わし、洋酒と食品への多角化を決めたのは、伸びしろを国内ビールの外へ探すほかなくなったからである。

ビール蔵出し量ベースのシェア 1950年〜1971年(%)

29.5 1950 36.8 1955 58.9 1971
  • 1950年は大日本麦酒が日本麦酒と朝日麦酒へ分割された年で、同年のシェアはサッポロ37.0%・朝日33.5%・麒麟29.5%。
  • 出所は日経ビジネス 1972年7月24日号「麒麟麦酒 独走体制いつまで続く」。

1950年〜1971年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1950年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 横浜第二工場完成(1961/04)
1962年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a キリンビール名古屋工場完成(1962/02)
1963年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 高崎工場完成(1965/05)
1966年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a キリンビール福岡工場完成(1966/02)
1967年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 総合研究所を群馬県高崎市に開設(1967/01)
1968年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 寶酒造から取得した京都工場の増改築工事完成(1968/05)
1969年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a キリンビール取手工場完成(1970/06)
1971年01月期 単体 3,236 n/a 137 74 2.3% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

3件
出典・参考
  • 麒麟麦酒株式会社五十年史(麒麟麦酒株式会社, 1957)
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻5号
  • 日経ビジネス 1972年7月24日号

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