プリマハム:全国工場網の構築とプリマハムへの改称
株式公開による産地工場からプリマ会の流通組織化へ
1948年〜大阪・東京への拠点工場による消費地市場の確保
1948年7月9日、竹岸政則氏は個人経営の竹岸ハムを改組し、資本金100万円の竹岸畜産工業株式会社を富山県高岡市に設立した。前年の秋に高岡工場を富山県農業会の手から引き取っており、加工工場のままに置いては時代に遅れをとるという判断が法人化の動機だった。会社組織になっても工場の実態は乏しく、ミキサーも無いまま手で肉を混ぜ、チョッパーで充てんする作業を工場長以下が下駄ばきで続けた。原料の豚が容易に入手できないため、工場はハムと並行して骨粉・皮革・油脂・肥料を作り、石けんまで手がけた。1949年8月に食肉など430品目の価格統制が撤廃されるまで、公定価格の改訂は相次いだ。だが品不足による原料豚の高騰がそれを上回り、加工業者は採算割れに怯えつづけた。
- 企業の歴史 明治百年 第3編(1968年)「プリマハム」
- [1]竹岸畜産工業の設立は1948年7月9日で、本店は富山県高岡市下関に置かれた
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「関西市場での角逐」
- [2]1948年7月に個人経営から会社組織に改め、資本金100万円の竹岸畜産工業株式会社が発足した
- [3]竹岸政則は高岡工場を加工工場のままに放置しては時代に遅れをとると考え、1947年秋に富山県農業会の手を離れてふたたび独力で経営を始めた
- [4]当時の高岡工場はミキサーもなく手で混ぜてチョッパーで充てんする状態で、工場長以下が下駄ばきで作業していた
- [5]食糧難と飼料難で原料豚が容易に入手できず、工場はハムを製造するかたわら骨粉、皮革、油脂、肥料を製造し石けんもつくっていた
- [6]1946年3月に再び統制となった生鮮食糧品の価格は公定価格の改訂が相次ぎ、1949年8月の食肉等430品目の価格統制撤廃まで上昇をつづけた
- [7]原料豚の価格が品不足から急激に高騰したため、食肉加工メーカーはしょっちゅう採算割れにおびえていなければならなかった
会社組織になった竹岸畜産工業が最初に挑んだのは大阪市場だった。関西は東京と全国を二分する大市場で、高岡から近く、いま押さえておかなければ逆に北陸を脅かされるという読みがあった。だが大阪の南は鳥清ハムの地盤で、香川ハムに代わって徳島ハムが取引先を増やし、神戸の伊藤ハムも西から進出しようとしていた。県外へ販路の大半を求める立地の不利に加え、鉄道運賃と包装材料費の高騰が重くのしかかった。消費地近郊の同業者との得意先争奪に一部値下げを断行せざるをえず、それでも得意先の減少は止まらなかった。1951年3月、竹岸畜産工業は大阪市大淀区に業界が驚く規模の大阪工場を建設したが、この積極策は資金の窮迫と販売網の不足を同時に露呈させた。繰り返し小売店を回る白兵戦のすえ、関西の地盤は徐々に固まっていった。
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「関西市場での角逐」
- [8]竹岸畜産は会社組織となって発足したのち、あえて大阪市場への進出をくわだてた
- [9]関西市場は東京とともに全国を二分する大市場で高岡から距離が近く、いま確保しておかなければ大市場を押えたメーカーによって高岡そのものがおびやかされると判断された
- [10]当時の大阪市場は南に鳥清ハムが地盤を築き、香川ハムに徳島ハムがとって代わりつつあり、神戸に本拠をもつ伊藤ハムが西から進出しようとしていた
- [11]第一期営業報告書は、販路の大半を県外に求める販売部門の立地的不利に加え、鉄道運賃と包装材料費の高騰が大きな負担となっていると記した
- [12]第一期営業報告書は、消費地近郊の同業者との得意先争奪が熾烈で一部値下げを断行せざるをえず、なお得意先の漸減傾向を阻止できずコスト切れに至ったと記した
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 プリマハム(竹岸政則)
- [13]1951年に大阪工場の建設に踏み切ったが、この積極策は一方で資金の窮迫、他方で販売網の不足を暴露する結果となった
- プリマハム 有価証券報告書【沿革】
- [14]大阪工場は1951年3月に大阪市大淀区で開設され、当時の業界が驚くほどの大型工場だった
関西の地盤が固まると、竹岸畜産工業は最大の消費地である東京へ向かった。1958年のハム・ソーセージ消費量は戦前の十数倍に達し、人口の10分の1を抱える東京だけで市場の3分の1を占めていた。東京の足場づくりは、売り先を確かめ、次に工場を置き、本社を動かすのは最後という順で進んだ。1956年に東京営業所を開き、その成績を見極めてから1958年に千葉に直売所を設け、1959年3月には品川区で東京工場を稼働させるという慎重な運びだった。準備が整った同年6月、本店は高岡から東京都千代田区大手町へ移された。ただ同じ時期、大手2社が東京に入り込んできた。大手の水産会社も魚肉を使ったハム・ソーセージを手がけ始め、競争はますます激しくなった。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 プリマハム(竹岸政則)
- [15]竹岸は関西地区の地盤が固まるとみるや一転して東京進出をはかり、ハム・ソーセージの中心市場である東京をねらった
- [16]1958年のハム・ソーセージ消費量は戦前の十数倍の規模となり、消費の中心は人口の10分の1を擁する東京で、東京だけで市場の3分の1を占めていた
- [17]竹岸は1956年に東京へ営業所を開き、営業実績をみて1958年に千葉へ直売所を設け、翌1959年に東京工場をつくり上げた
- [19]竹岸の東京進出と前後して大手2社が進出し、ついで大手水産会社が魚肉を原料とするハム・ソーセージの製造に乗り出したため競争は激化の一途をたどった
- プリマハム 有価証券報告書【沿革】
- [18]東京工場は1959年3月に東京都品川区へ開設され、同年6月に本店が東京都千代田区大手町へ移された
参考文献[1]-[19]
- 企業の歴史 明治百年 第3編(1968年)「プリマハム」
- [1]竹岸畜産工業の設立は1948年7月9日で、本店は富山県高岡市下関に置かれた
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「関西市場での角逐」
- [2]1948年7月に個人経営から会社組織に改め、資本金100万円の竹岸畜産工業株式会社が発足した
- [3]竹岸政則は高岡工場を加工工場のままに放置しては時代に遅れをとると考え、1947年秋に富山県農業会の手を離れてふたたび独力で経営を始めた
- [4]当時の高岡工場はミキサーもなく手で混ぜてチョッパーで充てんする状態で、工場長以下が下駄ばきで作業していた
- [5]食糧難と飼料難で原料豚が容易に入手できず、工場はハムを製造するかたわら骨粉、皮革、油脂、肥料を製造し石けんもつくっていた
- [6]1946年3月に再び統制となった生鮮食糧品の価格は公定価格の改訂が相次ぎ、1949年8月の食肉等430品目の価格統制撤廃まで上昇をつづけた
- [7]原料豚の価格が品不足から急激に高騰したため、食肉加工メーカーはしょっちゅう採算割れにおびえていなければならなかった
- [8]竹岸畜産は会社組織となって発足したのち、あえて大阪市場への進出をくわだてた
- [9]関西市場は東京とともに全国を二分する大市場で高岡から距離が近く、いま確保しておかなければ大市場を押えたメーカーによって高岡そのものがおびやかされると判断された
- [10]当時の大阪市場は南に鳥清ハムが地盤を築き、香川ハムに徳島ハムがとって代わりつつあり、神戸に本拠をもつ伊藤ハムが西から進出しようとしていた
- [11]第一期営業報告書は、販路の大半を県外に求める販売部門の立地的不利に加え、鉄道運賃と包装材料費の高騰が大きな負担となっていると記した
- [12]第一期営業報告書は、消費地近郊の同業者との得意先争奪が熾烈で一部値下げを断行せざるをえず、なお得意先の漸減傾向を阻止できずコスト切れに至ったと記した
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 プリマハム(竹岸政則)
- [13]1951年に大阪工場の建設に踏み切ったが、この積極策は一方で資金の窮迫、他方で販売網の不足を暴露する結果となった
- [15]竹岸は関西地区の地盤が固まるとみるや一転して東京進出をはかり、ハム・ソーセージの中心市場である東京をねらった
- [16]1958年のハム・ソーセージ消費量は戦前の十数倍の規模となり、消費の中心は人口の10分の1を擁する東京で、東京だけで市場の3分の1を占めていた
- [17]竹岸は1956年に東京へ営業所を開き、営業実績をみて1958年に千葉へ直売所を設け、翌1959年に東京工場をつくり上げた
- [19]竹岸の東京進出と前後して大手2社が進出し、ついで大手水産会社が魚肉を原料とするハム・ソーセージの製造に乗り出したため競争は激化の一途をたどった
- プリマハム 有価証券報告書【沿革】
- [14]大阪工場は1951年3月に大阪市大淀区で開設され、当時の業界が驚くほどの大型工場だった
- [18]東京工場は1959年3月に東京都品川区へ開設され、同年6月に本店が東京都千代田区大手町へ移された
1957年〜産地工場の建設と株式公開による原料調達の内製化
1957年、竹岸畜産工業は消費地だけに工場を構える方式を改め、原料の産地へ工場を出す方針に切り替えた。豚の枝肉価格は一定の周期で上下し、養豚家が価格につれて飼育をやめるため変動はさらに増幅されていた。1957年度には牛肉の輸入が一部業者の思惑で急増して過剰在庫となり、国内畜産の保護を理由に牛肉と豚肉の輸入に外貨割当の制限がかかった。芝浦や大阪の既存のと場に原料を頼るかぎり、と場から加工までを一貫して管理できない。産地からと場までの輸送費と中間マージンも負担として残る。同年2月10日、北海道の清水町議会は満場一致で十勝工場の誘致を決め、町は土地1万4824平方メートルと建物を無償で提供した。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「II 築きあげた〝繁栄〟」
- [20]大量生産をめざす食肉メーカーとして大消費地だけに工場を構える方式では不十分と判断し、竹岸は原料産地につぎつぎと工場をつくっていった
- [21]豚枝肉の価格は一定周期で上昇下落を繰り返し、養豚家が価格の変動につれて豚を飼ったりやめたりすることが価格変動に拍車をかけた
- [22]1957年度に牛肉の輸入が一部業者の思惑もあって急増して過剰ストックとなり、国内畜産保護のため牛肉と豚肉の輸入は外貨割当制で制限された
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「畜産王国に生産工場」
- [23]芝浦や大阪などの既存のと場に原料供給を依存するのでは、と場から加工までの一貫した管理ができなかった
- [24]原料産地からと場までの輸送費と中間マージンなど多くの流通経費を負担しなければならないため、産地での原料の直接買付けが必要とされた
- [25]1957年2月10日に北海道清水町議会が満場一致で竹岸畜産工業の十勝工場の誘致を承認決定し、町は土地1万4824平方メートルと建物を無償で提供した
北海道工場は1957年10月に竣工し、従業員40名で操業を始めた。牛・馬・豚それぞれ一日40頭を処理できると場と、ハム・ソーセージ月産150トンの製造設備を備えた。機械は前年に竹岸が視察した欧州と、1957年1月に上坂信夫大阪工場長が回った米英独仏などの技術から選んで輸入した。次の布石は南九州で、鹿児島県串木野市が6万6000平方メートルの用地を提供し、1960年4月に第一期工場が操業に入った。投じた資本は運転資金を含めて5億円に及び、1961年には全国に先がけて種豚のランドレース種16頭を輸入した。1961年8月には秋田県本荘市にも工場を開いた。生きた豚を市場へ送れば足を折り、斃死し、目方も減る。産地で処理すればその損耗が消え、生産者の採算も上がった。
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「畜産王国に生産工場」
- [26]北海道工場は1957年10月に竣工し、従業員40名を擁して操業を開始した
- [27]北海道工場は牛、馬、豚の処理能力おのおの一日40頭のと場と、ハム・ソーセージ月産150トンの製造設備をもっていた
- [28]1956年5月に竹岸社長がヨーロッパのと場の設備と取引機構を視察し、1957年1月には上坂信夫大阪工場長がアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スイス、イタリアを視察して、その技術が北海道工場に導入された
- [29]鹿児島県串木野市が工場用地として6.6ヘクタールを提供し、1959年9月24日に起工式を挙げた鹿児島工場は翌年4月に第一期工場が完成して操業を開始した
- [30]鹿児島工場に投下された資本は無償譲渡された土地の評価と操業開始後の運転資本を合計して5億円に及び、1961年6月から7月にかけて全国のトップを切って種豚ランドレース種16頭が輸入された
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「II 築きあげた〝繁栄〟」
- [31]秋田工場は1961年8月に秋田県本荘市で開設され、東北事業部の生産供給源としての役割を果たした
- [32]豚を生きたまま輸送すると途中で足を折ったり斃死したりする損耗があり、スタミナの消耗で目方も減って肉質が落ちた
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 プリマハム(竹岸政則)
- [33]生体のまま中央の食肉市場へ出荷して斃死や重量の減少で買い叩かれていた生産者は、竹岸畜産の手に委ねてから採算が向上した
鹿児島工場の建設が当初の計画より大規模になり、当時の企業能力に対して借入が膨らんだ。そこで竹岸畜産工業は、資金を広く一般から集める道を選んだ。食肉産業は農産物を原料とする工業で付加価値が薄く、都市銀行にとっては融資と調査の対象から外れた業種だった。北海道開発公庫と農林中央金庫に資金を仰いだときも、先方にこの業種を扱った経験がなかった。1960年2月に増資して資本金を2億2000万円とし、同年4月に東京の店頭で株式を公開した。同年10月には資本金を3億5000万円へ増やして大阪の店頭にも公開した。市場第二部の発足とともに第二部へ上場し、1962年8月には東京・大阪両取引所の第一部へ変更上場した。先鞭をつけた竹岸畜産工業に続き、鳥清ハム、徳島ハム、伊藤ハム、遅れてアンデスハムも株式を公開した。
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「フロンティアの本領」
- [34]鹿児島工場の建設が当初の計画より大規模になり、当時の竹岸畜産の企業能力に対して負担が大きすぎて金融機関からの借入れがふくらんだ
- [35]金融機関からの借入れだけでなく自己資本として調達することが健全な財政のうえで必要と考え、竹岸の経営陣は株式を公開して資金を広く一般から得ようとした
- [36]食肉産業は農産物を原料とする工業で付加価値が少なく地味であり、都市銀行にとってこれまで融資と調査の主対象から外れていた業種だった
- [37]北海道、鹿児島両工場の建設にさいして北海道開発公庫と農林中央金庫に融資を仰いだ際、先方にこうした業種を扱った経験がなく竹岸畜産のケースが初めてだった
- [38]1960年2月に増資して資本金を2億2000万円とし、同年4月に東京株式市場へ店頭株として株式を公開した
- [39]資本金を3億5000万円に増資して大阪株式市場の店頭にも公開した
- [41]竹岸畜産が先鞭をつけたことによって、鳥清ハム、徳島ハム、伊藤ハム、ややおくれてアンデスハムも株式を公開した
- プリマハム 有価証券報告書【沿革】
- [40]東京・大阪両証券取引所の市場第二部の発足とともに第二部へ上場し、1962年8月に東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ変更上場した
参考文献[20]-[41]
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「II 築きあげた〝繁栄〟」
- [20]大量生産をめざす食肉メーカーとして大消費地だけに工場を構える方式では不十分と判断し、竹岸は原料産地につぎつぎと工場をつくっていった
- [21]豚枝肉の価格は一定周期で上昇下落を繰り返し、養豚家が価格の変動につれて豚を飼ったりやめたりすることが価格変動に拍車をかけた
- [22]1957年度に牛肉の輸入が一部業者の思惑もあって急増して過剰ストックとなり、国内畜産保護のため牛肉と豚肉の輸入は外貨割当制で制限された
- [31]秋田工場は1961年8月に秋田県本荘市で開設され、東北事業部の生産供給源としての役割を果たした
- [32]豚を生きたまま輸送すると途中で足を折ったり斃死したりする損耗があり、スタミナの消耗で目方も減って肉質が落ちた
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「畜産王国に生産工場」
- [23]芝浦や大阪などの既存のと場に原料供給を依存するのでは、と場から加工までの一貫した管理ができなかった
- [24]原料産地からと場までの輸送費と中間マージンなど多くの流通経費を負担しなければならないため、産地での原料の直接買付けが必要とされた
- [25]1957年2月10日に北海道清水町議会が満場一致で竹岸畜産工業の十勝工場の誘致を承認決定し、町は土地1万4824平方メートルと建物を無償で提供した
- [26]北海道工場は1957年10月に竣工し、従業員40名を擁して操業を開始した
- [27]北海道工場は牛、馬、豚の処理能力おのおの一日40頭のと場と、ハム・ソーセージ月産150トンの製造設備をもっていた
- [28]1956年5月に竹岸社長がヨーロッパのと場の設備と取引機構を視察し、1957年1月には上坂信夫大阪工場長がアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スイス、イタリアを視察して、その技術が北海道工場に導入された
- [29]鹿児島県串木野市が工場用地として6.6ヘクタールを提供し、1959年9月24日に起工式を挙げた鹿児島工場は翌年4月に第一期工場が完成して操業を開始した
- [30]鹿児島工場に投下された資本は無償譲渡された土地の評価と操業開始後の運転資本を合計して5億円に及び、1961年6月から7月にかけて全国のトップを切って種豚ランドレース種16頭が輸入された
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 プリマハム(竹岸政則)
- [33]生体のまま中央の食肉市場へ出荷して斃死や重量の減少で買い叩かれていた生産者は、竹岸畜産の手に委ねてから採算が向上した
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「フロンティアの本領」
- [34]鹿児島工場の建設が当初の計画より大規模になり、当時の竹岸畜産の企業能力に対して負担が大きすぎて金融機関からの借入れがふくらんだ
- [35]金融機関からの借入れだけでなく自己資本として調達することが健全な財政のうえで必要と考え、竹岸の経営陣は株式を公開して資金を広く一般から得ようとした
- [36]食肉産業は農産物を原料とする工業で付加価値が少なく地味であり、都市銀行にとってこれまで融資と調査の主対象から外れていた業種だった
- [37]北海道、鹿児島両工場の建設にさいして北海道開発公庫と農林中央金庫に融資を仰いだ際、先方にこうした業種を扱った経験がなく竹岸畜産のケースが初めてだった
- [38]1960年2月に増資して資本金を2億2000万円とし、同年4月に東京株式市場へ店頭株として株式を公開した
- [39]資本金を3億5000万円に増資して大阪株式市場の店頭にも公開した
- [41]竹岸畜産が先鞭をつけたことによって、鳥清ハム、徳島ハム、伊藤ハム、ややおくれてアンデスハムも株式を公開した
- プリマハム 有価証券報告書【沿革】
- [40]東京・大阪両証券取引所の市場第二部の発足とともに第二部へ上場し、1962年8月に東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ変更上場した
1961年〜規格肉とプリマ会による食肉流通の組織化
1961年、竹岸畜産工業は生肉の販売を本格的に始めた。竹岸は、生肉で主導権を取った者が食肉産業全体を押さえると考えていた。国内の食肉需要のうち8割を生肉が占め、加工品で市場での取り分を持つ大手でさえ生肉のシェアは小さかった。加工の度合いが低い生肉は利幅が薄く、地域を絞って大量に売らなければ商売にならない。竹岸が選んだのは、枝肉の形で卸す代わりに、ロース・モモ・バラなどの部位に工場で切り分けてから販売店に納める規格肉だった。これで小売店は肉を切り分ける手間がなくなり、必要な部位だけを仕入れられるようになり、部門の売上は10年続けて伸びた。大消費地では並肉がよく売れて上級肉が余ったが、その分は消費量の多い地方都市への販路で売り切った。産地工場の完成が規格肉の販売へ踏み出す契機となり、1960年以降の売上の伸びを支えた。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 プリマハム(竹岸政則)
- [42]1961年から生肉の販売を本格的に行なった
- [43]生肉の主導権をにぎるものは食肉産業を制するといっても過言ではないとされた
- [44]全国食肉需要量の80%は生肉であり、大手食肉加工会社は加工品ではかなりの市場占拠率を持つものの生肉のシェアは微々たるものだった
- [45]生肉はハム・ソーセージの加工品と違って加工度が低くマージンが薄いため、地域的に集中した大量販売が必要だった
- [46]仲買人のように枝肉を販売するのではなく、工場内であらかじめロース、モモ、バラなどに仕分けした規格肉を販売店に供給した
- [47]従来は小売店が枝肉を仕入れて自ら切りさばいており、熟練労働力の不足するなかで規格肉は切り分けの手間を省き、希望する部分だけを買い入れられるようにした
- [48]規格肉は小売店の大歓迎するところとなり、この部門の売上げは10年間にわたり驚異的な伸びを続けた
- [49]大消費地区は食肉が大衆化して並肉が中心に売れるため上級肉が余るが、竹岸畜産はそれを消費の大きい地方都市へ供給してさばくことができた
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「国際的視野のもとに」
- [50]産地工場の完成が規格肉販売へ乗り出す契機となり、1960年以降の飛躍的な売上増加の一因は産地工場完成による食肉市場への進出だった
全国を工場ごとのブロックに区切り、ブロック単位で独立採算を課す。この仕組みはブロック制と呼ばれ、規格肉を全国に行き渡らせる受け皿として1956年に発足した。1967年には13ブロックからなる事業部制として動いており、国内の事業部制の草分けと評された。販売では業界で初のボランタリーチェーンを導入して協力店をプリマ会に組織し、加盟団体は一括の仕入れで仕入価格を抑えられた。1968年の時点で加わっていたのは全国230チーム・7000店で、1万6000店ある得意先の約半数に当たった。土浦の工場には全寮制の竹岸高等食肉技術学校を置き、毎年200名を入学させて技術を教えた。取引先の店主になる者を自社で育てる先行投資である。
- 企業の歴史 明治百年 第3編(1968年)「プリマハム」
- [51]全国を工場中心に15ブロックに分けて独立採算制をとる地域別事業部制を敷いた
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「躍進の秘密」
- [52]わが国で最初の事業部制の採用ともいうべきブロック制を1956年に発足させた
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 プリマハム(竹岸政則)
- [53]全国を13ブロックに分けた事業部制はわが国の事業部制に先鞭をつけたもので、ボランタリーチェーンのプリマ会とともに業界で最初の試みだった
- [54]業界に先んじてボランタリーチェーンを採択し、協力店の組織プリマ会を設立した
- [55]プリマ会の加盟団体は団体ごとに一括購入できるため仕入価格が安くなり、協力メンバーは急速に増加して販路がひろがった
- 証券アナリストジャーナル 第6巻第8号(日本証券アナリスト協会、1968年)竹岸政則
- [56]1968年時点でプリマ会は全国230チーム・7000店が活動し、1万6000店ある得意先の約半数近くが加入していた
- [57]プリマ会の会員店の子弟教育として毎年200名ずつを全寮制の竹岸高等食肉技術学校に入学させ、徹底した技術教育を実施した
原料の制約を国外で解こうとしたのが、冷凍肉専用運搬船プリマ丸である。マトンの価格は45〜50%が運賃などの輸入経費で占められていた。竹岸は伊藤忠商事と提携して2000総トンの専用船を長期契約し、1965年2月5日に函館ドックで進水させた。ニュージーランドから年8航海・8000トンを運ぶ計画で、1966年時点の輸入量では、輸送費と倉庫料が年1億5000万円ほど安くついた{q1}。1966年3月にはブラジルの食肉会社を買収し、伊藤忠商事との合弁会社プリミートを発足させた。1964年には茨城県土浦市へ年産1万2000トンを超える新東京工場を建設し、1965年5月に商号をプリマハムへ改めた。売上高は1957年3月期の8億円から1971年3月期の508億円へ伸びた。原料を産地から船まで自ら押さえたことが、この伸びを支えた。
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「プリマ丸就航」
- [58]竹岸畜産はマトンの仕入コストを大幅に節約するため、冷凍肉専用運搬船プリマ丸を就航させた
- [59]マトンの生産はニュージーランドとオーストラリアに依存せざるをえず、その価格は45〜50%が運賃などの輸入経費だった
- [60]1965年2月5日に北海道の函館ドックで長さ90メートル・2000総トンの冷凍肉専用運搬船プリマ丸の進水式が行なわれ、伊藤忠商事と提携して長期契約した
- [61]プリマ丸はニュージーランドから年間8航海、8000トンのマトンを輸入する計画で運航された
- [63]1964年に茨城県土浦市へ建設された新東京工場は年産1万2000トンをはるかにこえる生産能力をもち、豚450頭・マトン2000頭の原料処理能力と日産40トンの畜肉加工能力を備えた
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「国際的視野のもとに」
- [62]1966年3月にブラジルの大手生産会社ブラガンサの買収に成功し、資本金30万ドルをプリマハム6・伊藤忠商事4の割合で出資する新会社プリミートを発足させた
- プリマハム 有価証券報告書【沿革】
- [64]1965年5月に商号を竹岸畜産工業からプリマハム株式会社へ変更した
- 会社年鑑 1963年版・1976年版
- [65]売上高は1957年3月期の8億円から1971年3月期の508億円へ増加した
参考文献[42]-[65]
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 プリマハム(竹岸政則)
- [42]1961年から生肉の販売を本格的に行なった
- [43]生肉の主導権をにぎるものは食肉産業を制するといっても過言ではないとされた
- [44]全国食肉需要量の80%は生肉であり、大手食肉加工会社は加工品ではかなりの市場占拠率を持つものの生肉のシェアは微々たるものだった
- [45]生肉はハム・ソーセージの加工品と違って加工度が低くマージンが薄いため、地域的に集中した大量販売が必要だった
- [46]仲買人のように枝肉を販売するのではなく、工場内であらかじめロース、モモ、バラなどに仕分けした規格肉を販売店に供給した
- [47]従来は小売店が枝肉を仕入れて自ら切りさばいており、熟練労働力の不足するなかで規格肉は切り分けの手間を省き、希望する部分だけを買い入れられるようにした
- [48]規格肉は小売店の大歓迎するところとなり、この部門の売上げは10年間にわたり驚異的な伸びを続けた
- [49]大消費地区は食肉が大衆化して並肉が中心に売れるため上級肉が余るが、竹岸畜産はそれを消費の大きい地方都市へ供給してさばくことができた
- [53]全国を13ブロックに分けた事業部制はわが国の事業部制に先鞭をつけたもので、ボランタリーチェーンのプリマ会とともに業界で最初の試みだった
- [54]業界に先んじてボランタリーチェーンを採択し、協力店の組織プリマ会を設立した
- [55]プリマ会の加盟団体は団体ごとに一括購入できるため仕入価格が安くなり、協力メンバーは急速に増加して販路がひろがった
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「国際的視野のもとに」
- [50]産地工場の完成が規格肉販売へ乗り出す契機となり、1960年以降の飛躍的な売上増加の一因は産地工場完成による食肉市場への進出だった
- [62]1966年3月にブラジルの大手生産会社ブラガンサの買収に成功し、資本金30万ドルをプリマハム6・伊藤忠商事4の割合で出資する新会社プリミートを発足させた
- 企業の歴史 明治百年 第3編(1968年)「プリマハム」
- [51]全国を工場中心に15ブロックに分けて独立採算制をとる地域別事業部制を敷いた
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「躍進の秘密」
- [52]わが国で最初の事業部制の採用ともいうべきブロック制を1956年に発足させた
- 証券アナリストジャーナル 第6巻第8号(日本証券アナリスト協会、1968年)竹岸政則
- [56]1968年時点でプリマ会は全国230チーム・7000店が活動し、1万6000店ある得意先の約半数近くが加入していた
- [57]プリマ会の会員店の子弟教育として毎年200名ずつを全寮制の竹岸高等食肉技術学校に入学させ、徹底した技術教育を実施した
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「プリマ丸就航」
- [58]竹岸畜産はマトンの仕入コストを大幅に節約するため、冷凍肉専用運搬船プリマ丸を就航させた
- [59]マトンの生産はニュージーランドとオーストラリアに依存せざるをえず、その価格は45〜50%が運賃などの輸入経費だった
- [60]1965年2月5日に北海道の函館ドックで長さ90メートル・2000総トンの冷凍肉専用運搬船プリマ丸の進水式が行なわれ、伊藤忠商事と提携して長期契約した
- [61]プリマ丸はニュージーランドから年間8航海、8000トンのマトンを輸入する計画で運航された
- [63]1964年に茨城県土浦市へ建設された新東京工場は年産1万2000トンをはるかにこえる生産能力をもち、豚450頭・マトン2000頭の原料処理能力と日産40トンの畜肉加工能力を備えた
- プリマハム 有価証券報告書【沿革】
- [64]1965年5月に商号を竹岸畜産工業からプリマハム株式会社へ変更した
- 会社年鑑 1963年版・1976年版
- [65]売上高は1957年3月期の8億円から1971年3月期の508億円へ増加した
筆者考察
竹岸畜産工業が業界の第一人者と呼ばれたのは、ハムの作り方を変えたからではない。豚の買い方と肉の売り方を変えたからである。1957年に北海道の清水町、1960年に鹿児島の串木野、1961年に秋田の本荘と、消費地ではなく原料の産地へ工場を置いた。町や県が土地を無償で差し出すほど、産地の側もこの工場を欲しがっていた。生きた豚を市場へ送れば足を折り、斃死し、目方も減る。産地でと場から加工までを一続きにすれば、その損耗も中間マージンも消える。鹿児島工場に5億円を投じて借入が膨らんだとき、竹岸が選んだのは追加の融資ではなく株式の公開だった。食肉を融資の対象と見ていなかった都市銀行の外へ、資金の出どころを移したことになる。
売る側でも、同じように工程を自社へ引き取った。生肉は全国の食肉需要の8割を占めながら、加工品で市場占拠率を持つ大手でさえシェアの薄い領域だった。枝肉を卸して小売店に切らせるのをやめ、工場でロース・モモ・バラへ分けた規格肉を届ける。切り分けの熟練を要らなくした代わりに、大消費地で余る上級肉は地方都市の販路へ回した。1956年に始めたブロック制と、1968年に7000店を数えたプリマ会が、その受け皿である。原料のために冷凍運搬船を1隻長期契約し、ブラジルの食肉会社まで買った会社が、売り先の店主を育てる学校も抱えた。1957年3月期に8億円だった売上高は、1971年3月期に508億円へ達している。
1948年〜1971年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 8 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 12 | +50.0% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 14 | +16.7% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 19 | +35.7% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 34 | +78.9% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 48 | +41.2% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 62 | +29.2% | n/a | 1 | 1.6% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 83 | +33.9% | n/a | 2 | 2.4% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 111 | +33.7% | n/a | 1 | 0.9% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 141 | +27.0% | 5 | 2 | 1.4% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 186 | +31.9% | 8 | 4 | 2.2% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 231 | +24.2% | 6 | 4 | 1.7% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 303 | +31.2% | 8 | 4 | 1.3% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 403 | +33.0% | 9 | 5 | 1.2% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 508 | +26.1% | 10 | 5 | 1.0% | n/a |
出所:会社年鑑 1963年版、会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1976年版
出典・参考
12件
- プリマハム 有価証券報告書【沿革】
- 会社年鑑 1963年版・1976年版
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「関西市場での角逐」
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「畜産王国に生産工場」
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「フロンティアの本領」
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「国際的視野のもとに」
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「躍進の秘密」
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「プリマ丸就航」
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 プリマハム(竹岸政則)
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「II 築きあげた〝繁栄〟」
- 企業の歴史 明治百年 第3編(1968年)「プリマハム」
- 証券アナリストジャーナル 第6巻第8号(日本証券アナリスト協会、1968年)竹岸政則