プリマハム:竹岸政則の竹岸ハム商会創業と食肉加工の開始
1931年〜資本力の差を見た青年が選んだハム製造
竹岸政則氏は1910年2月、富山県氷見市加納町の中農の家に生まれた。富山県立氷見農林学校から麻布獣医畜産学校へ進み、1928年3月に卒業すると、三菱一族の岩崎輝弥が経営する子安農園立川養豚場へ研究生として入った。この養豚場は約1000頭を飼い、イギリスから輸入した豚を繁殖させて種豚を全国の農村へ送り出す、国内有数の規模だった。折しも日本経済は金融恐慌に続いて1929年からの世界恐慌に洗われ、豚相場は変動を繰り返す。岩崎・三菱の後ろ盾を持つ立川養豚場は耐えたが、資本力のない養豚業者は次々に打ちのめされた。竹岸は農家から高く売れる先の斡旋を頼まれて場長に取り次いだものの、結果はやはり安値で買いたたかれた。
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- [1]竹岸政則は1910年2月、竹岸重助とふての次男として現在の富山県氷見市加納町3510番地に生まれ、家は土地1町5反を持つ典型的な中農だった
- [2]竹岸政則は富山県立氷見農林学校から麻布獣医畜産学校へ進んで1928年3月に卒業し、三菱一族の岩崎輝弥が経営する子安農園立川養豚場へ研究生として入った
- [3]立川養豚場は約1000頭の豚を飼い、イギリスから豚を輸入して繁殖させ種豚として全国へ送り出す国内有数の養豚場だった
- [4]昭和初年の金融恐慌に続いて1929年からの世界恐慌が日本経済を襲い、その間に豚相場は変動を繰り返した
- [5]岩崎・三菱の後ろ盾がある立川養豚場は繰り返す豚相場の変動に耐えたが、大資本の後ろ盾のない養豚業者は相場の変動に打ちのめされた
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [6]竹岸政則は農家から高く売れる売り先の斡旋を頼まれ、場長に話して仲介したが、結果は安値で買いたたかれた
養豚を奨励するだけでは農村は栄えないと考えた竹岸は、流通の側へ回る道を探した。まず缶詰加工を検討したが設備費が重く資本の回転も遅いため断念し、次に豚問屋を調べたものの、冷蔵庫がほとんどない当時は朝処理した肉を夕方までに売り切るしかなく、商いの幅が狭かった。残ったのが中間のハム・ソーセージ製造である。小資本でも始められ、生肉と違って遠方まで販路を伸ばせた。1929年に研究生の期限を終えた竹岸は、横浜元町の合名会社大木商会に入って加工技術と取引の技術を身につけた。約1年後に名古屋の愛禽ハムへ移り、さらに月給50円で大阪の大村商会へ招かれたが、同社は売行き不振と資金回収の行き詰まりから1930年8月に倒産した。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [7]竹岸政則は缶詰加工を設備費と資本回転の面から断念し、豚問屋も冷蔵庫が普及しておらず朝処理した肉を夕方までに売る必要があって商いの範囲が狭いと判断した
- [8]竹岸政則はハム・ソーセージ製造を、小資本でも始められ生肉と違って遠方まで販路を伸ばせる中間の道として選んだ
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- [9]竹岸政則は1929年に立川養豚場の研究生としての期限を終え、横浜元町でハムの製造販売を営む従業員50名程度の合名会社大木商会に入り、加工技術とともに取引の技術を身につけた
- [10]竹岸政則は大木商会に約1年勤めたのち名古屋の愛禽ハムへ移り、月給50円で大阪の大村商会へ赴任したが、同社は売行き不振に加えて資金回収が進まず1930年8月に倒産した
1930年の冬、竹岸は金沢での開業を決めた。父の重助は経営を知らないとして反対したが、家族会議で兄弟が同調し、長兄の重作と弟の義雄が協力者として同行した。金沢駅前の田丸町152番地に間口2間、奥行8間の二階家を借り、上坂信夫と田代の2少年を加えた総勢5名で、1931年9月1日に竹岸ハム商会の事業を始めた。この家が店であり工場であり住まいでもあった。毎朝4時半に起きて正午までハム・ソーセージを作り、午後は組を分けて金沢市内の問屋と小売店を一軒ずつ売り歩いた。だが当時の金沢ではハム・ソーセージへの理解が浅く、名刺に呼出し電話しか刷れない新参者は門前払いを受けることも多かった。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [11]竹岸政則は勤め先の倒産で郷里に帰ったのち、1930年の冬に金沢で開業する決心をした
- [12]竹岸政則の父重助は独立に反対したが、家族会議で兄弟が同調し、長兄の重作と弟の義雄が協力者として金沢に同行することになった
- [13]金沢駅前の田丸町152番地の間口2間・奥行8間の二階家を借り、上坂信夫少年と田代某少年を加えた総勢5名で、1931年9月1日に竹岸ハム商会の事業を開始した
- [14]田丸町の二階家は店であり工場であり住居でもあり、毎朝4時半に起きて正午までハム・ソーセージを製造し、午後は組を分けて金沢市内の問屋・小売店を一軒ずつ売り歩いた
- [15]当時の金沢ではハム・ソーセージへの理解が浅く、名刺に呼出し電話を刷った新参者は門前払いを受けることもあった
参考文献[1]-[15]
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- [1]竹岸政則は1910年2月、竹岸重助とふての次男として現在の富山県氷見市加納町3510番地に生まれ、家は土地1町5反を持つ典型的な中農だった
- [2]竹岸政則は富山県立氷見農林学校から麻布獣医畜産学校へ進んで1928年3月に卒業し、三菱一族の岩崎輝弥が経営する子安農園立川養豚場へ研究生として入った
- [3]立川養豚場は約1000頭の豚を飼い、イギリスから豚を輸入して繁殖させ種豚として全国へ送り出す国内有数の養豚場だった
- [4]昭和初年の金融恐慌に続いて1929年からの世界恐慌が日本経済を襲い、その間に豚相場は変動を繰り返した
- [5]岩崎・三菱の後ろ盾がある立川養豚場は繰り返す豚相場の変動に耐えたが、大資本の後ろ盾のない養豚業者は相場の変動に打ちのめされた
- [9]竹岸政則は1929年に立川養豚場の研究生としての期限を終え、横浜元町でハムの製造販売を営む従業員50名程度の合名会社大木商会に入り、加工技術とともに取引の技術を身につけた
- [10]竹岸政則は大木商会に約1年勤めたのち名古屋の愛禽ハムへ移り、月給50円で大阪の大村商会へ赴任したが、同社は売行き不振に加えて資金回収が進まず1930年8月に倒産した
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [6]竹岸政則は農家から高く売れる売り先の斡旋を頼まれ、場長に話して仲介したが、結果は安値で買いたたかれた
- [7]竹岸政則は缶詰加工を設備費と資本回転の面から断念し、豚問屋も冷蔵庫が普及しておらず朝処理した肉を夕方までに売る必要があって商いの範囲が狭いと判断した
- [8]竹岸政則はハム・ソーセージ製造を、小資本でも始められ生肉と違って遠方まで販路を伸ばせる中間の道として選んだ
- [11]竹岸政則は勤め先の倒産で郷里に帰ったのち、1930年の冬に金沢で開業する決心をした
- [12]竹岸政則の父重助は独立に反対したが、家族会議で兄弟が同調し、長兄の重作と弟の義雄が協力者として金沢に同行することになった
- [13]金沢駅前の田丸町152番地の間口2間・奥行8間の二階家を借り、上坂信夫少年と田代某少年を加えた総勢5名で、1931年9月1日に竹岸ハム商会の事業を開始した
- [14]田丸町の二階家は店であり工場であり住居でもあり、毎朝4時半に起きて正午までハム・ソーセージを製造し、午後は組を分けて金沢市内の問屋・小売店を一軒ずつ売り歩いた
- [15]当時の金沢ではハム・ソーセージへの理解が浅く、名刺に呼出し電話を刷った新参者は門前払いを受けることもあった
1932年〜委託販売と船による集荷で引き下げた原価
創業から3か月半、売れ残りを持ち帰る日が続いたすえに、竹岸は現在でいう委託販売を考え出した。製品を店頭に陳列させ、売れた分だけマージンを差し引いた代金を受け取る方式で、店に損害をかけない利点を押し出し、ハム・ソーセージに偏見を持つ地方都市の問屋と小売店へ売り込んだ。返品は覚悟のうえの窮余の策で、保存のきく商品ゆえに成り立つ策だった。製品はしだいにさばけたが資金は底をつき、六人が返品のハム・ソーセージと粥で日々をつなぐこともあった。竹岸は最も好意を寄せてくれた問屋と小売店を一軒ずつ選んで仕入資金の融通を申し込み、それぞれ100円を無利子で借り、返済期日の2日前に利子分を添えて返した。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [16]開業後3か月半、つくった製品を引受け手がないまま持ち帰る日が続いたすえに、竹岸政則は現在でいう委託販売の方法を考え出した
- [17]委託販売は製品を店頭に陳列させ、売れた商品についてマージンを差し引いた代金を受け取る方式で、店に損害をかけない利点を強調してハム・ソーセージに偏見を持つ地方都市の問屋・小売店へ売り込んだ
- [20]竹岸政則は好意を寄せてくれた問屋と小売店を一軒ずつ選んで仕入資金の融通を申し込み、それぞれ100円を無利子で借り、返済期日の2日前に利子分を添えて返済した
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- [18]委託販売は返品を覚悟のうえの窮余の一策であり、ハム・ソーセージが保存のきく商品だから成り立った
- [19]資金が底をつき、材料の豚を仕入れるために6人が返品のハム・ソーセージと粥で毎日をつないだ
1932年9月、竹岸は家主と話し合って店の裏手の空地に幅4間、奥行5間の工場を建設してもらい、12月に操業を開始した。このころの豚仕入頭数は月50頭程度、従業員は7名で、北陸銀行に当座勘定の口座も開いた。翌1933年には委託販売の方式を福井市・富山市・新潟市へも広げ、金沢と同じ条件で問屋と小売店に製品を預けた。竹岸は金沢発の一番列車に30キロの荷を5、6個持ち込み、配達と集金を兼ねて敦賀・福井・小松を一日で回った。1933年4月に新潟市港町へ新潟営業所を、1934年10月に京都市中京区麩屋町へ京都営業所を開設し、地方都市の業者として大都市へ進出した。豚の仕入頭数は1933年に月200頭、1934年に月250頭へ増え、従業員は18名になった。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [21]1932年9月ごろから家主と話し合い、店の裏手の空地に幅4間・奥行5間の工場用家屋を建ててもらって12月に操業を開始した
- [22]このころの経営規模は豚仕入頭数が月50頭程度、従業員は全部で7名で、北陸銀行に当座勘定の口座を開いた
- [23]1933年には金沢市内だけでなく福井・富山・新潟の各市へ、金沢で成功した委託販売の方式をそのまま用いて販路を広げた
- [24]竹岸政則は金沢発の一番列車に30キロほどの荷を5、6個持ち込み、配達と集金を兼ねて敦賀・福井・小松を回り、二日かかるところを一日で終えた
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- [25]1933年4月に新潟市港町三丁目へ新潟営業所を、1934年10月に京都市中京区麩屋町へ京都営業所を設け、地方都市業者だった竹岸ハムが大都市へ進出した
- [26]豚の仕入頭数は1933年に月200頭、1934年に月平均250頭に達し、従業員は1934年末に18名になった
原料の豚は、能登半島の海岸に近い農家から奥能登の悪路をトラックで穴水まで運び、貨車に積み換えて金沢へ入れていた。汗腺のない豚は6、7時間揺られるうちに2、3頭が斃れ、農家はそれを持ち帰るほかなかった。竹岸は氷見に多い10トンほどの木造機帆船に目をつけ、家畜商や農家と村の共同出荷場所と出荷日を定めて船で集荷し、氷見のと場で枝肉にした。船底が浅く浜辺に直づけできるため荷痛みがなく、運賃は従来の半分、仕入原価は1割5分下がった。1937年から1939年にかけて月平均300頭の豚を処理し、竹岸ハムは北陸へ進出していた名古屋の製造業者を圧倒した。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [27]北陸での豚の仕入先は能登半島の海岸線に近い農家で、豚は奥能登からトラックに乗せ、当時の列車の終点だった穴水で貨車に積み換えて金沢まで運んでいた
- [28]豚は汗腺がなく暑さに弱いため、悪路を6、7時間揺られる間に2、3頭が斃れ、死んだ豚は買い取られず農家が持ち帰った
- [29]竹岸政則は氷見に多い10トンほどの木造機帆船に着目し、家畜商や農家と村の共同出荷場所と出荷日を定めて船で集荷し、氷見のと場で枝肉にした
- [30]船は船底が浅く浜辺につけられて荷痛みがなく、運賃は従来の半分、仕入原価は1割5分下がった
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- [31]1937年から1939年当時に月平均300頭の豚を処理・加工し、北陸に進出していた名古屋方面の製造業者を圧倒した
参考文献[16]-[31]
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [16]開業後3か月半、つくった製品を引受け手がないまま持ち帰る日が続いたすえに、竹岸政則は現在でいう委託販売の方法を考え出した
- [17]委託販売は製品を店頭に陳列させ、売れた商品についてマージンを差し引いた代金を受け取る方式で、店に損害をかけない利点を強調してハム・ソーセージに偏見を持つ地方都市の問屋・小売店へ売り込んだ
- [20]竹岸政則は好意を寄せてくれた問屋と小売店を一軒ずつ選んで仕入資金の融通を申し込み、それぞれ100円を無利子で借り、返済期日の2日前に利子分を添えて返済した
- [21]1932年9月ごろから家主と話し合い、店の裏手の空地に幅4間・奥行5間の工場用家屋を建ててもらって12月に操業を開始した
- [22]このころの経営規模は豚仕入頭数が月50頭程度、従業員は全部で7名で、北陸銀行に当座勘定の口座を開いた
- [23]1933年には金沢市内だけでなく福井・富山・新潟の各市へ、金沢で成功した委託販売の方式をそのまま用いて販路を広げた
- [24]竹岸政則は金沢発の一番列車に30キロほどの荷を5、6個持ち込み、配達と集金を兼ねて敦賀・福井・小松を回り、二日かかるところを一日で終えた
- [27]北陸での豚の仕入先は能登半島の海岸線に近い農家で、豚は奥能登からトラックに乗せ、当時の列車の終点だった穴水で貨車に積み換えて金沢まで運んでいた
- [28]豚は汗腺がなく暑さに弱いため、悪路を6、7時間揺られる間に2、3頭が斃れ、死んだ豚は買い取られず農家が持ち帰った
- [29]竹岸政則は氷見に多い10トンほどの木造機帆船に着目し、家畜商や農家と村の共同出荷場所と出荷日を定めて船で集荷し、氷見のと場で枝肉にした
- [30]船は船底が浅く浜辺につけられて荷痛みがなく、運賃は従来の半分、仕入原価は1割5分下がった
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- [18]委託販売は返品を覚悟のうえの窮余の一策であり、ハム・ソーセージが保存のきく商品だから成り立った
- [19]資金が底をつき、材料の豚を仕入れるために6人が返品のハム・ソーセージと粥で毎日をつないだ
- [25]1933年4月に新潟市港町三丁目へ新潟営業所を、1934年10月に京都市中京区麩屋町へ京都営業所を設け、地方都市業者だった竹岸ハムが大都市へ進出した
- [26]豚の仕入頭数は1933年に月200頭、1934年に月平均250頭に達し、従業員は1934年末に18名になった
- [31]1937年から1939年当時に月平均300頭の豚を処理・加工し、北陸に進出していた名古屋方面の製造業者を圧倒した
1937年〜高岡工場の完成と12人で迎えた終戦
1937年から1939年にかけて竹岸ハムの従業員は約30名に増えたが、生産の拠点は金沢市田丸町のままで、人を増やしても収容する場所がなかった。竹岸は今後の設備拡張ができる土地を広く物色し、氷見農林学校時代の恩師大石斉治の助言もあって高岡市郊外に決めた。4反の水田を埋め立てた3900平方メートルの土地に建坪660平方メートルの工場を建設し、建物約1000円と機械設備2000円を含む約4000円のうち、約1000円を第十二銀行と中越銀行から借りた。高岡工場は1940年4月に完成し、従業員は約50名、豚の仕入量は同年5月の月400頭から8、9月には月平均1200頭に伸びた。1200坪の土地に建坪200坪という配分は、従業員の保健と体育のために広い土地が要ると竹岸が考えた結果だった。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [32]1937年から1939年ごろの竹岸ハムは従業員が約30名に増えたが、生産拠点は金沢市田丸町のままで、従業員を増やしても収容する場所がなかった
- [33]竹岸政則は繁華街・市街地にこだわらず今後の設備拡張ができる土地を広く物色し、氷見農林学校時代の恩師大石斉治の助言と予定地付近の住民の受け入れもあって高岡市郊外に新工場の用地を買った
- [34]高岡の新工場は4反の水田を埋め立てた3900平方メートルの土地に建坪660平方メートルで建て、建物約1000円・機械設備2000円ほか総額約4000円のうち大部分を蓄積で賄い、約1000円を第十二銀行と中越銀行から融資を受けた
- [35]高岡工場は1940年4月に完成し、従業員は約50名に増員され、豚の仕入量は同年5月の月400頭から8、9月には月平均1200頭になった
- [36]高岡工場は1200坪の土地に建坪200坪という配分で、竹岸政則は従業員の保健・体育のために広い土地が必要と考えていた
日華事変の拡大とともに国家統制が食肉加工にも及んだ。1940年8月に肉類の販売価格が定められ、1941年7月17日付の食肉配給統制に関する農林次官依命通達と同年10月20日施行の食肉配給統制規則によって、竹岸ハムは生産と配給の両面で統制を受けた。食肉等配給統制要綱で畜肉の県外移出が禁じられたため、許可を得た京都だけを残し、1933年以来の拠点だった新潟営業所を閉じた。一方、同じ1941年に舞鶴の海軍軍需部指定工場となり、軍用に月700頭の豚が割り当てられたので、一般向けが月600頭に抑えられても月1300頭を加工できた。竹岸自身は1941年7月に獣医将校として召集され、金沢第九師団に入隊したのち満州へ渡った。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [37]日華事変の拡大とともに国家統制が食肉加工に及び、栄養価が高く保存のきく食糧であることから統制は他の物資より早く、かつ強かった
- [38]1940年8月に肉類の販売価格が決まり、1941年7月17日付「食肉配給統制に関する農林次官依命通達」と同年10月20日施行の「食肉配給統制規則」で生産・配給の両面が統制された
- [39]「食肉等配給統制要綱」で畜肉の県外移出が禁じられ、竹岸ハムは許可を得た京都だけを残して1933年以来の新潟営業所を閉鎖した
- [40]竹岸ハムは1941年に舞鶴の海軍軍需部の指定工場となり、軍用に月700頭の豚が割り当てられ、一般向けが月600頭に抑えられても月1300頭の加工能力を持った
- [41]竹岸政則は1941年7月に獣医将校として召集され金沢第九師団に入隊し、8月に満州へ渡った
太平洋戦争に入ると畜肉の輸入が途絶え、豚の仕入実数は1943年に月800頭、1944年に軍需300頭と民需50頭、1945年には軍需50頭と民需15頭まで減少した。竹岸作太郎が経理、東前宇一が仕入れを預かる合議制で運営したが、応召が比較的高年齢の社員にまで及び、1945年8月に工場と営業所へ残っていたのは12名だった。1945年12月に食肉配給統制規則が撤廃されると、翌1946年3月、高岡工場は富山県農業会の畜産物加工工場として生産を再開した。資金は農業会が出し、経営は竹岸側が担い、東北の牛・馬・羊肉に豚の脂肪を混ぜた製品を作った。1946年7月にビルマから復員した竹岸は、ただちに工場へ入って生産の指揮を執り、子豚を農家に預けて育てさせる預託制度の再検討から原料の確保に着手した。
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [42]太平洋戦争突入で畜肉の輸入が途絶え、豚の仕入実数は1943年に月800頭、1944年に軍関係300頭・民需50頭、1945年に軍関係月50頭・民需15頭まで減少した
- [46]竹岸政則は1946年7月にビルマから復員して高岡に戻り、ただちに工場で指揮を執り、農家に子豚を預けて育てさせる預託豚の再検討から原料の豚の確保に着手した
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- [43]竹岸作太郎が経理、東前宇一が仕入れを担当する合議制で運営したが、比較的高年齢の社員にも召集が及び、1945年8月の終戦時に工場と営業所を合わせて残っていたのは12名だった
- [44]1945年12月に食肉配給統制規則が撤廃されて肉畜の購買価格が廃止され、1946年3月に竹岸ハムの高岡工場は富山県農業会の畜産物加工工場として生産を再開した
- [45]高岡工場の再開にあたり資金は富山県農業会が出して経営は竹岸側が行ない、豚肉の調達が困難だったため東北の牛・馬・羊肉を主原料に豚の脂肪を混合した製品をつくった
参考文献[32]-[46]
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」
- [32]1937年から1939年ごろの竹岸ハムは従業員が約30名に増えたが、生産拠点は金沢市田丸町のままで、従業員を増やしても収容する場所がなかった
- [33]竹岸政則は繁華街・市街地にこだわらず今後の設備拡張ができる土地を広く物色し、氷見農林学校時代の恩師大石斉治の助言と予定地付近の住民の受け入れもあって高岡市郊外に新工場の用地を買った
- [34]高岡の新工場は4反の水田を埋め立てた3900平方メートルの土地に建坪660平方メートルで建て、建物約1000円・機械設備2000円ほか総額約4000円のうち大部分を蓄積で賄い、約1000円を第十二銀行と中越銀行から融資を受けた
- [35]高岡工場は1940年4月に完成し、従業員は約50名に増員され、豚の仕入量は同年5月の月400頭から8、9月には月平均1200頭になった
- [36]高岡工場は1200坪の土地に建坪200坪という配分で、竹岸政則は従業員の保健・体育のために広い土地が必要と考えていた
- [37]日華事変の拡大とともに国家統制が食肉加工に及び、栄養価が高く保存のきく食糧であることから統制は他の物資より早く、かつ強かった
- [38]1940年8月に肉類の販売価格が決まり、1941年7月17日付「食肉配給統制に関する農林次官依命通達」と同年10月20日施行の「食肉配給統制規則」で生産・配給の両面が統制された
- [39]「食肉等配給統制要綱」で畜肉の県外移出が禁じられ、竹岸ハムは許可を得た京都だけを残して1933年以来の新潟営業所を閉鎖した
- [40]竹岸ハムは1941年に舞鶴の海軍軍需部の指定工場となり、軍用に月700頭の豚が割り当てられ、一般向けが月600頭に抑えられても月1300頭の加工能力を持った
- [41]竹岸政則は1941年7月に獣医将校として召集され金沢第九師団に入隊し、8月に満州へ渡った
- [42]太平洋戦争突入で畜肉の輸入が途絶え、豚の仕入実数は1943年に月800頭、1944年に軍関係300頭・民需50頭、1945年に軍関係月50頭・民需15頭まで減少した
- [46]竹岸政則は1946年7月にビルマから復員して高岡に戻り、ただちに工場で指揮を執り、農家に子豚を預けて育てさせる預託豚の再検討から原料の豚の確保に着手した
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- [43]竹岸作太郎が経理、東前宇一が仕入れを担当する合議制で運営したが、比較的高年齢の社員にも召集が及び、1945年8月の終戦時に工場と営業所を合わせて残っていたのは12名だった
- [44]1945年12月に食肉配給統制規則が撤廃されて肉畜の購買価格が廃止され、1946年3月に竹岸ハムの高岡工場は富山県農業会の畜産物加工工場として生産を再開した
- [45]高岡工場の再開にあたり資金は富山県農業会が出して経営は竹岸側が行ない、豚肉の調達が困難だったため東北の牛・馬・羊肉を主原料に豚の脂肪を混合した製品をつくった
筆者考察
竹岸政則が身を置いたのは、豚を育てる側でも生肉を売る側でもなく、その中間だった。立川養豚場で見たのは、相場が振れるたびに資本力のない養豚業者が買いたたかれる姿である。缶詰は設備費が重くて資本の回転も遅く、生肉は冷蔵庫のない時代に朝処理した分を夕方までに売り切るしかない。残ったハム・ソーセージだけが、小資本で始められて保存がきき、遠方まで販路を伸ばせた。1931年9月、金沢の二階家に5人で始めた事業は、開業から3か月半も売れ残りを持ち帰ったすえに、売れた分だけ代金を受け取る委託販売へたどり着く。店に損をかけない条件を掲げて偏見の強い地方都市の問屋を回り、返品覚悟の窮余の策を販路に変えた。保存のきく商品でなければ成り立たない策だった。
原価を下げた手も、加工の外側にあった。能登の農家から金沢まで豚をトラックと貨車で運べば、6、7時間のうちに2、3頭が斃れ、その損は農家がかぶる。竹岸が氷見の木造機帆船へ積み替えると、浜辺に直づけできて荷痛みが消え、運賃は半分、仕入原価は1割5分下がった。1940年の高岡工場で月1200頭まで伸びた処理量は、国家統制と応召によって、1945年8月には従業員12名の規模まで削られる。船による集荷は1937年から1939年に月平均300頭の処理を支え、北陸へ進出していた名古屋の業者を圧倒する力になった。それでも復員した竹岸が最初に着手したのは、子豚を農家に預けて育てさせる預託制度だった。加工で身を立てながら原料の側へ手を伸ばす型は、この16年で固まっている。
出典・参考
2件
- 産業フロンティア物語 食肉(ダイヤモンド社、1966年)「二 〝第一人者〟への道」
- 歴史をつくる人々 第29(ダイヤモンド社、1967年)所収 竹岸政則(プリマハム社長)回想「I 苦難の草創期」