雪印乳業:集排法による雪印乳業の発足と八雲工場の脱脂粉乳事件
1950年〜集中排除法の二分割と第二会社としての再出発
1950年6月10日、北海道酪農協同株式会社は過度経済力集中排除法の適用により、北海道バター株式会社と雪印乳業株式会社の二社に分割された。連合国軍総司令部が当初示したのは五分割や明治・森永への五工場返還という案であり、2年にわたる抗弁を経て、二分割と両社への一工場ずつの譲渡という指令に落ち着いた。存続会社は北海道バターとされ、雪印乳業は資本金3億6,000万円の第二会社として新発足した。商標も分けられ、酪連以来の「雪印」は雪印乳業が引き継ぎ、北海道バターには1930年ごろから主に関西で使われてきた「クロバー」印が渡った。前後して会長の黒澤酉蔵氏ほか7名の重役が追放となり、専務だった佐藤貢氏が社長に就任した。
- 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1950年6月 集排法の適用により雪印乳業株式会社と北海道バター株式会社に分割
- 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
- [2]当初は五分割・明治森永への五工場返還の案で、2年の抗弁を経て二分割と一工場ずつの譲渡の指令を受諾
- [5]会長の黒澤酉蔵ほか7名の重役が追放となり佐藤貢が後を継いだ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
- [3]1950年6月 北海道酪農協同の第二会社として資本金3億6,000万円で雪印乳業が新発足
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「北海道バター」の項
- [4]二分割に際し「雪印」は雪印乳業の所有とし、北海道バターは1930年ごろから関西で使ってきた「クロバー」印を継承
株主の構成には制約がかかっていた。事業者団体法ができると、団体を株主にもつ会社は事業者団体と見なされ、乳製品を作ることも売ることも許されなくなる。分割した当初、株の大半を握っていたのは、戦時中に産業組合と農会をまとめて生まれた農業会だった。無理を承知で農業会の持ち株を酪農家一人ひとりへ振り分け、雪印乳業はやっと発足にたどり着いた。佐藤貢氏は分割に合わせ、雪印乳業を乳製品に絞った専門の会社にする道を選んだ。本業以外の事業は部門単位で株式会社に切り出し、肉製品と種苗は1950年12月に雪印食品工業と雪印種苗として独立させた。資本を出す側を団体から個々の酪農家に替えることも、分割の中身だった。
- 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
- [6]株式の大部分を農業会が保有していたが、事業者団体法により団体が株主では乳製品の製造販売ができなくなった
- [7]農業会の持ち株を個々の農民へ分散して雪印乳業の発足に至った
- [8]分割と同時に雪印乳業は乳製品専門でいく方針を採った
- [9]付帯事業を部門ごとに株式会社として独立させた
- 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
- [10]1950年12月 肉製品・種苗の事業を切り離し雪印食品工業と雪印種苗を設立
1950年8月、雪印乳業は東京証券取引所と札幌証券取引所へ株式を上場した。東京市場での売買が始まったのは同月31日である。資本金は発足時の3億6,000万円から、1952年10月・1954年10月・1956年4月の公募を経て、1957年1月には10億円に達した。1958年11月にはクロバー乳業を吸収合併し、資本金は15億円となった。集排法の指令で分けられた二社は、8年を経て元の一社に戻ったことになる。その後も公募と株主割当を重ね、1963年11月には50億円。1963年3月末の大株主は農林中央金庫が持株比率7.1%で筆頭に立ち、住友信託銀行東京支店、三井信託銀行、札幌酪農牛乳同友会が続いた。
- 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
- [11]1950年8月 東京証券取引所・札幌証券取引所に株式上場
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雪印乳業」
- [12]東京市場の上場開始は1950年8月31日
- [13]1950年6月の設立時3億6,000万円から公募を重ね1957年1月に資本金10億円
- [15]1963年11月払込で資本金50億円
- [16]1963年3月末の大株主は農林中央金庫7.1%、住友信託東京支店4.2%、三井信託銀行4.1%、札幌酪農牛乳同友会3.7%
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
- [14]1958年11月のクロバー乳業合併時の資本金は15億円
参考文献[1]-[16]
- 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1950年6月 集排法の適用により雪印乳業株式会社と北海道バター株式会社に分割
- [10]1950年12月 肉製品・種苗の事業を切り離し雪印食品工業と雪印種苗を設立
- [11]1950年8月 東京証券取引所・札幌証券取引所に株式上場
- [2]当初は五分割・明治森永への五工場返還の案で、2年の抗弁を経て二分割と一工場ずつの譲渡の指令を受諾
- [5]会長の黒澤酉蔵ほか7名の重役が追放となり佐藤貢が後を継いだ
- [6]株式の大部分を農業会が保有していたが、事業者団体法により団体が株主では乳製品の製造販売ができなくなった
- [7]農業会の持ち株を個々の農民へ分散して雪印乳業の発足に至った
- [8]分割と同時に雪印乳業は乳製品専門でいく方針を採った
- [9]付帯事業を部門ごとに株式会社として独立させた
- [3]1950年6月 北海道酪農協同の第二会社として資本金3億6,000万円で雪印乳業が新発足
- [4]二分割に際し「雪印」は雪印乳業の所有とし、北海道バターは1930年ごろから関西で使ってきた「クロバー」印を継承
- [12]東京市場の上場開始は1950年8月31日
- [13]1950年6月の設立時3億6,000万円から公募を重ね1957年1月に資本金10億円
- [15]1963年11月払込で資本金50億円
- [16]1963年3月末の大株主は農林中央金庫7.1%、住友信託東京支店4.2%、三井信託銀行4.1%、札幌酪農牛乳同友会3.7%
- [14]1958年11月のクロバー乳業合併時の資本金は15億円
1952年〜岩手と東京への工場進出による市乳事業への後発参入
分割の2年後、雪印乳業は北海道の外に工場を持った。1952年5月、岩手県の酪農の進展に呼応して花巻市を中心に5工場を新設し、1954年10月には資本金を4億8,000万円へ増した。それまで道内の酪農家の共同事業として営んできた会社は、分割で規模も性格も変わっていた。佐藤貢氏は、力を挽回して強大なものにするには本州へ出るほかないと考えた。1954年度の売上総額は90億円に達し、事業場は本社のほか東京支社・5支店・4出張所・58工場・314処理場集乳所を数えた。北海道で集めた生乳を乳製品にして本州で売る構造から、本州で集めて本州で売る構造への転換が始まった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
- [17]1952年5月 岩手県の酪農進展に呼応し花巻市を中心に5工場を新設
- [18]1954年10月 資本金4億8,000万円
- [21]1954年度の売上総額は90億円
- [22]事業場は本社のほか東京支社・5支店・4出張所・58工場・314処理場集乳所
- 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
- [19]道内農民の共同事業として営んできたが分割で規模も性格も変わった
- [20]力を挽回し強大にするほかないと考え本州進出を計画した
まず第一牛乳を買収して処理と配達の拠点を確保し、そのうえで1953年、東京に市乳工場を建てて本州で市乳を手がける最初の足がかりとした。本州で柱に育てたのはバターやチーズではなく、飲むための牛乳、つまり市乳である。東京市場での扱い量は、はじめ1日四、五十石にとどまったが、10年後の最盛期には3,500石まで膨らんだ。製造と販売は東京から東北・九州・関西・東海・四国へと伸びていった。道内でも1961年4月の札幌酪農牛乳の合併で市乳を取り込んだ。1963年3月期の販売実績では市乳が149億980万円に達し、乳製品の180億9,762万円に迫った。
- 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
- [23]東京工場の建設に先立ち第一牛乳を買収した
- [25]東京の市乳量は当初1日四、五十石、10年後のピークで3,500石
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
- [24]1953年 東京に市乳工場を建設し本州における市乳事業の第一歩を踏み出した
- [26]東京を起点に東北・九州・関西・東海・四国へ製造販売を拡張
- 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
- [27]1961年4月 札幌酪農牛乳株式会社を合併
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雪印乳業」
- [28]1963年3月期の販売実績は市乳14,909,803千円、乳製品18,097,624千円
市乳で相対したのは明治と森永である。両社は市乳事業に30年から40年の歴史を持っており、後発の参入を軽く見ていた。4、5年たって雪印乳業の伸びが表面化すると、四国や秋田では手をつけようとした地域に先回りする動きが出て、事ごとに争う関係になった。瀬尾俊三氏は、10年で両社と肩を並べられた理由を、酪農家の会社に対する理解と原料乳供給の理解、それにバター販売で積んできた信用に求めている。競争の焦点は製品そのものより、原料乳を出す酪農家との関係にあった。バターとチーズでは全国生産量の5割から6割を占めながら、市乳では追う側に回った。
- 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
- [29]明治・森永は市乳事業に30〜40年の歴史を持っていた
- [30]他社は雪印の市乳事業を多少あなどっていた
- [31]四国や秋田で他社が先回りして手をかけ、事ごとに争うことになった
- [32]10年で明治・森永と肩を並べた理由を農民の理解・原料乳供給の理解・バター販売の信用に帰した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雪印乳業」
- [33]バターやチーズでは全国生産量の5〜6割を占めた
参考文献[17]-[33]
- [17]1952年5月 岩手県の酪農進展に呼応し花巻市を中心に5工場を新設
- [18]1954年10月 資本金4億8,000万円
- [21]1954年度の売上総額は90億円
- [22]事業場は本社のほか東京支社・5支店・4出張所・58工場・314処理場集乳所
- [19]道内農民の共同事業として営んできたが分割で規模も性格も変わった
- [20]力を挽回し強大にするほかないと考え本州進出を計画した
- 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
- [23]東京工場の建設に先立ち第一牛乳を買収した
- [25]東京の市乳量は当初1日四、五十石、10年後のピークで3,500石
- [29]明治・森永は市乳事業に30〜40年の歴史を持っていた
- [30]他社は雪印の市乳事業を多少あなどっていた
- [31]四国や秋田で他社が先回りして手をかけ、事ごとに争うことになった
- [32]10年で明治・森永と肩を並べた理由を農民の理解・原料乳供給の理解・バター販売の信用に帰した
- [24]1953年 東京に市乳工場を建設し本州における市乳事業の第一歩を踏み出した
- [26]東京を起点に東北・九州・関西・東海・四国へ製造販売を拡張
- 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
- [27]1961年4月 札幌酪農牛乳株式会社を合併
- [28]1963年3月期の販売実績は市乳14,909,803千円、乳製品18,097,624千円
- [33]バターやチーズでは全国生産量の5〜6割を占めた
1955年〜八雲工場の脱脂粉乳事件と全社検査体制の整備
1955年3月、東京都内の小学校で、学校給食に出された脱脂粉乳による集団食中毒が起きた。製造したのは雪印乳業の八雲工場で、原因は機械の故障により殺菌が完全に行われなかったことにあった。重症者は出なかったが、影響は脱脂粉乳にとどまらず、他のすべての製品の販路に及んだ。当時の主力製品には雪印バター、チーズ、煉乳、ビタミルク、スキムミルク、マーガリン、アイスクリーム、市乳が並んでおり、脱脂粉乳はその一角を占めていた。事件の直後、同業のメーカーは雪印乳業を攻撃する宣伝を打った。品質で道産バターを売ってきた会社にとって、製品の安全は商品の一属性ではなく事業の前提そのものだった。
- 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
- [34]1955年 東京都内の小学校で脱脂粉乳による集団中毒事件が発生
- [35]原因は機械の故障で殺菌が完全にいかなかったこと
- [36]幸い大事には至らなかった
- [37]影響は脱脂粉乳だけでなく他のすべての製品の販路に及ぶと訓示が記した
- [39]事件の直後に同業メーカーが雪印乳業を攻撃する宣伝を打った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
- [38]当時の製品は雪印バター、チーズ、煉乳、ビタミルク、スキムミルク、マーガリン、アイスクリーム、市乳など
牛乳と乳製品は、人に最も多くの栄養を与える食べ物であると同時に、細菌が育つにも申し分のない養分であり、保存の温度を誤ればすぐに細菌が増え直す。社長の佐藤貢氏が全社に配った長い訓示「全社員に告ぐ」は、まず製品のこの性質から説き起こしていた。続いて訓示は、品質こそ会社の生命であり、信用は得るのに長い年月がかかるのに一瞬で失われ、金銭で買えるものではないと社員に呼びかけた。優れた技術と行き届いた注意がなければ、どれほど新しい設備も値打ちがなく、むしろ災いを呼ぶ重荷になるとの一文もあった。1963年、佐藤貢氏は会長に退き、社長の座は瀬尾俊三氏が副社長を経て継いだ。瀬尾氏は1950年の発足時から専務を務めていた人物である。
- 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
- [40]牛乳・乳製品は細菌にとっても理想的な栄養物であり保存温度を誤れば短時間で細菌が発生すると訓示が説いた
- [41]佐藤貢社長が「全社員に告ぐ」という長文の社長訓示を全社に配布
- [42]信用の獲得には長年月を要し失墜は一瞬、金銭では買えず会社の生命は品質であると訓示が述べた
- [43]近代設備も優秀な技術と細心の注意なくしては価値がなく不幸を招く負担であると訓示が記した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雪印乳業」
- [44]佐藤貢は1950年社長就任・1963年会長、瀬尾俊三は1950年専務・1957年副社長・1963年社長
事故ののち、検査は製造工程の一部として組み直された。バターは工場で製造したものを本社直属の検査員が格付けし、そこで工場長の責任が解除される。次に化学検査を行い、市場で包装する際にも検査し、技術部が在庫の定期検査を続けた。工場長と製造責任者を集め、工場名を伏せたまま互いの製品に点数をつけさせる評価も設けた。苦情の処理には専任の係を置いた。費用がかかっても惜しまないというのが瀬尾俊三氏の方針だった。売上高は1953年3月期の53億7,011万円から1963年3月期には492億4,235万円へ拡大し、集乳量・売上高・資本金のいずれでも乳業界の首位を占めた。
- 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
- [45]バターは本社直属のインスペクターが検査してグレイドを付け、そこで工場長の責任が解除される
- [46]化学検査、市場での包装時の検査、技術部によるストックの定期検査を行った
- [47]工場長と製造責任者を集め工場名を伏せて製品に点数をつけさせた
- [48]苦情処理係を専門に置き、工場・流通・家庭のどこに原因があるかをすぐ突き止めさせた
- [49]検査に費用がかかってもそれは惜しまないという方針
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雪印乳業」
- [50]売上高は1953年3月期5,370,115千円、1963年3月期49,242,359千円
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
- [51]集乳費・売上高・資本金ともに乳業界の首位
参考文献[34]-[51]
- 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
- [34]1955年 東京都内の小学校で脱脂粉乳による集団中毒事件が発生
- [35]原因は機械の故障で殺菌が完全にいかなかったこと
- [36]幸い大事には至らなかった
- [37]影響は脱脂粉乳だけでなく他のすべての製品の販路に及ぶと訓示が記した
- [39]事件の直後に同業メーカーが雪印乳業を攻撃する宣伝を打った
- [40]牛乳・乳製品は細菌にとっても理想的な栄養物であり保存温度を誤れば短時間で細菌が発生すると訓示が説いた
- [41]佐藤貢社長が「全社員に告ぐ」という長文の社長訓示を全社に配布
- [42]信用の獲得には長年月を要し失墜は一瞬、金銭では買えず会社の生命は品質であると訓示が述べた
- [43]近代設備も優秀な技術と細心の注意なくしては価値がなく不幸を招く負担であると訓示が記した
- [45]バターは本社直属のインスペクターが検査してグレイドを付け、そこで工場長の責任が解除される
- [46]化学検査、市場での包装時の検査、技術部によるストックの定期検査を行った
- [47]工場長と製造責任者を集め工場名を伏せて製品に点数をつけさせた
- [48]苦情処理係を専門に置き、工場・流通・家庭のどこに原因があるかをすぐ突き止めさせた
- [49]検査に費用がかかってもそれは惜しまないという方針
- [38]当時の製品は雪印バター、チーズ、煉乳、ビタミルク、スキムミルク、マーガリン、アイスクリーム、市乳など
- [44]佐藤貢は1950年社長就任・1963年会長、瀬尾俊三は1950年専務・1957年副社長・1963年社長
- [50]売上高は1953年3月期5,370,115千円、1963年3月期49,242,359千円
- [51]集乳費・売上高・資本金ともに乳業界の首位
筆者考察
1950年の二分割は、雪印乳業の規模を半分にした代わりに、乳製品専業の上場会社を作った。資本金3億6,000万円で発足した第二会社は、2カ月後に東京と札幌へ株式を上場し、公募増資を重ねて1957年に10億円、1963年には50億円まで資本を積み直している。分割の相手だったクロバー乳業を1958年に吸収できたのも、この資本の厚みがあったからである。集中排除法が奪ったのは工場と商標の一部であって、酪農家から生乳を集める仕組みではなかった。分けられた二社は8年で元に戻り、失ったのは時間だけだった。
取り戻した規模を拡大させたのは、バターではなく市乳である。1953年の東京市乳工場から10年で、東京の取扱量は1日四、五十石から3,500石へ増え、市乳事業に30年から40年の先行を持つ明治・森永と肩を並べた。その途中に起きたのが1955年の八雲工場の事故だった。機械の故障で殺菌が不完全になった脱脂粉乳が学校給食に出たとき、傷んだのは脱脂粉乳の販路だけではない。佐藤貢氏が全社員に配った訓示は、信用の獲得には長い年月を要し失墜は一瞬だと説き、検査を製造工程の一部として敷き直させた。品質で市場を開いた会社が、品質で市場を失いかけた10年である。
- 出所はダイヤモンド会社産業総覧 1964年版。1954年3月期・1955年3月期は同資料に売上高の記載がない。
1950年〜1969年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1950年03月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | 31 | n/a | 1 | n/a | n/a | 1 | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 38 | +22.7% | 2 | n/a | n/a | 1 | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 53 | +37.8% | n/a | 0 | 1.5% | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 60 | +12.4% | n/a | 0 | 1.4% | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 72 | +19.9% | n/a | 0 | 0.8% | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 85 | +18.1% | n/a | 0 | 0.1% | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 110 | +28.8% | n/a | 1 | 1.6% | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 143 | +30.3% | n/a | 1 | 1.1% | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 198 | +38.6% | n/a | 1 | 0.9% | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 273 | +37.3% | 12 | 3 | 1.1% | 1 | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 313 | +14.8% | 15 | 5 | 1.6% | 2 | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 395 | +26.3% | 17 | 6 | 1.5% | 3 | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 492 | +24.5% | 20 | 7 | 1.6% | 4 | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 582 | +18.3% | n/a | n/a | n/a | 5 | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 677 | +16.3% | 40 | 26 | 3.9% | 10 | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 779 | +15.0% | 49 | 30 | 3.9% | 12 | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 912 | +17.0% | n/a | 38 | 4.2% | 14 | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 1,056 | +15.8% | n/a | 37 | 3.6% | 15 | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 1,156 | +9.5% | 58 | 37 | 3.2% | 15 | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑 1971年版、会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1976年版
出典・参考
7件
- 雪印乳業 有価証券報告書【沿革】
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「北海道バター」の項
- 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
- 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雪印乳業」