昭和産業:昭和産業の設立と日本加里工業など3社の吸収合併
1936年〜肥料商の伊藤英夫氏が多賀城に置いた本社と、3社合併で得た5工場
伊藤英夫氏は1935年春、資本金250万円で昭和製粉を設立し、農産加工の最初の事業を製粉とした。伊藤英夫氏は肥料商の出身で、日本加里工業と日本肥料を経営し、昭和肥料の有力な代理店でもあった。昭和初期の恐慌と凶作の後、農村の疲弊は深く、農産物の原料取引でも農家は不利な条件を強いられた。伊藤英夫氏は「農産報国」を掲げ、農産物を自ら加工して農家に利益を返す経営を目指した。日本加里工業と昭和製粉は、伊藤英夫氏の下で同じ資本系統の会社にあたる。伊藤英夫氏が創立前に原料相場で得ていた額は、昭和産業の資本金250万円を上回る。肥料の販売網で農村とつながり、穀物相場にも通じた伊藤英夫氏にとって、小麦を仕入れて粉にする製粉は最も入りやすい加工分野だったのだろう。
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [1]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- [2]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- [3]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- [4]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- [6]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」
- [5]1938年3月に吸収した昭和製粉など3社は昭和産業と同一資本系。伊藤英夫が代表取締役として経営を率いた
昭和産業は1936年2月18日、宮城県宮城郡多賀城村の県営埋立地を本店に、資本金250万円で設立された。肥料・小麦粉・動植物油脂の製造販売を目的とし、専務の伊藤英夫氏が東京・京橋の味の素ビルで実務を始めた。本店の地は、仙台郊外の塩釜で県営埋立地の払下げを持ちかけられたことを機に、東北進出の拠点として選ばれた。1936年1月6日付の設立趣意書が経営方針の主眼に据えたのは、東北の産物を総合的に工業化することである。当時の東北は冷害が何年も続き、その救済が国の大きな課題になっていた。ただし塩釜の埋立工事は地盤と資金の問題で遅れ、工場は1936年5月に鶴見、同年8月に赤塚で先に稼働した。本社も1937年12月24日に鶴見工場の所在地へ移転。東北の本社は、創業者が掲げた東北振興の目標を示す意味合いが大きかったと推察される。
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」
- [7]1936年2月に資本金250万円で設立、本店は多賀城村の県営埋立地。同年5月鶴見工場、8月赤塚工場を建設
- [12]1936年2月に資本金250万円で設立、本店は多賀城村の県営埋立地。同年5月鶴見工場、8月赤塚工場を建設
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [8]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
- [9]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
- [10]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
- [11]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
- [13]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
昭和産業は1938年3月1日、日本加里工業・日本肥料・昭和製粉の3社を吸収合併した。合併前の資本金は1937年に750万円へ増えており、合併後は1620万円となった。3社の資本金は日本加里工業が100万円、日本肥料が20万円、昭和製粉が750万円で、いずれも同じ資本系統の会社である。合併で大島工場(肥料)・藤沢工場(搾油)・横浜工場(肥料・硫酸)・船橋工場と太田工場(小麦粉・麺)の5工場と大阪支店が加わった。伊藤英夫氏は合併を機に社長に就任。伊藤英夫氏は昭和産業の設立前から、肥料2社を含む一大農産加工会社の形成を早くから見込んだ。肥料商として始めた事業と、製粉・製油の新工場を1社にまとめたことで、創業時の構想は会社の形を得たとみられる。
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [14]1938年3月1日に日本加里工業(100万円)・日本肥料(20万円)・昭和製粉(750万円)を吸収合併。大島・藤沢・横浜・船橋・太田の工場と大阪支店を加え伊藤が社長。設立前から3社統合を見込んでいた
- [17]1938年3月1日に日本加里工業(100万円)・日本肥料(20万円)・昭和製粉(750万円)を吸収合併。大島・藤沢・横浜・船橋・太田の工場と大阪支店を加え伊藤が社長。設立前から3社統合を見込んでいた
- [19]1938年3月1日に日本加里工業(100万円)・日本肥料(20万円)・昭和製粉(750万円)を吸収合併。大島・藤沢・横浜・船橋・太田の工場と大阪支店を加え伊藤が社長。設立前から3社統合を見込んでいた
- 株式会社年鑑 1950年版「昭和産業」
- [15]1937年に資本金750万円へ増資、日本加里工業・昭和製粉・日本肥料を吸収合併し資本金1620万円
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- [16]1938年3月、同一資本下にあった昭和製粉・日本肥料・日本加里工業の3社を吸収合併し資本金1620万円
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」
- [18]1938年3月の3社合併で資本金1620万円となり伊藤英夫が社長に就任
参考文献[1]-[19]
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [1]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- [2]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- [3]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- [4]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- [6]伊藤英夫は肥料商出身で日本加里工業・日本肥料を経営し昭和肥料の代理店。農村疲弊を背景に「農産報国」を掲げ、1935年春に資本金250万円で昭和製粉を設立。創立前に資本金を上回る額を原料相場で得た
- [8]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
- [9]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
- [10]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
- [11]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
- [13]1936年2月18日設立、本社は多賀城村の県営埋立地、目的は肥料・小麦粉・油脂。実務は京橋の味の素ビル。塩釜埋立地の払下げが契機。設立趣意書(1936年1月6日)は東北産物の総合的工業化を主眼。1937年12月24日本社を鶴見へ移転
- [14]1938年3月1日に日本加里工業(100万円)・日本肥料(20万円)・昭和製粉(750万円)を吸収合併。大島・藤沢・横浜・船橋・太田の工場と大阪支店を加え伊藤が社長。設立前から3社統合を見込んでいた
- [17]1938年3月1日に日本加里工業(100万円)・日本肥料(20万円)・昭和製粉(750万円)を吸収合併。大島・藤沢・横浜・船橋・太田の工場と大阪支店を加え伊藤が社長。設立前から3社統合を見込んでいた
- [19]1938年3月1日に日本加里工業(100万円)・日本肥料(20万円)・昭和製粉(750万円)を吸収合併。大島・藤沢・横浜・船橋・太田の工場と大阪支店を加え伊藤が社長。設立前から3社統合を見込んでいた
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」
- [5]1938年3月に吸収した昭和製粉など3社は昭和産業と同一資本系。伊藤英夫が代表取締役として経営を率いた
- [7]1936年2月に資本金250万円で設立、本店は多賀城村の県営埋立地。同年5月鶴見工場、8月赤塚工場を建設
- [12]1936年2月に資本金250万円で設立、本店は多賀城村の県営埋立地。同年5月鶴見工場、8月赤塚工場を建設
- [18]1938年3月の3社合併で資本金1620万円となり伊藤英夫が社長に就任
- 株式会社年鑑 1950年版「昭和産業」
- [15]1937年に資本金750万円へ増資、日本加里工業・昭和製粉・日本肥料を吸収合併し資本金1620万円
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- [16]1938年3月、同一資本下にあった昭和製粉・日本肥料・日本加里工業の3社を吸収合併し資本金1620万円
1938年〜シルクールで広げた事業と、伊藤英夫氏の急逝で表に出た損失1284万円
昭和産業は1938年7月、神奈川県の一の宮工場で大豆蛋白を原料とする人造羊毛の生産を始めた。製品名のシルクールは絹と羊毛を合わせた造語で、商標の登録は同年3月である。日中戦争の長期化で衣料の輸入が絞られ、満州から大豆を十分に調達できるという見通しが参入を後押しした。大豆粕の利用先として調味料の原料も検討したものの、味の素の経営陣との関係を考えて見送った。昭和産業は上尾工場に紡織・製絨・染色の設備を足し、大豆蛋白の繊維から布の染色までを1社でこなせる体制を整えた。一方、試験設備を経ずに日産10トン計画の工場を動かしたため故障が相次ぎ、約1000名の工員の士気も低下した。製油の副産物から高い付加価値を得る構想は、量産の技術が固まらないまま設備投資だけを先行させたと思われる。
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [20]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- [21]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- [22]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- [23]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- [25]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- [24]1938年7月一の宮工場を建設、上尾工場に紡織・製絨・染色・反毛設備を増設しシルクールの一貫作業態勢を整えた
伊藤英夫氏は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中の福岡で急性盲腸炎により急逝した。渡航の目的は、軍の力で原料大豆を確保し、シルクールを輸出して現地の軍票を回収する計画を進めることである。1939年9月の価格停止令で製品価格は据え置かれ、値上げで採算を補う手も封じられた。1939年12月には資本金を2200万円へ増資。訃報の後、100円近かった株価は18円まで下がり、銀行借入は3000万円を上回った。半期で3000万円前後あった売上高も、2500万円を割り込んだ。伊藤英夫氏の客死の後、首脳人事の交代が相次いだ。世間が「伊藤の会社」とみていたほど、経営の判断と信用が創業者1人に集まっていたことが、混乱を深めた要因とみてよい。
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [26]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- [27]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- [28]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- [30]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- [31]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- [29]1939年12月に資本金2200万円へ増資。1940年7月伊藤社長が九州で急逝し、金融が困難となった
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」
- [32]初代社長の客死により首脳人事の交代が相次いだ。1939年に資本金2200万円
昭和産業は1941年8月、日本銀行での債権者会議と翌日の株主総会を経て、鐘紡系と興銀系の経営陣の下で再出発した。代表取締役専務は鐘紡系の永井得一氏、常務は興銀系の末広幸次郎氏である。それまでに専務から昇格した安達三雄氏が社長を務め、1940年12月には鐘紡系の役員も迎えた。安部幸の安部信治氏を軸とする再建案も1941年5月に頓挫し、会社は第百銀行の管理下に置かれた。日本銀行は興業銀行を窓口とする1100万円の融資を決め、興銀側の強い要請で鐘紡が経営を引き受けた。再出発の際に公表した損失金は1284万余円にのぼる。資金を出す興銀と経営を担う鐘紡の分担が決まったことで、ようやく再建の体制が整ったといえる。
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [33]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- [35]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- [36]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- [37]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- [39]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」
- [34]1941年8月に興銀・鐘紡の系列となった
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- [38]1941年8月、政府より興銀を通じ命令融資、鐘紡と興銀から経営首脳を迎え鐘紡の子会社として再発足
参考文献[20]-[39]
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [20]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- [21]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- [22]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- [23]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- [25]シルクールは大豆蛋白原料の人造羊毛、1938年3月商標登録、一の宮工場は1938年7月操業。衣料統制と満州大豆の見通しが背景。調味料は味の素との関係で見送り。パイロットプラントなしに日産10トン計画、工員約1000名の士気低下
- [26]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- [27]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- [28]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- [30]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- [31]伊藤英夫は1940年7月18日、中国派遣軍司令部へ向かう途中、福岡で急性盲腸炎により急逝。大豆確保と軍票回収の計画。1939年9月価格停止令。株価は100円近くから18円へ、銀行借入3000万円超、半期売上は3000万円程度から2500万円割れ
- [33]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- [35]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- [36]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- [37]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- [39]1940年12月鐘紡系役員就任、1941年5月安部信治の出馬が不可能に、第百銀行の管理。興銀窓口1100万円の日銀特別融資、興銀筋の要請で鐘紡が再び。1941年8月債権者会議・株主総会で永井得一(代表取締役専務)・末広幸次郎(常務)。損失1284万余円
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- [24]1938年7月一の宮工場を建設、上尾工場に紡織・製絨・染色・反毛設備を増設しシルクールの一貫作業態勢を整えた
- [29]1939年12月に資本金2200万円へ増資。1940年7月伊藤社長が九州で急逝し、金融が困難となった
- [38]1941年8月、政府より興銀を通じ命令融資、鐘紡と興銀から経営首脳を迎え鐘紡の子会社として再発足
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」
- [32]初代社長の客死により首脳人事の交代が相次いだ。1939年に資本金2200万円
- [34]1941年8月に興銀・鐘紡の系列となった
1941年〜企業整備で肥料・繊維を失い、制限会社の指定を経てぶどう糖へ
昭和産業は1943年から1944年の企業整備で肥料・飼料・人造羊毛・紡績を閉鎖し、製粉・製油・精麦・製飴の会社として残った。小麦粉は1940年春に最高販売価格が設けられ、原料の配給から製品の販売まで統制の下に置かれた。1942年7月に一の宮工場を海軍へ売却し、同年10月にはシルクールの生産も止めた。1943年7月には鶴見の肥料・飼料・製粉部門と大島の肥料、藤沢の搾油が休止し、創業以来の肥料事業が終わった。買収や閉鎖で失った工場は5つ、消えた事業は3分の2にのぼる。永井得一氏は鐘紡で工務・製造部長を務めた人物で、工程ごとの管理表とコスト計算を経営に持ち込んだ。原料相場で利益を得る商業的な気風が統制で通用しなくなり、工場の生産性で利益を出す製造業の経営へ移ったとみることができる。
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- [40]企業整備令で5工場を失い、肥料・飼料・人造羊毛・紡績を閉鎖、事業の3分の2を失い、製粉・製油・精麦・製飴が残った
- [44]企業整備令で5工場を失い、肥料・飼料・人造羊毛・紡績を閉鎖、事業の3分の2を失い、製粉・製油・精麦・製飴が残った
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [41]1940年春に小麦粉の最高販売価格制度と統制。1942年7月一の宮工場を海軍に売却、1942年10月シルクール中止。1943年7月企業整備で鶴見の肥料・飼料・製粉、大島肥料、藤沢搾油が休止し肥料部門終了。永井得一は鐘紡の工務・製造部長出身で工程管理・コスト計算を重視
- [42]1940年春に小麦粉の最高販売価格制度と統制。1942年7月一の宮工場を海軍に売却、1942年10月シルクール中止。1943年7月企業整備で鶴見の肥料・飼料・製粉、大島肥料、藤沢搾油が休止し肥料部門終了。永井得一は鐘紡の工務・製造部長出身で工程管理・コスト計算を重視
- [43]1940年春に小麦粉の最高販売価格制度と統制。1942年7月一の宮工場を海軍に売却、1942年10月シルクール中止。1943年7月企業整備で鶴見の肥料・飼料・製粉、大島肥料、藤沢搾油が休止し肥料部門終了。永井得一は鐘紡の工務・製造部長出身で工程管理・コスト計算を重視
- [45]1940年春に小麦粉の最高販売価格制度と統制。1942年7月一の宮工場を海軍に売却、1942年10月シルクール中止。1943年7月企業整備で鶴見の肥料・飼料・製粉、大島肥料、藤沢搾油が休止し肥料部門終了。永井得一は鐘紡の工務・製造部長出身で工程管理・コスト計算を重視
昭和産業は1945年8月13日、米軍機の銃撃で赤塚工場の製粉・製油設備を焼失し、2日後に終戦を迎えた。同年9月には鶴見工場が米軍に接収され、1946年6月には鐘紡の子会社であることを理由に制限会社に指定された。同じ時期に永井得一氏が退任し、戦後処理を担ったのは興銀出身の代表取締役、須見善二氏である。食糧の不足で製粉の役割は重くなり、ガリオア・エロア資金による輸入原料の加工が工場を忙しくした。1946年12月には赤塚工場の復興工事を始め、1947年8月には上尾工場でぶどう糖の製造を始めた。1948年2月には、鐘紡系とみなされて過度経済力集中排除法の指定も受けた。肥料や繊維を失った後、残った製粉と製油に新しくぶどう糖を加えたことが、戦後の事業構成の出発点になったと考えられる。
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [46]1945年8月13日赤塚工場が銃撃で炎上、9月鶴見工場を米軍接収、1946年6月鐘紡子会社として制限会社指定、永井退任・須見善二(興銀出身)が代表取締役。1947年8月上尾工場でぶどう糖製造開始。1948年2月集中排除法の指定
- [48]1945年8月13日赤塚工場が銃撃で炎上、9月鶴見工場を米軍接収、1946年6月鐘紡子会社として制限会社指定、永井退任・須見善二(興銀出身)が代表取締役。1947年8月上尾工場でぶどう糖製造開始。1948年2月集中排除法の指定
- [50]1945年8月13日赤塚工場が銃撃で炎上、9月鶴見工場を米軍接収、1946年6月鐘紡子会社として制限会社指定、永井退任・須見善二(興銀出身)が代表取締役。1947年8月上尾工場でぶどう糖製造開始。1948年2月集中排除法の指定
- [51]1945年8月13日赤塚工場が銃撃で炎上、9月鶴見工場を米軍接収、1946年6月鐘紡子会社として制限会社指定、永井退任・須見善二(興銀出身)が代表取締役。1947年8月上尾工場でぶどう糖製造開始。1948年2月集中排除法の指定
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」
- [47]終戦後、鶴見工場の米軍接収と、鐘紡の子会社を理由とする制限会社指定を受けた
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- [49]1945年8月赤塚工場の製油・製粉設備を焼失。戦後はガリオア・エロア資金の輸入原料加工で繁忙、1946年12月赤塚工場の復興工事
参考文献[40]-[51]
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- [40]企業整備令で5工場を失い、肥料・飼料・人造羊毛・紡績を閉鎖、事業の3分の2を失い、製粉・製油・精麦・製飴が残った
- [44]企業整備令で5工場を失い、肥料・飼料・人造羊毛・紡績を閉鎖、事業の3分の2を失い、製粉・製油・精麦・製飴が残った
- [49]1945年8月赤塚工場の製油・製粉設備を焼失。戦後はガリオア・エロア資金の輸入原料加工で繁忙、1946年12月赤塚工場の復興工事
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- [41]1940年春に小麦粉の最高販売価格制度と統制。1942年7月一の宮工場を海軍に売却、1942年10月シルクール中止。1943年7月企業整備で鶴見の肥料・飼料・製粉、大島肥料、藤沢搾油が休止し肥料部門終了。永井得一は鐘紡の工務・製造部長出身で工程管理・コスト計算を重視
- [42]1940年春に小麦粉の最高販売価格制度と統制。1942年7月一の宮工場を海軍に売却、1942年10月シルクール中止。1943年7月企業整備で鶴見の肥料・飼料・製粉、大島肥料、藤沢搾油が休止し肥料部門終了。永井得一は鐘紡の工務・製造部長出身で工程管理・コスト計算を重視
- [43]1940年春に小麦粉の最高販売価格制度と統制。1942年7月一の宮工場を海軍に売却、1942年10月シルクール中止。1943年7月企業整備で鶴見の肥料・飼料・製粉、大島肥料、藤沢搾油が休止し肥料部門終了。永井得一は鐘紡の工務・製造部長出身で工程管理・コスト計算を重視
- [45]1940年春に小麦粉の最高販売価格制度と統制。1942年7月一の宮工場を海軍に売却、1942年10月シルクール中止。1943年7月企業整備で鶴見の肥料・飼料・製粉、大島肥料、藤沢搾油が休止し肥料部門終了。永井得一は鐘紡の工務・製造部長出身で工程管理・コスト計算を重視
- [46]1945年8月13日赤塚工場が銃撃で炎上、9月鶴見工場を米軍接収、1946年6月鐘紡子会社として制限会社指定、永井退任・須見善二(興銀出身)が代表取締役。1947年8月上尾工場でぶどう糖製造開始。1948年2月集中排除法の指定
- [48]1945年8月13日赤塚工場が銃撃で炎上、9月鶴見工場を米軍接収、1946年6月鐘紡子会社として制限会社指定、永井退任・須見善二(興銀出身)が代表取締役。1947年8月上尾工場でぶどう糖製造開始。1948年2月集中排除法の指定
- [50]1945年8月13日赤塚工場が銃撃で炎上、9月鶴見工場を米軍接収、1946年6月鐘紡子会社として制限会社指定、永井退任・須見善二(興銀出身)が代表取締役。1947年8月上尾工場でぶどう糖製造開始。1948年2月集中排除法の指定
- [51]1945年8月13日赤塚工場が銃撃で炎上、9月鶴見工場を米軍接収、1946年6月鐘紡子会社として制限会社指定、永井退任・須見善二(興銀出身)が代表取締役。1947年8月上尾工場でぶどう糖製造開始。1948年2月集中排除法の指定
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」
- [47]終戦後、鶴見工場の米軍接収と、鐘紡の子会社を理由とする制限会社指定を受けた
出典・参考
4件
- 株式会社年鑑 1950年版「昭和産業」
- 会社銀行八十年史 1955 第2篇 日本会社史・製粉「昭和産業」
- ポケット社史 1966「食品コンビナートのパイオニア(昭和産業)」
- 企業の歴史:明治百年 1968 第3編「昭和産業」