創業者を失った後、相場で稼ぐ商いから工場の採算で稼ぐ製造業へ経営を切り替えた会社である。1940年7月に伊藤英夫氏が急逝すると銀行借入は3000万円を超え、会社は第百銀行の管理下に置かれた。日本銀行は興業銀行を窓口に1100万円の融資を決め、興銀筋の強い要請で鐘紡が経営を引き受けた。1941年8月、昭和産業は損失1284万余円を公表して出直し、代表取締役専務となった鐘紡出身の永井得一氏が工程ごとの管理表とコスト計算を持ち込んだ。その後の企業整備で肥料・人造羊毛・紡績を失ったものの、残った製粉と製油に1947年からぶどう糖を加え、穀物を加工する事業の組み合わせを戦後へ引き継いだ。