藤田観光:藤田傳三郎商社の創業と藤田組の合名会社への改組
1877年〜西南戦争の調達で大阪に立った商社と、資本金6万円の組合から合名会社へ移った藤田組
1877年9月、藤田傳三郎氏は大阪で藤田組の規則を定め、「藤田傳三郎商社」と称して社主頭取に就任した。社中は兄の藤田鹿太郎氏、弟の久原庄三郎氏、元山口県令の中野梧一氏。直前の西南戦争で、藤田組は大阪・広島・熊本の各鎮台へ靴や被服を一手に納め、軍夫の請負も引き受けた。大倉組と並んで多額の利益をあげた藤田組は、店務を庶務・売買・出納・勘定・倉庫・土木の6課に分けた。当社は統合報告書2019の年表で、この「藤田傳三郎商社」を事業の成り立ちの最初に置いている。戦時の請負で膨らんだ取引を、個人の采配ではなく規則と分課で処理する必要が、商社の名乗りにつながったとみられる。
- DOWA 創業百年史[本編] 1985「一章 小坂鉱山と藤田組」
- [1]1877年9月、藤田組の規則を制定して藤田伝三郎商社と称し、伝三郎が社主頭取、鹿太郎・庄三郎・中野梧一が社中
- [2]1877年9月、藤田組の規則を制定して藤田伝三郎商社と称し、伝三郎が社主頭取、鹿太郎・庄三郎・中野梧一が社中
- [3]西南戦争で藤田組は大阪・広島・熊本鎮台の靴・被服調達と人夫請負を担い、大倉組とともに大きな利益を得た。店務を6課に分けた
- [4]西南戦争で藤田組は大阪・広島・熊本鎮台の靴・被服調達と人夫請負を担い、大倉組とともに大きな利益を得た。店務を6課に分けた
- 藤田観光 統合報告書2019「事業・ブランドの成り立ち」
- [5]当社の年表は「藤田傳三郎商社」設立を事業・ブランドの成り立ちの最初に置く
1881年1月、藤田傳三郎氏は藤田傳三郎商社の組織を改め、兄弟3人の組合「藤田組」を資本金6万円で発足させた。出資は藤田傳三郎氏が3万円、藤田鹿太郎氏と久原庄三郎氏が1万5,000円ずつで、前年に中野梧一氏は退社した。その前年の1879年9月、藤田傳三郎氏は贋札製造の嫌疑で拘引され、藤田鹿太郎氏や中野梧一氏も取り調べを受けた。証拠は出ずに同年12月に放免となり、1882年には神奈川県の別人が真犯人として検挙された。藤田傳三郎氏は自伝で、拘禁中も返済を迫る債権者が現れなかったことを挙げ、『斯ル際ニ猶信用ヲ持続シ得タルハ想像ノ及バザル所ナリキ』と振り返った。嫌疑を経ても保たれた信用が、兄弟の出資を確定させた組合へ組織を固める足場になったと推察される。
- DOWA 創業百年史[本編] 1985「一章 小坂鉱山と藤田組」
- [6]1881年1月、藤田伝三郎商社(中野梧一は1880年退社)を3名の組合に変更。名称藤田組・資本金6万円、出資は伝三郎3万円・鹿太郎1万5,000円・庄三郎1万5,000円、鹿太郎・庄三郎が取締
- [7]1881年1月、藤田伝三郎商社(中野梧一は1880年退社)を3名の組合に変更。名称藤田組・資本金6万円、出資は伝三郎3万円・鹿太郎1万5,000円・庄三郎1万5,000円、鹿太郎・庄三郎が取締
- [9]捜索で贋札も証拠も出ず1879年12月に放免、1882年に熊坂長庵が検挙。伝三郎は自伝で囚禁中に督促した債主がなく信用を持続できたと記す
- [10]捜索で贋札も証拠も出ず1879年12月に放免、1882年に熊坂長庵が検挙。伝三郎は自伝で囚禁中に督促した債主がなく信用を持続できたと記す
- 事業之日本 5(9) 1926「贋札事件で有名な藤田組の事業と其人物」
- [8]1879年9月15日、藤田傳三郎が警視庁派遣の警官に拘引され堺の臨時調所へ送られ、中野梧一・藤田鹿太郎らも拘引
1893年12月、藤田組は同年7月の商法の一部施行を機に合名会社へ改組し、資本金を60万円に増やした。設立日は同月11日で、目的は鉱物の採掘・製錬・売買、出資は藤田傳三郎氏が30万円、藤田鹿太郎氏と久原庄三郎氏が15万円ずつである。改組の前提には、1884年9月に官営小坂鉱山の払下げを受けて鉱業が主力に転じたことがあった。当時の鉱山経営は規模が膨らんで巨額の資金を要し、三井と三菱も1890年代前半に鉱山を会社組織へ移した。当社の統合報告書2019の年表は、鉱山の主力事業がのちの同和鉱業へ移り、藤田興業の観光部門が独立して当社が生まれた系譜を示している。鉱山への投資が兄弟の個人出資で賄える規模を超え、法人として資金と鉱業権を管理する会社組織が求められたと思われる。
- DOWA 創業百年史[本編] 1985「一章 小坂鉱山と藤田組」
- [11]藤田組は1893年7月の商法一部施行を機会に同年12月合名会社に改組し資本金を60万円に増加。三井は1892年三井鉱山合資、三菱は1893年三菱合資を設立
- [13]官営小坂鉱山は1884年9月18日に藤田組へ払い下げられた
- [14]藤田組は1893年7月の商法一部施行を機会に同年12月合名会社に改組し資本金を60万円に増加。三井は1892年三井鉱山合資、三菱は1893年三菱合資を設立
- 実業の世界 22(1) 1925年1月号 商尊子
- [12]現今の藤田組は1893年12月11日設立、目的は鉱物の採掘製煉及売買、出資は傳三郎30万円・鹿太郎15万円・久原庄三郎15万円
- 藤田観光 統合報告書2019「事業・ブランドの成り立ち」
- [15]年表:1884年小坂鉱山の払下げで鉱山業に本格参入、藤田組は同和鉱業へ社名変更し主力4鉱山を継ぐ、藤田興業の観光部門が独立し藤田観光を設立
参考文献[1]-[15]
- DOWA 創業百年史[本編] 1985「一章 小坂鉱山と藤田組」
- [1]1877年9月、藤田組の規則を制定して藤田伝三郎商社と称し、伝三郎が社主頭取、鹿太郎・庄三郎・中野梧一が社中
- [2]1877年9月、藤田組の規則を制定して藤田伝三郎商社と称し、伝三郎が社主頭取、鹿太郎・庄三郎・中野梧一が社中
- [3]西南戦争で藤田組は大阪・広島・熊本鎮台の靴・被服調達と人夫請負を担い、大倉組とともに大きな利益を得た。店務を6課に分けた
- [4]西南戦争で藤田組は大阪・広島・熊本鎮台の靴・被服調達と人夫請負を担い、大倉組とともに大きな利益を得た。店務を6課に分けた
- [6]1881年1月、藤田伝三郎商社(中野梧一は1880年退社)を3名の組合に変更。名称藤田組・資本金6万円、出資は伝三郎3万円・鹿太郎1万5,000円・庄三郎1万5,000円、鹿太郎・庄三郎が取締
- [7]1881年1月、藤田伝三郎商社(中野梧一は1880年退社)を3名の組合に変更。名称藤田組・資本金6万円、出資は伝三郎3万円・鹿太郎1万5,000円・庄三郎1万5,000円、鹿太郎・庄三郎が取締
- [9]捜索で贋札も証拠も出ず1879年12月に放免、1882年に熊坂長庵が検挙。伝三郎は自伝で囚禁中に督促した債主がなく信用を持続できたと記す
- [10]捜索で贋札も証拠も出ず1879年12月に放免、1882年に熊坂長庵が検挙。伝三郎は自伝で囚禁中に督促した債主がなく信用を持続できたと記す
- [11]藤田組は1893年7月の商法一部施行を機会に同年12月合名会社に改組し資本金を60万円に増加。三井は1892年三井鉱山合資、三菱は1893年三菱合資を設立
- [13]官営小坂鉱山は1884年9月18日に藤田組へ払い下げられた
- [14]藤田組は1893年7月の商法一部施行を機会に同年12月合名会社に改組し資本金を60万円に増加。三井は1892年三井鉱山合資、三菱は1893年三菱合資を設立
- 藤田観光 統合報告書2019「事業・ブランドの成り立ち」
- [5]当社の年表は「藤田傳三郎商社」設立を事業・ブランドの成り立ちの最初に置く
- [15]年表:1884年小坂鉱山の払下げで鉱山業に本格参入、藤田組は同和鉱業へ社名変更し主力4鉱山を継ぐ、藤田興業の観光部門が独立し藤田観光を設立
- 事業之日本 5(9) 1926「贋札事件で有名な藤田組の事業と其人物」
- [8]1879年9月15日、藤田傳三郎が警視庁派遣の警官に拘引され堺の臨時調所へ送られ、中野梧一・藤田鹿太郎らも拘引
- 実業の世界 22(1) 1925年1月号 商尊子
- [12]現今の藤田組は1893年12月11日設立、目的は鉱物の採掘製煉及売買、出資は傳三郎30万円・鹿太郎15万円・久原庄三郎15万円
1900年〜網島の藤田邸に集めた美術品と、男爵を授かり72歳で没した藤田傳三郎氏
藤田傳三郎氏は1900年ごろ、会社重役の兼務に弊害があると判断し、自ら経営する事業以外の役職をすべて辞した。それまで藤田傳三郎氏は、1878年に大阪商法会議所の副頭取を務め、大阪紡績や山陽鉄道、大阪株式取引所の設立にも名を連ねた。大阪の人々は網島の藤田邸を『網島さんの骨董道楽』と呼び、邸内の秘庫に収めた東西の美術品は目録だけで数百ページに及び、のちに藤田美術館として公開された。当社は統合報告書2019で、太閤園のもとを藤田傳三郎氏が淀川畔に築いた屋敷としている。統合報告書2016では、自らの観光事業がルーツの藤田家の邸宅と庭園を旅館・レストランに転じたところから始まったと記している。外の役職を整理して自家の事業と邸に力を寄せたことが、のちに当社が継ぐ邸宅と庭園の蓄えになったのだろう。
- 日本経済新報 10(33) 1957 葛城肇
- [16]藤田伝三郎は1900年ごろ会社重役兼務の弊害をさとり自己経営以外の職を全部辞した
- [17]1878年に五代友厚らと商法会議所を設け副頭取、1882年大阪紡績、1888年山陽鉄道・大阪株式取引所などの設立に関与
- [18]大阪人は「網島さんの骨董道楽」と呼び、藤田家の邸内の秘庫に目録数百ページの東西の美術品。現在は藤田美術館として公開
- 藤田観光 統合報告書2019「文化財や歴史ある建物・庭園」
- [19]太閤園は明治時代に藤田傳三郎が淀川畔に築造した屋敷がもと
- 藤田観光 統合報告書2016
- [20]ルーツである藤田家の邸宅・庭園を旅館およびレストランとして営業することを手始めに観光事業に着手
藤田傳三郎氏は公益事業への功労で1911年に男爵を授けられ、翌1912年3月に72歳で没した。代替わりの準備は生前から進み、1905年に藤田傳三郎氏は持分の一部を長男の藤田平太郎氏ら3人の息子に分けた。同じ時期に甥の藤田小太郎氏と久原房之助氏が持分を譲渡して退社し、藤田組は父子4人の出資になった。藤田傳三郎氏の死後、1912年4月13日に出資の内訳が改められ、同月20日に藤田平太郎氏が男爵を襲爵した。1925年時点で藤田平太郎氏は社長として藤田組を率い、出資総額600万円のうち360万円を持った。生前に持分を息子へ寄せたことで、当主の死に際しても家と組の経営が一体のまま藤田平太郎氏へ移ったと考えられる。
- 日本経済新報 10(33) 1957 葛城肇
- [21]公益事業の功労で1911年に三井八郎次郎らとともに男爵、翌1912年3月に72歳で没
- 実業の世界 22(1) 1925年1月号 商尊子
- [22]1905年末に傳三郎が持分を平太郎・徳次郎・彦三郎に分け、小太郎・久原房之助は持分を譲渡して退社。1912年4月13日出資内訳変更、平太郎は同年4月20日襲爵。1925年時点で社長、出資600万円中360万円
- [23]1905年末に傳三郎が持分を平太郎・徳次郎・彦三郎に分け、小太郎・久原房之助は持分を譲渡して退社。1912年4月13日出資内訳変更、平太郎は同年4月20日襲爵。1925年時点で社長、出資600万円中360万円
- [24]1905年末に傳三郎が持分を平太郎・徳次郎・彦三郎に分け、小太郎・久原房之助は持分を譲渡して退社。1912年4月13日出資内訳変更、平太郎は同年4月20日襲爵。1925年時点で社長、出資600万円中360万円
- [25]1905年末に傳三郎が持分を平太郎・徳次郎・彦三郎に分け、小太郎・久原房之助は持分を譲渡して退社。1912年4月13日出資内訳変更、平太郎は同年4月20日襲爵。1925年時点で社長、出資600万円中360万円
参考文献[16]-[25]
- 日本経済新報 10(33) 1957 葛城肇
- [16]藤田伝三郎は1900年ごろ会社重役兼務の弊害をさとり自己経営以外の職を全部辞した
- [17]1878年に五代友厚らと商法会議所を設け副頭取、1882年大阪紡績、1888年山陽鉄道・大阪株式取引所などの設立に関与
- [18]大阪人は「網島さんの骨董道楽」と呼び、藤田家の邸内の秘庫に目録数百ページの東西の美術品。現在は藤田美術館として公開
- [21]公益事業の功労で1911年に三井八郎次郎らとともに男爵、翌1912年3月に72歳で没
- 藤田観光 統合報告書2019「文化財や歴史ある建物・庭園」
- [19]太閤園は明治時代に藤田傳三郎が淀川畔に築造した屋敷がもと
- 藤田観光 統合報告書2016
- [20]ルーツである藤田家の邸宅・庭園を旅館およびレストランとして営業することを手始めに観光事業に着手
- 実業の世界 22(1) 1925年1月号 商尊子
- [22]1905年末に傳三郎が持分を平太郎・徳次郎・彦三郎に分け、小太郎・久原房之助は持分を譲渡して退社。1912年4月13日出資内訳変更、平太郎は同年4月20日襲爵。1925年時点で社長、出資600万円中360万円
- [23]1905年末に傳三郎が持分を平太郎・徳次郎・彦三郎に分け、小太郎・久原房之助は持分を譲渡して退社。1912年4月13日出資内訳変更、平太郎は同年4月20日襲爵。1925年時点で社長、出資600万円中360万円
- [24]1905年末に傳三郎が持分を平太郎・徳次郎・彦三郎に分け、小太郎・久原房之助は持分を譲渡して退社。1912年4月13日出資内訳変更、平太郎は同年4月20日襲爵。1925年時点で社長、出資600万円中360万円
- [25]1905年末に傳三郎が持分を平太郎・徳次郎・彦三郎に分け、小太郎・久原房之助は持分を譲渡して退社。1912年4月13日出資内訳変更、平太郎は同年4月20日襲爵。1925年時点で社長、出資600万円中360万円
出典・参考
7件
- 藤田観光 統合報告書2016
- 藤田観光 統合報告書2019「事業・ブランドの成り立ち」
- 藤田観光 統合報告書2019「文化財や歴史ある建物・庭園」
- DOWA 創業百年史[本編] 1985「一章 小坂鉱山と藤田組」
- 実業の世界 22(1) 1925年1月号 商尊子
- 事業之日本 5(9) 1926「贋札事件で有名な藤田組の事業と其人物」
- 日本経済新報 10(33) 1957 葛城肇