雅叙園観光:池田保次の株式買占めと約700億円の手形乱発
1984年〜創業家の承継が割れ、外から株を大量取得された二年
雅叙園観光の実質的な創業者である松尾國三氏が、1984年1月に死去した。旅芸人から身を起こし、雅叙園観光と日本ドリーム観光の二社を東京証券取引所と大阪証券取引所の一部へ押し上げた実業家であった。日本ドリーム観光は松尾氏が1913年に創設し、雅叙園観光は1948年に設立したもので、二社はいずれも松尾家がオーナーの兄弟会社にあたり、日本ドリーム観光は雅叙園観光の筆頭株主でもあった。松尾氏が後継者として指名していたのは孫であり、その孫が経営を担えるようになるまでは、未亡人と長く番頭役を務めてきた人物が会長と社長を分け持つ想定であったという。しかし、2社ともに上場企業であり、複雑な資本政策をともなっていたことから、事業承継は身内だけで解決する問題でなかった。
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [1]創業者は1984年1月頃に死去し、これを機に会社は日本ドリーム観光を舞台とした内紛に巻き込まれた
- [4]日本ドリーム観光は雅叙園観光の筆頭株主であり、両社はいずれも創業家がオーナーの兄弟会社にあたる
- [5]創業者が後継者として指名していたのは孫であり、同人が経営能力を体得するまでは未亡人と番頭役を担っていた人物が会長と社長に就く二人三脚で進むはずであった
- 月刊経済 1985年 インサイド・レポート
- [2]創業社長の松尾国三氏は一介の旅芸人から雅叙園観光と日本ドリーム観光の二社を東証・大証一部上場企業にのし上げた
- [3]日本ドリーム観光は松尾国三前社長が大正2年に創設し、雅叙園観光は同人が昭和23年に設立した
1984年の雅叙園観光の株価は、1月につけた高値283円から10月の安値185円までの幅に収まり、おおむね200円の前後で推移するにとどまっていた。松尾氏が亡くなった翌年、仕手筋の買い集めで値動きは一変し、1985年6月1日の初値370円を起点に上げへ転じて、7月22日に919円、9月には1,000円の大台に乗り、3〜4か月で5倍に達した。買いの主と判明したのは、三洋興産グループの傘下とみられる仕手筋のアイ・エス・シーという企業で、9月上旬にはすでに600万株近くを保有していた。会社の側に、この上昇を支える材料は無く、資本金13億7,187万5,000円の同社は、1984年度に経常損益で1億6,300万円、最終損益で1億7,000万円の赤字を計上。累積赤字を3億9,900万円まで膨らませており、業績悪化に直面していた。
- 月刊経済 1985年 インサイド・レポート
- [6]1984年の雅叙園観光株は1月の高値283円と10月の安値185円の間で、おおむね200円前後を上下していた
- [7]1985年6月1日の初値370円から騰勢に転じ、7月22日に919円、9月に1,000円の大台へ乗り、三、四か月で五倍の急騰となった
- [8]買い本尊は三洋興産グループの傘下とみられるアイ・エス・シーで、9月上旬には600万株近くを保有していた
- [10]1984年度(1985年2月期)の決算は経常損益1億6,300万円の赤字、最終損益1億7,000万円の赤字であった
- [11]累積赤字は3億9,900万円に膨張し、日本ドリーム観光からの配当収入の減少が打撃となった
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [9]1972年9月に日田観光株式会社を吸収合併し、資本金は13億7,187万5,000円となった
仕手筋の介入は、後継者における内紛が原因であり、会長と社長の間における、承継順序をめぐる感情の行き違いだったとされる。孫の社長就任を焦る会長と社長での対立が発生し、社長は、当時すでに雅叙園観光株の買い占めを進めていた大阪の仕手集団コスモポリタンと手を組んで自社株を買い集め、オーナーである会長の追い出しに動いたという。コスモポリタンは1986年1月14日に不動産会社として設立され、同年4月あたりから株式投資へ軸足を移していた。会長の側も、日本ドリーム観光株を買い集めていた別の仕手筋と組んで応戦した。両派の対立は1987年4月、日本ドリーム観光と雅叙園観光における資本面での兄弟関係を清算し、会長派が日本ドリーム観光を、社長派が雅叙園観光を取得して決着した。事業承継の内紛は終わったが、そのあいだに雅叙園観光の株式はコスモポリタンによって買い占められ、仕手筋に乗っ取られていた。
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [12]孫の社長就任を焦る会長と社長の間に感情的な行き違いが芽生えたことが内紛のきっかけとされる
- [13]社長は雅叙園観光株の買い占めを進めていた大阪の仕手集団コスモポリタンの代表と手を組んで自社株を買い集め、会長の追い出しに動いた
- [15]会長派は日本ドリーム観光株を買い集めていた別の仕手筋と組んで応戦した
- [16]1987年4月、両派は日本ドリーム観光と雅叙園観光の兄弟関係を完全に清算・解消し、会長派はドリーム観光を、社長派は雅叙園観光を取ることで決着した
- [17]お家騒動の間に雅叙園観光の株式はコスモポリタンによって買い占められ、結果として同社は乗っ取られた
- 月刊経済 1988年 小網善市
- [14]コスモポリタンは1986年1月14日に不動産会社として設立され、同年4月あたりから株式投資に注力し始めた
参考文献[1]-[17]
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [1]創業者は1984年1月頃に死去し、これを機に会社は日本ドリーム観光を舞台とした内紛に巻き込まれた
- [4]日本ドリーム観光は雅叙園観光の筆頭株主であり、両社はいずれも創業家がオーナーの兄弟会社にあたる
- [5]創業者が後継者として指名していたのは孫であり、同人が経営能力を体得するまでは未亡人と番頭役を担っていた人物が会長と社長に就く二人三脚で進むはずであった
- [9]1972年9月に日田観光株式会社を吸収合併し、資本金は13億7,187万5,000円となった
- [12]孫の社長就任を焦る会長と社長の間に感情的な行き違いが芽生えたことが内紛のきっかけとされる
- [13]社長は雅叙園観光株の買い占めを進めていた大阪の仕手集団コスモポリタンの代表と手を組んで自社株を買い集め、会長の追い出しに動いた
- [15]会長派は日本ドリーム観光株を買い集めていた別の仕手筋と組んで応戦した
- [16]1987年4月、両派は日本ドリーム観光と雅叙園観光の兄弟関係を完全に清算・解消し、会長派はドリーム観光を、社長派は雅叙園観光を取ることで決着した
- [17]お家騒動の間に雅叙園観光の株式はコスモポリタンによって買い占められ、結果として同社は乗っ取られた
- 月刊経済 1985年 インサイド・レポート
- [2]創業社長の松尾国三氏は一介の旅芸人から雅叙園観光と日本ドリーム観光の二社を東証・大証一部上場企業にのし上げた
- [3]日本ドリーム観光は松尾国三前社長が大正2年に創設し、雅叙園観光は同人が昭和23年に設立した
- [6]1984年の雅叙園観光株は1月の高値283円と10月の安値185円の間で、おおむね200円前後を上下していた
- [7]1985年6月1日の初値370円から騰勢に転じ、7月22日に919円、9月に1,000円の大台へ乗り、三、四か月で五倍の急騰となった
- [8]買い本尊は三洋興産グループの傘下とみられるアイ・エス・シーで、9月上旬には600万株近くを保有していた
- [10]1984年度(1985年2月期)の決算は経常損益1億6,300万円の赤字、最終損益1億7,000万円の赤字であった
- [11]累積赤字は3億9,900万円に膨張し、日本ドリーム観光からの配当収入の減少が打撃となった
- 月刊経済 1988年 小網善市
- [14]コスモポリタンは1986年1月14日に不動産会社として設立され、同年4月あたりから株式投資に注力し始めた
1986年〜大量取得した株を担保に回す仕手集団への経営権の移動
バブル期において、仕手筋であるコスモポリタンが手がけた銘柄は、東海観光、日本ドリーム観光、雅叙園観光、タクマ、石原建設、丸石自転車、徳陽相互銀行、宮崎銀行などで、いずれも200万株から2,000万株台を買い集めたうえで名義書換を行っている。狙いを定めた銘柄を徹底して買い集め、役員の交代を通じて経営権を奪う要求へ資源を集中する攻め方だった。投資資金について、仕手筋の多くは買い集めた株券をファイナンス会社などに担保として差し入れて借入し、時価の6〜7割の資金を引き出して次の銘柄を仕込んだという。取得額すれすれまで株価が下げれば、担保の追加か資金繰りを求められることになる。買い進むほど担保が厚くなる一方で、値が止まれば同じ厚みがそのまま負担へ反転する構造だったが、バブルにおける株価高騰が、株式が担保として機能する構造を作り出していた。
- 月刊経済 1988年 小網善市
- [18]コスモポリタンが手がけた銘柄は東海観光・日本ドリーム観光・雅叙園観光・タクマ・石原建設・丸石自転車・徳陽相互銀行・宮崎銀行などで、いずれも200万〜2,000万株台を集めたあと名義書換を行った
- [19]コスモポリタンの仕手筋としての攻め方は、狙いを定めた銘柄を徹頭徹尾買い集め、役員交代による経営権奪取の要求に総力をあげる力の論理にあった
- [20]仕手筋の多くは買い集めた株券をファイナンス会社などに担保に入れ、時価の六〜七掛けで資金を調達して次の銘柄を仕込む手法をとった
- [21]取得額すれすれか下回る事態になれば、担保の追加や資金繰りが要求されることになる
1987年5月28日、コスモポリタンの主導者である池田保次氏が雅叙園観光の会長に就任した。ただし会長の座にあった期間は半年に満たない。同年10月20日の世界的な株価暴落(ブラックマンデー)でコスモポリタンが大きな打撃を受け、池田氏は12月に会長を辞任。買い占めの主力銘柄だったタクマ株は同年5月の高値2,220円から10月末には880円まで下げ、系列の新和観光開発が9月30日に、スペックスが10月16日に、コスモポリタンビルが10月28日に相次いで不渡りを出した。1988年1月には池田氏が連れてきた社長も辞任し、仕手筋のコスモポリタンは雅叙園観光の経営の表から退いた。
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [22]1987年5月28日、コスモポリタンの代表が雅叙園観光の会長に就任した
- [23]1987年10月20日の世界的な株価大暴落によりコスモポリタンが大打撃を受け、同代表は1987年12月に雅叙園観光の会長を辞任した
- [27]1988年1月には池田保次氏が連れてきた社長も辞任した
- 月刊経済 1988年 小網善市
- [24]タクマ株の1987年高値は5月の2,220円で、5か月後の10月末には880円まで下げた
- [25]傘下の新和観光開発は1987年9月30日に一回目の不渡り手形を出し、10月26日の二回目で事実上倒産した
- [26]系列のスペックスは1987年10月16日に、コスモポリタンビルは10月28日に二回目の不渡りを出した
コスモポリタンに代わる大株主として現れたのは、ディクソン・ワン・カンパニーという香港資本グループだった。しかし経営権の委譲は見せかけにとどまる。香港資本は名義にすぎず、株式を実質的に押さえていたのは在日韓国人実業家のグループだったとされる。資本関係が錯綜する中、会長の職を去ったあとも、雅叙園観光の経営権は池田氏が握り続けていた。会社の資産は流出しており、神戸ニューポートホテルは1987年8月に日本ドリーム観光から買収したばかりの拠点だったが、同年11月にはその土地・建物がコスモポリタンへ譲渡され、有価証券報告書に記された売却益は5,594万円であったという。
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [28]コスモポリタンに代わる大株主として香港資本グループ(ディクソン・ワン・カンパニー)が登場した
- [29]香港資本グループは名義だけで、株式を実質的に押さえていたのは在日韓国人実業家のグループであった
- [30]雅叙園観光の会長の職を去ったものの、同社の経営権は池田保次氏が依然として掌握していた
- [31]1987年8月、雅叙園観光は日本ドリーム観光との株式持合を解除する株式売買予約契約を締結し、奈良・横浜・大阪各営業所の経営委託契約を解除するとともに、神戸ニューポートホテルを日本ドリーム観光より買収した
- [32]1987年11月、雅叙園観光は神戸ニューポートホテルの土地・建物等をコスモポリタン株式会社に譲渡した
- 雅叙園観光 有価証券報告書総覧
- [33]神戸ニューポートホテルの売却は有価証券報告書総覧では1987年11月10日とされ、売却益は5,594万円であった
参考文献[18]-[33]
- 月刊経済 1988年 小網善市
- [18]コスモポリタンが手がけた銘柄は東海観光・日本ドリーム観光・雅叙園観光・タクマ・石原建設・丸石自転車・徳陽相互銀行・宮崎銀行などで、いずれも200万〜2,000万株台を集めたあと名義書換を行った
- [19]コスモポリタンの仕手筋としての攻め方は、狙いを定めた銘柄を徹頭徹尾買い集め、役員交代による経営権奪取の要求に総力をあげる力の論理にあった
- [20]仕手筋の多くは買い集めた株券をファイナンス会社などに担保に入れ、時価の六〜七掛けで資金を調達して次の銘柄を仕込む手法をとった
- [21]取得額すれすれか下回る事態になれば、担保の追加や資金繰りが要求されることになる
- [24]タクマ株の1987年高値は5月の2,220円で、5か月後の10月末には880円まで下げた
- [25]傘下の新和観光開発は1987年9月30日に一回目の不渡り手形を出し、10月26日の二回目で事実上倒産した
- [26]系列のスペックスは1987年10月16日に、コスモポリタンビルは10月28日に二回目の不渡りを出した
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [22]1987年5月28日、コスモポリタンの代表が雅叙園観光の会長に就任した
- [23]1987年10月20日の世界的な株価大暴落によりコスモポリタンが大打撃を受け、同代表は1987年12月に雅叙園観光の会長を辞任した
- [27]1988年1月には池田保次氏が連れてきた社長も辞任した
- [28]コスモポリタンに代わる大株主として香港資本グループ(ディクソン・ワン・カンパニー)が登場した
- [29]香港資本グループは名義だけで、株式を実質的に押さえていたのは在日韓国人実業家のグループであった
- [30]雅叙園観光の会長の職を去ったものの、同社の経営権は池田保次氏が依然として掌握していた
- [31]1987年8月、雅叙園観光は日本ドリーム観光との株式持合を解除する株式売買予約契約を締結し、奈良・横浜・大阪各営業所の経営委託契約を解除するとともに、神戸ニューポートホテルを日本ドリーム観光より買収した
- [32]1987年11月、雅叙園観光は神戸ニューポートホテルの土地・建物等をコスモポリタン株式会社に譲渡した
- 雅叙園観光 有価証券報告書総覧
- [33]神戸ニューポートホテルの売却は有価証券報告書総覧では1987年11月10日とされ、売却益は5,594万円であった
1988年〜会社名義の手形が支配株主の資金繰りへ回された末の失踪
1988年春ごろから、雅叙園観光の名義で手形が乱発され始めた。池田氏と在日韓国人実業家が息のかかった経営陣を通じて振り出させた形で、総額は700億円に達するといわれる。用途は会社の事業ではなく、コスモポリタンの債務保証など池田氏自身の資金繰りだった。池田氏は、1985年12月に社長を務めていたサンエステートを150億円の不渡りで倒産させ、二年間の銀行取引停止を招いた経緯があり、コスモポリタンの代表である限り正規のルートでは資金を調達できないという問題を抱えていた。年間売上高が40億円規模の会社にとって、700億円は事業のどこからも返せない額にあたる。正規の調達経路を塞がれた者が、上場会社の手形という別の経路を手にし、雅叙園観光が巻き込まれた。
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [34]1988年春ごろから、息のかかった雅叙園観光の経営陣を通じて同社名義の手形が乱発され始めた
- [35]乱発された手形の総額は700億円に達するといわれている
- [36]手形はコスモポリタンの債務保証など、池田保次氏の資金繰りに使われた
- [38]雅叙園観光の年間売上高は1991年2月期で40億円であった
- オール投資 1987年12月1日号(月刊経済 1988年 小網善市「コスモポリタン、資金ぐり悪化で瓦解か」所収)
- [37]池田保次氏は1985年12月に社長だったサンエステートを150億円の不渡りで倒産させて二年間の銀行取引停止を受けており、コスモポリタンの代表である限り正規のルートでは資金調達ができないという問題を抱えていた
1988年8月12日の朝、池田氏はJR新大阪駅で秘書に言葉を残し、『東京へ行く。キミは帰っていいよ』として以後消息を絶ったという。同月25日の時点で、大阪市北区にあったコスモポリタンの事務所は閉鎖され、東区横堀の本社では社名が消されて他の金融・不動産業者名に書き換えられていた。社員へは、8月20日をもってコスモポリタンを解散するとの伝達がなされていた。全盛期にはグループ全体で2,000億円の総資産があったとされる集団が、ひと月足らずで形を失っている。同年11月2日、コスモポリタンの破産が決定し、支配していたコスモポリタンが消え、雅叙園観光には莫大な債務だけが残された。
- 朝日新聞 1988年8月25日付(月刊経済 1988年 小網善市 所収)
- [39]1988年8月12日の朝、池田保次会長はJR新大阪駅で秘書に言葉を残したのが関係者の知る最後の消息であった
- [41]社員に対して8月20日をもってコスモポリタンを解散するとの伝達がなされていた
- 月刊経済 1988年 小網善市
- [40]大阪市北区の駅前第二ビルにあったコスモポリタン事務所は閉鎖され、同市東区横堀の本社では社名が消されて他の金融・不動産業者名に看板が書き換えられた
- [42]全盛期にはコスモポリタングループ全体の総資産は2,000億円あったとされる
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [43]1988年11月2日、コスモポリタンの破産が決まった
- [44]コスモポリタンの破産により雅叙園観光には莫大な債務だけが残り、同社の経営危機が始まった
残った債務を引き受けたのは、救済に入った第三者ではなく債権者だった。在日韓国人実業家と、イトマンの元常務取締役で不動産会社の協和綜合開発研究所を経営する伊東寿光氏、そして大阪府民信用組合の理事長は、いずれもコスモポリタンへ融資して焦げ付きの被害を受けていた。三者は池田氏が保有していた雅叙園観光株を貸付金の担保に取っており、会社が倒産すれば株券は無価値になる。そこで被害者同盟を名乗って雅叙園観光の再建に着手した。1989年4月28日、同社の巨額の債務は伊東氏によって肩代わりされ、翌5月の株主総会では協和綜合開発研究所の会長が代表取締役として送り込まれた。バブル期を通じて、仕手筋によって資本政策が二転三転し、雅叙園観光は事業経営とは全く異なる部分で、財務および経営上のハンデを背負った。
- 日本経済新聞社編『イトマン・住銀事件』(月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」註による)
- [45]韓国人実業家と伊東寿光氏および大阪府民信用組合の理事長はコスモポリタンに融資していたが、これが焦げ付いて被害を被っていた
- [46]三者は池田保次氏が保有していた雅叙園観光株を貸付金の担保として取っていたが、同社が倒産すると株券が無価値になる状況にあった
- [47]三者は「被害者同盟」をつくって雅叙園観光の再建に着手した
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [48]1989年4月28日、雅叙園観光の巨額の債務は協和綜合開発研究所の代表取締役である伊東寿光氏によって肩代わりされた
- [49]1989年5月の株主総会で、協和綜合開発研究所の会長が雅叙園観光の代表取締役として送り込まれた
参考文献[34]-[49]
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」
- [34]1988年春ごろから、息のかかった雅叙園観光の経営陣を通じて同社名義の手形が乱発され始めた
- [35]乱発された手形の総額は700億円に達するといわれている
- [36]手形はコスモポリタンの債務保証など、池田保次氏の資金繰りに使われた
- [38]雅叙園観光の年間売上高は1991年2月期で40億円であった
- [43]1988年11月2日、コスモポリタンの破産が決まった
- [44]コスモポリタンの破産により雅叙園観光には莫大な債務だけが残り、同社の経営危機が始まった
- [48]1989年4月28日、雅叙園観光の巨額の債務は協和綜合開発研究所の代表取締役である伊東寿光氏によって肩代わりされた
- [49]1989年5月の株主総会で、協和綜合開発研究所の会長が雅叙園観光の代表取締役として送り込まれた
- オール投資 1987年12月1日号(月刊経済 1988年 小網善市「コスモポリタン、資金ぐり悪化で瓦解か」所収)
- [37]池田保次氏は1985年12月に社長だったサンエステートを150億円の不渡りで倒産させて二年間の銀行取引停止を受けており、コスモポリタンの代表である限り正規のルートでは資金調達ができないという問題を抱えていた
- 朝日新聞 1988年8月25日付(月刊経済 1988年 小網善市 所収)
- [39]1988年8月12日の朝、池田保次会長はJR新大阪駅で秘書に言葉を残したのが関係者の知る最後の消息であった
- [41]社員に対して8月20日をもってコスモポリタンを解散するとの伝達がなされていた
- 月刊経済 1988年 小網善市
- [40]大阪市北区の駅前第二ビルにあったコスモポリタン事務所は閉鎖され、同市東区横堀の本社では社名が消されて他の金融・不動産業者名に看板が書き換えられた
- [42]全盛期にはコスモポリタングループ全体の総資産は2,000億円あったとされる
- 日本経済新聞社編『イトマン・住銀事件』(月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」註による)
- [45]韓国人実業家と伊東寿光氏および大阪府民信用組合の理事長はコスモポリタンに融資していたが、これが焦げ付いて被害を被っていた
- [46]三者は池田保次氏が保有していた雅叙園観光株を貸付金の担保として取っていたが、同社が倒産すると株券が無価値になる状況にあった
- [47]三者は「被害者同盟」をつくって雅叙園観光の再建に着手した
1984年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1984年02月期 | 単体 | 27 | n/a | ▲1 | 0 | ▲0.5% | n/a |
| 1985年02月期 | 単体 | 30 | +10.6% | ▲1 | ▲1 | ▲5.6% | n/a |
| 1986年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭59年2月期、会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭60年2月期
出典・参考
7件
- 雅叙園観光 有価証券報告書総覧
- 朝日新聞 1988年8月25日付(月刊経済 1988年 小網善市 所収)
- 日本経済新聞社編『イトマン・住銀事件』(月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」註による)
- 月刊経済 1985年 インサイド・レポート
- オール投資 1987年12月1日号(月刊経済 1988年 小網善市「コスモポリタン、資金ぐり悪化で瓦解か」所収)
- 月刊経済 1988年 小網善市
- 月刊監査役 1993年 鳥羽至英「雅叙園観光会社事件――その意義と残された課題」