第2章 年〜年

雅叙園観光:総売上の57%を奈良ドリームランドに依存した賃借営業

1961年〜接収の解除と、他社が建てた遊園地に出店した食堂・売店

雅叙園観光ホテルは1953年6月から米軍専用ホテルとして運営され、一般の客を泊める場を8年近く持たなかった。目黒の建物が自社の所有でなかったことも、この間の制約を重くした。ホテルは細川力蔵氏と合資会社雅叙園、細川合名会社の三者を相手方とする賃貸契約の上に立っていた。1961年3月に2号館と3号館が一般営業へ復帰したものの、1号館は米軍用に残されたままだった。社長の松尾國三氏は1966年の株主総会で、軽井沢に7,500坪の土地を持ち、熱海と神戸にも相当な財産があると説明しているが、主力事業を展開する目黒の建物を所有しないという、事業上のハンデを背負っていた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【沿革】
    • [1]雅叙園観光ホテルは1953年6月に米軍専用ホテルへ転換した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【重要な提携】
    • [2]目黒ホテルは細川力蔵、合資会社雅叙園、細川合名会社の三者を相手方とする賃貸契約による
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【沿革】【概説】
    • [3]1961年3月より雅叙園観光ホテルの2〜3号館が一般営業へ復帰し、1号館のみ米軍用に残された
  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [4]松尾國三社長は1966年4月の株主総会で、軽井沢に7,500坪の土地を持ち、熱海・神戸にも相当な財産があると述べた

なお、松尾國三氏が関与した奈良ドリームランド(米国ディズニーランドから着想を得て開園したが2006年8月閉園)を建てたのは雅叙園観光ではなく、同氏が再建を引き受けた別の会社だった。1954年7月末、松竹の大谷竹次郎社長が専務の奥山市三氏を伴って松尾氏の自宅を訪れ、倒産寸前にあった大阪の千土地興行の立て直しだったを依頼された。この会社はのちに日本ドリーム観光となり、当時としては巨額な、総工費48億円をかけた遊園地を1961年7月1日に開園させた。雅叙園観光はその場内の食堂と売店に進出。資本金12億円の会社に48億円の遊園地は建てられず、松尾氏は観光事業を拡大するため、日本ドリーム観光の社長を兼ねるなど、5つ6つの会社を率いていた。

  • 松尾國三『けたはずれ人生』(1976年)第十四章「千土地興行」の再建
    • [5]1954年7月末、松竹の大谷竹次郎社長が専務の奥山市三氏と松尾國三氏を訪ね、倒産寸前の大阪千土地興行の再建を依頼した
  • 松尾國三『けたはずれ人生』(1976年)
    • [6]奈良ドリームランドは総工費48億円をかけて1961年7月1日に開園した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【沿革】
    • [7]1961年7月、奈良ドリームランドの開場にあたり場内に売店・食堂を開設した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」
    • [8]雅叙園観光の資本金は12億円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【役員】/株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)
    • [9]松尾國三は雅叙園観光社長であり日本ドリーム観光社長を兼ねた。1966年4月の株主総会では5つ6つの会社を経営していると述べた

奈良ドリームランドにおいて、場内で借りた面積は、決して小さいものではなかった。食堂は高級食堂と大衆食堂、ガーデン・ビヤホールを合わせて約700坪、売店は約380坪に達したが、この権利について松尾氏は株主総会で、通常なら3億円から5億円の補償金と権利金を要すると説明した。大株主であるために、権利金も家賃も払わずに借りたという。ただし奈良営業所は賃借料として売上額の10%を日本ドリーム観光へ納めていた。権利金も補償金も一切出していないと、松尾氏は総会で『そのために権利金は一銭も出ていない。補償金も出ていない、何にも出ていない、無家賃で借りておる』と述べたという。固定費を負わず、売れた分だけ払う条件であり、初期投資を要さない条件と引き換えに、雅叙園観光としては奈良ドリームランドへの関与を最小限に抑えた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【事業の内容】
    • [10]奈良ドリームランド内で食堂関係は約700坪、売店は約380坪の規模。高級食堂・大衆食堂・ガーデンビヤホール・売店を経営した
  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [11]松尾國三社長は1966年4月の株主総会で、通常なら3億円から5億円の補償金・権利金を要する売店食堂の権利を、大株主であるため権利金なし・無家賃で借りていると説明した
    • [13]松尾國三社長は、日本ドリーム観光の株主14名・監査役2名の了解のもとで雅叙園観光が株主となり、権利金も補償金も支払わず無家賃で借りていると株主総会で述べた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【重要な提携】
    • [12]奈良営業所は賃借料として日本ドリーム観光に売上額の10%を納めていた
参考文献[1]-[13]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【沿革】
    • [1]雅叙園観光ホテルは1953年6月に米軍専用ホテルへ転換した
    • [7]1961年7月、奈良ドリームランドの開場にあたり場内に売店・食堂を開設した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【重要な提携】
    • [2]目黒ホテルは細川力蔵、合資会社雅叙園、細川合名会社の三者を相手方とする賃貸契約による
    • [12]奈良営業所は賃借料として日本ドリーム観光に売上額の10%を納めていた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【沿革】【概説】
    • [3]1961年3月より雅叙園観光ホテルの2〜3号館が一般営業へ復帰し、1号館のみ米軍用に残された
  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [4]松尾國三社長は1966年4月の株主総会で、軽井沢に7,500坪の土地を持ち、熱海・神戸にも相当な財産があると述べた
    • [11]松尾國三社長は1966年4月の株主総会で、通常なら3億円から5億円の補償金・権利金を要する売店食堂の権利を、大株主であるため権利金なし・無家賃で借りていると説明した
    • [13]松尾國三社長は、日本ドリーム観光の株主14名・監査役2名の了解のもとで雅叙園観光が株主となり、権利金も補償金も支払わず無家賃で借りていると株主総会で述べた
  • 松尾國三『けたはずれ人生』(1976年)第十四章「千土地興行」の再建
    • [5]1954年7月末、松竹の大谷竹次郎社長が専務の奥山市三氏と松尾國三氏を訪ね、倒産寸前の大阪千土地興行の再建を依頼した
  • 松尾國三『けたはずれ人生』(1976年)
    • [6]奈良ドリームランドは総工費48億円をかけて1961年7月1日に開園した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」
    • [8]雅叙園観光の資本金は12億円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【役員】/株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)
    • [9]松尾國三は雅叙園観光社長であり日本ドリーム観光社長を兼ねた。1966年4月の株主総会では5つ6つの会社を経営していると述べた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【事業の内容】
    • [10]奈良ドリームランド内で食堂関係は約700坪、売店は約380坪の規模。高級食堂・大衆食堂・ガーデンビヤホール・売店を経営した

1963年〜四営業所すべてを賃借で構え、奈良へ寄った売上

1963年2月の時点で、雅叙園観光の営業所は目黒・新宿・芦屋・奈良の四か所にあり、いずれも他者からの賃借で成り立っていた。目黒は細川力蔵氏ら三者、新宿は日活株式会社、芦屋は松尾國三氏と財団法人松尾育英会、猿丸弁治氏の三者を相手方とする契約である。芦屋の温泉旅館芦山荘は客室17室・収容人員34名と小さく、軽井沢雅叙園ホテルも客室40室・収容人員120名にとどまった。目黒ホテルは米軍用の1号館が客室82室・収容人員214名、一般営業に戻った2号館が客室33室と結婚式場1室である。3号館はグリルとバーを主体に収容人員909名を数えた。松尾氏は1966年の総会で会社に多くの負債はないと述べたが、借入が少なかったのは建物を自ら建てなかったからでもある。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【重要な提携】
    • [14]1963年2月時点で目黒・新宿・芦屋・奈良の全営業所を賃借で運営していた
    • [15]目黒ホテルは細川力蔵ら三者、新宿営業所は日活、芦屋営業所は松尾国三・松尾育英会・猿丸弁治の三者を相手方とする賃貸契約
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【事業の内容】
    • [16]芦山荘は客室17・収容人員34名、軽井沢雅叙園ホテルは客室40・収容人員120名
    • [17]目黒ホテルは米軍専用の1号館が客室82・収容人員214名、2号館が客室33・結婚式場1室・収容人員63名、3号館はグリル・バーが主体で収容人員909名
  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [18]松尾國三社長は1966年4月の株主総会で、雅叙園に多くの負債はなく固くやっていると述べた

開設から2年で、収益源は目黒から奈良へ移り変わった。1963年には奈良ドリームランド場内に関する収益が、総売上高の57%を占め、目黒ホテル、新宿雅叙園、軽井沢雅叙園ホテル、芦山荘がこれに続いた。1963年2月期の営業収入は2億2,937万7,000円だった。飲食・食堂が1億1,292万3,000円、売店が6,532万4,000円を占め、宿泊料は4,333万円にとどまる。開園直後の入園者は松尾氏が見込んだ1日2万人に遠く及ばなかったが、それでも場内の飲食と売店は目黒のホテルを大きく上回る売上を生んだ。外客用の宿泊設備として設立された会社は、15年で自社保有しない遊園地である奈良ドリーム向けの飲食売店業へ姿を変えた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【事業の内容】
    • [19]1963年の総売上高では奈良ドリームランドが57%を占め、次いで目黒ホテル、新宿雅叙園、軽井沢雅叙園ホテル、芦山荘の順だった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【営業実績】
    • [20]1963年2月期の営業実績は宿泊料43,330千円、飲食・食堂112,923千円、売店65,324千円、その他7,800千円、合計229,377千円
  • 松尾國三『けたはずれ人生』(1976年)
    • [21]奈良ドリームランドの開園直後の入園者数は目標の1日2万人にはほど遠かった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【沿革】
    • [22]1948年6月、目黒雅叙園を外客宿泊設備として使用するため資本金5,000万円で設立された

しかし、売上構成が変わったものの、本業の採算は改善しなかった。1963年2月期は営業損失1,399万円を計上し、営業外収入6,205万円を充てて当期利益4,059万円をかろうじて残している。前の半期にあたる1962年8月期の営業収入2億7,370万6,000円からは4,400万円余りの減収だった。それから3年後、1966年4月の株主総会で株主が挙げた半期の売上高はおよそ2億8,000万円で、売上規模は拡大していた。しかし、同じ総会で松尾氏が報告したのは5,000万円の欠損であり、議案は欠損金処理計算書の承認で、無配となった。45円で株を買ったという株主が無配への不満を訴え、松尾氏も30円台という株価を残念に思うと述べるに至った。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」
    • [23]1963年2月期は営業損失1,399万円を営業外収入6,205万円で埋め、当期利益4,059万円を計上した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【営業実績】
    • [24]1962年8月期の営業収入は273,706千円、1963年2月期は229,377千円
  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [25]1966年4月25日の株主総会で株主は当期の売上高を約2億8,000万円と述べた
    • [26]松尾國三社長は昭和40年度後期(1965年9月〜1966年2月)に5,000万円の欠損を出したと報告した
    • [27]1966年4月25日の株主総会の議案は昭和40年度後期の貸借対照表・営業報告書・損益計算書および欠損金処理計算書案の承認で、配当は行われなかった
    • [28]株主は45円で買った株が無配になったと述べ、松尾國三社長は30円台の株価をまことに残念に思うと答えた
参考文献[14]-[28]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【重要な提携】
    • [14]1963年2月時点で目黒・新宿・芦屋・奈良の全営業所を賃借で運営していた
    • [15]目黒ホテルは細川力蔵ら三者、新宿営業所は日活、芦屋営業所は松尾国三・松尾育英会・猿丸弁治の三者を相手方とする賃貸契約
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【事業の内容】
    • [16]芦山荘は客室17・収容人員34名、軽井沢雅叙園ホテルは客室40・収容人員120名
    • [17]目黒ホテルは米軍専用の1号館が客室82・収容人員214名、2号館が客室33・結婚式場1室・収容人員63名、3号館はグリル・バーが主体で収容人員909名
    • [19]1963年の総売上高では奈良ドリームランドが57%を占め、次いで目黒ホテル、新宿雅叙園、軽井沢雅叙園ホテル、芦山荘の順だった
  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [18]松尾國三社長は1966年4月の株主総会で、雅叙園に多くの負債はなく固くやっていると述べた
    • [25]1966年4月25日の株主総会で株主は当期の売上高を約2億8,000万円と述べた
    • [26]松尾國三社長は昭和40年度後期(1965年9月〜1966年2月)に5,000万円の欠損を出したと報告した
    • [27]1966年4月25日の株主総会の議案は昭和40年度後期の貸借対照表・営業報告書・損益計算書および欠損金処理計算書案の承認で、配当は行われなかった
    • [28]株主は45円で買った株が無配になったと述べ、松尾國三社長は30円台の株価をまことに残念に思うと答えた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【営業実績】
    • [20]1963年2月期の営業実績は宿泊料43,330千円、飲食・食堂112,923千円、売店65,324千円、その他7,800千円、合計229,377千円
    • [24]1962年8月期の営業収入は273,706千円、1963年2月期は229,377千円
  • 松尾國三『けたはずれ人生』(1976年)
    • [21]奈良ドリームランドの開園直後の入園者数は目標の1日2万人にはほど遠かった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【沿革】
    • [22]1948年6月、目黒雅叙園を外客宿泊設備として使用するため資本金5,000万円で設立された
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」
    • [23]1963年2月期は営業損失1,399万円を営業外収入6,205万円で埋め、当期利益4,059万円を計上した

1965年〜日本ドリーム観光への6億円出資と、株主総会での追及

新たに横浜ドリームランド(1964年開園)にホテルを建てる計画が立案されたが、松尾氏は雅叙園観光にそれを負わせなかった。株主総会での説明によれば、7億数千万円をかけて千数百人を収容するホテルを建て、客がまだ付かないうちに営業を始めれば金利が回らないと案じたという『七億以上の金でドリームを建てて設備をして、そしてまだ一般客に知れわたらないで、そこに千何百人も収容するホテルを営業するということは金利も回らんと大変心配した』。加えて日本開発銀行は、そのホテルへの融資には応じても雅叙園観光には出さないという姿勢だった。そこで6億円の資本金を倍額増資で12億円とし、増えた6億円を日本ドリーム観光へ向け、投じた資金はその株式へ切り換えた。1964年の時点では、日本ドリーム観光への持株比率はまだ2.5%に過ぎなかった。

  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [29]松尾國三社長は1966年4月の株主総会で、7億円以上をかけて千数百人収容のホテルを建て一般客に知られないうちに営業すれば金利が回らないと心配したと説明した
    • [30]日本開発銀行は横浜のホテルには資本の1割の融資に応じる姿勢だったが、雅叙園観光には融資しないとした
    • [31]資本金6億円を倍額増資して12億円とし、6億円を日本ドリーム観光へ投じ、その資金を同社株式に切り換えた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【主要関係会社】
    • [32]1964年版時点の日本ドリーム観光(資本金3,800百万円)への持株比率は2.5%

1966年4月25日の株主総会で、子会社でもない企業に対する出資に対して、株主からの疑念が噴出した。ある株主は、資本金12億円・半期の売上高約2億8,000万円の会社が投資総計7億円余を抱えている点を指摘。うち6億4,000万円余が無配の日本ドリームランド株であり、投資効果が現れていないし、松尾社長個人の判断が優先され、雅叙園観光の株主への配慮が後回しになっているのではないかと質した。別の株主は、雅叙園観光の収入は日本ドリーム観光の犠牲の上に立つものではないかと述べ、将来の合併を危惧した『雅叙園がドリームランドによつて利益を上げると、ことばをかえて言えば、雅叙園の収入はドリームランドの犠牲的収入と、こういうふうにも考えられます』。松尾氏は合併は何も考えていないと答えた。なお、当時の取締役には日本ドリーム観光の会長を兼ねる白井信太郎氏も名を連ねている。

  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [33]株主は1966年4月の総会で、投資総計7億円余のうち日本ドリームランドへの株式投資が6億4,000万円余を占め、無配であるため投資効果が現れていないと指摘した
    • [34]株主は松尾社長の個人的な判断が優先され、雅叙園観光の株主に対する配慮が後回しにされていると述べた
    • [35]渡辺株主は雅叙園観光の収入が日本ドリーム観光の犠牲的収入にあたると述べ、両社の合併を危ぶんだ
    • [36]松尾國三社長は合併について「いま考えておりません」と答えた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【役員】
    • [37]取締役の白井信太郎は日本ドリーム観光会長を兼ねた

収益の土台を奈良ドリームランドの集客に依存した結果、休日の天候が決算に影響した。松尾氏は昭和40年度後期の欠損について、奈良と横浜のドリームランドで日曜のたびに雨が降ったことを挙げている。5,000万円の欠損のうち4,200万円は償却で、営業の赤字は800万円あまりにとどまった。他の業績要因として、新宿営業所は日活株式会社から借りたもので、収容人員330名の食堂と宴会場を営んでいたが、この営業所を契約年数の満了とともに日活に返却されたことも影響した。そこで、失った拠点を埋めるため、横浜ドリームランドの場内にドリームヘルスセンターを新設。奈良ドリームランドは開園5年目にしてようやく見込んだ観客を集め、総会の時点で横浜の倍以上の客数に達していた。このため、1960年代の雅叙園観光は、その商号とは裏腹に、収益を他社である奈良ドリームランドに依存する状況が続いた。

  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [38]松尾國三社長は昭和40年度後期の赤字の要因として、奈良・横浜のドリームランドで日曜のたびに雨が降ったことを挙げた
    • [39]5,000万円の欠損のうち4,200万円は償却で、営業の赤字は800万円強だった
    • [41]新宿日活地階のレストランは契約年数の満了により日活へ返還された
    • [42]新宿の返還に代えて、横浜ドリームランド場内にドリームヘルスセンターを1966年4月28日に開業することとした
    • [43]松尾國三社長は、奈良ドリームランドが開園5年目に至って期待した観客を動員するようになり、当時は横浜の倍以上の客数であると述べた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【事業の内容】【重要な提携】
    • [40]新宿雅叙園は収容人員330名で食堂・宴会場を経営し、新宿営業所は日活を相手方とする賃貸契約だった
参考文献[29]-[43]
  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
    • [29]松尾國三社長は1966年4月の株主総会で、7億円以上をかけて千数百人収容のホテルを建て一般客に知られないうちに営業すれば金利が回らないと心配したと説明した
    • [30]日本開発銀行は横浜のホテルには資本の1割の融資に応じる姿勢だったが、雅叙園観光には融資しないとした
    • [31]資本金6億円を倍額増資して12億円とし、6億円を日本ドリーム観光へ投じ、その資金を同社株式に切り換えた
    • [33]株主は1966年4月の総会で、投資総計7億円余のうち日本ドリームランドへの株式投資が6億4,000万円余を占め、無配であるため投資効果が現れていないと指摘した
    • [34]株主は松尾社長の個人的な判断が優先され、雅叙園観光の株主に対する配慮が後回しにされていると述べた
    • [35]渡辺株主は雅叙園観光の収入が日本ドリーム観光の犠牲的収入にあたると述べ、両社の合併を危ぶんだ
    • [36]松尾國三社長は合併について「いま考えておりません」と答えた
    • [38]松尾國三社長は昭和40年度後期の赤字の要因として、奈良・横浜のドリームランドで日曜のたびに雨が降ったことを挙げた
    • [39]5,000万円の欠損のうち4,200万円は償却で、営業の赤字は800万円強だった
    • [41]新宿日活地階のレストランは契約年数の満了により日活へ返還された
    • [42]新宿の返還に代えて、横浜ドリームランド場内にドリームヘルスセンターを1966年4月28日に開業することとした
    • [43]松尾國三社長は、奈良ドリームランドが開園5年目に至って期待した観客を動員するようになり、当時は横浜の倍以上の客数であると述べた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【主要関係会社】
    • [32]1964年版時点の日本ドリーム観光(資本金3,800百万円)への持株比率は2.5%
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【役員】
    • [37]取締役の白井信太郎は日本ドリーム観光会長を兼ねた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【事業の内容】【重要な提携】
    • [40]新宿雅叙園は収容人員330名で食堂・宴会場を経営し、新宿営業所は日活を相手方とする賃貸契約だった

1961年〜1983年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1961年02月期 単体 1 n/a n/a n/a 0 6.8% n/a
1962年02月期 単体 3 +172.6% 0 n/a 0 7.8% n/a
1963年02月期 単体 5 +26.4% 0 n/a 0 10.7% n/a
1964年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年02月期 単体 12 n/a n/a 0 0 2.4% n/a
1972年02月期 単体 11 ▲6.7% n/a 0 0 ▲3.3% n/a
1973年02月期 単体 14 +24.2% n/a 0 0 5.6% n/a
1974年02月期 単体 17 +25.7% n/a 0 0 1.3% n/a
1975年02月期 単体 20 +13.6% n/a 0 0 ▲3.4% n/a
1976年02月期 単体 24 +21.8% n/a ▲1 ▲1 ▲5.5% n/a
1977年02月期 単体 25 +5.2% n/a 0 0 ▲2.4% n/a
1978年02月期 単体 24 ▲5.7% n/a 0 0 ▲2.8% n/a
1979年02月期 単体 27 +12.6% n/a 0 0 2.0% n/a
1980年02月期 単体 30 +11.6% n/a 0 2 7.1% n/a
1981年02月期 単体 31 +2.1% n/a 1 1 4.4% n/a
1982年02月期 単体 30 ▲1.7% n/a 1 1 3.8% n/a
1983年02月期 単体 25 ▲16.2% n/a ▲2 ▲2 ▲10.0% n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版【過去の業績】半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版【業績一覧表】【損益計算】半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版【業績一覧表】【損益計算】半期合算(28期+29期)/従業員は昭38年2月末、会社年鑑 1976年版【最近の業績】半期合算、会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭51年2月期、会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭52年2月期、会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭53年2月期、会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭54年2月期、会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭55年2月期、会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭56年2月期、会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭57年2月期、会社年鑑 1986年版【最近の業績】昭58年2月期

出典・参考

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出典・参考
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【沿革】
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【重要な提携】
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【沿革】【概説】
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【役員】/株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【事業の内容】
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【営業実績】
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【主要関係会社】
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【役員】
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅園社」【事業の内容】【重要な提携】
  • 株主総会速記録とその運営実態 第6集(1966年下期版)証券タイムズ社
  • 松尾國三『けたはずれ人生』(1976年)第十四章「千土地興行」の再建
  • 松尾國三『けたはずれ人生』(1976年)

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